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林哲夫の文画な日々2
by sumus2013


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劇画人列伝

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桜井昌一『ぼくは劇画の仕掛人だった下巻 劇画人列伝』(東考社、一九八五年六月一五日)。この本は初めて手にすると思っていたが、かなり昔、漫画のことを調べていた頃に読んだかもしれないと思い当たるふしがあった。まあ、どちらでもよろしい。面白い本である。前半は『ガロ』に連載され、一九七八年にエイブリル・ミュージック(後のCBSソニー出版)から単行本として出る時に後半「劇画人列伝」が書き足された。本書では列伝中の「白土三平」と「さいとうたかを」が省略されている。なお東考社は昭和三十六年に桜井昌一が設立した出版社である。

先日紹介した岡崎武志『気がついたらいつも本ばかり読んでいた』に国分寺の喫茶店「でんえん」が登場していて、そのことについてわずかばかりの思い出話を披露したが、本書の「永島慎二」の章では話題の中心が「でんえん」なので驚いた(というか、このくだりをかすかに昔読んだような気がするのだ)。

永島慎二は昭和三十年に鷹の台の都営住宅へ越して来たそうだ。その後、昭和三十三、四年頃に桜井ら劇画工房の連中の住んでいる国分寺へ移った。

《前にも書いたことだが、喫茶店「でんえん」の仕事を手伝っていた美人をヒモにしてしまい、自分の妻にしてしまうという悪業をしたのはこのころだった。「でんえん」は当時の我々の溜まり場で、その時分の劇画工房の連中の作品を見ると、誰もが必ず「でんえん」の看板のある建物を何度か描いているほどである。誰もが毎日、一度は通った。「でんえん」という文字は、劇画工房の一つのシンボルであった。
 永島は、ひどいときには、一日に二度も三度もこの「でんえん」に足を運んだ。美人に会いたい一念であった。しかし、いくらお気に入りだといっても、用もないのにいつも一人で顔を出すというわけにはいかなかった。そこで、人の顔を見るとだれかれの見境なく「お茶を飲もう」といってさそった。劇画工房の仲間たちは、そんな彼の気持ちを見抜いていて、永島におごらせるなら「でんえん」でとやっていた。ぼくたちも「でんえん」の美人にはのぼせあがっていたが、衆をたのんでたかをくくっていた。
 結局、永島はトンビが油あげをさらうように美人を引っさらっていってしまったが、そのときには、ぼくはあっけにとられたものだ。》

国分寺時代には桜井はさほど永島とは親しくなかった。東考社を興してから意識的に付き合うようになり、真崎守の紹介で阿佐ヶ谷の永島宅へ初めて原稿をもらいに出かけた。

《こうした事情のもとで、ぼくは阿佐谷の永島の家を訪ねていった。彼は気持ちよく迎えてくれた。
 部屋にはいると「あら桜井さん」と奥さんにいきなり声をかけられたが、この声の主が、かの「でんえん」の美人であったことを、ぼくはうっかり忘れていた。永島が彼女と結婚していたことは知っているのだから、当然彼女が家にいるであろうことは頭にあっていいはずなのだが、人間はこういう忘れかたをするときもあるものらしい。
 彼女は椅子に座るようにいってくれたが、ぼくは、どぎまぎしていたのだろうか、ボーリングのピンをさかさまにしたような籐で編んだ椅子らしきものに座った。とたんに彼女はふきだして「それはゴミ入れですよ」といった。永島は顔面神経痛にかかっていて、苦しそうに顔をしかめていたが、ぼくにはやさしい声で愛想よく応接してくれた。》

当時まだ永島は虫プロに務めており新作はなかった。このときにもらった原稿は旧稿『殺し屋人別帳』だったが、それは圧倒的に売れたという。そのすぐ後に永島は虫プロを退社し漫画雑誌に描くようになった。

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もうひとつ面白いのは桜井が永島を将棋で負かし、その数ヶ月後に長井勝一宅で復讐されてしまう話。

