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林哲夫の文画な日々2
by sumus2013


カンタベリー物語

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CANTERBURY TALES BY GEOFFREY CHAUCER ARRANGED BY MRS.H.R.HAWEIS, CHATTO & WINDUS, c.1890. 古書ヘリングにて。

画家で著述家、チョーサーの研究者でもあるホーウィス夫人(MRS.HAWEIS、1848-1898、ハーウェスとしていましたが、weblio英和辞書では「ホーウィス」となっているとご教示いただいたのでそちらに倣いました)が編集した『カンタベリー物語』。発行年は記されていないが、海外の古本屋さんが「非常に珍しい本 c.1890.」としていたのでそれに従う。英文のウィキ「H.R.HAWEIS」の著作一覧には本書が挙がっていないから、たしかに珍しいのかも。ただし挿絵は『Chaucer for Children』(a Golden Key, 1877)と同じもののようなのでチャトゥー&ウィンダス用に再編集した版ではないかと思う。珍しいというわりに高い本ではない。おそらくダストジャケットがあったのではないだろうか。

チャトゥー&ウィンダスの本は以前にも紹介している。

『VIRGINIA WOOLF & LYTTON STRACHEY LETTERS』

ラファエル前派風の挿絵について目次では「COLOURED PICTURES」と「WOODCUTS」に分けている。後者は小さなモノクロのカットのこと(多数挿入されている)。色刷りの方も拡大してよく見ても網点にはなっていない。網点に似た細かい彫りの多色木口木版のようである(いちばん下の図版参照)。カラー図版全点かかげておく。


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MINE HOST ASSEMBLING THE CANTERBURY PILGRIMS.
(立っている緑の服がチョーサー)



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DORIGEN AND AURELIUS IN THE GARDEN.



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多色木口木版


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# by sumus2013 | 2020-08-04 20:46 | 古書日録 | Comments(0)

マニエリスムの旅

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岡井隆『マニエリスムの旅』(書肆季節社、一九八〇年五月付梓、五三五部上梓)。名古屋時代の政田岑生が手がけた渾身の一冊。まずは何より書物に関係する歌を探し出してみた。[ ]内はルビ、原文どおり全て拾った。


かつかつと書[ふみ]噛むばかり半夏生[はんげしやう] 劇画の女[ひと]の、やよ仁王立

学問に流眄[ながしめ]くれて久しかり半日君と君が書庫に居る

葬りまで間ありて覗く天神町レヴィ=ストロース見出でよろこぶ

いまだ視ぬもの欲しがりて夏の日の神保町を歩みゐたりき

覆刻版『馬酔木』を欲しと思ひつめまたあいまいになれば飯[いひ]食ふ

「伊勢」を読むあつき砂の上[へ]追はるるを常[つね]たのしみて女はあるを

むし暑き地に影絵して遊べども人生といふ不可視の書物

のどかにてわれの想ひの透らざるかかる夜半の塚本邦雄

佐太郎の『天眼』をよむ二三日まへ出遭ひたる蛇[くちなは]思ひて

黄金のニーチエ全集一冊を久しく借りて読まず返しき


岡井隆の訃報を聞く、少し前、ある古書店の均一コーナーに岡井隆の歌集があって、買おうかどうしようか、かなり迷った。結局、迷った末に棚にもどした。だいたいが歌集などはほとんど見向きもしないのだが、このときは何故かその本が気になったのは、虫の知らせというか、古書の知らせなのか、そのあとしばらくして亡くなったというニュースが出た。

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某氏にその話をしたところ本書を送ってくださった。署名本である。しばらく借覧させていただこう。ざっと読んだ感じでは、塚本邦雄よりはとっつきやすい。その塚本が長文の解説というか、跋文を執筆している。岡井は「あとがき」の末尾にこう書いている。

《塚本邦雄さんの解説は、辛辣な慰撫である。久しぶりに、(昔もらったような)長い手紙をもらった気分になった。塚本さん、ありがとう。
 政田さんには、長い長い約束を、いまようやくはたした気持である。板付空港のロビイで会ったのは、八年前か。お礼の言葉を、こころから申しあげる。》

この「あとがき」が素直に読ませる好エッセイだ。塚本のヒネリが効きすぎた解説と対照的。

《この本は、私の第八歌集である。すなわち『斉唱』『土地よ痛みを負え』『朝狩』『眼底紀行』『天河庭園集』『鵞卵亭』『歳月の贈物』につづく、第八番目の単行歌集ということになる。
 内容となる作品は、昭和五十二年(一九七七年)十二月より昭和五十四年(一九七九年)十一月までの約二年間の制作にかかわり、ほぼ、制作順にならべた。わたしの五十歳、五十一歳の折りの作品のあつまりである。》

