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林哲夫の文画な日々2
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本年もご愛読ありがとうございました。


by sumus2013 | 2016-12-31 21:14 | 古書日録 | Comments(0)

古書彷徨

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青山毅『古書彷徨』(五月書房、一九八九年三月二七日)読了。著者は《一九四〇年、千葉県生まれ。近代文学、書誌学専攻。日本近代文学館、日外アソシエーツ、四国女子大学助教授を歴任。/著書『総てが蒐書に始まる』(1985)、編著『高見順書目』(1969)などの他、『平野謙全集』『小熊秀雄全集』『島尾敏雄全集』『吉行淳之介全集』の書誌、解題などを担当。》(著者略歴より)

書物や資料とともに生きた著者だけに古書好きには深く頷くことの多い内容だと思う。

《一体、私は何冊の蔵書を持っているのであろうか。それは蔵書家の誰もが思うことである。しかし、自分の蔵書を完全に把握している者は、まず皆無であるといってもよいであろう。
 私の場合、家には九十センチ幅の書棚が、約二百六十段ある。徳島へ持って来た資料は、梨函の段ボール百函分丁度であった。梨函に本をいれると、A5判の本が丁度九十センチ分入る。九十センチ分が百函であるから、我が家の書庫には、三百六十段分の資料があったことになる。図書館学的にいえば、一冊の本の平均の厚さは三センチである。ということは一段が三十冊、その三百六十倍であるから、結果は一万八百冊ということになるのであるが、実際に三センチある厚さの本は少ないものである。五ミリに達しない本も多数ある。おそらく、私の蔵書数は、軽く二万冊を越えるであろう。二万冊で済めば、よい方である。》(資料の山)

文芸評論家磯田光一についての回想も興味深い。著者は右文書院に関係していたころ磯田と知り合った。日本近代文学館で編集部に移ったときに磯田の担当になり、自宅を訪ねるようになる。

《磯田氏は、また無類の本好きでもあった。その日、私を氏の家の本のおいてある総ての部屋を案内してくださり、荷風の『腕くらべ』や『墨[サンズイ付]東綺譚』の私家版など、次々と私の前にさし出されるのである。それらの資料が磯田文学の根源となっているのであるが、神田の古本屋さんから磯田氏の蒐集ぶりをきいているだけに、その実物を、それも稀覯本ともいえる書物を次々にさし出される磯田氏の態度は、今になって考えると、それは私にとって感動的なものとなっている。
 その日、磯田氏は手土産として「文学史の鎖国と開国」三十一枚の原稿を、私にくださった。》(磯田光一の本)

また高見順も凄い。

《高見順の所蔵していた資料は、幸いなことに日本近代文学館に寄贈されたので、私はその総てに目を通す機会にめぐまれた。おびただしい数々の古雑誌、その多くはこの『昭和文学盛衰史』のもととなったものである。
 高見順旧蔵書のうち、雑誌だけは氏の生前に文学館に寄贈された。昭和三十九年五月の晴れた日であったが、氏が丁度自宅で療養していた日である。「死の淵より」の校正をしていた日であって、大久保房男氏が訪ずれていた。そういうなかで、私達は美術運送の職員と、一日がかりで高見順旧蔵雑誌二万五千冊を、北鎌倉から上野まで運んだのである。それがもととなって、その年の十一月、国会図書館上野分館に日本近代文学館文庫が開設されたのである。》(高見順『昭和文学盛衰史』)

「岡崎屋書店『発売図書目録』」は明治三十六年発行の出版目録についての紹介。著者はここで古書目録を含む目録の重要性に言及している(初出は『図書新聞」610号、一九八八年九月)。

《公共図書館のどこにいっても、目録類は図書として扱われていないであろう。
 こん日刊行されている新刊目録、あるいは古書目録、そられを一箇所でまとめて公開する機関をつくることは、困難なことであろうか。岡崎屋書店の『発売図書目録』をみながら、ついつい夢を記した次第である。》岡崎屋書店『発売図書目録』)