《長井社長宅に現れた永島は、ぼくの顔を見ると早速に将棋の復讐戦にとりかかった。酒は、ほとんど飲まなかった。永島の棋風は熟考するほうである。ぼくは誰よりも早く指すので、時間をもてあました。長井社長も将棋は好きで、テレビの将棋番組にもチャンネルを合わすほどである。真剣な表情で盤面に見入るので、話をすることもできなかった。二番指したが二番ともぼくが負けた。永島は以前よりも、たしかに強くなっていた。それでも長井社長は、「激戦だった」とその内容をいっていたし、ぼくも酔っぱらっていなければ、と残念だった。
 その日、夜おそくなって永島と二人で帰路についた。阿佐谷の駅に向かいながらマンガのことを話しあった。》

私事ながら、永島さんの阿佐ヶ谷のお宅には一度だけお邪魔したことがある。美人の奥様にもお会いしている。永島さんと将棋も指したことがある(これは奈良の武蔵美寮でのこと)。棋力はそれほどでもなかったが、たしかに真摯に考えるタイプであった。永島さんが亡くなられたのは二〇〇五年六月というからもう十二年もたってしまったのである……。


by sumus2013 | 2017-01-31 20:51 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

長崎夜話草

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西川如見『町人嚢・百姓嚢・長崎夜話草』(岩波文庫、一九四三年九月一〇日二刷)。「長崎夜話草」はじつに面白い。長崎における外国船との交流史が語られているのだが、徳川時代を通じて昨今の状況とはまた別の意味でスリルに満ちた外国との折衝が絶えず続いていたことを知った。

長崎へ黒船が初めて入津したのは元亀元年(一五七〇)、それ以来毎年のように来津しそれなりに互に繁栄を享受していた。しかしおよそ五十年を経て、島原の乱(寛永十四;一六三六)が勃発、鎮圧にてこずった幕府は叛乱をバックアップしていたポルトガル船を来航禁止とし(寛永十六;一六三九)オランダ人を出島に移した(寛永十八;一六四一)。

寛永十二年(一六三五)には《日本異国渡海の船御停止》があった。

《長崎より御免許の御朱印給はりて、年々異国へ渡海せし船も留りぬ。長崎より渡海の船五艘は、末次氏二艘、舟本氏一艘、糸屋一艘なり。泉州堺・伊予屋船一艘、京都船三艘は、茶屋角倉伏見屋なり。三所の船合せて九艘の外、他所よりは渡海なし。いづれも皆長崎にて唐船造りの大船に作りて皆長崎の津より出帆す。此時も大明には往事なし。東京[とんきん]・交趾[かうち]・塔伽沙古[たかさご]・呂宋[ろそん]・亜媽港[あまかわ]・柬埔寨[かばうちや]・暹羅[しやむ]等の外国へ往来せしなり。》

中国(明)では倭寇以来日本船は禁止されていたため大内氏の勘合船の外には中国の港へ入る船はなかった。渡海禁止の次には蛮人(ポルトガル人)の子孫二百八十七人を阿媽港に追放とした。寛永十三年(一六三六)。

《たとえば母日本の種ねにて父蛮人の血脈なれば勿論なり。父日本にて母蛮人の血脈なれば、即母のみつかはして子は留む。或は父放されて子は留り、或は子放たれて母とゞまり、母放されて子留る。兄行て弟留り、弟行て兄止る。夫妻相分れ、姉妹相離るゝありさま、町[繰返記号]戸々の悲しみ、いかなるむくつけきあら夷も袖しぼらぬはなかりし。》

寛永十六年(一六三九)さらに続いて平戸・長崎に済んでいた紅毛血脈のともがら十一人を咬𠺕吧[じやがたら]へ追放にした。

《其中に、長崎何れの町の女人、父は紅毛人にて、母方のよしみあるが本に養はれ居たるに、此年十四歳なるを咬𠺕吧へながされたり。此女、顔かたちいとうるはしく、手習ひ常に草紙などならいて、さかしきこゝろばへなりしが、かゝる所に放たれつゝ、何のゆかりもなき程にて、明くれ故郷へ帰らん事を神に仏に祈りつゝ年月を送りしが、かくてひとりありはてぬべきよすがなければ、命の露のよるべをもとめて、もろこし人の妻となりてぞありける。此国には唐土人も多く居住して、又年ごとに日本へ来る唐船もあれば、其便に文おこせしもあり。見る人涙おとさぬはなし。》

この時代からハーフの娘はタレント性をもっていたのだなあ。西川如見の家業は鍛冶業・鉄器販売だったそうだが、天文暦数にも通じてその方面の著書は数多い。享保九年(一七二四)歿、七十七歳。ヨーロッパ事情にもそれなりに通じていたことが本書からでもうかがわれるように思う。

