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青空と古本まつり永遠にあり

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『秋の古本だより「青空」5号 古書研40周年記念記念号』(京都古書研究会、平成29年)を東京在住の某氏より頂戴した。最近、古書研のどの店とも懇意にしていないため(もちろん店頭均一でお買い物させていただく店はございます)百万遍の目録は誰も送ってくれない。だからこれは有り難かった。というのも四十周年記念号には二十八名の方々が古本まつりや古書研についてエッセイを寄稿しておられるからである。読み応えあり。

秋の古本だより「青空」5号が発行。

小生が古書研と関わったのは一九八一年に京都へ移り住んだときからだった。まず山崎書店の山崎さん(現在は古書研メンバーではないですが)と知合い、古本まつりのポスターを描いて欲しいと頼まれた。以後毎年春夏のポスターを十年くらいは手がけさせてもらったのである。古書研の機関誌『京古本や往来』にも何度か寄稿させてもらい、終刊号(100号)にも書かせてもらっている。古本修行は古書研とともにあったと言っても過言ではない。四十周年は慶賀なり。

寄稿されているエッセイには二〇一四年に亡くなられた松尾尊兊先生の追悼文もいくつか見られる(松尾先生については小生も短い追悼を以前ブログに書いた http://sumus2013.exblog.jp/23494758/)。

なかでは書砦梁山泊の島元健作氏が古書研三十周年記念のバッグについて書いておられるのが印象的だ。島元氏は松尾先生とは古書目録の客としては古くからの付き合いだったが、初めて会ったのは三十周年記念のパーティ会場だったという。

この古本まつりには、先生を最年長に、他に小生を含めて五人ほどの初期のころからの熱心な常連がいて、長年古本を買い漁った功績によってか、その創立三十周年のパーティには全員招待を受けました。そしてその記念品として一澤帆布店のすてきなバッグを貰いました。バッグそのものより、松尾先生と同じものをいただけたことに感激したことを思い出します。》「(追悼 松尾尊兊先生)お別れのことば」告別式での弔辞)

その一澤帆布店のすてきなバッグは小生も頂戴した。上の写真がそれである。十年経ってもビクともせず有り難く使わせてもらっている。(ちょうど信三郎帆布と分裂したころだったので、古書研は一澤帆布なんだと思った記憶がある)

京都古書研究会三十周年記念

古本屋は学者ではありませんから、学問内容のことはほんとうはよく分かりません。ただ生意気なようですがその先生が本物かどうかは、不思議にそれとなく分かるものです。身銭の切り方、道の遠しをいとわぬ熱心さ、つまり文献や資料への情熱が自ずと伝わってくるのです。その点で松尾先生は古本屋から見て第一級の学者先生でした。しかも少しも偉そうにはされず、一介の古本屋にもゆっくりていねいに、そして熱くお話をして下さる。京都のまともな古本屋なら、みんないくつもの思い出を持っている筈です。

追記 告別式が終って出棺を待っていると、先生の娘さんが近づいてこられて「言ってられたバッグは柩の中におさめたんですよ。もう使いふるしてかなりオンボロになっていました」とおっしゃった。悲しみのうちにも何かとてもほのぼのとした気持ちにもさせられて、先生のお人柄に一層の親しみを覚えたものでした。

さすが松尾先生、この帆布のバッグがボロボロになるまで使っておられたのか! あらためて松尾先生ともう少しお話する機会をもちたかったなあと残念でならない。

他にも顔見知りの古本猛者(いや古本修羅かな)の方々が執筆しておられる。びわこのなまず先生(川島昭夫氏)の五車堂・久保田さんの追悼記も懐かしかったが、ふと目がとまったのは蘇枕書さんの「京都の古本屋と私」。京都大学文学研究科・院生の肩書き。八年ほど前に来日され、京都大学周辺の古本屋を踏破しておられたころの回想に次のくだりがあった。

善行堂もその頃オープンしたばかりであった。毎日通学の際、小さい書店が少しずつ完成していく様子を見守りながら、楽しみにしていた。ある日の夕方、細い格子から漏れた明かりから、静かなジャズが流れてきて、きれいに揃えた文庫本や単行本も見えた。近所にまたもう一軒本屋が増えることが嬉しかった。

蘇さん、存じ上げないなあと思いつつ検索してみると、以前あるところで一抱えほども日本文学の研究書を買っておられた女性であった。

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by sumus2013 | 2017-10-31 17:39 | 古書日録 | Comments(0)

