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林哲夫の文画な日々2
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<   2017年 04月 ( 26 )   > この月の画像一覧

暮しの手帖社の書皮?

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京都・誠光社での花森トークも近づいて来た(5月5日)。本日は少しおさらいをしておこうと準備していた。今回で四度目(神戸・伊丹・目黒に続いて)ながら毎回内容は変ってくる。話をするたびに削るところや増やしたい項目が出てくるのだ。もちろん中心の興味は花森のデザインや装釘におけるルーツを探すということで変らない、が、どこに比重を置くか、それが徐々に変化していく。

目黒の聴衆は、みなさん濃〜い方ばかりだったので、反応を心配したのだが、どなたにも満足してもらえたようでひと安心した。それを自信に京都でも存分に語りたいと思っている。連休中でいろいろとお忙しいでしょうが、もうこれが最後の花森トークになるやもしれません、ぜひともご来場を。午後七時からです。

ということで、何か花森に関するブツはないかと考えながら、ふとPCの後ろの壁に目をやった。暮しの手帖社の書皮が留めてある。背が焼けている。おそらく誰かが暮しの手帖社の封筒を四六判の本にちょうど合うように切ってカバーにしたのだろうと思っていた。これをどうして持っているのか……忘れてしまった。何かの本に付いていたか、あるいはどなたかに頂戴したのだったか。

じっと見ていて、おや? と思った。「美しい暮しの手帖」と書いてある……これは、ひょっとして珍しいのか。『花森安治装釘集成』を開くと、237頁に「暮しの手帖社専用封筒 表・裏」として掲載されている。また世田谷の図録を開くと、160頁に《暮しの手帖社の封筒/2000年頃に使われていたもの。/デザイン:花森安治 1969年》と書かれている。どちらも図案のなかに書かれている文字は「暮しの手帖」である。「美しい」はない。

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『花森安治装釘集成』より


なんと! これは発見だ。この書皮がこうしてここに存在するのだから図録の説明文《デザイン:花森安治 1969年》は明らかにおかしいことになる。どうしてかというと『美しい暮しの手帖』という名前は一九五三年の第一世紀第二十一号までしか使われていないからである。まあ、百歩譲って封筒にデザインしたのが一九六九年だとしよう。しかし図案そのものは「美しい」時代に作られたことはまず間違いない。としたら、案外ほんとうに書皮だったのかも、あるいは包装紙だったとか?(封筒として用いるには紙が薄いような気がする)

目の前に半年以上貼ってあったのだが、まったく気付かなかった。何事も身近なものをよく観察することが大切だなあ。

by sumus2013 | 2017-04-30 20:26 | 古書日録 | Comments(4)

犬童進一ノオト

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内海宏隆『〈別冊〉木山捷平研究 犬童進一ノオト』(木山捷平文学研究会、二〇一七年四月一日)。昨年は菊地康雄という詩人・編集者を探索しておられて驚かされたものだが、今回はさらに無名の(文学事典類に立項のない)詩人・小説家・画家=犬童進一(いんどう・しんいち、一九二九年〜)に焦点を当て可能な限りの調査を行っておられる。

菊地康雄ノオト 日本の浪漫と美を索めて

犬童は菊地康雄とともに東西南北社の『ロマンス』という雑誌を編集していたらしい(一九五四〜五五)。そんな縁から内海氏は犬童に深入りして行く。ここでかいつまんで紹介したいのはやまやまなれど、とうてい簡単に要約できるような内容でもないので、ご興味のある方はぜひ直接お求めいただきたい。

前回、菊地康雄のときにも富士正晴の言葉を引用したが、この本でも富士の発言のインパクトが語られているので、そこを引いておこう。富士正晴が長年にわたってその著作刊行に情熱を燃やした詩人はもちろん竹内勝太郎だ。しかしその竹内について富士はこうもらしたという。

「いまになったら、いやになるわ」
意外と思える富士正晴の言葉を聞いたのであった。
「いまになってみたら、稚拙な、煮えきらん若書きばっかりやで、みてみい、箸にも棒にもかからんカスみたいなもんや。あいつより年とったら、ようわかるわい、ようあんな男について行ったもんや、あほらし。皆おなじとちゃうか、若いとき偉い思うちゅうことは」
覚めた顔で言った。
「そやけど、やっぱり竹内の遺稿集は出したらな、誰も出す奴はおらんからなあ、わしがせなしょうなかったかなあ」(島京子『竹林童子失せにけり』)