日本では移民の追放や不法な侵入を防ぐために「壁」を作る必要はないが(作れないし、不審船の打ち払いさえできかねている)「フード・インク」(2008)というアメリカのドキュメンタリー映画を見ていると、メキシコ国境に壁を建設するにいたったからくりの一面が分ったような気がした。

アメリカでは肉牛を育てるためにコーンだけを食べさせる。そうすれば牛は早く大きく育つ。そして大量の肉牛を育てるため大量に生産したコーンを今度は国内だけでなく外国、とくにコーン消費国であるメキシコへ輸出する。そのために関税を取り払ったのである。するとメキシコ国内のコーン栽培は安価な米国産によって淘汰されてしまい多数のコーン農民が失業した。彼らは安い労働力としてアメリカ本土へ出稼ぎに行くしか道はなかった……一石二鳥とはこのことだが、大国(大企業)のエゴもいいところである。それにはおまけまであった。コーンだけを食べさせた牛の腸内で大腸菌に突然変異が生じたのである。それが例の人にも害をおよぼす大腸菌O-157なのだった。トランプは先人がでっちあげたこのシステムを昔の状態に戻そうとしている。ある意味、あんたは偉い…かも。

by sumus2013 | 2017-01-29 21:09 | 古書日録 | Comments(0)

美というもの

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『太陽』No.382「瀧口修造のミクロコスモス」(1993)より


土渕信彦氏によるギャラリートーク「瀧口修造講演「美というもの」」に参加した。目玉は瀧口修造が一九六二年一〇月八日に富山高等学校講堂で行った講演「美というもの」の音源公開。加えて土渕氏による瀧口の小伝およびその講演の経緯などについての解説があった。

一九五八年、欧州旅行から戻った頃から瀧口は執筆活動を止め作品制作に専念するようになっていた。元来がアーティスト志望だったようなところもあり、六十を前にして自分がもっともやりたいことをやる、というふうに人生を変えたかのようだ。一九七九年に歿するまでおよそ二十年間、作品制作やオブジェの蒐集などに熱中したと言っていいだろう。

富山高等学校は母校(旧制富山県立富山中学校)である。そのころ講演はすべて断っていたにもかかわらず、これは引き受けた(同日、富山市で行われた全国造型教育連盟でも講演している)。四十年ぶりの母校訪問ということに大きな意味があったらしい。その後暫くしてかの自筆年譜をしたためたのだという。

講演の内容も青春時代を語る半自伝のようなものであった。話し振りがすこぶる自然で、講演に慣れない感じが出ていたが、その人柄の素晴らしさも同時に感じさせるものだった。高校生を前にしてということもあるのだろう。非常に分りやすい口調で「美というもの」などという大げさな題名をつけたが、それはどんな小さなものでもいい、自分が気持ちを動かされたものが美につながるというようなことを話した。ただ、それも最後の方にごく短い時間それに触れたたけで、けっして押し付けがましいものではなく、先輩として進路を摸索する時期にある後輩たちに送る言葉、というようなかっこうであった。

途中で、自分の詩集についてごく軽く触れ、本にするため自作詩の切抜きなどを渡した「若い本屋さんがそれを失くしてしまって」実現しなかった、と。若い本屋さん、すなわちボン書店の鳥羽茂である。肉声を聞いて改めて瀧口ファンになったしだい。

次の土曜日にも土渕氏によるギャラリートーク「瀧口修造とマルセル・デュシャン」が予定されているので、ご興味のある方はぜひ。


マルセル・デュシャン生誕130年記念「瀧口修造・岡崎和郎二人展」
2017年1月7日(土)~2月12日(日)

ART OFFICE OZASA INC.
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http://www.ozasahayashi.com

by sumus2013 | 2017-01-28 20:18 | もよおしいろいろ | Comments(0)

集古

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『集古』己巳[つちのとみ]第二号(集古会、一九二九年二月二八日)。編集発行人=木村捨三(東京市外淀橋町柏木九百九十番地)。あとがきは竹清こと三村清三郎。