歩く作家 走る作家

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村上春樹『村上朝日堂ジャーナル うずまき猫のみつけかた』(新潮社、一九九六年六月二〇日五刷、絵=安西水丸)。ディケンズとウォーキングのつづきになってしまうが、たまたま、この本を手にしたら、冒頭から「一に足腰、二に文体」というメッセージとともにこう書かれていた。

今でも多くの人は、作家というものは毎日のように夜更かしをして、文壇バーに通って深酒を飲み、家庭なんかほとんど省みず、持病のひとつやふたつは抱えていて、締切が近くなるとホテルで缶詰になって髪を振り乱している人種だと信じているみたいだ。だから僕が「夜はだいたい十時に寝て、朝は六時に起きるし、毎日ランニングをして、一度も締切に遅れたことはない」と言ったら、しばしばがっかりされる

毎日ランニングどころか周知のように村上春樹はボストン・マラソンに参加するのである。

だいたい十二月の声を聞く頃からボストン・マラソンへの準備は始まる。この頃から身体はだんだん、まるで大事なデートの前の午後みたいに、そわそわとしてなんとなく落ち着かなくなってくる。五キロ、十キロといった短いそのへんのレースを足慣らしにいつくか走り、一月二月にけっこう長い距離を走り込み、三月あたりにひとつハーフ・マラソンに出てレース・ペースの確認をしてから(今年はニュー・ベッドフォードのハーフに出たけど、これはなかなか楽しいレースだった)、いよいよ「本番」へと臨むわけだ。

五キロ、十キロ……て、ディケンズの毎朝五十キロのウォーキングが、ウォーキングだとしても、いかに凄いか分ろうというもの。


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もう一冊、ポール・オースター『ガラスの街』(柴田元幸訳、新潮社、二〇〇九年一〇月三〇日)の冒頭にもウォーキングについて書かれている。主人公クインはウィリアム・ウィルソンというペンネームでミステリーを書いている作家だった。

およそ一年に一冊の割合で刊行されて、それによってニューヨークの小さなアパートメントでつましく暮らすのに十分な収入が得られていた。一冊の小説に費やす時間はせいぜい五、六か月だったから、一年の残りは好きなことをしていられた。本をたくさん読み、美術館に行き、映画に通った。夏はテレビで野球を観た。冬はオペラに行った。だが彼が何より好んだのは、散歩だった。ほとんど毎日、雨でも晴れでも、暑くても寒くても、アパートメントを出て街を歩き回った。理由があってどこかへ行くのでは決してなく、どこであれ単に足が向いた方へ行ったのである。
 ニューヨークは尽きることのない空間、無限の歩みから成る一個の迷路だった。どれだけ遠くまで歩いても、どれだけ街並や通りを詳しく知るようになっても、彼はつねに迷子になったような思いに囚われた。街のなかで迷子になったというだけでなく、自分のなかでも迷子になったような思いがしたのである。散歩に行くたび、あたかも自分自身を置いていくような気分になった。街路の動きに身を委ね、自分を一個の眼に還元することで、考えることの義務から解放された。それが彼にある種の平安をもたらし、好ましい空虚を内面に作り上げた。世界は彼の外に、周りに、前にあり、世界が変化しつづけるその速度は、ひとつのことに長く心をとどまらせるのを不可能にした。動くこと、それが何より肝要だった。

なかなかうがった見方である。「動くこと、それが何より肝要だった」ディケンズもまさにそうだったのではないだろうか。


『盛林堂の本棚 盛林堂書房古書目録二〇一七年臨時號』(盛林堂書房、二〇一七年一〇月二八日)が届く。一九六〇年代の創元推理文庫にこんな値段が……う〜む。たしかにカバーの装幀もゴーカなメンバーだ、杉浦康平、日下弘、和田誠、松田正久、真鍋博、司修……。いいことを教えてもらったなあ。

古本屋ツアー・イン・ジャパン
10/25文庫本ばかりの目録



by sumus2013 | 2017-10-30 17:28 | 古書日録 | Comments(0)

ディケンズ二題

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Charles Dickens"Night Walks" PENGUIN CLASSICS,2010


『時刻表』第二号(「時刻表」舎、二〇一七年一〇月二〇日)を中島俊郎氏より頂戴した。たかとう匡子さんを編集発行人として創刊された詩と散文の同人誌である。同人は二十人ほど。中島先生(牛津先生です)は「ディケンズとウォーキング」という論考を発表されている。