と書き出され、《いぜんとして、感冒の嵐のなかにある。》と近況をつづって行くのだが、これだけでもっと岡井の随筆を読んでみたいと思わせる。ウィキを見るとかなりの数の著書がある。これから注意しておこう。

最後に珈琲の歌を一首。

珈琲の沼にしづかにとけながら花のかたちの糖あるらしも



# by sumus2013 | 2020-08-02 19:56 | 古書日録 | Comments(2)

学生街の喫茶店

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ガロのセカンドアルバム「GARO2」(デノンレコード、一九七二年)をヤフオクにて入手。七二年六月にこのアルバムからシングル盤「美しすぎて・学生街の喫茶店」がリリースされ、B面の「学生街の喫茶店」が人気を呼んだことで年末にはジャケットを「学生街の喫茶店」ヴァージョンに変更した。七三年一月にはガロがTV出演、春にかけて大ヒットとなった。

偶然かどうか、喫茶店と言えば、高田渡のシングル盤「自転車にのって/珈琲不演唱[コーヒーブルース]」も七三年にリリースされている。「珈琲不演唱」は京都のイノダコーヒがテーマ。大ヒットにはならなかったが、その分、ヤフオクでは相当な値がついている。

GARO はこういうグループである。

《堀内護(愛称MARK)、日高富明(愛称TOMMY)、大野真澄(愛称VOCAL) の3人グループとしてデビュー。全員が生ギターとボーカルを担当するのが基本的な編成。ガロという名前は、当時ザ・タイガースのマネージャーで三人の世話役でもあった中井國二が自分の子供にと考えていた「我朗」から名付けられた。
1973年に「学生街の喫茶店」、「君の誕生日」、「ロマンス」と立て続けにヒットを飛ばし一世を風靡した。
元々はCSN&Yやブレッドの影響下にあったバンドであり、それらのグループの楽曲もレパートリーに加えていたこともあり[1]、卓越したコーラスワークとギターテクニックにより「和製CSN&Y」と称された。》(ウィキペディア「GARO」)

《松崎しげるらと「ミルク」(ホットミルク)[2]という名のGSバンドを組んでいた堀内と日高に大野が加わり1970年11月に結成。かまやつひろしのバックバンドを経て、新レーベル・マッシュルームレコードの第1回発売アーティストとして同レーベルと契約。プロデューサーはミッキー・カーチスが務めた[3]。》(同前)

久しぶりにガロを聴いて感じたのは「ああ、これはGSだなあ」だったから、このウィキの記述を読んで、なるほどと納得。「学生街の喫茶店」は歌詞が山上路夫で曲がすぎやまこういち(ザ・タイガースの生みの親の一人)。すぎやまのアレンジのうまさがヒットの一因かと思う。

また《プロデューサーはミッキー・カーチスですぐに思い出したのは坪内祐三『一九七二』(文藝春秋、二〇〇三年)の「若者音楽がビッグビジネスとなって行く」である。七二年十月八日、キャロルがフジテレビの生番組「リブ・ヤング」に登場した。出演者募集に葉書で応募しての出演だった。

《その瞬間、ソファーに寝そべりながらテレビを見ていたミッキー・カーチスはドキッとした。ムックリ起きあがってソファーに座りなおし、全神経はテレビに釘づけになった。
 それは10月8日(日)午後4時からのフジTV『リブ・ヤング』の特集ロックン・ロール大会で、「グッド・オールド・ロックン・ロール」と、「ロング・トール・サリー」をうたった川崎のグループ、キャロルが他の出演者をみごとに喰ってしまった一瞬だった。》(p290、『ニューミュージック・マガジン』一九七三年一月号からの引用)

ミッキー・カーチスは直ちに放送局に電話をした。本番中だから取り次げないと断られたのにもめげず、終わったらすぐに出てもらってと頼んだという。そして電話に出た矢沢永吉に「僕と契約しない?」と持ちかけた。

《その時一緒に出演していた内田裕也が、本番終了後に話をもちかけた時にはもうすでにミッキーの電話がかかった後だった。》(p292、同前)