森銑三は五弓久文『古今著述標目』という写本について書いている。そのなかに讃岐の十河節堂という篆刻家の紹介が引用されていて興味深いものがあった。ただ、ここでは黒井恕堂という人の「日本の古語に就いて」の内容をざっと紹介しておきたい。日本語における梵語(サンスクリット語)の影響について考察している。

《古事記や書記[ママ]に現はれて居る古代の言語が多く梵語と一致して居る点が仲々多いので、ます[繰返記号]研究の歩を進めてみると驚くほどある。然るに日本では国学者でも或は考古家でも梵語の知識を持つものが居ないので少しも説明して居ない。》

と慨嘆しつつ実例を挙げている。その単語だけ拾っておく。

注連縄(シメナハ)
シメ『或る範囲に限つて境界を立てること』
ナハ『凱旋して歓び勇むこと』

案山子(カゝシ)=山田之曾富謄(ヤマダノソボト)
ヤマ『道』
ダノ『辺』
ソホド『詐欺を巧むもの』
すなわち『道のほとりの詐欺者』

八色雷公(ヤクサノイカヅチ)
ヤクシヤ『霊魂』
イカシヤチ『景、姿』
すなわち『霊魂の姿』

神籬(ヒモロキ)
ヒモロギ『寒い茅屋、洞穴』

鍛冶(カヌチ)
カーナチ『鉄』

鐘之矛(カナキ)
サーナキ『鐘の舌、槍』

倉(クラ)
ガラ『穀倉』

枕(マクラ)
マカラ『頭被ひ、頭飾り』

更紗(サラサ)
サラサ『美麗』

一読、おいおいと思ったが(なにしろ発音の差異を無視しているので)梵語が分らない者には何とも判断のしようがない。ちょっと検索してみると現代でも古事記と梵語を結びつける書物はあるようだ。ただしそれをトンデモ本と一蹴しているサイトもある。

梵語俗説(3)・二宮陸雄の古事記梵語説

《国語学や中国語の音韻学上の検討を一切抜きで、「カム」=kama(ヴィシュヌ)……などとしちゃっていいの?》と書かれていて、やっぱりそうだよね、と同感したしだい。

by sumus2013 | 2017-01-27 20:50 | 古書日録 | Comments(0)

ランボー若者の歓び

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Rimbaud, Arthur
PLAISIRS DU JEUNE ÂGE. 7 DESSINS MANUSCRITS AUTOGRAPHES.
[1865.]
Estimate 100,000 — 150,000 EUR


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Rimbaud, Arthur
LA RIVIERE DE CASSIS. [PEUT-ÊTRE JUIN OU DÉBUT JUILLET 1872].
POÈME AUTOGRAPHE.
Estimate 200,000 — 300,000 EUR


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Rimbaud, Arthur
[REÇU DU HARAR ADRESSÉ À ARMAND SAVOURÉ,
POUR LE COMPTE DU ROI MÉNÉLIK II].
HARAR, 23 JUIN 1889.
Estimate 30,000 — 40,000 EUR



牛津先生よりお教えいただいた、二月八日に行われるサザビーズ・パリの書籍・自筆物(LIVRES ET MANUSCRITS)オークションに出品されているランボーのカリカチュアや詩の原稿、手紙より三点。lot.86,88,89


カリカチュアは十歳のときのノートの一葉らしい。裏面にも描かれていて七図あるそうだ。右下「農業」のところにランボーのサインが見える。しかし、さすがのエスティメートである。


by sumus2013 | 2017-01-26 20:51 | 古書日録 | Comments(0)

書痴銘々伝

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高橋邦太郎『古通豆本59 書痴銘々伝』(日本古書通信社、一九八三年五月二〇日)。まずは著者が自身について語った「乱雑も秩序」から一部引用してみる。

《ぼくは本が好きで、少し集めているが、美本、希少本などを買い漁る者ではない。そんな金もなければヒマもないからである。
 関東大震災で、若干の本を焼いてしまったから、しばらく買うことをやめていたが、フランス関係のものは入手しなければならないので、なけなしの金で少しずつ集めたが、本箱を買うのを倹約して、茶箱でガマンしたり、じかに積み上げたりしていたら、ついに狭くて古い家は本の重みで傾きだした。しかし、家を直す費用も惜しいから曲がったままにしてうっちゃって置いている。》

