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吸血鬼 マルセル・シュオブ作品集

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マルセル・シュオブ『吸血鬼 マルセル・シュオブ作品集』(盛林堂ミステリアス文庫、書肆盛林堂、二〇一三年一一月四日、表紙画=山下陽子)読了。

底本は矢野目源一訳『海外文学新選 吸血鬼』(新潮社、一九二四年)。ことさら漢語を多用した古色蒼然とした言葉遣いに幻惑された。例えば、ごく最近タレント議員が使用して、おや、よくそんな言葉知っているな、と感心した「震襟」(宸襟=天子のみこころ)が《王様の大膳頭はこの時実に巧妙な手段を用いて王様の震襟(しんきん)を休めたてまつると同時に魔法博士にも一本酬いました》(卵物語)というふうに登場していて、なるほどなあと思った次第。

この「卵物語」には卵料理がずらずらずら〜と並べ立てられる。トリマルキオーの饗宴を連想させる過剰な描写が圧巻。

《ーー陛下、と大臣フリイプソースタスが言いました。
 ーーお易い御用でございます。陛下は復活祭のときには是非とも玉子を召し上らなければなりません。これは御主(おんあるじ)の御復活を象りましたものでございます。しかし私は何も方便ということを存じて居ります。卵は固いのがよろしゅうございましょうか、掻き玉子にいたしましょうか、それともサラダ、ラムのオムレツ、それとも松露で召上りますか、薄皮焼、香草、独活(うど)、青豆、甘味などをあしらいましたものになさいますか、茹で玉子、蒸焼、灰焼、月見、半熟、泡雪でもさしあげましょうか、凝ったところでは二色玉子か白ソースを掛けましたもの、落し玉子、マヨネーズ、シャプロンネ、玉子饅頭いずれも御意のまゝに調整いたします。卵は鶏、鴨、雉子、蒿雀(あおじ)、小紋鳥、七面鳥、すっぽんなどがございます。御所望とあらば魚の卵でも油漬のカビアでも酢の物にしてさしあげましょう。ずっと珍しいところではサルタンもどきに駝鳥の卵か、千一夜の物語の鬼神の御馳走をそのまゝにロック鳥の卵などをおとりよせになってはいかゞかと存じます。それとも一層のこと、ごくあっさりと小粒の玉子を油煎りにしたものとか、お菓子の皮へ黄味をぬりましたものなども乙でございましょう。芹と小葱の刻みこみ、或は菠薐草の玉子とじなどはいかゞでございましょう。それとも生みたての生玉子を召しあがりますか。》

苦心の矢野目訳を原文と対照して味わってみたい。

《- Sire, dit le ministre Fripesaulcetus, rien n'est plus facile. Il est nécessaire que vous mangiez des oeufs à Pâques : c'est une manière de symboliser la résurrection de Notre-Seigneur. - Mais nous savons dorer la pilule. Les voulez-vous durs, brouillés, en salade, en omelette au rhum, aux truffes, aux croûtes, aux fines herbes, aux pointes d'asperges, aux haricots verts, aux confitures, à la coque, à l'étouffée, cuits sous la cendre, pochés, mollets, battus, à la neige, à la sauce blanche, sur le plat, en mayonnaise, chaperonnés, farcis ? voulez-vous des oeufs de poule, de canard, de faisan, d'ortolan, de pintade, de dindon, de tortue ? désirez-vous des oeufs de poisson, du caviar à l'huile, avec une vinaigrette ? faut-il commander un oeuf d'autruche (c'est un repas de sultan) ou de roc (c'est un festin de génie des Mille et une Nuits), ou bien tout simplement de bons petits oeufs frits à la poêle ; ou en gâteau avec une croûte dorée, hachés menus avec du persil et de la ciboule ; ou liés avec de succulents épinards ? aimerez-vous mieux les humer crus, tout tièdes ? - ou enfin daignerez-vous goûter un sublimé nouveau de ma composition où les oeufs ont si bon goût, qu'on ne les reconnaît plus, - c'est d'un délicat, d'un éthéré, - une vraie dentelle...》(Le Conte des oeufs