犬童もまた淵上毛銭という「ヘッポコ詩人」の人と作品を深く踏査研究したというが、富士の言葉は何より内海氏が犬童進一へ迫る強い後押しになったに違いない。わしがせな「誰も出す奴はおらんからなあ」……。

以前紹介した『その姿の消し方』で堀江敏幸が「アンドレ・L」という誰も知らない詩人(?)を探し求めた心情と通じるものがあるだろう。結局「文学」の魅力とは、ある意味において作品云々を超越したところに生じるのではないか、作品がいいとか面白いとか言っているうちはまだまだ文学のブくらいしか分っていない、そんな気がしないでもない。

堀江敏幸『その姿の消し方』

by sumus2013 | 2017-04-29 20:46 | おすすめ本棚 | Comments(0)

漱石山房

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漱石のことを書かなくてはいけなくて、書くつもりもなかったので資料もほとんどないのだが(漱石についてはあらゆることが書かれているし、さほど興味もないのだが、つい引き受けてしまった)、たまさか漱石が使っていた印章について少しばかりコピーなどをまとめて保存しておいた。その袋を久し振りに開いてみると、ハラリ、「漱石山房」印のカラーコピーが出てきた。

この印について松岡譲は「印譜を読む」(漱石全集月報第十一号、一九三六年九月)に以下のように書いている。[〜〜は繰返し記号の代用]

この大きな石印の印文は誰にも讀める「漱石山房」。刻者は天地庵主人。初めの頃には先生自慢のものらしく、蔵書に堂々と捺すのが嬉しかつたのであらう、小宮さんあたりを動員して捺した形跡があるのであるが、それよりももつと面白いのは森田さんに「緑萍破處池光浄」といふ大字の横額を書いてやつて、この印をべたりと捺して居るのは、当時よく〜〜これを捺すのが嬉しかつたものと見える。明治四十年頃の事で、まだ毛氈がなかつたらしく、字には畳の目が浮き出して居るといふ特製品だ。

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『別冊太陽 夏目漱石』(平凡社、一九八〇年)より


また古川久「漱石印譜雑記」(『夏目漱石遺墨集別冊』求龍堂、一九八〇年)にはもう少し詳しい説明が出ている。

明治四十二年四月三日の内田魯庵宛書簡に、「文学評論と申す本を春陽堂より出版致候につき一部御目にかけ度小包にて差出候間御落手被下度候 背の字と石摺様の文字は浜村蔵のかけるもの漱石山房の印は大直大我といふ爺さんの刻せるものに候」とある。印文は本の前扉に刷られていて、大いに人目をひく。

この大我先生から青田石を三個八円五十銭で売りつけられ、その上、菅虎雄にもらった印材への彫り賃として十二三円とられたと菅虎雄への手紙(明治四十年二月十三日)で報告しているから「漱石山房」の大きな石(約七センチ角)は菅からのプレゼントだった(菅は当時南京の三江師範学堂に勤めていた)。

なお某氏は篆刻の専門家なのでこの印についてはなかなか手厳しい意見を述べておられる。

篆刻の常識からすると、妙な印面構成です。誤字になって了うところもあるし、結体もダラ〜〜、おまけに(筆でかくと)涸筆になるところにカスレの細かいスジが入れてあります。奇ばつというかふざけているというか。刻者(天地庵主人とあるがどういう系統の刻者かわからない)の工夫?なのか 漱石や、そのとりまきの誰かの発案なのか。

明治四十年頃の漱石はまだまだ文人趣味については初心者に過ぎなかった。明治三十九年の『草枕』では美術知識をひけらかしているけれどどうやら教養の範疇だったようだ。大我先生のいいカモになったのもその浅さを見透かされたのかもしれない。ただし作家としての成熟とともに趣味もだんだん本物になって行く。とくに明治四十三年に死の淵に立ち、かろうじて引き返して来て以降、そして四十四年に訪ねて来た津田青楓と付き合うようになってから、その美術や古美術への関心や鑑賞はひときわ深化したようだ……とそんなことを書こうか書くまいか、迷っている。

by sumus2013 | 2017-04-28 21:02 | 古書日録 | Comments(0)