先生によれば、ウォーキングと文学の創作という関係をたどっていくとイギリス文学がぐっと面白くなるそうだ。ウィアム・ボールズ『ソネット集』(一七九八)、シェリー夫妻の旅行記、ウィリアム・ワーズワース、サミュエル・ティラー・コールリッジ『覚書』(一七九四〜一八〇四)、ジョン・クレア「日曜日の散策」、そしてディケンズ。

ディケンズの日常生活は、執筆とウォーキングで二分化されていた。若い頃は乗馬も加わっていたが、後年はウォーキングのみであった。文筆活動に集中してしまい過度に自分を追い込んだ結果、重い不眠症に陥った。横になってもすぐに目がさめてしまう。その対処療法として、明け方までウォーキングを励行するようにした。「執筆に集中した昼間から午前二時にベッドを抜け出して、往復五十キロほどの道のりを歩きつづけ、わが家にもどり朝食をとるのを常とした」とは、デイケンズ自らの述懐である。

往復五十キロって……小生の住所地(京都市内)からだと、直線距離で、西なら大阪府高槻市、東なら滋賀県の守山市まで行って帰るということになる。ディケンズはただ歩いただけではなかった。この長時間の散策によって夜のロンドン、裏社会を知悉するところとなったそうだ。なるほど、たしかに『オリヴァー・ツイスト』(一八三八)などはその知識が注ぎ込まれているに違いない。

興味深いことに、ディケンズは自ら歩いた距離と環境をことごとく手紙に書き残している。燃えるような夏の炎天下で四時間半、ほぼ三十キロ歩いたと友人に報告しているかと思えば、晩秋のイタリアで悪天にもかかわらず二十キロも山中を歩き回り、また脱稿したうれしさから夕食前に二十五キロも歩いたと報告している。これは相当な健脚である。

ディケンズのウォーキングをいちはやく認めたのはフラヌール(遊歩者)ことヴァルター・ベンヤミンだった。『パサージュ論』のなかに「歩く人」ディケンズへの言及がある(小生も昔読んだはずだが、忘却の彼方なり)。

最後に、ディケンズの先人として詩人ジョン・ゲイ『トリヴィアーーロンドン遊歩術』(一七一六)を取り上げてまとめておられる。ローマ詩人たちへの言及・引用・暗示が頻出する『トリヴィア』は《古代ローマより脈々と流れる詩の伝統の末尾につなげることで、ゲイは英詩の伝統をより活性化しようと目論んでいたのである。小説家ディケンズも明らかにこうした文学的な系譜に属している。》とのことである。

The full title of the poem is Trivia, or The Art of Walking the Streets of London


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友人たちを前に『鐘』を朗読するディケンズ


たまたま、ディケンズについては、つい最近次のような記事を読んだところだったので一層興味深く感じられた。アルヴェルト・マングェル『読書の歴史』(原田範行訳、柏書房、一九九九年)より、上の図も。

一九世紀にはいると、ヨーロッパ全土にわたって、作者による朗読は黄金時代をむかえる。イギリスでこの朗読会の花形だったのは、チャールズ・ディケンズである。

クリスマス・ストーリーの第二作『鐘』の朗読に際し、欣喜雀躍とした彼は、次のように記した書簡を妻キャサリンに送っている。「私が朗読している間、ソファに腰を下ろして、本当にすすり泣きの声を上げているマクレディ(ディケンズの友人の一人)の様子を君が見ていたならば、私自身も感じているように、この朗読がなんと影響力のあるものであるか感じ取ってくれただろうに。」

ディケンズは、朗読や身振りの工夫に少なくとも二ヶ月を費やしていた。そして、どんなふうに朗読するのかを逐一書き留めている。自ら朗読旅行用に編纂した彼の「朗読用テクスト」の余白には、「愛らしく」とか「厳しく」「哀愁を帯びて」「神秘的に」「急いで」などといった調子に関するもの、あるいは、「手招き」「指さし」「震えて」「ざっとしてあたりを見回す」などのような身振りに関するものなどの覚書きが記されている。

ディケンズは朗読を終えると、ただお辞儀をし、壇上を離れて、汗でびしょびしょになった服を着替えたという。ウォーキングにしても朗読にしても徹底的にやらないと治まらない性格だったようである。





by sumus2013 | 2017-10-29 20:31 | おすすめ本棚 | Comments(0)

