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林哲夫の文画な日々2
by sumus2013


どないなっとるんやろ

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N尾さんより便りあり。その余白にカルピス絵葉書のカラーコピーが。

滋強飲料カルピス
国際懸賞募集ポスター之内 佳作

調べてみると、全部で十枚、袋入りだったようだ。この「カルピス広告用ポスター及図案懸賞募集」は大正十二年に第一次世界大戦後のインフレで苦しむドイツ、フランス、イタリアのデザイナーを援助する目的で行われたという。


月がコップをなめている(?)この図柄、まさに石野重道か稲垣足穂かという同時代性を感じさせてくれるではないか。

《池田の古書肆まがり書房に今日行ってきました。教えていただいてから、数回いくも、(土、日開くとあるも)閉店。今日いくとブック・フェア。どないなっとるんやろ。均一台で「用土と肥料の選び方・使い方」購入。》

とも。そうでした、伊丹のみつづみ書房でもらった「まがり書房」の名刺をN尾さんに送ったのでした。小生はまだ訪ねていない。ツイッターを見ると、営業日はけっこう変更が多いようなので、確かめてから出かけた方がいいようだ。



# by sumus2013 | 2019-06-25 19:42 | 古書日録 | Comments(0)

カフェイン大全

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ベネット・アラン・ワインバーグ/ボニー・K・ビーラー[著]別宮定徳[監訳]『カフェイン大全 コーヒー・茶・チョコレートの歴史から、ダイエット・ドーピング・依存症の現状まで』(八坂書房、2006年2月22日)は、副題にある通り、コーヒーや茶だけではなくカフェイン全般について広範に語った本である。『喫茶店の時代』執筆当時にはまだ出版されておらず、参考にすることができなかったのが残念だ。この本を知っていれば、書き方は少し変わったかもしれない。

このなかに一箇所、ランボーが登場するくだりがあった。そうか! そうだった、ランボーはコーヒー商人でもあったのだ。これは『喫茶店の時代』にも取り入れられたはずで、全くうかつだった・・・。

《一八八〇年初頭、フランスを脱出したもと象徴派詩人ジャン・アルテュール・ランボー(一八五四〜九一)は、「ハラルとガラ地方」の地図や版画を含む本を地理学協会のために書こうと、アフリカに行く計画を立てた。今日知られている限りでは、彼は出版社と出版予定日を明記した「東アフリカ探検家、J・アルテュール・ランボーの見たガラ。地図、版画、著者撮影の写真を添えて。H・ウーダン社、パリ、メジェレ通り十番地、一八九一年刊」というタイトルを残しただけである。実際に本を書くことはなかったものの、ランボーはガラを旅行して回り、何度か単独で探検するうち、本人も困惑気味ながら、部族の女性が初めて見る白人となった。部族と一緒のときは、緑のコーヒー豆をバターで調理したものなど、彼らと同じものを食べている。ゼイラの有力な山賊王、ムハンマド・アブ・ベケルと一緒にコーヒーを飲むよう強要されたのには閉口したと手紙に書いているが、この王はヨーロッパの旅行者や貿易商を食い物にし、隊商や奴隷貿易の通路を支配していた。この地域に入るにはアブ・ベケルの許可が必要で、そのためには、コーヒーを共に飲む儀式に参加しなければならなかったのだ。王が手をたたくと、召使が「隣接した藁小屋から走って『エル・ブン』つまりコーヒーを持ってきた」という。この手紙からも、コーヒーがいかに重要だったかがうかがえる。》(62〜64頁)

この出典は《Alain Borer, Rimbaud in Abyssinia》となっている。これは『Rimbaud en Abyssinie』(Seuil, 1984)の英訳だろうが、引用部分からだけ判断すると、間違いが多い、というか、ある部分は作者の創作ではないだろうか。まず《本を地理学協会のために書こうと、アフリカに行く計画を立てた。》というところ、これは逆である。アフリカへ行ってから地理学協会のためにレポートを書き、その評判が良かったためか、同協会から資金を得て旅行記を出してもらおうと画策した、というのが実際に近い。

《ムハンマド・アブ・ベケルと一緒にコーヒーを飲むよう強要されたのには閉口したと手紙に書いている》とあるが、巻末に《M. de Gaspary 宛書簡(アデン、1887年11月9日付》とその手紙が特定されているにもかかわらず、当該の手紙のなかにはそんな逸話は出てこない(『ランボー全集』青土社版による)。またモハメド-アブ・ベケールは王ではなく(南アビシニアの王はメネリク)その地域の奴隷貿易など掌握していた部族長のようだ。