漱石と京都

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夏目漱石『明暗』(左)と『道草』


大山崎山荘美術館で「生誕150年記念 漱石と京都ーー花咲く大山崎山荘」展を見た。漱石の書画が出ているんじゃないかと期待したのだが、加賀正太郎宛書簡、京都滞在を中心とした日記帳などが主な展示物だった。絵葉書、原稿、画稿、初版本なども少しあった。加賀正太郎は以前にも簡単に紹介したが、大山崎山荘の主で蘭の栽培で知られていた実業家。

「ロベール・クートラス 僕は小さな黄金の手を探す」展

漱石が大正四年(歿する前年)に京都に滞在したとき、加賀は漱石を未だ建設中だった大山崎山荘へ招いた。そして山荘の命名を依頼したのである。漱石は約束はしたものの名案が浮かばずそのまま打っちゃっておいた。加賀は何度も催促をした(《度々の御催促》と書中にある)。重い腰を上げた漱石は一日つぶして俳書や漢詩集を広げあれかこれかと適当な名前を探したのである。そしてなんと十四もの候補を並べた手紙を加賀に送った。その手紙が展示されていた。大正四年四月二十九日付。ずらずら〜っと候補とその出典などの説明を並べてこう結んである。

まあこんなものですもし気に入つたらどれかお取り下さい気に入らなければ遠慮はいりませんから落第になさいもつといゝ名があるかも知れませんが頭が疲れる丈で厭になるから今回はこれで御免蒙ります 以上

加賀はその手紙を掛物に仕立て箱の蓋の内側にこう書き付けている。

大正四年四月廿九日書翰 山荘名撰主人意に満たず尓今大山崎山荘とす 昭和七年九月十七日 正太郎

せっかくだからどれか選べばよかったのに……と思うのは他人事だからかな。

展示物で良かったのは津田青楓の墨彩の軸である。「漱石先生読書閑居之図」(一九二一)。おそらく漱石山房(早稲田南町)を南画ふうに描いたのであろう。洋画家のタッチを残しながらも文人画の勘所を捉えた佳作である。色調も清々しい。というわけで津田青楓が装幀した漱石の本二冊『明暗』(岩波書店、一九一七年)と『道草』(岩波書店、一九一五年)を取り出してみた。もちろん復刻版です。

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漱石の加賀正太郎宛の書翰はもう一通展示されていた。大正四年四月十八日付。それは東京へ戻ってすぐに出した礼状である。留守中の手紙などの処理がたまっていて山荘の名前まで考える余裕がないというようなことが書かれている。そして山荘にちなんだ俳句をサービスした。

  宝寺の隣に住んで桜哉

宝寺というのは蕪村の俳句に出ていたはずだと漱石は書いているが、山荘の隣にある宝積寺(ここも訪問して和尚と歓談したそうだ)をかけているわけである。山荘の入口のところにこの俳句をあしらった碑が建っている。うっかり誰の手か確認しなかった。少なくとも手紙にしたためられた漱石の字ではない。

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それにしても四月十八日付から二十九日付まで十日ほどである。《度々の御催促》とは加賀もなかなか「いらち」な人物だったか。

by sumus2013 | 2017-04-27 20:42 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

没後35年 文承根 藤野登 倉貫徹

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鄭相和


ART OFFICE OZASA で「没後35年 文承根 藤野登 倉貫徹」展を見る。六〇〜七〇年代にかけての仕事ばかり。当時(こちらは高校生から美大生の頃)は雑多な作家が雑多なことをやっているようにしか写らなかったのだが、五十年を隔てて残ったものを見るとかなり新鮮に思えるから不思議だ。

文承根(藤野登)は三十四歳で早くに歿したにもかかわらず、ひとかどの仕事を成し遂げた感がある。倉貫氏は会場におられて少しお話できた。一九六八年だったかに鴨川の河川敷で現代アートの野外展が行われていたそうで(これもビックリ)、そのときの図録も見せてもらえた。著名になった作家も多く、それがまたその後の作風からは想像もつかないような作品を出品しているのに驚かされた。みんな若かったのだ。