アスバラガスを「独活」としたのはご愛嬌、「月見」はポーチド・エッグ(落とし玉子)、「泡雪」は原文では《battus(半熟), à la neige(雪添え?)》とたぶん二種類になっているところをひとつにまとめてある。「二色玉子」は引用したテキストには該当する単語がない(テキストが異なるのかもしれない)。《sur le plat》を「落し玉子」としてあるが、残念これは目玉焼きのこと。《chaperonné》はよく分らないが、帽子のようなものを被せたという意味だろう。「玉子饅頭」も苦しいが、ファルシは詰め物(ピーマンの肉詰めのような)。《tortue》の「すっぽん」は青海亀としたいところ(アリスの物語を連想させる)。決して揚げ足を取ろうというのではない。これは大正時代の翻訳としたら上出来だろう。文章をいくつかに分けるなど、何より調子よく読める工夫が凝らしてあって名訳ではないかと思う。

マルセル・シュオブについては本書の解説(長山靖生)でも触れられているが、仏ウィキを簡単に訳して少し補っておく。

一八六七年、マルセル・シュオブ(Marcel Schwob)はシャヴィーユ(セーヌ・エ・オワーズ県)に生まれた。父ジョルジュはテオドール・ド・バンヴィルやテオフィル・ゴーティエの友人で文学好きだった。母のマティルド・ケーン(Mathilde Cahun)はアルザスのユダヤ知識人家庭の出である。

マルセルが生まれたとき、シュオブ一家は、外務省の長官として赴任していたエジプトから戻ったばかりだった。第三共和制の初期(一八七〇年代初)にはトゥールに居り『Le Républicain d'Indre-et-Loire アンドレ・ロワール共和主義者』を指揮し、一八七六年にナントへ移り、やはり共和党の日刊紙『Le Phare de la Loire ロワール燈台』を指導した。ジョルジュの歿後はマルセルの兄モリースが跡を継いだ。

マルセルの最初の作品発表は一八七八年一二月の『燈台』においてであった。ナントのリセでは成績優秀で、特にギリシャ語、フランス語、英語が得意だった。一八八一年にパリに住む母方の叔父レオンの元へ送られる。レオンはマザラン図書館(プルーストも一時籍を置いていた)の司書長だった。リセ・ルイ・ル・グランで学業を続ける。ここでレオン・ドーデ、ポール・クローデルらと友情を温めた。言語の才能を開花させ、すぐにポリグロット(多言語精通者)となり、一八八四年にロバート・スティヴンソンを発見し範とした。

エコール・ノルマル・シューペリウール(高等師範学校)の入試には失敗したが、一八八八年に一級文学学士号を受けた。八九年、今度は一級教員試験に失敗。教師の道は諦め『燈台』、『 l' Evénement』『l'Echo de Paris』などジャーナリズムに関わって文筆で生きることを選んだ。文学欄に力を注ぎ一八九四年には初めてアルフレッド・ジャリを紹介したり(九六年刊の『ユビュ王』はマルセルに捧げられている)、ポール・ヴァレリ、アンドレ・ジード、ジュール・ルナール、コレットらと親しく付き合った。

マルセルはアルゴ(隠語)やヴィヨンの作品に見られるような十五世紀のコキヤール(隠語の一種)に興味を持って熱心に研究した。隠語というのは自然発生的なものではなく人工的なコード化された言語であると考えた。

一八九〇年代より散文詩の形で短い物語を出版し始める。お伽噺のように後に人々によって語り継がれる形式を作り出した。フォークナーやボルヘスに強い影響を与えている。

一九〇〇年、コレットの友人の女優マルグリット・モレノと結婚。健康がおもわしくないなかで、ジャージー島や、スティヴンソンが生涯を終えたサモア島へ旅をした。フランスに戻り、引き蘢って未完の作品の執筆にかかったが、一九〇五年二月二六日流行性感冒で死去。モンパルナス墓地に埋葬された。
# by sumus2013 | 2013-11-12 21:35 | おすすめ本棚 | Comments(0)

団子坂から谷中五重塔を望む

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大竹新助『写真・文学散歩』(現代教養文庫、一九六二年十七刷)に団子坂上から谷中の五重塔を望む写真がありますよ、と某氏よりご教示をたまわった。さっそく入手してみると、まさに谷中安規の版画「動坂」にぴったり重なるような構図である。