一箇所でまとめてというのはともかく、昨今では千代田図書館のように古書目録の類を蒐集対象とする図書館は増えているのではないだろうか。

【関連リンク】
四千種集めた古書目録コレクター呉峯とは?

by sumus2013 | 2016-12-31 21:11 | 古書日録 | Comments(0)

粟津則雄コレクション

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『粟津則雄コレクション目録』(練馬区立美術館、二〇一六年一一月一七日、デザイン=竹田麻衣子)を頂戴した。御礼申上げます。二〇一四年、練馬区立美術館に寄贈された粟津コレクションの目録である。粟津則雄の本はかつては何冊か持っていたが、そう、粟津訳『ランボオ全作品集』(駒井哲郎装幀の)も含めて処分してしまい、たぶん一冊もないはずだ。本書のコレクションはフランス文学者らしく渋みもあり、少々緩いところもあって全体としてその人となりが分るような気がする。ルドンやルオーもいいが、やはり駒井哲郎が数も多く質的にも高いレベルの作品ばかりなのが目立っている。

最近は誰々のコレクション展と銘打って開催される展覧会が増えているような気がする。洲之内徹コレクション展は生前から何度も行われており割合と早い例だろうが、現代美術を集めているマイナー・コレクターの展覧会というのを二十世紀末頃からよく目にするようになり、さらに「瀧口修造夢の漂流物」展(二〇〇五)や大岡信コレクション「詩人の眼」(二〇〇六)あたりから徐々に盛んになって、外国人の日本美術コレクションが次々将来され(プライス、ギッター、バーク、ドラッカーら)、「坂田和實の40年」(二〇一二)、筑波大石井コレクション展(二〇一三)、河野保雄コレクション展(二〇一四)、「根津青山の至宝」(二〇一五)、「川端康成コレクション伝統とモダニズム」(二〇一六)、「村上隆のスーパーフラット・コレクション」(二〇一六)、住友コレクション展(二〇一六)、秋山庄太郎コレクション(二〇一六)など枚挙に暇がないくらい。あ、もちろん石原コレクション「展覧会ポスターに見るマン・レイ展」も忘れてはいけない。

美術品の蒐集というのはやはり個人の眼に頼る傾向がある。絶対音感のように絶対美感というものがあるようで、訓練だけではどうしても達成されない感覚のような気がしないでもない。おそらくそれは大昔から変わらないだろう。ただ、今はそのコレクションから個人の眼力をあぶり出すという意味で個人にもスポットが当っているのかもしれない。美術館としては一括で企画できるので楽チンなのかな?

岡崎市美術博物館で開催されている長谷川潾次郎展も藤井コレクションと肩書きがある。

《この伝説的画家に魅了された1人、故藤井純一氏は岡崎市で長年にわたり作品の蒐集を続けてきました。藤井氏コレクションは約130点の油彩画の他に版画やデッサン類、画材道具、モチーフからなり、現在は岡崎市美術博物館の所蔵となっています。》

これはちょっと見てみたいものだ。

by sumus2013 | 2016-12-30 21:51 | 雲遅空想美術館 | Comments(2)

吟意厭聞狂語鶯

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 [閑中□古]
  吟意厭聞狂語鶯
  早梅時節試閑行
  一竿漁思香魚佳
  半帽1光野鴨声
  草長須史原燎侵
  雪鎔分外閘波鳴
  煙霧未留多年菅
  触眼物華心易驚
   2詩家清景花新春 松奉弘 [□弘][子□]


一見読みやすそうなのだが、不勉強のせいで読めないところ、いちおう読んでみたものの自信のもてないところもまだまだある。御教示を。


あまり気は進まなかったのだが、先日、久しぶりにがん予防センターで検診を受けた。検便は持参。胸部と胃部のレントゲンを撮った。これらの検査はあまり役に立たないという評価もあるようで、そのせいでもないだろうが、受付から始まってスタッフ(すべて若い女性)の接客が至れり尽くせりという感じだったのは意外だった。二十年ほど前に一度同じ場所で検診を受けたのだが、そのときはそんな空気ではなかった。建物もすっかりホテルのように新築されているし……。