ただし、このとき内田裕也のバンドでドラムをたたいていた近田春夫はこう回想しているそうだ。こちらの方が自然ではある。

《裕也さんは、キャロルに惹かれて、何日かたってプロデュースを提案したんだけれど、そのTVを見ていたミッキー・カチスさんが、すでにアプローチしてきていて、そっちに決まっちゃって、裕也さんは「トンビに油揚げさらわれた」って悔しがる、悔しがる(爆笑)。》(p293、『BURST』一九九九年九月号「暴走対談」より)

小生、音痴を自認しているため、カラオケには数えるほどしか行ったことはない。行っても好んでマイクは持たないけれど、どうしても歌わざるを得ないときには『喫茶店の時代』の著者として、また青春時代に聴きなれた曲として「学生街の喫茶店」をうたうことにしている。坪内氏に誘われて(たぶん坪内氏がカラオケに凝っていたころだ)、学生や若い編集者といっしょに、記憶では神保町あたりのカラオケ店に入ったことがあった。これは断れないよね。そこで、やっぱり「学生街の喫茶店」をうたった。自己嫌悪に陥ることはなはだしかった。ただし、坪内氏も、よく覚えていないが(日記を探せば分かるかも)ブルーハーツかなにかを歌ったように思うが、それはなかなか大胆な歌いぶりで、ちょっと安心した。

# by sumus2013 | 2020-07-31 20:48 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

フジヰ画廊閉店

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『芸術新潮』1963年8月号より


《さて弊社は創業以来皆様より格別なご厚情を賜り存続してまいりましたが諸般の事情により令和二年四月三十日をもちまして閉店致しました》

という葉書が封書で届いた。差出人は《株式会社フジヰ画廊/代表取締役 永松正継/藤井龍一》である。コトバンクには創業者の藤井一雄が立項されているので引用しておく。

《藤井 一雄(読み)フジイ カズオ
生年大正13(1924)年6月15日
没年平成13(2001)年3月26日
出生地富山県
学歴〔年〕早稲田大学文学部〔昭和23年〕卒
経歴 喜多信を経て、昭和25年独立、上野に藤井美術店を開設。35年銀座にフジヰ画廊を開設、38年株式に改組し社長、のち会長に就任。この間、62年〜平成3年東京美術倶楽部社長を兼任。また東京美術商協同組合理事長、全洋画連会長、五都美術商連合会会長などを歴任。昭和55年暮れ、ロンドンの競売市場サザビーズでルノワールの「水浴する女」を約2億8千万円で落札し、話題となった。平成5年11月東京地検特捜部に脱税容疑で逮捕。著書に国際絵画市場の仕組みを浮き彫りにした「国際絵画市場」や「オークション物語」がある。》

小生も画家の端くれとして、ニヤミスというか、多少の関係があったのを思い出す。一九八〇年代の前半にフジヰ画廊のある社員さんが京都まで訪ねて来たことがあった。五年間ほど初めて京都に住んだときだった(その後九年間神戸に住む)。まだ二十代だった。東京で合同展か何かに出品した作品を見てだったか、きっかけは忘れたが、画商さんが訪ねてくるということは初めてではなかったにしても、フジヰ画廊はビッグネームだったのでちょっと驚いた。ちょうどフジヰ画廊モダンという現代美術も扱う店が本店(当時は銀座六丁目)の近くに出来た頃か、できる少し前だったかと思う。上京した機会にそのモダンの担当になっていた先の社員氏と会った記憶がある。何度目かの絵画ブームに突入しそうなイケイケの時代、いかにも羽振りが良さそうだった。どうも小生などお呼びじゃない雰囲気だったのを覚えている。実際、すぐバブル期に突入して、それっきり何の連絡もなかった。

それからおよそ二十年ほど経った頃、フジヰ画廊の番頭(画商界では番頭、丁稚が通用する)Kさんが「個展をやりませんか」と声をかけてくれた。Kさんとは、別の画商の知人を通して、それ以前に何度か会って顔見知りだった。六丁目と外堀通りの角のそんなに広くない店で、一階でやっている個展を見るために入ったことはあったと思うが、そのときはKさんが地下へ案内してくれた。地下の展示室(商談室?)には名品がズラリ。はっきり覚えているのは鳥海青児の「ブラインドを降ろす男」、この絵欲しいなあと思ったものだった。Kさんは画商とは思えないさっぱりした好人物、しかも読書家で趣味人だったので、ちょっと気持ちは引かれたが、もうすでに大人になっていた(ひねていた?)小生はフジヰ画廊で個展というのには全く魅力を感じなかった。Kさんが独立したら(Kさんは普通の番頭が独立する年齢をかなり過ぎても勤めつづけており、近々独立するようなことを言っていた)、Kさんのところでやらせてもらいますと答えた。その約束通り、たぶん二、三年後だったと思うが、二〇〇六年にKさんの画廊での個展が実現したのだった。われながらいい展示だったと思う。