《書斎はもちろん、玄関、その脇の二畳、うら手の半坪の書庫に入り切らない本が畳の上に小汚く積んであり、他人に手をつけられるとわからなくなるから、じぶんで整理することにはしているが、一度、整理するつもりでかかってもすぐ、また、手近かなやつを読み出すと、もうそれで万事終ってしまう。
 つまり、前と同じ乱雑さに戻ってしまうのである。といったところで自分の本だからどこに何があるかは見当はついている。無秩序ながらじぶん自身の秩序がある。
 他人に見せて自慢するほどのもののありようはないが、幕末から明治初年にかけての日本で刊行されたフランス語学習書は大半集めえた。》

《このほか、フランスに関するもの、とくにパリ関係のものは二回の滞仏及びインドシナ・サイゴン放送局長在勤との間を含めて若干集められた。とりわけ、地図は十八世紀半ばのゴンクールの美術品売立カタログが手に入った。しかも、パリでは相当さがしたがとうとう買えなかったものが、いながらに求められたのだから、朝日(四月二十四日号朝刊)に八木福次郎さんが書いているように古本では東京は、ロンドン、パリ、ハーグなどとくらべても優るとも劣ることはないのはたしかである。(昭和三七・五)》

標題作の「書痴銘々伝」では渡辺一夫、植草甚一、相磯凌霜について語られている。それぞれの描写からさわりだけを引き写しておこう。まずは渡辺一夫(渡邊一夫)。学生時代から知っていた。

《卒業後、余り会ったことはなかったが、巴里遊学も、時を同じくしたので数回かの地でも、ヒョッコリ出会ったことがある。その時いつでも話は、巴里で掘り出した珍本についてであった。勿論、語り手は一夫君であって、こちらはいつも聞き手であった。専門とするラブレー関係は申すに及ばず、民俗学その他百般にわたったもので、古本屋についてもドロスその他数十軒の所在、その特色などで、まことに書を好むこと色に於けるとひとしく、ただただ私はその熱心さに言葉もなく恐れ入っているばかりだった。》

植草甚一についてはこうである。文中、鳥打帽とあるのが注目すべきところか。

《最近では、平河町の新宅(といっても、本ばかり買っている彼にお金のある筈はないので、姉さんの建てた家)に収って、好きなウイスキーでもチビチビなめながら読書三昧に耽っているのが彼の天国なのであろう。町の中で出会う彼のいでたちは、余り立派でない背広に、小さな鳥打帽をかぶり、身体の二倍もあろうと思われるほど大きなカバンを下げている。このカバンの中が、また大変で、近頃、手に入れた本や、雑誌がギッシリ詰めこまれ、これを一冊一冊出してみせるのである。
「いかにして、この本のあることを知ったか」
「いかに、この本を手に入れるのに苦心したか」
「どこが面白いか」
「著者の経歴は、こうである」
 等々等々、実に事こまかに語り出す彼の顔はいかに喜びに輝いていることであるか。》

《彼に聞けば、東京、横浜の洋書を取扱う古本屋は、どんなへんぴなところでも立ち所に教えてくれるし、どの棚にどんな本があるかを告げてくれる便利千万な生字引なのである。
 その上、江戸ッ子で、他人の困っているのは見過ごせないたちだから「こんな本がなくて参った」と聞くと、その場では黙ってきいているが、いつか手に入れて姿を現し「これがありました」とさりげなく渡して去るのが道楽である。》

そして晩年の永井荷風と親しく交わりその日記にも随所に登場している相磯凌霜について。幕末の書画尺牘を多く蒐集していた。

《抱一の句集『屠龍の技』を先生が借覧したのもまた相磯さんである。
 わたくしは、旧新嘗祭の夜、池上の邸に参上してこの一巻を見せて貰ったが、いささかいたんだ冊子は、某製本師によって巧みに修覆され、ありし日の俤をしのばせるのに十分であったが、鵬斎の序文は荷風先生が特に写したもので、題また先生の筆になる。世の好事家をして垂涎さしむべき逸品である。
 更に相磯さんはこんなものだけではない。実に各種各様で、文芸倶楽部を創刊号から終刊号まで、ほとんどすべてを持っておられる。
 そうかと思うと、荷風先生の「為永春水」の稿本も秘蔵するところとなっている。
 わたくしは、ただ、本が好きであるだけ、もしくは、沢山本を買いためて置くだけでは書痴とはいえないーーと書いた。
 この点、無用の書をあつめ、これを愛すること人に超えてこそ、この資格があると考える。こう考えて来ると、凌霜さんは、どうしても銘々伝に欠くことの出来ない人になって来る。》