胃部の撮影の前にメニューが出た。バリウムに味付けが何種類か用意されているという。オレンジ、グレープフルーツ、バナナなど……。今年からだそうだ。ちょっと迷ったが、味付けなしを選んだ。例によってグイングインと動くベッドの上でジタバタさせられて、とにかく終了。部屋を出ると待ち受けていた淡いピンクの制服を着た女性が洗面台へと誘って手や口を洗いなさいという(白いバリウムが付いていた)。そして下剤二粒と紙コップを差し出して「下剤とお水を三杯のんでください、バリウムは体内に残ると固まって危険なこともありますからね」と言いつつ自らウォーターサーバーから水を三分の二、お湯を三分の一ていど紙コップに注いで渡してくれた。ぐいと飲み干す。するとまたもう一度ぬるま湯カクテルを作ってくれる。
グイと飲んで
「バリウムは意外とおいしかったですよ」
などと愛想を言ってみたら
「あら、じゃ、またぜひいらっしてくださいね」
とニッコリしながら三杯目のコップを渡してくれた。
「はは(笑)」
外へ出ると日もとっぷり暮れてスナック予防というネオンが赤く灯っていた……わけはない。


なせ医師はバリウム検査を受けない?




by sumus2013 | 2016-12-29 21:12 | 雲遅空想美術館 | Comments(2)

岩淵龍太郎先生を偲んで


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『岩淵龍太郎先生を偲んで〜コンサートと感謝の会』(同実行委員会、二〇一七年一月五日)記念冊子のレイアウトをさせてもらった。A4判十六ページなので楽勝と思ったが、甘かった。誤算の連続で大仕事となってしまった。しかし出来そのものはまずまず悪くないと思う。

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岩淵龍太郎先生を偲んで コンサートと感謝の会
2017年1月5日(木)15:00開演(14:30開場) 

京都コンサートホール
アンサンブルホールムラタ

by sumus2013 | 2016-12-28 20:23 | 装幀=林哲夫 | Comments(2)

南部支部報51

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『南部支部報第五十一号』を頂戴した。(二〇一六年一一月二五日【これは奥付記載で実際は一二月二四日発行】)感謝です。

『南部支部報第五〇號』

本号の読みどころは「南部支部座談会」。参加は日月堂、風船舎、ほん吉のみなさん、司会が月の輪書林・九蓬書店さん。市場での葛藤などが語られていて非常に面白い内容である。また「編集後記」に月の輪さんが荒戸源次郎さんについて書いておられる。十一月七日に亡くなられた。享年七十。

《一九八〇年の酷寒の二月、ぼくが荒戸さんの下で現場を駆けずり回っていた頃、ずいぶん「大人」に見えたけど三十三歳という若者だったんだなぁ。「ツィゴイネルワイゼン」の撮影隊の合宿所は鎌倉材木座にあり、ぼくは美術助手としてそこで撮影につかう蟹を大磯までつかまえに行ったり(木村有希演ずる瞽女の股の間から出てくるシーンにぼくの蟹が登場します)、桜の花びらや灯籠をつくったり、風呂場で蚊帳を緑色に染めたりと、朝から真夜中まで働きどおしだった。合宿所には一年間はゆうに寝泊りしていたと思っていたけれど、当時のメモ帖を開くと撮影はわずか二ヶ月という短さだ。メモ帖がウソをつくはずがないのに信じられない。》

そうだったのか。二〇〇八年八月に太秦で生田斗真主演「人間失格」を撮影している荒戸監督を月の輪さん、河内紀さんと三人で訪ねたときの情景がはっきり思い出される。映画人の放つオーラのようなものがこちらの肌を刺すように放射していた。ご冥福をお祈りしたい。