なかに奥田善巳(先年、兵庫県立美術館で大規模な作品展が開かれた)のロープとレンガ(?)を芝生の上に並べただけというような作品写真があって
「奥田さん、こんなの作ってたんですね!」
と画廊主のOZASA氏に向って驚いてみせた。
「奥田善巳さんと言えば、京都で展覧会がありましたよね」
「ひょっとしてトアロード画廊ですか? 京都に開店したというのは知ってましたけど、こっちに移ったんですかね」
「いえ、神戸の方はそのままで、たしかお客さんがトアロード画廊京都として開いたんだと聞きましたけど」
「画廊がトアロードにあったころにはよく通ってましたよ(神戸の震災後元町へ移転)。奥田さんや奥さんの木下佳通代さんなんかと同席したことも何度もありました。そう言えば、鄭相和(CHUNG Sang-Hwa)さんが作品をテーブルの上に広げて画廊主と交渉しているところにも出会ったなあ」
「鄭相和ですか!」
OZASA氏はさっと鄭相和・李禹煥・文承根の三人展の図録を取り出して見せてくれる。鄭氏は当時からパリに在住しており、たまたま帰国していたときだったのだろう。トアロードの主が「君も一枚どうや」ということで頒けてもらったのが上の作品だった。木版画二色摺り、エディションは10。

トアロード画廊へは毎月のように京都から通っていた時期で、本当にいろいろな作家に出会ったし様々な作品に接することができた。
「トアロード画廊で個展をさせてもらったこともあります」
こう言うとさすがにOZASA氏はビックリ(というか絶句)していた。何しろベタな写実なもので。

by sumus2013 | 2017-04-26 21:34 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

編集者の生きた空間

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高橋輝次『編集者の生きた空間ーー東京・神戸の文学史探検』(論創社、二〇一七年五月二五日)が届いた。高橋さんの衰えない探求欲には脱帽するほかない。その熱意がきっと版元を動かすのだろう。編集者や小出版社を軸としたひときわ渋い内容であるにもかかわらず、近年も着々と刊行を重ねておられる。昨今の出版状勢から見て、これは容易な仕業ではなかろう。

『誤植文学アンソロジー 校正者のいる風景』(論創社、二〇一五年)

『書斎の宇宙 文学者の愛した机と文具たち』(ちくま文庫、二〇一三年)

『ぼくの創元社覚え書』(龜鳴屋、二〇一三年)

『増補版 誤植読本』(ちくま文庫、二〇一三年)

『ぼくの古本探検記』(大散歩通信社、二〇一一年)

毎度ながら、本書も、芋づる式にざまざまな古書をたぐりよせる手際に驚きながら読み進める愉しみを味わえる。研究発表だとか論文だとか、そういった贅肉を削ぎ落した文体とはほど遠い、行き当たりばったりの、ボヤキ連続の、しかし気付いてみると何かガッチリと対象をつかんでしまっている、というような文章にあきれながら感心させられてしまうのだ。

メモ代わりにざっと目次から人名や固有名詞を拾っておく。

第一部 編集部の豊饒なる空間
砂子屋書房/第三次「三田文学」:山川方夫/河出書房:氏野博光/河出書房:小石原昭と瀬沼茂樹

第二部 編集者の喜怒哀楽
彌生書房:津曲篤子/偕成社:相原法則/創元社:東秀三/著者の怒りにふれる編集者の困惑/中央公論社:和田恒と杉本秀太郎/中央公論社:宮脇俊三

第三部 神戸文芸史探索
エディション・カイエ:阪本周三/「航海表」:藤本義一、竹中郁、海尻巌/「少年」:林喜芳、青山順三、佃留雄/犬飼武、木村栄次、中村為治/中村為治、照山顕人/大橋毅彦「一九二〇年代の関西学院文学的環境の眺望」/林五和夫、妹尾河童、青木重雄、及川英雄

第四部 知られざる古本との出逢い
橋本実俊『街頭の春』/鴨居羊子、田能千世子、港野喜代子/小寺正三、加藤とみ子/布施徳馬『書物のある片隅』

なかではエディション・カイエの阪本周三を求めて旅をする(もちろん本をめぐる旅)話は読み応え充分。小生のよく知っている人や雑誌が何人も登場していて、そういう意味では、自分自身が生きてきた時間がすでに歴史になりつつあるのだなあと感じさせられてしまう(年を食ったということです)。小生自身は阪本周三さんを存じ上げないしエディション・カイエの本もほとんど持っていないが、かつてかろうじて二度ほどブログに取り上げている。

『ペルレス』第一号(エディション・カイエ、一九八七年一〇月一日)