一八八五年一月一五日付けのアデンから家族宛に出された手紙によれば、

《ここでのぼくの仕事はコーヒーの購入です。月におよそ二十万フラン分購入します。一八八三年の一年間に三百万フラン以上を購入しました。》

とか、あるいは同年四月一四日には

《主な取引はモカと呼ばれるコーヒーです。モカ〔イエメン北部の紅海岸の港で、十七・十八世紀にはコーヒーの積み換え・輸出の一大拠点。モカ種はこの地名に由来する〕がさびれて以来。モカ種のコーヒーはすべて当地から搬出されます。》

とあるように、コーヒーはランボーにとっては大量に扱う商品に過ぎなかったし、コーヒーを飲まされて閉口するというような時代でもなかったのではないだろうか(ランボーが閉口したのは商売を邪魔されてである)。引用の問題か、アラン・ボレルの原典を見ていないので何とも言えないが・・・。


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『いっぷくの情景ーー「嗜み」からよみとく現代アジア』(千里文化財団、2008年5月15日)より、イエメンのモカコーヒーの豆。

《コーヒーはエチオピア原産だが、アラビア半島につたえられ、イスラーム神秘主義修道者たちに薬として用いられた。13世紀頃には焙煎がおこなわれていたようである。紅海の港町モカはコーヒーの積出港として栄えた。苗木をひろげたのはオランダ人。》

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《アラビアコーヒーにもサモワールがつかわれていた。シバーム2006年2月。》

ランボーとコーヒーの関わりは看過できないということ、これに気付かされたのは収穫だった。


# by sumus2013 | 2019-06-24 17:04 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

石野重道2冊

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石野重道『彩色ある夢』(我刊我書房、二〇一九年七月二〇日)および石野重道『不思議な宝石 石野重道童話集』(書肆盛林堂、二〇一九年六月二七日)が届いた。前者は二〇一五年に豆本として刊行されており、このブログでも紹介した。他に『彩色ある夢』は遺稿集『真珠貝の詩』(石野香編、一九八三年)に全編収録されているというが、いずれも少部数。後者の『不思議な宝石』には善渡爾宗衛氏と未谷おと氏が『サンデー毎日』のバックナンバーを渉猟しているときに再発見した作品十篇が収録されている。

石野重道『彩色ある夢の破片(かけら)』

書肆盛林堂

杉山淳「その後の石野重道ーー石野重道童話集解説」より石野の略歴を引いておく。

《石野重道は、一九〇〇年神戸市に生まれ、一九一九年、関西学院を卒業後上京、声楽を学んだ。のち文学を志し、佐藤春夫に師事した。一九二三年、第一詩集『彩色ある夢』を出版した。一九四四年高砂市で亡くなっている。》

書誌によれば十篇の短い童話は大正十三年十一月から大正十四年十一月の間に『サンデー毎日』に掲載された。イソップのようでもあり、落語のようでもあり、御伽草子かアラビアンナイトのようでもあり、そしてあるものはシュルレアリスム風味もあるというふうに(それは多分に大正時代のテイストなのではないかと思う)古今東西の語りのスタイルを借りた奇妙に面白い作品群である。関東大震災直前に刊行された『彩色ある夢』と比較してみれば、似通ったモチーフはあるものの、同時に深い溝も感じられる。それらの質的変化を実際に読み比べられるという意味においてもこれら二冊の同時刊行は貴重な機会であろう。

『彩色ある夢』初版の書影を探したのだが、見付からないので、田村書店『近代詩書在庫目録』(一九八六年)の図版を引用しておく。

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# by sumus2013 | 2019-06-22 20:08 | おすすめ本棚 | Comments(0)

ミニアチュール神戸展Vol.19

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わたしの万有引力
2019年7月20日〜8月4日

ギャラリー島田
http://gallery-shimada.com


# by sumus2013 | 2019-06-22 19:57 | 画家=林哲夫 | Comments(0)

ランボーのスティーマー・ポイント

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鈴村和成『ランボーのスティーマー・ポイント』(集英社、1992年7月10日)読了。鈴村氏はランボーが詩を放擲してアビシニアやイエメンのアデン(当時は英国の保護領)で商人として書いた多くの手紙を読み解き、アフリカのランボーは書簡作者(エピストリエ)だったという説をとなえておられる(『書簡で読むアフリカのランボー』未来社、二〇一三年、など)。

