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林哲夫の文画な日々2
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<   2017年 05月 ( 27 )   > この月の画像一覧

るさんちまん

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『るさんちまん RESSENTIMENT』創刊号(エディション・イレーヌ、一九八三年五月)。某氏より頂戴した。刊行間もない頃、アスタルテ書房で見かけてはいたが、求めることはなかった。今、めくってみると、実に興味深い雑誌である。エディション・イレーヌは今日も精力的に活動を続けておられる。その原動力(?)であるルサンチマンの持続には敬服せざるを得ない。目次は以下の通り。

超現実の光芒を追って  松本完治
ジャック・リゴー/TEXTE  翻訳:鈴木総
アンドレ・ブルトン/吃水部におけるシュルレアリスム(抄) 翻訳:生田耕作
ダンディズムの末裔  松本完治
Concours d'élégance  上野潤
グランド・ホテル万華鏡  岡上真治
シンポジウム:血肉なき思想家よ、去れ  生田耕作他


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見っけものは「TEXTE ジャック・リゴー」鈴木総訳のページ。鈴木総はもちろん鈴木創士さんだろう。生田耕作に翻訳をかなり鍛えられたと述懐していたから。

しかし何と言っても「シンポジウム:血肉なき思想家よ、去れ」が強烈。出席は、生田、松本、鈴木、岡上に加えて和田洽史(倒語社編集長…実に興味深い経歴の持主、現在はガーナに在住されているようだ)。副題が「現代ジャーナリズム批判第1回」で、俎上に登るのは雑誌『遊』の松岡正剛および吉本隆明。『遊』一九八二年九月号の松岡・吉本対談がよほど腹に据えかねたとみえる。あまり長く引用するのもはばかられるのでごく一部だけ。松岡正剛の用語について《岡上 だからさっきの話じゃないですが、機械は汗をかくからエロティックだとか、機械にはニルヴァーナがあるだとか……》という発言につづいて

生田 彼の使う言葉は全く意味のない言葉と言葉の短絡ですよ。
[略]
鈴木 松岡は「概念規定」を無視するわけですね。
[略]
生田 言葉も知らない、言葉の使い方も知らない人間にものを書く資格はない。だのに、その文盲が許容されるどころかジャーナリズムで結構有名になって誰にもたたかれない。これは異常な時代ですよ。
[略]
鈴木 自分の思い込みで言葉を使うな。もっと謙虚に、誠実になれ。
岡上 すごく低次元な問題ですね。
生田 結局、松岡の問題は単純なことだと思うな。言葉への無知、鈍感。これに尽きるね。
鈴木 言葉への冒涜ですね。
生田 許せない文化破壊者だね。(「遊」9月号表紙の松岡正剛の写真を不思議そうに眺めながら)この男、耳たぶに穴あいとるのと違うか?
鈴木 違いますよ。穴ではなくてイヤリングをしているんです。最近はファッション田舎者[カツペ]のあいだで流行っているみたいですね。もともと、ニューヨークや、サンジェルマン・デ・プレのホモ連中のアクセサリーだった。
生田 なんや、オカマか!
鈴木 そんな高級な人種やないですよ。(笑)

などという高級な批判がつづくのであるが、あまりに高級すぎてついていけないところもある(時間の無駄遣いという感じさえ、いや無駄遣いこそが文化なのかもしれないが)。善くも悪くもここまであけすけに語られると、このグループの指向するものがクリアに見えることは間違いない。

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巻末には遅日草舎と『戸田勝久画集』の広告あり。遅日草舎は出版もやっていたのか、と思いつつ検索してみると他に

京都府下の山野草 : 原色写真図鑑
衣川幸三, 内藤登喜夫 共編 遅日草舎 1983

があった。

遅日草舎

by sumus2013 | 2017-05-30 17:31 | 関西の出版社 | Comments(3)

カフェータワー

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生誕130年記念 秦テルヲの生涯
2017年6月3日〜7月8日

星野画廊
http://hoshinogallery.com


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最初の写真は《第1回個展(京都裏寺町妙心寺)でのテルヲ 1912(明治45)年》、二番目の写真は《カフェータワー開店記念スナップ 1913(大正2)年10月30日》、ともに『星野画廊蒐集作品目録/画家たちが遺した美の遺産 その4 生誕130年記念 秦テルヲの生涯 異端といわれ、無頼と呼ばれた孤独画家の生涯と魂、その求道の軌跡』(星野画廊、二〇一七年五月二〇日)より。