黒瀬勝巳遺稿詩集『白の記憶』(エディション・カイエ、一九八六年)

高橋氏の描写から少し引用する。

一九九八年、氏[阪本周三]は三度目の上京をし、阿佐ケ谷でバー〈ワイルド・サイド〉を開店。店名はルー・リードの曲から取られたという。その店は、佐藤一成氏が阪本氏の詩から借りた一節によれば、氏が名づけた「東京ブルックリン(阿佐ケ谷)」の駅近く、「木造モルタル二階建て十三階段をのぼったつきあたり」にあった。

大西隆志氏が二〇〇〇年十一月に上京して最後に店を訪ねたとき、阪本氏は詩集を出そうと思っている、と語ったという。それ以前にも、詩の同人誌をまた出そうと二人でよく話していたそうだ。とすれば、二冊目に構想中の詩集が未刊に終ったわけで、残念でならない。
 二〇〇一年一月二十日、阿佐谷のアパートで脳内出血で死去する。四十八歳、あまりにも早い突然の死であった。
 大西氏は阪本氏の風貌について、アンジェイ・ワイダ監督の「灰とダイヤモンド」に出てくるマチェックのように「優しさと激しさを内に秘めていたからか、阪本クンはサングラスが似合っていた。見た目とは違った表情をサングラスと微笑で隠していたのかもしれない。

あるいは、例によって長文の註記にはこうもある。

阪本周三氏についてまとめた原稿のことを一寸もらしたところ、思いがけなく伊原氏も昔、阪本氏とつきあいがあり、尊敬していた編集者だったと懐かしい口調で聞かされ、驚いた。神戸時代、阪本氏は京都の同朋舎の仕事も請負っていて、忙しいとき、伊原氏も手伝っていたという。東京のバーにも訪れたことがあるそうだ。電話なのでそれ以上の詳しい話は伺えず残念だったが、編集者同士のつながりの妙をここでも感じたものである。

伊原氏はもちろん小生の作品集(画文集)を出してくれた編集者。また同朋舎は一時期しゃにむに出版を行っていた時期がある。小生でさえも、いつだったか、東京からやって来たある編集者に連れられて編集会議のようなものに加えられたことがあった。ただその企画は通らなかったのか、どうだったのか、小生が参加したのは一度きりだった。まさに同じ時間と空間を生きていた感を強くする。


by sumus2013 | 2017-04-25 20:47 | おすすめ本棚 | Comments(0)

東中野

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『机』第九巻第二号(紀伊國屋書店、一九五八年二月一日、表紙題字=伊藤憲治、表紙デザイン並カット=北園克衛)。編集人も北園克衛である。

少し前に以下のような問い合わせを頂戴していた。

《『喫茶店の時代』 183頁、「女たちの東中野」の見出しで、――

  震災後の中央線開発はまず新宿周辺から始まり、その延長として東中野にはいち早く喫茶店が誕生した。東口に 「ミモザ」「ユーカリ」(「ゆうかり」とも)。中央口に「暫」、線路の右手裏には「夜」があった。

と記述しておられます。これにつき、3件、ご示教をお願い申し上げます。

① 「夜」という店が存在したことは何を典拠とされたものでしょうか。「夜」に言及した文献を探しております。

② 「線路の右手裏」はどちらの方向に向かってのことでしょうか。現在の東京駅(東)、高尾駅(西)方面の、いずれでしょうか。

③ 「中央口」とはどこを指しているのでしょうか。東中野の「中央口」という呼称は珍しいもので、管見では、往時の資料に未確認です。現在の東口、西口の位置関係で具体的に知りたく思います。》

この質問メールをいただいたとき手許に喫茶資料を置いていなかった。なにしろ喫茶店を調べていたのは十五年以上前のことなので、多くの関連書籍は処分し、めぼしい資料も郷里の押入に片付けてしまっていた。つい先日の帰郷で、この質問については失念していたにもかかわらず、たまたま整理中にこの『机』を見つけたのはラッキーだった。