そういう意味で、縁が全くなかったわけではないので、閉店というのは意外だった(葉書が届いたのも意外だったが、たぶん「創と造」展の出品者には全員出したのだろう)。近頃は、画商さんとのおつきあいもほとんどないし、まして銀座へ行くこともない(銀座が画廊街だったことも昔の話になってしまったか)。先年たまたま銀座に泊まったときには中松商店しかのぞかなかったのだから不案内もいいところ。その「創と造」(昔の五都美術展)も終了したし、美術界も構造変化が顕著になってきたのかもしれない。


# by sumus2013 | 2020-07-30 21:14 | 画家=林哲夫 | Comments(2)

生命の農

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生命の農――梁瀬義亮と複合汚染の時代
林 真司 著
みずのわ出版 発行
10%税込定価2,200円
ISBN978-4-86426-045-9 C0036

四六判並製カバー装247頁
装幀 林 哲夫
カバー・表紙写真 柳原一徳
印刷 (株)山田写真製版所
製本 (株)渋谷文泉閣
プリンティングディレクション 黒田典孝((株)山田写真製版所)

序章 高度経済成長の光と影
第一章 仏縁
第二章 医師としての再出発
第三章 農業と化学物質
第四章 生命の農法
第五章 農薬による健康被害
第六章 複合汚染の時代
第七章 食品添加物に対する不安
第八章 行動する生活者たち
第九章 有機栽培の茶づくりに生きる
第十章 慈光会の設立
終章 念仏往生

生命の農法を通して描く昭和という複合汚染の時代、そして現在――
 レイチェル・カーソンが『沈黙の春』で、DDTなど化学薬品による環境汚染を告発したのは、1961年のことである。しかしそれより2年遡る1959年に「農薬の害」を公式に発表し、人体に対する農薬の多大なる悪影響を世に問うたのが、奈良県五條市の開業医・梁瀬義亮(1920-1993)であった。発表当初は、周囲からの誹謗中傷に晒され続けた。しかし諄諄と「無農薬有機農法」の大切さを説く梁瀬の誠実な姿勢に、賛同の輪が各地に広がっていく。
 梁瀬は医師として、そして自ら有機農業を実践しながら、生命をないがしろにする社会の在り方に、敢然と異議申し立てを続けた。有吉佐和子は、そんな梁瀬の姿に強い感銘を受け、1970年代半ばベストセラーとなった小説『複合汚染』のなかで詳しく紹介し、最大級の賛辞を贈った。
 近年、日本における食の安全性は、高度経済成長期と比べて向上したかに見える。しかし、一皮むけば心許ない状況にあることに変わりはなく、農薬や化学肥料への依存はむしろ強まっている。食品添加物の使用も巧妙になった。だからこそ、小説『複合汚染』が広く支持された1970年代を、いま一度再検証する必要がある。
 過去を直視しなければ、未来を語ることができない。梁瀬義亮が警鐘を鳴らし、有吉佐和子が問題提起をした、昭和という「複合汚染」の時代とは、いったい何だったのか。梁瀬が生涯追い求めた「生命の農法」への軌跡を通して、その実像に迫る。

著者
林 真司(はやし・しんじ)
ノンフィクション作家。1962年大阪生まれ。龍谷大学大学院経済学研究科修士課程修了(民際学研究コース)。有機野菜などを扱う食料品店を経営後、1999年に同大学院に入り、「民際学」の提唱者中村尚司氏や田中宏氏に師事する。同時に、シマ豆腐の調査を開始し、その成果をまとめた『「沖縄シマ豆腐」物語』(潮出版社)で、2013年第1回「潮アジア・太平洋ノンフィクション賞」を受賞。食べ物を通して、人間の移動や交流について考察を続けている。

用紙・刷色
ジャケット 里紙 白 四六判Y目 130kg(4°)
表紙 ハーフエア ヘンプ 四六判Y目 180kg(K/1°)
見返 ハーフエア コルク 四六判Y目 110kg
本文 淡クリーム琥珀N 四六判Y目62kg

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# by sumus2013 | 2020-07-29 19:35 | 装幀=林哲夫 | Comments(0)