1913(大正2)年秋には、テルヲと晩花が文展会場前の移動式展覧会場、カフェータワーで「バンカ・テルヲ展」を開催した。》という説明も見られる。下はバンカ・テルヲ展(1913年11月23日〜12月5日)の会場スナップ(要するにテント内部)。中央に野長瀬晩花、その後ろ向って左の白い被り物がテルヲ。

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ぜひ見ておきたい展覧会である。図録も力作。

秦テルヲ「カフェー風景」

by sumus2013 | 2017-05-29 20:46 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

1ダースの箱展

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2017年6月6日〜6月28日
ウィリアムモリス

珈琲&ギャラリー東京都渋谷区渋谷1-6-4 The Neat青山2F
開廊時間 12:30 -18:30
休廊日:日曜・月曜・第3土曜日[17]


BOXアートの展覧会にお誘いいただきました。一点出品しております。「箱」の作品というのは予想外に難しかったです。新味を出したいと努力したのですが……さて、どんな仕上がりになっているのか、ぜひ会場でご覧ください。

by sumus2013 | 2017-05-28 19:46 | 画家=林哲夫 | Comments(0)

Edge


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2008年の撮影風景(拙宅アトリエにて)


これまで『sumus』同人から岡崎武志、林哲夫、荻原魚雷の番組を制作してくれたテレコムスタッフより以下のようなメールを頂戴した。

いまご出演いただいた番組「Edge」 のホームページをつくっておりまして、詩人編の方から公開をはじめています。


なかなか広く見てもらうことができない番組なので、 少しでもHPから番組のことを知ってもらえればと思っています。ご出演いただいた回の情報も5月20日頃の公開を目指して準備しております。数分のトレイラーもつけています。

まだ全編ではないが、順次公開されているので覗いていただきたい。

2008年百万遍初日!


by sumus2013 | 2017-05-28 17:04 | おととこゑ | Comments(0)

超強力マグネット

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以前紹介したように、今井雅洋氏からコンクリートピンを利用した展示方法を御教示いただいた。

コンクリートピン

今回はそのヴァリエーションで、超強力マグネットを使って高さを調節するという方法をその道具とともに今井氏より頂戴した(上京時に頂戴していたのだが、紹介が遅くなりました)。

まずパネルに画鋲を刺す。そしてその上に超強力マグネットを置く。二つ三つと重ねることで高さを調節できるのがミソ。その上に作品などのシートを置いて、

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(以上2点は今井氏撮影)


その上からいちばん小さな超強力マグネットで押さえる。パネルも安いものでいいし、アクリルなどの絵具で色を塗るとさらにいい(上の写真のように)。ピンや磁石は百円均一の店で手に入る。

ということで早速その方法でメイプルソープの案内状(先日の誉田屋源兵衛竹院の間での展示を飾ってみた。いい感じ。シートがしっかりしていればある程度の大きさでも留められるように思う。むろん隙間を作らず、直に押さえるならポスターほどのサイズでも展示できるだろう。いずれ個展などの折りに用いてみたい。

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by sumus2013 | 2017-05-26 20:26 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

印刷と似玉堂

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『印刷と似玉堂』(似玉堂、一九三二年一一月一〇日)。京都柳馬場三条南入にあった印刷所の栞である。

似玉堂の生ひ立ちを申しますと、今を去る四十八年前、即ち明治十九年、初代三上庄治郎氏の創始したものでありまして最初は誠に些々たる一洋式帳簿店に過ぎなかつたものでありますが、常に時代の進軍に適応して、活版部・石版部を順次設け次第に膨張して参りました。大正十年には遂に従来の組織を株式会社に改めまして工場設備の一大拡張を行ひ、凸版・凹版・平版を悉く網羅した所謂綜合印刷所として一段の飛躍をなし、爾来益々発展し幸ひに現今の盛大に達することを得ました次第であります