これに関して最近発見して、ちょっと驚いたことがある。『ランボー全集』(青土社、二〇〇六年)の「あとがき」にこんなふうな批評が掲載されているのだ。

《これらが[アフリカなどから出された「その他の書簡」を指す]『イリュミナシオン』に劣らぬ文学的価値を秘めており、ランボーは手紙という形で詩の営みを生涯継続したとする、数年前わが国に出現した説(鈴村和成『ランボー、砂漠を行くーーアフリカ書簡の謎』岩波書店、二〇〇〇年)は論外である。その種の説は、言語の質の相違を、そして書くことへの関わり方の違いを顧みない、まったく抽象的な空想である。》

青土社版『ランボー全集』刊行当時のランボー研究の展開を概説したなかで、この書き振りは、ちょっと感情的に過ぎるのかなという感じがしないでもない。無視してもよさそうなところを、わざわざ批判した。そう言う意味で鈴村説は急所を衝いていると、逆に、思えてきたりするのである。

ま、ただ、アフリカ書簡の多くは家族、特に母に宛てられたものであり、ほとんどはお金の話に集約できる。本(建築や土木などの実用書)を買って送ってくれという依頼も含めて。『イリュミナシオン』や『地獄の季節』とは別物であることは確か。しかし同じ人間が書いたことも確か。論外というのは、やはり、言い過ぎではないかと小生は思う。どんな手紙も真摯に取り扱わなければならないだろうし、鈴村説を読んでいると、『イリュミナシオン』や『地獄の季節』で書いた(予言した)ことを自分自身で実践した後半生だった(二十歳から三十七歳まで)というのが事実のように思えてくる。

カバーの表1写真(上部)はスティーマー・ポイントのロック・ホテルのレストランより港を眺めた光景。スティーマー・ポイントは、一八八〇年(明治十三)、ランボーが初めてアデンへ来たときに着いた場所である。

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カバーの表4写真はスティーマー・ポイントのユニヴェール・グランド・ホテル。いずれも撮影は著者。

巻末「旅のデータ」のなかにパリの書店についての言及があるので引用しておく。

《パリの書店では、フォーラム・デ・アールとモンパルナスのFNACが新宿の紀伊国屋なみの大型書店で、ここは本が5%割引になる。文学関係ではサン・ジェルマン・デ・プレのル・ディヴァン(Le Divan, 37, rue Bonaparte)、美術書では同じくサン・ジェルマン・デ・プレのラ・ユヌ(La Hune, 170, boulevard Saint-Germain)、哲学・文学書ではリュ・デ・ゼコールのリブレリー・コンパニー(Librairie Compagnie, 58, rue des Ecoles)、詩集ではヴォジラール街のポン・トラヴェルセ(Pont Traversé, 62, rue de Vaugirard)、ムフタール街の「旅人の木」(Arbre Voyageur, 55, rue Mouffetard)、写真集ならサン・シュルピス街の「明るい部屋」(La Chambre claire, 14, rue Saint-Sulpice)に、専門書が揃っている。
 日本のようにけばけばしい装丁の本はなく、マンガや週刊誌も置いていないので、昔の日本の本屋さんに郷愁を感じる人は淡いクリーム色の背表紙の本にとりかこまれて、静かで落ち着いた瞑想の時を過ごすことができる。本の棚の動きもゆったりとしていて、1960年代の初版本ーー30年前の本です。信じられますか?ーーを、いまでも新刊書の棚に見かけることがある。》

これは一九九一年の話である。ジベール・ジョセフが出ていないのがちょっと不思議。ル・ディヴァンはボナパルト通からコンヴァンション通(200, rue de la Convention)へ移転している。ラ・ユヌは本ブログでも何度か取り上げてきたが、これもサンジェルマン大通りから少し離れたアベー通りへ移転し、写真専門の書店とギャラリーになった。

それら以外は今も営業していると思う(小生の知る範囲内では営業していました、もう二年以上前のことになりますが)。九〇年代の初めにはマンガを置いてないなんていう牧歌的な書店風景だったのか・・・。30年前の本と言っても、古書が新刊と混ざって棚に差されているだけのことなのだが、小生も一九九八年に初めて同じ体験をしたときには「おお!」と思った。

# by sumus2013 | 2019-06-21 17:22 | 古書日録 | Comments(0)