荒戸源次郎監督「人間失格」の現場

by sumus2013 | 2016-12-28 20:14 | 古書日録 | Comments(0)

創造の原点

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神奈川県立近代美術館鎌倉別館で開催されていた「松本竣介 創造の原点」(神奈川県立近代美術館、二〇一六年)図録を某氏より頂戴した。ありがとうございます。

創造の原点というと少し大げさな感じだが、竣介を触発した海外の作品や同時代の画家たちの作品を関連づけて展示しようという試みである。モディリアーニ、ジョルジュ・ルオー、ジョージ・グロス【これまではゲオルゲとドイツ語読みで通用していたのだが、画家自らがジョージと英語の名前を名乗っていたためジョージとするのが正しいそうだ】、藤田嗣治らからの影響が言及されている。

また竣介自身が撮影した都市の写真にも興味深いものがある。解説によれば

《15歳の時に父からカメラを買い与えられて以来、竣介はカメラに親しみ、よく撮影していたという、ここに紹介する風景写真は、いずれも1930年代半ばから1940年代初めにかけて撮影されたものと思われる。建物や橋、帽子を被った洋装の女性に荷車、あるいは作品に登場する黒い人影を思わせる人物など、作品のモチーフと共通する物や人が多く見られる。》

だそうで、以下が図録に掲載されている竣介の撮影した写真。十五歳というのは絵具一式も買ってもらっているから、画家・竣介のまさに原点の年(一九二七)だった。カメラで思い出すのが先日話題にした花森安治のカメラ好き(http://sumus2013.exblog.jp/27207515/)。花森は一九一一年生まれだから竣介より一つ(正確には半年だけ)年上である。大正末から昭和初めのカメラ世代というくくりを考えてもいいかもしれない。

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図録に載っている作品と比較してみるのも面白い。例えば荷車はこちら。

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松本竣介「市内風景」1941


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女性や男性を組み合わせた都市のイメージは直接的にはジョージ・グロスだが、個々のデッサンは当時の東京の街景から取られているのがよく分る。

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松本竣介「街にて」1938


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図録では言及されていないけれども、ピエロ・デラ・フランチェスカ(家族像や自画像など)やレオナルド・ダ・ヴィンチからの影響もはっきり読み取れる。あるいは東洋の古典絵画なども無視できない。おそらくおおよそは『みづゑ』などの美術雑誌から情報を取り入れたと思われるので、竣介の作品と『みづゑ』のバックナンバーを較べてみるのも意味のないことではなかろうと思う。

例えばダ・ヴィンチはこんなところに顔を出している。

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松本竣介「少年と手」1943


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Leonardo da Vinci「Study of a woman's head」


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Leonardo da Vinci「St. John the Baptist」


by sumus2013 | 2016-12-27 20:36 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

葉牡丹の

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 葉牡丹の裾寒う見ゆ夜は雪か
               九一
                 併題 [九一子]

           
伊丹市の柿衞文庫で「俳画のたのしみ 明治・大正・昭和編」展を見て以来、俳画についても多少の注意を払っていたが、なにしろ予算が……なもので、これというものに出会わないなあと歎いていたらこのマクリを見つけた。正月の「ほかひひと」あるいは「漫歳楽」でもあろうか。作者は飯田九一。

飯田 九一(いいだ くいち、1892年 - 1970年1月24日)は、日本の日本画家、俳人、俳諧関係資料の収集家。神奈川県橘樹郡大綱村(現在の横浜市港北区の一部)の江戸時代以来の素封家に、三男として生まれた。父・快三は、大綱村長や神奈川県議会議員を務めた人物で、飯田家の家長の名である助太夫を第11代として襲名し、海山と号した有力者であった。東京美術学校を卒業し、さらに川合玉堂の下で日本画を修行し、帝国美術院展覧会(帝展)などで作品を発表した。後には俳画に取り組み、自ら主宰する「香蘭会」で指導にあたった。1952年には第1回横浜文化賞の受賞者のひとりとなった。飯田は、松尾芭蕉、宝井其角、与謝蕪村らの真筆など、多数の短冊・色紙などからなる俳諧関係の資料を収集したが、このコレクションは神奈川県の県史編集室に寄託され、その後、神奈川県立文化資料館、神奈川県立図書館が管理して現在に至っている。》(ウィキぺディア)