高橋邦太郎はこの本の出た翌年、一九八四年二月二十五日に歿している。

by sumus2013 | 2017-01-25 20:48 | 古書日録 | Comments(0)

錦渓集初篇再版

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中桐絢海編著『錦渓集寒霞渓記勝初編』(発行所=紅雲亭、発行者=木村弥助)の初版を昨年の百万遍で入手した。

中桐星岳『錦渓集 寒霞渓記勝初篇』(紅雲亭、一八八九年)

中桐絢海については以前かなり詳しくその著書を読み解いたので、記憶されている方もおられるかもしれない。讃岐の医師でいわゆる文化人と言っていいだろう。

中桐絢海『観楓紀行』

その後ヤフオクに『錦渓集』の再版本が出ていると某氏よりお教えいただき、さっそく入札すると競合する者もなく無事スタート価格で入手できた。綴じ糸が少しゆるんでいる他は良い状態である。上がその表紙。以下は扉、挿絵、奥付。

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そして初版の『錦渓集』。状態は悪いが、なんとか本文は無事である。再版では木版摺りの部分以外は活字を組み直してあるようだ。初版が明治二十二年十一月二日で再版が明治二十七年七月二十日ということは五年近くの隔たりがあるわけだから、活版直刷りなら当然組み直しということなる。

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内容は小豆島の紅葉で有名な寒霞渓について言及された漢詩や漢文を集めたアンソロジー。明治二年に東京朝野新聞の成島柳北がこの地を訪れて絶賛したところから一躍内外にその名勝ぶりが知られるようになり、次々と有名人が訪ねてくるようになった、というようなことらしい。

巻頭の揮毫「錦渓集」は梧楼と署名されている。おそらく三浦梧楼であろう。萩出身の軍人で、明治十九年より二十五年まで学習院院長だった。つづいて成斎書の「秀気一所盤磚」、成斎は歴史学者の重野安繹か。寒霞渓を描いた挿絵「神懸真景」は東讃奚山仲陳年という署名があるが、この人物については不明。さらに王治本の揮毫「模水範山」、王は明治十年に来日し漢詩を通じて多くの日本人と交わった。そして序文(述)は六石片山達、高松藩儒であった片山恬斎の子で藩校講道館の教授をつとめた。維新後は判事などを経て帰郷、私塾を開いた。序を書くのは弟子の三野知周。次いで中桐星岳の「小引」が来て、ようやく本文が始まる。そこには成島柳北、韓中秋、小野寺鳳谷、岡本黄石、山田梅村……藤澤南岳、江馬天江、長三州ら三十数人の詩文が収められている。跋は藤澤南岳(寒霞渓の名付け親)。中桐星岳の非常な情熱を感じさせる編輯ぶりである。

第二集も出ているようだが、さて入手できるだろうか。


by sumus2013 | 2017-01-24 21:07 | うどん県あれこれ | Comments(0)

向日庵消息・現物

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およそ二年前にこれらのコピーを紹介したのだが、今回は現物を某氏より頂戴した。やはりこの手漉きの紙の質感にはしびれる。

上がすでに紹介した「第二信」。そして次が「第九信」。

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前回は他に第四信も紹介した。今回はそれ以外に「向日庵私版刊行書目録」二種類を加える。

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一枚は昭和十一年三月現在。裏面は『書物』の広告。『書物』にはコブデン・サンダスン『完全な書物』とエリック・ギル『書物』と寿岳文章『装本について』が収められているようだが、その文章より抜粋してみる。

《身近くにあるものほど疎かにされやすい。書物は人間の生活になくてならぬものでありながら、實利をのみめざして作られるためか、作る者からも讀む者からもひどく粗末にされ、従つてひどく醜いものになつてしまつた。》

《書物とはかくあるべきものだとの批評の標準が、著者や出版者や讀者に今少し本格的に理解され自覺されたならば、恰もモリスの事業が今世紀に入つて欧米各國の書物を高め美しくしたやうに、わが國の出版物も工藝的に多少の向上を示すのではなからうか。》