①は上記『机』第九巻第二号「特集喫茶店」の巻頭、井上誠「喫茶店の変遷」である(第二〜五頁)。該当する記述は第四頁に出ている。

②と③については原文をそのまま引用する。『喫茶店の時代』では要約しつつ言い換えてある。関東大震災後から昭和に移る時期。

中央線の入口になる東中野には逸早く喫茶店が出来ていた。駅の東口にはミモザとユーカリ。中央には暫[しばらく]。また線路の右手の裏には夜があった。まだ見すぼらしい林芙美子が、同じような連れと一緒にその夜に来ていたが、間もなくつぶれた。ユーカリのヨッペは東京不良少女の名流で、そこには銀座の老雄雨雀や、北原白秋や大木惇夫が来ていた。また直ぐ卓をひっくり返すので怕がられた畑山という中央線の顔や、ピストン堀口などもいた。

「中央口」と書いたのは誤りで「中央」としてあるだけだった。訂正しておく。「線路の右手」はどちらなのか? これは井上の記述だけでは判断しかねる。内容が面白いのでもう少し引用しておこう。

小滝橋に少し入るとグローリーには戦旗の上野壮夫達、ナップがいた。第百銀行の頭取の養子の野々村恒夫と壮夫とは、友達でそのこ幸ちゃんを張り合っていたが、飲むといよいよ上機嫌になったり泣き出したりする幸ちゃんは、上手に二人を手玉に取っていた。
 やがて東中野にはざくろやノンシャランが出来た。詩王の余波に乗じた詩洋の同人達が次々に開いた店で、ざくろには阿佐谷から井伏鱒二や久野豊彦が来るかと思うと、辻潤の一派がいたりした。まだ東大の学生であった中村地平は酔うと冬でも裸になって防腐剤を塗った屋内の柱を攀じ登り、忍術使のように逆様になって天井の梁を伝わったりした。ルネには小林秀雄の別れた妻君がよく来ていたた[ママ]。「たかりや姫」と言われていたが、誰でも悦んで飲ませた。哀れな者を慰わる気持を、誰しも持っていたのであった。

小林秀雄の別れた妻君」というのは長谷川泰子のことか。結婚はしていなかったはずだ。

by sumus2013 | 2017-04-24 20:56 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

曖昧な物言い

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ジャン・ポーラン(Jean Paulhan)『les incertitudes du langage』(idée nrf, 1970)を読んでいるのだが(本書には邦訳がないようなので仮に「曖昧な物言い」としておいた。直訳調なら「言語の不確実さ」)、そのなかに現今のきな臭い情況を皮肉るのにぴったりの発言があった。引用しないではいられない。下手な訳文はお許しを。このインタヴューは一九五二年にラジオ・フランセーズで放送された。

聞き手のロベール・マレ(Robert Mallet)が「第三次世界大戦についてどう思われますか?」と尋ねると、ポーランは次のように答えている。彼は基本的に戦争はそれまでの二度のように(第一次と第二次大戦を指す)不条理には勃発しないと考えている。

《ここ何年か、皆が皆、そんなことを言っていますね。でも私はそうは思いません。理由はこうです。
 子供の頃、近所のふたりの男が路上で話しているのを見かけました。一人はもう一人に向って言いました。
「おまえさんは、あれやこれやをやっただろう。下司野郎(mufle)だな」
もう一人は答えました。
「下劣(salaud)なのはおまえさんだよ」
私は思いました、二人はすぐにも決闘するんじゃないかと。それをどうやって見物しようかと馬鹿みたいなことを考えたんです。八日後、二人はまた出会いました。
「おやおや、この哀れな野郎(ce triste personnage)が」
と一人は言いました。
「なんじゃ、アホ(petit imbécile)が」
ともう一人は言いました。さらに十五日後。またもや二人は罵り合いました。
「ばあ〜か(Idiot)!」
「鼻持ちならん奴め!(Paltoquet)」
その頃には鼻持ちならん奴(paltoquet)などと言っていたんですな。一週間が経つと、また同じことが起こりました。私は、あっけにとられたんです。そしてやっと分りました。あの人たちは絶対に殴り合いの喧嘩はしないなと。どうしてなら、毎日のように喧嘩してるからです。それでまったく満足なんですよ。
 ある大使が不注意にも別のある大使の足を踏みつけたという理由で宣戦布告する、今はもう、そういう時代じゃないでしょう。》

非常識で理屈に合わない命令(ordre d'absurdités et de mauvais raisonnements)によって戦争は起きないだろう……そうジャン・ポーランは語っているわけだが、さてそれから六十年以上が経って、必ずしもそうとは言えないような事態が迫っている。何しろ salaud、idiot、paltoquet たちを誰もがその頭にいただいている時代なんだから(人ごとじゃない)。