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丸い街路灯まで同じではないか! 角度的にはほぼ同じくらいであろう。海抜は団子坂より動坂の方がやや高いのだろうか。安規の目線がより高いところから見下ろしているようにも思う(?)。本書の初版は昭和三十二年九月で五重塔が焼失したのが同年七月六日。志賀直哉が序文に

《この本は後になる程、その価値を益し、皆から喜ばれ、大切にされる本だと思ふ。露伴の「五重塔」の如き、大竹君が写した後で焼け失せたものであり、歳月を経ればこの上にも、かういふ場合がないとは云へず、今、かうして大竹君が写真に残してくれる事は後の文学研究者にとつて大変ありがたい事だと思ふ。》

と書いている。志賀の言う「五重塔」は本文七頁の露伴『五重塔』にまつわる写真。塔をアップで見上げた構図である。上の「団子坂」は夏目漱石の『三四郎』の舞台として掲載されている。

《この小説のもう一つの舞台、団子坂に行ってみた。ここは菊人形で名高いところだ。この付近は戦災に焼かれたと聞いていたが、坂の両側は昔のままで、一寸大正を、そして明治も偲ぶことが出来る。この坂を上りつめたところの左側少し入ったところが、森鴎外の屋敷跡ーー観潮楼跡で、坂の上から振りかえってみると、あの幸田露伴の"五重塔"ーー谷中天王寺の五重塔が望まれた。》

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おそらくこれらの写真が撮影された昭和三十年前後を境として、日本の風景は激しく変貌することになるのだろう。下の日本橋の俯瞰など、あと何十年かして首都高速道路が地下にもぐったら、再びこういう風景に戻るかもしれないが……。

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遠景には煙突が何本も見えている。方角からすると一九五〇年に発足した富士製鐵(旧・日本製鐵、七〇年に八幡製鐵と合併して新日本製鐵、現・新日鐵住金)だろうか(?)。おばけ煙突(撤去は昭和三十九年)じゃないが、当時はまだ都心にこんなものが乱立していたようだ。
# by sumus2013 | 2013-11-11 20:30 | 古書日録 | Comments(0)

富士正晴の兵隊小説を読み返す

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富士正晴の兵隊小説を読み返す_f0307792_22105861.jpg

茨木市立中央図書館で小沢信男さんの講演「富士正晴の兵隊小説を読み返す」を聞いた。

富士正晴記念館の久坂葉子関連の展示も良かった。図書館ロビーに富士の絵や原稿、書籍などの現物が、ほぼ無防備と言ってよい状態で展示されていたのも新鮮だった。とくに初期の富士のマンガ(村山知義ふうのモダニズム劇画)が抜群だった。中尾務さんによれば竹内勝太郎に出会う前はこういう絵を描いていたということだ。

見知った顔も何人か。真治さん、Mさんと並んで座る。『ぽかん』の売り行き絶好調とか。ジュンク堂では面陳だそうだ。本はねころんでさんとyfさんがすぐ後ろに。にとべさんも。二列ほど前に山田稔さん。入口近くに若い古本者の知人たち。八十人定員だが、わずかに空席があるくらいでよく入っている。

なげやりとも思えるくらい簡潔な中尾さんの開会のあいさつの後、講演はすぐに始まる。小生にとっては東京の古書会館でのトークショー以来と思うが、ほとんどお変わりなくお元気の様子だった。

小沢、坂崎、石田トークショー
http://sumus.exblog.jp/4963146/

このときは三人だった。今回はお一人で、小沢節とも言える語り口。六月に中川六平さんが本を作りたいと言ってくれて、その本が十二月には出来上がる手はずになっているという話から。この講演依頼もちょうどその頃で、戦中戦後の兵隊小説を読み返そうと思ったそうだ。

映画「風立ちぬ」の評判がよくないので見るのをやめようかなと思っていたが、ひょんなことで観てみると「いい映画だったねえ、席、立つのが惜しいような気がして…」。評判が悪いのはこのごろの人が戦争を知らないからだろう。リアリズムとファンタジーの合成が成功している。堀越二郎と富士正晴は同い年、一九一三年生まれだ(とおっしゃったが、これは勘違い、堀越は一九〇三年生まれ)。