美作七朗作品展

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いろいろなチラシ類を頂戴したなかに、オッと思う一枚があった。「名曲喫茶中野「クラシック」店主 画家美作七朗 生誕110年記念作品展」。会期は2017年9月8日2018年3月25日だから開催中ということだ。会場は名曲喫茶「でんえん」(国分寺市)、「ヴィオロン」(阿佐ヶ谷)、「ルネッサンス」(高円寺)。

「美作七朗作品展」のお知らせ

美作七朗(本名みまさかしちろう)は、1907年(明治40年)熊本市に生れ21歳で上京、洋画家・小林萬吾に師事し画家を目指す。1930年高円寺に音楽喫茶「ルネッサンス」を開業。戦災で焼失するも1945年9月終戦の翌月には、地を中野に移し名曲喫茶「クラシック」として再開。
1960年頃から油彩画の個展を精力的に開催。遺作展では小説家・五木寛之から賞賛の文章が寄せられる。

本名は「みまさか」だが画名として「みさく」と名乗ったようである。小林萬吾(1870-1947)は香川県三豊郡詫間町生れ。黒田清輝の天真道場から東京美術学校、白馬会、文展、帝展に出品、東京美術学校教授、帝国芸術院会員と、画家としてはまっすぐな栄達道を歩んだようである。同郷ではないとしたら、いったいどういう縁があったのか、ちょっと気になる。

1950年以降は西荻窪「ダンテ」をはじめ店舗の内装デザインを数多く手がけ1957年国分寺「でんえん」開業の折りは意匠設計の全てをおこなう。
1980年愛弟子寺元健治の阿佐ヶ谷「ヴィオロン」開業に尽力。1989年病没享年82歳。経営は愛娘の良子に、2005年に氏も他界し終戦から60年続いた「クラシック」は遂に閉店し老朽化した店舗は取り壊しとなる。
2007年元スタッフの檜山真紀子・岡部雅子の両氏により中野「クラシック」の内装を移築した高円寺「ルネッサンス」(創業時と同じ店名)が開業。

「クラシック」の血脈が受け継がれているのは慶賀なことである。


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読者の方より美作グッズを頂戴した。深謝申し上げます。美作七朗絵葉書セット、DVD「美作七朗と中野「クラシック」」、クラシックのマッチ(一九七〇年代のもの)。添えられていたコメントも引用させていただく。

中野のクラシックにはもう30年くらい前に一度行きましたが、ミルクがマヨネーズの蓋に入って出てきました。》《DVDでは、マヨネーズの蓋は白かったですが、わたしが行った時はまさしく赤いマヨネーズの蓋で、びっくりしました。店内は薄暗く、歩くと床が少し沈んだ覚えがあります。

DVDなどを買ったのは、阿佐ヶ谷の「ヴィオロン」でしたが、午後2時くらいでお客さんは6人いました。店番の女性がいない時、演奏中のレコードの針飛びがあったら、一番スピーカーの前で本を読んいたお客さんがすかさず針を置き直していました。

東中野の線路際の老婦人がやっていた喫茶店もなくなって随分になります。「モカ」だったと思います。NHKテレビで黒井千次の特集が放送され、インタビューをそこで受けていたので知りました。当時は高円寺に住んでいて、東中野の線路脇は見慣れていたので、すぐに行ったと思います。黒井千次は『珈琲記』*という本を出しているのですね。

黒井千次『珈琲記』紀伊國屋書店 、1997

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美作さんの絵葉書のなかではこの作品が好きだ。一九二九年作。サインが「S. MIMA-」となっている。この時期にはまだ「みさく」ではなく「みまさか」の略だったようである。

by sumus2013 | 2017-10-28 19:23 | 喫茶店の時代 | Comments(2)

ヒエロニムス・ボック植物図


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ヒエロニムス・ボック(Hieronymus Bock)の『Kreutterbuch』(植物本)から切り取られた一葉を入手した。これらふたつの図は一葉の表と裏である(画像検索してみるとこの本は小口側に註記があるようなので、奇数ページを表と考えておく)。

表の植物には「Scharlach」と記されているのだが、現代ドイツ語としては「水疱瘡」あるいは「スカーレット(朱色)」らしい……。裏面の「Salbey」は「Salbei(ザルバイ)」で二種類の「セージ」である。