今宵はとにかくポーランのような常識を多くのフランス人がまだ持ち合わせていることを祈りたい。


by sumus2013 | 2017-04-23 21:43 | 古書日録 | Comments(2)

地獄の季節 コラージュ展

無事終了いたしました。みなさまに御礼申し上げます。

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*会期中のお休みは
9日(日)、15日(土)〜18日(火)連休、23日(日)です


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by sumus2013 | 2017-04-23 09:38 | 画家=林哲夫 | Comments(8)

ぽかんのつどい冊子

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「ぽかんのつどい」のために作られた冊子。200円(恵文社一乗寺店などで入手できると思います)。中野もえぎ、服部滋、林哲夫、外村彰、福田和美、佐久間文子、佐藤靖、佐藤和美、澤村潤一郎、井上有紀、岩阪恵子、内堀弘、涸沢純平、能邨陽子、出海博史、山田稔、秋葉直哉、郷田貴子、扉野良人、真治彩……それぞれがぽかんの読者にすすめる五冊を選び短いコメントを添えている。「ぽかんの読者にすすめる」というところがポイントである。各人が気配りをし(しないで)書いているのが面白い。知らない本がたくさんあって楽しいな。

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ちょっと讃岐へ戻っていた。書棚を整理していたらこんな雑誌が出てきた。『海燕』第九巻第四号(福武書店、一九九〇年四月一日、表紙画=国吉康雄、表紙|目次|本文構成|=菊地信義)。特集が「文芸雑誌と私」。そこで山田稔さんがこう書いておられる。「「ちとせ」の一夜」。太字のところ、原文は傍点。

《京都の四条畷を下った西側に「ちとせ」という酒場があった。今から三十年ほど前の雨の日の夕方、私は河出書房の坂本一亀氏に会いにその店に足を運んだ。坂本氏の「日記」(「『文藝』復刊まで」)によるとそれは一九六一年六月二十七日のことである。坂本氏は「文藝」復刊に備えて新しい書き手を発掘すべく、京阪地方にのりこんで来たのであった。
 「ちとせ」には私のほかに多田道太郎、高橋和巳、杉本秀太郎、沢田閏の四名が集った。当時の「VIKING」の同人または会員のうちの大学教師組である。》

《その夜どんな話が出たかこまかいことは忘れたが、ひとつ憶えているのは、伝統ある「文藝」復刊の意気ごみに燃えて「小説をかいてください!」とかきくどく坂本氏の話はそっちのけにして、私たちが冗談ばかりとばして大いにいちびったことである。こいつら何だ、と彼は憤慨したにちがいない。いや、大いに楽しんだのか。そのことは「日記」には触れていない。このいちびりのなかで高橋和巳だけはまじめに話を聞いていたらしく、坂本氏の目にとまった。彼をこれを機に『悲の器』を完成し「文藝賞」を受賞する。》

《声を大に「小説を、文学を」と熱っぽく叫ばれても、照れくさいというか、アホラシ、という気分になってしまうのだった。いまでもこうした京都の「冷却的」雰囲気は大して変っていないと思う。》

山田さんはほぼこれと同じことを「ぽかんのかい」でも喋ってくださった。高橋和巳の受賞祝賀会に集った教授連中が祝辞で揃いも揃って「小説なんぞ書いていないで研究に身を入れろ」とぶったというのも学都ならではの興味深い逸話であった。山田さんはこれを自身が周囲に与える「冷たさ」についての説明として語られたわけだが、その当否はおくとして、しかしさすが坂本編集長だ、この人選は当を得ている(たしか杉本秀太郎にも高橋和巳の追悼としてこのときのことを書いた文章があったように思う)。

なお「ちとせ」は生田耕作氏の生家で氏の父上が富山から出てきて修業した後、昭和十二年に開店、その後を次いだのが生田誠氏の父上(耕作氏の弟さん)である。少なくとも小生が知っている感じでは居酒屋というのとは少し違う。ただ料理屋というほど敷居が高いわけではなく、その中間くらいの店だった。

現在は誠氏の弟さん(三代目)が経営されており、店舗は小川通り丸太町下ルに移転している。こちらはまさに居酒屋と呼ぶにふさわしい庶民的な店作りだ。

by sumus2013 | 2017-04-22 20:33 | おすすめ本棚 | Comments(0)