尚ほ其の間特筆すべきことは大正四年の大正大礼の際に、印刷局臨時京都派出所を、又、昭和三年の昭和大礼の際には内閣印刷局臨時京都出張所を特に当社内に設けられ、官報号外其の他の印刷を行ふの光栄に浴し、徹底的に敏速確実よく其の責任を全うして大いに面目をほどこした次第であります。

本書に記載されている従業員数は二百有余名、据付け機械が四十余台、最近一ケ年の印刷数は四万七千四百五十連余、活字鋳造数千五百万本、貯蔵活字二億余万本、引受定期刊行物三十五種類、製本数一ケ年五十余万冊などなど。京都を代表する印刷業者であった。

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国会図書館を調べると似玉堂として以下のような出版物がある。

蘆のわか葉 上下
塚本里子 著,渡辺千治郎 編纂 似玉堂(印刷) 1900

金海貝塚発掘調査報告
朝鮮総督府 [編] 似玉堂 1923 (大正9年度古蹟調査報告 ; 第1冊)

大戦後の欧米見聞
小南 又一郎/著 似玉堂 1923

南朝鮮に於ける漢代の遺跡
朝鮮総督府 [編] 似玉堂 1925 (大正11年度古蹟調査報告古蹟調査報告 ; 第2冊)

北陸の偉人大和田翁
中安信三郎 講述 似玉堂出版部 1928

慶尚北道達城郡達西面古墳調査報告
朝鮮総督府 [編] 似玉堂 1931 (古蹟調査報告 ; 大正12年度第1冊)

医家人名辞書
竹岡友三 似玉堂 1931

慶州金鈴塚飾履塚発掘調査報告 本文
朝鮮総督府 [編] 似玉堂 1932 (古蹟調査報告 ; 大正13年度第1冊)

『The Art Flower Arrangement in Japan』1933年(昭和8年)似玉堂

Scientific Japan
prepared [by the National Research Council of Japan] in connection with the Third Pan-Pacific Science Congress, Tokyo, 1926 似玉堂 [印刷所]


しかしながら、これほど盛大であった似玉堂も敗戦後の一九四六年には日本写真印刷有限会社(戦中の企業合同により成立)に吸収合併され日本写真印刷株式会社となって今日に至っている。かろうじて命脈を保ったと言えるのであろう。

日本写真印刷株式会社の誕生


by sumus2013 | 2017-05-24 20:26 | 関西の出版社 | Comments(0)

骨論之部

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骨から骨へ……というわけでもないが、本日は久米桂一郎『芸用解剖学 骨論之部』(画報社、一九〇三年二月二七日)を紹介する。表紙に箔押しで記されたタイトルは『芸用解剖学 骨論部』だが扉では『芸用解剖学 骨論部』となっている。また著者についても扉では《森林太郎/久米桂一郎/同選》とあるが、奥付に記された著者名は久米のみ。「同選」は詩文のアンソロジーにおいて撰者が二人以上いる場合に用いられるようだ。合選とも。森鴎外の日記に照らすと久米の原稿を鴎外が校閲するというような共同作業だったらしい。

美術解剖学の流れ 森鴎外・久米桂一郎から現代まで』(久米美術館、一九九八年)図録の解説(伊藤恵夫)によれば、本書は明治三十六年初版で、その後明治三十八年に改訂増補版、四十一年に第三版が発行されている。雑誌『美術評論』第五号から第二十三号にわたって十五回連載された内容(連載時の筆者は「无名氏」)に雑誌廃刊のため発表できなかった部分を増補して刊行された。また次巻では筋肉から姿勢、運動に関する記述へと進む予定だったが、完成は見なかった。

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久米が典拠としたのはポール・リッシェ(Paul Richer)の『Nouvelle Anatomie Artistique』(1912,1920,1921)三冊で、本書はその第一巻(骨格と筋肉)の部分訳(?)になるのであろう。久米は明治十九年にフランスへ留学。ラファエル・コランの門に入り西洋画を学ぶとともにモンパルナスの夜学校(L'École du Soir)でデッサンに励んだが、そこで解剖学に出会い積極的に勉強を始めた。明治二十六年帰国。二十九年、黒田清輝らと白馬会を結成。この年開設された東京美術学校西洋画科において美術解剖学と考古学の講義を受け持ち、大正十五年まで三十年間講じた。


中村不折『芸術解剖学』

パリ植物園 古生物学比較解剖学展示館


by sumus2013 | 2017-05-22 20:40 | 古書日録 | Comments(0)