戦争を知らない小沢さんは戦後、戦争に行った先輩たちに頭が上がらなかった。しかし考えてみると、中学生だった小沢さんたちも空襲と食糧難、すなわち「日常に戦争が降ってくる」経験をしたのである。勝つはずはないと頭では解っていながら、軍国少年だから負けるとも思わない、不思議な心理状態だった。

『富士正晴作品集〈1〉帝国軍隊に於ける学習・序 一夜の宿 童貞 わたしの戦後 同人雑誌四十年 他15篇』(岩波書店、一九八八年)を手にしながら、富士の兵隊小説の特徴を「非日常の日常」だと指摘する。兵隊たちの会話が関西弁で書かれており、それが実況中継のようだと。なかでも「崔長英」は傑作だ。富士は崔長英について何度も書くのだが、毎回うまく書けない。しかし「書き損ねたということで表現している」。

中国人苦力を描いた長谷川四郎「張徳義」は完成された名作である。また野間宏の「真空地帯」や大西巨人の「神聖喜劇」のように軍隊内部を描いた大作もあるが、それらもやはり完成品だ。今はどれよりも「崔長英」の方が良いんじゃないかと思う。

「今日性はこっち(崔長英)にある。物事はそう簡単にわかってたまるかというのが富士正晴のインテリジェンスなんだよね、ダメ兵隊で生き残ってんだよね。わかったと言わずに、不思議だと言い通そうとするインテリジェンスなんだな」

休憩を挟んで質疑応答の時間に。五人ほどの参加者からいろいろ出た。なかでは富士正晴は徳島出身だが、徳島にはまともな産業もなく徳島の人間はどうしようもないやつばかりで嫌われているでしょう、どう思われますかという、ご自身徳島出身の方が質問。後で聞いた所では、この質問に中尾さん、これは困ったどうしようと気をもんだそうだ(笑)。しかし小沢さんは、ご自身の父上が山梨出身で、やはり関東では山梨人の評判が良くないという話をもち出して「結局それはお国自慢なんだな」と軽く打ち返されたのはさすが。

終了後、控え室に大勢の人達が残っていた。そこへ割り込んで小沢さんにご挨拶する。扉野氏といっしょに寺町界隈をご案内したときのことを覚えてくださっていた。

湯川書房にて。左から湯川成一さん、小沢信男さん
http://sumus.exblog.jp/13580261/

中尾さんに誘われたのでMさんとともに二次会にも参加する。おおざっぱに分けると『VIKING』と『黄色い潜水艦』という二つの雑誌に関係する人達が中心だった。なごやかな歓迎ムードに終始。散会の後、京都に宿泊しておられる小沢さんご夫妻、山田さん、本はねころんでのFさんと阪急電車をご一緒した。いい一日でした。

富士正晴『東京漫遊記』(富士正晴記念館)
http://sumus.exblog.jp/20227276/

『東京骨灰紀行』(筑摩書房)
http://sumus.exblog.jp/11886917/

『黄色い潜水艦』52号 川崎彰彦追悼号
http://sumus.exblog.jp/13499583/


富士正晴記念館
http://www.city.ibaraki.osaka.jp/kurashi/bunka/gejutsu/shisetsu/fujimasaharu/1319775386732.html
# by sumus2013 | 2013-11-10 20:03 | もよおしいろいろ | Comments(5)

クルヴェルの最期

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ルイス・ブニュエル『映画、わが自由の幻想』(矢島翠訳、早川書房、一九八四年)。この本からクルヴェルの自殺について以前引用したことがある。

クルヴェルが自殺した時、まっ先に駆けつけたのは、ダリだった
http://sumus.exblog.jp/18265728/

ジョゼ・コルティの回想においてもクルヴェルの死の前後のことが語られている。それはブニュエルのクールな書き振りとは違った、やや湿っぽい、情味のこもった内容である。

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ルネ・クルヴェル(一九二八年、マン・レイ撮影)