ボックは植物学を基礎付けた人物の一人。一四九八年にドイツのハイデルスハイム(Heidelsheim)あるいはハイデルスバッハ(Heidersbach)で生まれた。一五二三から三三年までツヴァイブリュッケン(Zweibrucken)のパラティネ・ルードヴィヒ伯爵(Count Palatine Ludwig)のために植物園の運営に当った。ルードヴィヒ伯歿後は一五五四年に死去するまでホルンバッハ(Hornbach)のルター派教会の牧師として過ごした。彼は医師でもあった。植物学者のオットー・ブリュンフェルズ(Otto Brunfels)に植物学の本をドイツ語で書くように頼まれた。

一五三九年、初版はドイツ語によって出版されたが、そのときには植物の図は付されていなかった。一五四六年には図入りの版が刊行された(図の作者はDavid Kandel)。この本は一五五二年にラテン語版が出てから世に知られるようになった。ボックの書は彼自身の観察が記されていること、および分類の重要性を主張していることによってそれまでの植物学書とは一線を画した。……以上は下記サイトの要約です。

The Three Founders of Botany ; Hieronymus Bock


本としては下のようなものだろう。一例として引用してみた。版ごとに版面が異なるようである。

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by sumus2013 | 2017-10-27 20:52 | 古書日録 | Comments(0)

モナミの思い出

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『本の雑誌』41(本の雑誌社、一九八五年四月二〇日、表紙デザイン=亀海昌次、表紙造形=沢野ひとし)。「青木まりこ現象」特集号。「青木まりこ現象」についてはあらためて。今は沢野ひとし「神田川の思い出」に東中野モナミが登場しているので、その部分を引用しておく。

僕が小学校の頃の遊び場所は、東中野にあったモナミという西洋料理店の裏庭であった。モナミはその当時活躍していた文化人のたまり場で、とりわけ作家、編集者たちが出版パーティーなどで利用していて、人気のあった店である。店の中は落ち着いた油絵が飾られ、窓には白いレースのかかった上品な雰囲気の店であった。そのモナミでコックをしている人の子供の小田切君が僕とクラスが同じであったために、僕は年中モナミの裏庭で遊んでいた。
 ある日その裏庭のとなりにアメリカ軍が使った軍用品が大量に隠されているという噂が耳に入った。厳重な柵が設けられ、中をのぞくこともできなかった。柵には危険と大書された札がかかっていたが、僕と小田切君は庭の木の上に登り、その柵の中をのぞいた。
「アッ、毒ガス用のマスクがたくさんある」
「本当!」僕は小田切君がのぞいている位置まですぐに登りたかった。
「どんなマスク?」「黒いゴムでできたマスクだ。あれは戦争の時にかぶる毒ガス用のマスクだ」

沢野ひとし氏は一九四四年生れなので、これは一九五四年かその前後のことだと考えていいだろう。そのマスクを盗み出して、となり町の中学生たちとのけんかにそれをかぶって参戦し、バツグンの効果をあげたものの、警官がやってきたため、その夜、沢野氏らは神田川へマスク捨ててしまった……というような思い出である。とにかくもモナミのとなりにそんな軍需物資が保管されていたとは。少しだけ検索してみると下記のような説明文を見つけた。なるほどそうだったか。

中野区は都内の西部に位置し武蔵野台地の一角に位置します。江戸時代は畑作農業と味噌・製粉・醤油醸造など食品工業が発達し、江戸町民の食生活を支えました。明治中期以降、都心からの転居者が急増し、関東大震災以降は浅草から寺院が多数移り住み「小京都」の風情と為りました。戦前は陸軍が駐屯し「帝国軍人の街」と言われ、戦後は米軍が駐屯し米軍の物資横流しが有り闇市が形成され、その過程で駅周辺を中心に商店街が確立しました。》(記:田口憲隆)

銀座の「モナミ」/東中野のモナミ

東中野のモナミに関して下記のサイトを御教示いただいた。

軍人とアナキスト―東中野縁起⑦

by sumus2013 | 2017-10-26 16:52 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

第51回造本装幀コンクール

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第51回造本装幀コンクール公式パンフレット』(造本装幀コンクール事務局、二〇一七年一〇月一日)。

by sumus2013 | 2017-10-25 17:06 | 装幀=林哲夫 | Comments(0)