骨相学提要

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大平泰観『骨相学提要 四十二部位論』(民聲評論社、一九五三年六月一五日)。著者大平泰観と民聲評論社の住所は同じ。京都市伏見区西鍵屋町。大平泰観についてはほとんど何も分らない。本書には肩書きとして「日本易学会最高顧問」としてあり、はしがきには『人相学論』『人相部位論』『形貌学理論』『手相学論』を著したと言う。ただし国会図書館には所蔵されていない。

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大平泰観(口絵写真)


幸に私が学生時代より不知不識の間に斯学の研究に没頭してから約三十有余年である、此間に研究と体験とによつて得た、統計上より動すことの出来ないものと、殊に留学中特筆した点を加へて、至極判り易く骨相の部位を図解に示し骨相学提要と題し茲に執筆した次第である》(はしがき)

分からないと書いたものの、写真もあり住所も著書も学歴らしきものも知られるわけだから、かなり情報は豊富だとも言える。

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はしがきに続く「骨相学の沿革」を少し引用しておこう。

骨相学の発見者は当時世界に有名な墺国の解剖学の権威者医学博士ジョセラガルと云ふ人である此のガル博士は一七五七年三月九日南独逸の片田舎に生れ大学を出て墺国の皇室の侍医となり後には開業医となつてガル博士がかつて学童たりし頃より其の学友の露大なる眼球と記憶力との関係より人の心性と頭脳との関係に疑問を喚起し、其聡明と精力とを傾注

ジョセラガルはジョセフ・ガル Franz Joseph Gall(1758–1828)。

ガル博士が仏国の巴里に於て骨相学の研究所を設け次から次と新しい発見説を発表中不幸にしてガル博士は一八二八年八月二十二日(我国の文政十一年)七十二歳を一期として死亡した故に骨相学はガル博士を以て開祖とし第一世とする第二世は一八〇〇年頃よりガル博士の説に賛成し亦師事して共に研究したスブルツハイムと云ふ有名な解剖学博士であるス博士が英国に渡つて一八一五年始めてエジンバラ大学で斯学の講演をしたとき各学者より大喝采を博し其の賛同を得て同大学では此のフレノロジーを一科目として特設した

スブルツハイム(Johann Gaspar Spurzheim, 1776-1832)はガルの協力者であったが、途中で仲違いし一八一二年には独自の研究に始めた。またヨーロッパ各地を旅してフレノロジーの普及に貢献した。米国へ初めて渡った一八三二年にボストンで客死。検死解剖の後、その脳、頭蓋骨、心臓は取り出されてアルコール漬けにされ、聖遺物のように一般公開されたという(From Wikipedia)

そういえば、以前こんな雑誌も取り上げていた。

『性相』第四十三号

by sumus2013 | 2017-05-20 21:51 | 関西の出版社 | Comments(0)

ウィンスロップ・コレクション

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『ウィンスロップ・コレクション フォッグ美術館所蔵19世紀イギリス・フランス絵画』展図録(国立西洋美術館、二〇〇二年)を取り出す。先日のビアズレー体験から思い出した。たしかビアズレーのコレクションがこのなかに含まれていたはずと思ったら、まさに正解。ビアズリーはワイルドの『サロメ』のために十九点の素描を制作したそうで、そのなかの十四点が一八九四年の英語版に収録された。フォッグ美術館にはそのうちの十点が収蔵されており、この展覧会には全十点が出品された(ビアズリーの素描は計三十三点所蔵とのこと)。来歴を見ると、版元のジョン・レーンから画商のスコット・アンド・フォウルズを通してウィンスロップは一九二七年にそれらを購入している(フォッグに寄贈されたのは一九四三年)。かなり早い時期である。

アメリカでは20世紀最初の数十年間に美術品収集への関心がかなり高まっていたにもかかわらず、素描を収集するとなるとウィンスロップが収集を始めた当初は、まだ試みるものも少なく、その価値は認められていなかった。》《一方ウィンスロップと彼より少し後から収集を始めたフォッグ美術館のポール・サックスは、紙の作品の意義を認めて、コレクション形成に努めたという点においてパイオニアであった。》(ウォロホジアン「美を求める眼」より)