《昨年私は思ひきつて英國の古書肆からコブデン・サンダスンの書物論を購入した。殘るは美しい活字創案鋳造する問題であるが、これは尚數年の労苦を待ち多大の資金を得ずば實現されないであらう。しかも時は猶豫なく過ぎる。私は遂に意を決し、現在あるがままの活字をできるだけ美しく活かすことをせめてもの慰めとし、他は私の理解と愛の及ぶ限り最良の材料を最も質素に用ひて上記の書物を造つた。》

『書物』は二百部印行。本文紙は岩手産の手漉雁皮紙、一番から五十番までが犢皮装本で十二円。五十一番から二百番までが丹念紙装本で五円の頒価である。《著者や出版者や讀者に今少し本格的に理解され》たらと歎くわりにはこれではほとんど誰の目にも触れない単なる趣味本ではなかろうか。

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もう一枚は昭和十一年十二月現在。三月の目録で近刊『絵本ドンキホオテ』と記載されていたのが『絵本どんきほうて』となって刊行を見た。説明文によれば寿岳と親しいボストンの実業家カール・ケラーは「ドン・キホウテ」の蒐集家で、その《お爺さん》を喜ばせるために芹沢銈介によるオリジナルの挿絵を入れた『絵本ドンキホオテ』を製作したという。

《私は早速見本刷をケラーに送つた。さすがのお爺さんもこれには驚嘆し、東洋美術に明るいフォッグ美術館のウォーナア博士に見せたところ、ウォーナアも悉く感心してすばらしい傑作と折紙をつけたので、早く實物をよこせと矢の催促である。書物道から見て古來「ドン・キホウテ」の刊本や挿絵には秀れたものも尠くはないが、この、微塵も洋臭を留めずに和國の武者となりすましたドン・キホウテの繪本こそは、世界のあらゆる「ドン・キホウテ」刊本中の逸物となるであらう。折角の企てゆゑ、原版をフォッグ美術館へ納める前に、ケラーの領會を得て五十部を限り開版し、同好の士に頒つことにした。内外の所望既に多く、豫定の部數はもはや幾らも殘されてゐない。御希望の方は至急申し込んでいただきたい。》

送料共三十円……。今となっては安い買物ではあるが……。


by sumus2013 | 2017-01-23 20:55 | 古書日録 | Comments(2)

ヴァージリア

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「VIRGILIA」(CORIOLANUS Act.5)のエッチングを入手。原画はアレクサンダー・ジョンストン(Alexander Johnston , 1815–1891)。エジンバラ生まれでロンドンのロイヤル・アカデミーで学んだ。歴史画、肖像画を得意としたそうだ。彫版師は「H.Austin」、詳細は不明ながら十九世紀に多くの銅版画を製作していたようである。

独特な階調を出すための点描技法(ハーフトーン)がとにかく凄い。

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「ヴァージリア」はウィリアム・シェイクスピア後期の劇作『コリオレイナス The Tragedy of Coriolanus』に登場するコリオレイナスの貞淑な妻である。『コリオレイナス』は一六〇八年頃執筆と言われ(諸説あり)、生前には上演されたという記録はない。その粗筋をざっと述べておく。

ローマの貴族ケイアス・マーシアスは無敵の将軍だったが、軍務につけない貧民たちに穀物の支給をストップした。その仕打ちに怒った民衆は暴動を起こす。ところがちょうどそのときにヴァルサイ人でマーシアスの仇敵タラス・オーフィディアスの襲撃がありマーシアスは出陣、一騎打ちによって優勢のうちにオーフィディアスを退け、その軍功によってコリオレイナスの称号を得た。

コリオレイナスは母のすすめにより執政官の選挙に出馬するが、就任に反対する民衆の暴動にまたもやみまわれる。彼は民衆の政治への参加に公然と反対し、民衆をののしったため反逆罪でローマから追放になってしまう。そしてこともあろうにオーフィディアスの側についてローマを攻撃してくるのである。

無敵の将軍が敵になってはひとたまりもない。ローマは混乱に陥る。コリオレイナスの母と妻(つまりヴァージリア)や子供らが説得に出かける。母の嘆願に心を動かされたコリオレイナスは独断でローマと和平を結んだ。ところがそれによってオーフィディアスの怒りを買いコリオレイナスは暗殺されてしまうのであった。