DRAWING OR DEATH

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日本画の粉本(下書き)。かなり大きな薄い和紙、その両面に墨で牡丹が何種類か描かれ、一部は彩色されてもいる。ある古書店の紙物箱で見つけたもの。学生だろうか、あるいは若い画家かもしれない。画学生とすれば、かなり上手である。

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紙の端に「DRAWing or Death」(素描さもなくば死)と書き付けてある。意気込みがすごい。

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大正七年五月四日と六月二日の日付。御池柳馬場の住所(京都市内です)。作者の名前があったらなあ……。大正七年というと、入江波光、小野竹喬、土田麦僊、野長瀬晩歌、村上華岳、榊原紫峰らが国画創作協会を結成した年である。「DRAWing or Death」の意気込みもそういった画壇の新風を反映しているのかもしれない。


by sumus2013 | 2017-10-24 20:27 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

淀川左岸

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真治彩さんより、ぽかん別冊『淀川左岸』(ぽかん編集室、二〇一七年一〇月七日、六〇〇円)が届いた。A5判、本文二十八頁。美しい表紙だ。『遅れ時計の詩人』出版記念と副題があり、山田稔、佐久間文子、樋口塊、畠中理恵子、扉野良人、真治彩、伊東琴子、服部滋、能邨陽子、そして坪内祐三「編集工房ノア探訪記」(『本とコンピュータ』二〇〇二年秋号より転載)という内容である。真治編集長の行動力に感心することしきり。

涸沢純平『編集工房ノア著者追悼記 遅れ時計の詩人』

伊東琴子さんが編集工房ノアが最初に入ったビルに今現在住んでおられるというのは驚いた! また能邨さんの書店人としてのスタート時代が語られている。これが面白い。出だしのところだけ引用してみよう。

九八年秋、京都の本屋・恵文社一乗寺店でアルバイトとして雇われた私に一番最初に課せられた仕事は、主に日本の文芸が集る棚を作り変えること、だった。ふつう入ったばかりの人間にそんな大切な指示は出さないと思われるが、取次の配本をいっさい受けない、というスタイルでやってきた店だけにそのあたりも妙におおらかでアバウトだった。「できるやろ?」「え?」といったやりとり。取次の意味もろくに理解していない新人にやらせる仕事でもなかろう、と思うのだが、振り返ればその大雑把さに感謝したくなる。当時二十代後半。

そこで思ったのは「じゃあ山田稔の本を入れてみよう」だったそう。恵文社一乗寺店、すごすぎる。もちろん本冊子も恵文社一乗寺店で販売されていると思いますので、ぜひお求めいただきたい。

ぽかん編集室

by sumus2013 | 2017-10-21 20:41 | 古書日録 | Comments(0)

間叟

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最近求めた漢詩のマクリ。状態は良くないが、ちょっと特徴的な書き振りに惹かれた。

 読書学剣不成家
 老在浪游徒自嗟
 幸有北陲能待我
 青嚢独従使信槎
      間叟

と読んでみたが、どうだろう、御叱正を乞う[コメント頂いた通りに訂正しました。深謝です]。間叟は新楽間叟(にいらかんそう, 1764-1827)か。

新楽子固は幕臣新楽間叟。享和3年蝦夷地奉行戸川筑前守安論に雇医師として随行、蝦夷地に赴き、択捉島にも渡り、文化3年江戸に戻る。

詩に《北陲》(北のほとり)とあるのもうなずけるように思う。

本日所用があって自家用車で出たので金福寺まで足を伸ばして戸田勝久さんと衣-hatori-さんの二人展を見る。会場はギャラリー竹十と名付けられてはいるが、個人の住宅を展示のために公開しておられるのだった。戸田さんの絵はこういうところによく似合う。人形たちも、これはなかなか一言では表せないが、例えば「ベルメールのフランス人形」といったおもむき。杉苔の庭があり、その奥の茶室には蕪村の軸が……。すでに紹介したように金福寺には蕪村の墓がある。戸田好み極まれり。

金福寺

ちょうど扉野良人氏が来ており、寺宝の短冊帖を持参していた。皆で拝見する。おおよそ幕末から明治あたりのもののようだ。なかに蓮月尼の短冊が二点見えた(下写真の右端と左端)。蓮月は見ると欲しくなる。都合でゆっくりできなかったのが残念だったが、嵐の前にいいものを見させてもらった。

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by sumus2013 | 2017-10-20 20:54 | 雲遅空想美術館 | Comments(2)