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本書に掲載されているステファン・ウォロホジアンによるウィンスロップの伝記「美を求める眼:グレンヴィル・ウィンスロップとそのコーロッパ美術コレクション」がなかなかに興味深い。めぼしい記述だけ拾って紹介しておきたい。

グレンヴィル・ウィンスロップは一八六四年に《特権階級の家に2番目の子供として生まれた》。父ロバート・ウィンスロップは銀行家、母はニューヨークで最も裕福な財界人でシティ・バンクの社長でもあったモーゼス・テイラーの娘ケイト。一八八二年にケイトはモーゼスの莫大な遺産の五分の一を相続したという。

ウィンスロップは家族のほとんどがそうであったようにハーヴァードへ進学。ハーヴァードで最初の美術の教授チャールズ・エリオット・ノートン(1827-1908)の講義にウィンスロップはこの上ない喜びを見出したという。《ラスキンがそうであったように、ノートンは美術研究を美の本質に向う深遠な探求として理解していた》。

「美は善よりもすぐれている。なぜならばそれは善を含んでいるからである」

こんなノートン言葉(ノートニズム:ノートン主義)がウィンスロップのノートにはビッシリ書き込まれている。ハーヴァードで最後の学期にヴェネチア美術のクラスでバーナード・ベレンソンと出会う。

一八九二年、ウィンスロップは結婚し、法律事務所を設立するも失敗に終り、一八九六年には引退してしまう。三十二歳。ところが結婚生活もうまく行かず、一九〇〇年に妻は自殺。二人の娘が残された。ウィンスロップは彼女たちを厳しく育てた(後に二人して父の家から駆け落ち逃亡)。この頃から美術の世界へ目を向け始める。

孤独な生活を続けているなかでバーナード・ベレンソンと再会、ベレンソンの指導を受けながらウィンスロップはイタリア・ルネサンス美術の収集を始める(ベレンソンから約十二点の絵画を購入)。そのかたわらアジア美術の収集にも乗り出す。《現在でも、古代中国の玉[ぎょく]と青銅器においては、ほかのどのコレクターのコレクションもこれに匹敵するものはない。

一九〇二年、マサチューセッツ州に大きな屋敷を購入。ノートンの姉の息子で近所に住んでいたフランシス・ブラードと親しくなる。彼の影響でターナーに興味を持ち、ターナーの版画を四〇〇点以上集めた。ブラードは《版画の収集において、版の質にこだわった最初のアメリカ人コレクター》と称されている。ブラードによりウィンスロップはイギリスの美術運動に関心を向けるようになりウォルター・ペイターの著作に親しんだ。ウィンスロップが美術について最も頻繁に引用している言葉はペイターの「すべての美術はつねに音楽の状態をめざす」(『ルネサンス史研究』の「ジョルジョーネ派」より)だった。ブラードは一九一三年に若くして歿した。

一九一四年、マーティン・バーンバウムと出会った。当時彼はベルリン・フォトグラフィック・カンパニーの社長をしていた。写真集や美術本を出版する会社である。その後アーティストたちとの交流を利用して作品を借り出して展覧会を企画するようになり、また上述の画商スコット・アンド・フォウルズと組んで仕事をした。その時期にウィンスロップと知り合ったようである。二人は急速に親しくなり、バーンバウムはヨーロッパでの美術品購入を一任される。

バーンバウムは彼が見つけた美術品に関する批評を添えた、膨大な数の手紙を送り、さらに作品を重要度や価格によってランク付けした詳しいリストを提示した。ウィンスロップの方はというと、番号や略号によって購入の意志を伝えるだけだった。「それを買いなさい」という文字は、ウィンスロップがロダンの見事なマリアナ・ラッセルのブロンズ像を取得するのに、唯一必要となったやりとりである。

「それを買いなさい」は「Buy one」である(掲載図版による)。バーンバウムはオークションや格式のある画廊から買うことはほとんどなかった。これと目当てを付けると《作品を得るためには、あらゆる戦術を試した》。複製と交換するなどという荒技もやったらしい。

バーンバウムが美術品を入手するときに最も成功した方法のひとつは、手放したがらない相続人やコレクターに対して、彼らの宝物は将来的に転売されることなく美術館に寄贈されるのだと保証することであった。この方法は、とくに芸術家の直接の相続人たちに効果があった。