ルネ・クルヴェル(1900-1935)はパリのブルジョア家庭に生まれた。一九二一年にアンドレ・ブルトンと知り合って仲間になるが、二五年にはブルトンから離れてトリスタン・ツァラの方へ近づいた。二六年に結核であることが分る。二九年、トロツキーの追放が引き金となってシュルレアリストたちが糾合することになり、二七年からフランス共産党員(三三年除名)だったクルヴェルはシュルレアリストとコミュニストを結びつけようと努力した。三五年に文化防衛のための国際作家会議の組織に奔走。だが、シュルレアリストの代弁者だったブルトンとソビエト代表団のイリヤ・エレンブルグの間で暴力的な口論がもちあがり、ブルトンは会議から閉め出されてしまう。板挟みになったクルヴェルは絶望的になり、また結核の再発を知らされたこともあり、一九三五年一月一八日、ガス自殺を遂げた。

以上は仏ウィキによる型通りの略歴だが、かなり近いところでクルヴェルの死の状況を知っていたコルティは具体的に次のように書いている。

《ルネがわずかな人間的な暖かさを必要としていたとき、人は彼を拒絶した。最後通牒を突きつけた。ブランシュ広場のカフェで反対意見が出された。グループはひとつにまとまっていた(おそらくルネ・シャール以外)。クルヴェルは、除名覚悟でコミュニストたちに反論する道を選ぶしかなかった。教会が離教した僧侶を審判するようなものである。もしクルヴェルが引き裂かれるとしても、彼は断固として躊躇しないだろう。会議に報告しなければならない。それをブルトンに確認する。瞬時の判決。グループは彼を除名しない。彼は追い立てられ、氷のような沈黙のなか、まるで夢遊病者のように、ひどく興奮して、カフェから飛び出す。》

クルヴェルはカフェを出てジャンとコレットのデュヴァル夫妻の家に立ち寄った。彼を理解してくれ彼もまた心を許せる唯一の友である。しかしそれも慰めとはならなかった。彼は疲れていた。「うんざりだ dégoûté」と彼は言った。

クルヴェルはデュヴァル夫妻の赤ん坊に会いたいと言った。夜中だったので赤ん坊は眠っていた。クルヴェルはその小さなベッドの上に長い間かがみこんでいた。夫妻はいつも、あのとき彼は人生に最後の別れをしていたのだと思う。

その翌日、ジャン・デュヴァルはサンミッシェル大通りで、いつものように帽子も被らずに大股で歩いて行くクルヴェルを見かけた。折り鞄を腕にぶらぶらさせながら、機械的に、歩行者など無視して。あまりにいつも通りなのでデュヴァルは驚いた。昨夜の様子がまだ脳裏にあった。クルヴェルは人ごみに紛れて行った。それがジャンの見た最後の姿になった。

この同じ月曜の夕方、トリスタン・ツァラとともにクルヴェルは会議に出席した。どこで、誰と? 知らない。彼らは一緒にそこを出て話しながら歩いた、何を? コンコルド広場まで来て別れた。すっかり暮れていた。

家に戻ると、クルヴェルは一言なぐり書きをして枕の上にピンでとめた。「うんざりだ、火葬にして欲しい Dégoûté, je veux être incinéré」。そして睡眠薬を嚥み、効き目が遅いことを確かめて、ガスの元栓を開いた。

翌朝、女中が、部屋の扉が閉まっているのを、いつものことと気に留めなかったため、発見が少し遅れた。彼はまだ息があった。ブシコー病院へ搬送されたが、命は助からなかった。

彼が望んだ火葬のためにペール・ラシェーズ墓地へ運ばれずに、モンパルナス墓地(モンルージュ墓地)に埋葬された。穴の周辺には、家族と友人たちの二つの小さなかたまり。真ん中に祈りをあげる僧侶。シュルレアリストたちはいなかった。誰も哀れなルネ・クルヴェルが埋葬されるのに立ち会わなかったのだ。あれほど完璧にも彼らの友であったのに。トリスタン・ツァラはセレモニーには参加したが、グループの代表としてではなかった。同志の埋葬に立ち会いに来たコミュニストがたった一人いた。

というような様子であった。ブニュエルの話とはかなり違っているが、まあそれも愛嬌であろう。誤訳含みの拙訳ばかりで申し訳ないので自殺の原因についてのコルティの考えを表明した原文を引用しておく。

《Pour quelle raisonーquelles raisonsーCrevel s'est-il donné la mort? Il a emporté son secret avec luiーpar indifférence ou par mépris. Certains ont su, qui auraient pu parler. Ils se sont tus. Tzara en particulier. Et cette mort, non dans ses circonstances, mais dans ses causes profondes, reste enveloppée de mystère. Enfin, d'un mystère relatif.》
# by sumus2013 | 2013-11-08 22:23 | 古書日録 | Comments(0)