ヴァージリアはコリオレイナスの愛妻。血に餓えた義母と違って夫が戦争に出るのを嫌った。しかしその気持ちを表に現さない。十七世紀のシェイクスピア劇の観客にとって彼女は「理想の女性」であったようだ。貞節で、従順で、とくに重要なのは、口数が少ない(silent)こと……。(http://www.shmoop.com/coriolanus/virgilia.html

ジョンストンは十九世紀の人間だからこういう風な顔立ちになるのかもしれないが、なんともその目が大きい……日本の少女漫画に近いものがある。



by sumus2013 | 2017-01-22 17:40 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

文藝と共に

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中島健蔵『文藝と共に』(青木書店、一九四二年九月一五日、装幀=草狗舐骨)。渡邊一夫の装幀本である。あとがきによれば編集も渡邊が行った。

《中島健蔵君が今日出海君の後を追ふやうにして、公事の為南溟へ旅立つた。われらの仲間[ルビ=ノートル・エキープ]の調整と舵手とを一時に失つたやうな気持であるが、雄叫びの声も勇ましく伸び行くわが国の為に、われらの仲間[ルビ=ノートル・エキープ]の者がお役に立つことこそわれ[繰返記号]本来の念願である以上、両君の門出はむしろわれ[繰返記号]の名誉と心得る。》(編輯後記)

編輯はもちろん本書の標題も渡邊が付けた。フランス文学に関する評論、絵画批評、一般の文学問題に関する小論の三つの章立てになっている。ざっと見たところ絵画批評が案外面白い。美術専門の評論家とは違った視点で展覧会などについての感想を述べている。健全な見方だと思う。一例を挙げる。「絵画と共に」の五、紀元二千六百年奉祝美術展覧会のくだり。

《嘗てオリンピック大会が東京で催されるはずであつた時、深田久弥の発言で、その中の一部門であつた芸術競技を拡充し、盛大な芸術祭を行ひたいといふ話があつた。勿論オリンピックと共に流れたが、二千六百年記念の様々の催しの中、芸能際といふものが行はれてゐる。私は心ひそかに、何故それを芸術祭としないかと、不審に思つた一人であつた。》

《第一部は、大きさの制限もあり、いかにもそろつた感じであるが、見ながら私は自分が素人であることをいよいよ深く感じた次第である。といふわけは、何の成心もなく見ながら、結局、安井、梅原両氏の作が一番足を弾きとめたからである。此の二人の画家に感心するといふことは、いはば定跡である。私は、その定跡が破れるか否かを考へながら会場を二巡した。しかし結局、それに屈服するほかなかつた。》

《第二部の日本画と工芸は、その公開初日に見た。何ともいへぬ困惑である。》

《第一部を見た時以上に、私は憂鬱になつて来た。日本画の方は大きさの制限がない。かなり大きな作品がある。然り、驚くべき大きな作品がある。
 横山大観の芸術に対しては私も決して盲目ではないつもりでいる。もつとも大観のものもそれほど多くを見てゐるわけではない。》

《しかし「日出處日本」の前へ来て、私は呆気に取られた。之は何であらう。奉祝の意気は十分過ぎるほど明らかである。しかし、之が絵画であらうか。私は素人として聞きたい。富士の日の出のこの大作は絵画以上の何物かでないとすれば、驚くべき愚作ではないか。これが絵として通用するのか。》

中島は自らの富士山体験を思い出しながら、大観のこの絵のような卑俗な富士の姿はそこには一つもないと断言している。

《これはどういふ間違ひであらうか。奉祝展は、正に此の大作によつて奉祝展らしくなつてゐる。多くの芸術家の祝意を一人で代表して、絵画以上、或は絵画以下のものを作り上げたとでもいふべきであらうか。さうとすれば私の妄評は、失言として取り消さなければなるまい。》

ということでそれはこの絵だったようだ。

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《急につのつて来た歯痛を忍びつつ、薄暮の銀座に出て、個展や小展覧会を三つばかり見た。小品にせよ売り絵にせよ、そこには見馴れた絵画のなつかしさが漂つてゐた。奉祝展に対して、不当にも新しい芸術的探求の成果を求めた私は、はからずも此処で描く喜びのなつかしさを求めてゐたのである。(昭和十五年十二月)》

by sumus2013 | 2017-01-21 20:47 | 古書日録 | Comments(0)