二人は主要な何人かの作家の作品で大きなまとまりを作るという方法を取った。アングルやモロー、ラファエル前派、ウィリアム・ブレイク、そしてビアズリーなどの作品群である。

1927年、彼はイースト81丁目15番地に自分のコレクションのための新しい家を建設した。そこには彼自身の寝室と、彼の兄弟のための客間があった。この家を訪れた人は、部屋から部屋へとマニアックに並べられた美術品の数々と出会い、それはまるで象徴主義者が見る夢のようであった。

これらの空間はウィンスロップの私的な世界であり、そこにある美術品は彼の情熱のあらわれであった。ウィンスロップは細心の注意と配慮をはらい、ひとつひとつの美術品を飽くことなくつねに完璧な手書き文字で筆記し、目録化した。その目録はファイル・カード15冊にものぼり、それぞれの美術品の価格は日記に記録された。

最終的にそのコレクションはハーヴァード大学のフォッグ美術館へすべて無条件で寄贈されることになる。

コレクションもまた創作であるとはよく言われるが、やはりこのくらいのレベルじゃないと、説得力はないねえ……。

by sumus2013 | 2017-05-19 21:30 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

こゝろ

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漱石についてなんとか書き上げた。美術との関わりを少々。ちょうど呻吟しながら書いている最中に『學燈』春号(丸善出版、二〇一七年三月五日)「「學燈」創刊120周年記念 特集夏目漱石」を某氏が送ってくださった。ここに古田亮氏(東京藝術大学准教授)の「漱石の美術鑑賞」という一文が収められていて、おお、と思ったのだが、小生が書こうとしていたこととはほとんど重ならないのでひと安心。この文章はB・リヴィエアーの絵「ガダラの豚の奇跡」と「夢十夜」の第十夜の類似について(二〇一三年に「漱石の美術世界展」という展覧会があったのだ、知らなかった)。

もうひとつ祖父江慎氏の「不安定な文字、不安定な本ーー漱石の『こころ』と、書籍デザイン」というエッセイも面白く読んだ。氏は新装版の『こころ』(二〇一四)をデザインしたときの観察から漱石が自ら手がけたその装幀の謎に迫っている。

まずタイトルについて「こころ」「こゝろ」「心」など一定しておらず、その書体も楷書体や篆書体が使われており、化粧箱には《甲骨文のような金文のような謎の古代文字》が書かれていると指摘。その文字は函のヒラに書かれている手と縦棒(上の写真左)の文字を指す。これはふつうなら「父」とか「失」とか、または「寸」と読んでみたいところなのだが、タテ棒が手の右側にあるというのは手許の字書にも見当たらない(御教示を)。祖父江氏は

もしかするとペンを手放した手、つまり「遺書」という意味の漱石創作文字かもしれません。

と飛躍して考えておられるが、あながち無視できない指摘であろう。ただし、函のヒラに大書しているのだから、当然「心」のつもりだったと考えるのが自然である。この形に出典があるかないか、それだけが問題だろう。

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函(左)と本体の背


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口絵(漱石による)


また本体表紙の石鼓文のアレンジについても面白い説を開陳しておられる。

漱石の下絵をコンピュータで起こしてるときに、面白いことに気づきました。表紙を伏せて開いて見たときの右上、つまり表四の最初の目立つ場所に「馬」の文字があります。それから背の著者名の下の目立つところには雄鹿と雌鹿のふたつの「鹿」の文字が、書かれています。たまたまかもしれませんが、併せて「馬・鹿」です。「馬鹿」といえば、この作品のキーワードでもあります。

「向上心のないものは馬鹿だ」と友達のKから言われたことが悲劇(?)の発端になることを指す。これもまたあながち軽んじられない推論である。漱石ならやりかねない。

これらの他にも、どうして岩波書店から出版したのか? どうして自分で装幀したのか? という謎も残っている。

もしかするとこの作品を、言葉のように、なるがままに委ねてみたかったのかもしれませんね。漱石は、本になって流通するところまでの構造全体のデザインを行ったんだという気がします。

祖父江氏はこう解釈している。さて、どうなのだろうか。

by sumus2013 | 2017-05-18 21:46 | 古書日録 | Comments(0)