ジョゼ・コルティ回想録

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ジョゼ・コルティ(José Corti)の『取散らかった思い出 Souvenirs désordonnés』(Éditions 10/18, 2003)読了。パリの新刊書店ジベール・ジョセフでセコハン本(オカジオン occasion)として購入したもの。元版はジョゼ・コルティ(版元の名前でもあり、書店の名前でもある)から一九八三年に出ている。

ジョゼ・コルティ(1895-1984)は一九二五年に同名の出版社を設立し、初期のダダ、シュルレアリスム関係の雑誌や単行本を刊行したことで知られる。アラゴン、ブルトン、エリュアールらの著書、ダリの『La Métamorphose de Narcisse』(1937)やジュリアン・グラック『Au château d'Argol』(1938)は代表的な出版物。ガストン・バシュラールなど学者系の著述家たちとも繋がりは深かった。

以下、今年の六月に訪れた(前を通った)ジョゼ・コルティ。難しそうな主人が帳場に座っていた。ひょっとして息子さん(?)。店頭に見切り本の函(自社の出版物がほとんどだったと思う)。これは欲しいものがいくつもあった。ドラクロアの日記が安かったけれど、広辞苑くらいの分量があったので諦めた。

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ジョゼ・コルティの文章は凝っていて読みにくかった。内容も濃厚で二大戦間のフランスの文壇事情をもう少し知っていれば興味深いのだろうが、小生のような者には消化しきれない感じ。しかし部分的には面白いと思うところもなくはなかった。

例えば、ポール・ルブー(Paul Reboux、小説家、批評家)から頼まれて装飾用に古本を買いあさった思い出話(拙訳で申し訳ない)。

《ポタン氏、フェリックスの息子、とそのひとりの友人、から数メートルの本を買い求めるように「目利き」として依頼されたルブーは、それを私に見つけてくれと言って来た。ポタン氏が手に入れたばかりのクロワッセのホテルの広大な図書室に飾り付けるためだという。私の役割に難しいことはまったくなかった、絶対ではないがかなり断固としたふたつの要求を除いては。革装の本でなければならない。そしてそれらは装飾となるものであってほしい、値段はなるべく安く。

残念ながら、河岸の古本屋を一時間も歩けば、わずかな金額で数メートルの見栄えのいい古書を買えるような時代は過ぎ去っていた。古道具屋の主人たちはそれらを長い間シガーの箱やワイン貯蔵庫に入れて標本にしていた。かなり探してようやく望む長さだけの本を見つけた。ある日、二台のタクシーに雑多な獲物を詰め込んだ。これがまだエレガントな曲線形をしていなかったかつてのタクシーで、特別に体を折り曲げたり、しなやかでなければ乗り込めないというものではなかった。ちょっと頭を下げるくらいで乗り込めたのである。この日以来、私はカルーゼルの中庭をこのときの小さな旅を印象付けた哀れにも滑稽な事件を思い出すことなしに横切ることはできないのだ。

本は梱包せずに詰め込んだ。タクシーの中いっぱいになった。すべては問題なく運んでいた、私が運転手のそばへ場所を移るその瞬間までは。ルーヴルの切符売場を出てタクシーはカーブを切った。このとき、古本の塊が激しくバランスを崩し、自動車の片方の側に集まった。ドアの鍵に力がかかり、物質の悪意は私の積荷をして遠心力の法則に従わしめたのである。ドアは開いた。すべてのものが一瞬動きを止め、次の瞬間、伝書鳩の小屋が開かれたときのように、古本は飛ぶように放り出された。何百という優雅な曲線を描きながら。そしてカルーゼル通りの舗道の上に雑多な色のモザイク模様を付けたのである。》

フェリックス・ポタンというと八〇年にパリにいたころにあちこちで見かけたスーパーマーケットである。一八四四年に創業して食料品業を近代化して発展したが、最近まったく見ないと思ったら、一九九五年に消滅したそうだ。
# by sumus2013 | 2013-11-07 21:58 | 古書日録 | Comments(0)