画はやや弱い感じもするものの、ウィキの言う通り素人の域は出ている。淡い色調も好ましい。

by sumus2013 | 2016-12-26 20:09 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

いのちひとつに

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昨日紹介した『婦人公論』第四百六十七号には佐野繁次郎も登場していた。舟橋聖一「愛の濃淡」挿絵。もうひとつ、注目したのは奥村博史(「おくむらひろし」のはずだが、本誌では「おくむらひろふみ」)の連載小説「いのちひとつに 続・めぐりあひ」。奥村博史と言えば築添正己さんの母方の祖父ということで当方のブログでも少し触れたことがある。

「博史とらいてう」

「いのちひとつに」は小説というか回想記のようなものだろう。登場人物はいちおう仮名になっているが、誰だかはすぐに分る。主人公は浩、その恋人は昭子(らいてうの本名は明[はる])、森田草平が成田草平など。面白いと思ったのは『田端人』矢部登さんの影響か、二人が日暮里のステイシォンで待ち合わせをするくだり。大正元年の七月。

《三十日の暮れに、日暮里のステイシォンのプラットフォウムで待ち合わせた浩と昭子は、駅を初音町の方に出ると道灌山に向って歩いてゐた。
 忙[せわ]しく人の行交ふ複雑した臭の漂ふ通りから遁れて、ふたりは似たやうな生垣ばかりつづく長い道を過ぎ、雑木林の中を抜けて、いつか田端ステイシォンの崖上に出た。
 雲は低く垂れて蒸し暑く、車両編成を待つ幾台もの蒸気機関車はしきりに黒い煙を吹き上げ、それが時をり風に送られてきて不意にふたりともに噎せた。浩は煤煙の甘酸っぱい鼻に辛く、足はしぜん動坂へ出る道に向った。赤紙仁王の脇の坂を降りながら、近くのつくし庵のしるこよりほかあてもなく、どこかで夕飯を、と考へたが、けっきょく団子坂の藪蕎麦に行くことにした。》

《藪を出たふたりは、団子坂をのぼると左に、森鴎外の家のあるあたりまで行ったが、引き返して林町の寂しい通りへはいった。繋いだ手から互いの心に通ふものを感じながら黙って歩いた。》

《とつぜん足を停めた浩はとっさに昭子を羽交締にした。昭子は仰向いて彼に口を寄せて来る。互いの唇が飢ゑた魚のやうに烈しく触れ合ふと、そのまま堪へられる限り息を詰めた‥‥。すると、ふたり共どもそこに崩折れてしまふかとばかり身を支へかねて来たが、危く立直った‥。
 右に折れ左に曲り、ふたりは宛もなく歩くうちにいつか袋小路に追ひ詰められて、とある寺の裏に突当ってしまった。》

《本堂横手に出ると墓場である。竝んだ墓は夜空のもとに押黙って立ってゐる。》

《寺の門を出たふたりは、駒込通りを横切ると、すぐ向う側の、曙町につづく路地に姿を消した‥。

この辺りのルートについてはおぼろげなイメージしか湧かないが、燃える恋人たちにとっては人目に立たない散歩コースだったのだろうか。なかなかに大胆である。



by sumus2013 | 2016-12-25 21:01 | 古書日録 | Comments(0)

”らしさ”排撃論

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『婦人公論』第四百六十七号(中央公論社、一九五六年三月一日、表紙=宮本三郎)。某氏より恵投いただいた。感謝です。花森安治と鶴見和子の対談「"らしさ"排撃論」が掲載されている。これは花森のいわゆる「女装」に対する態度がはっきり表明されている重要な対談だと思う。まずは女性「らしさ」に対して論議が始まる。

花森 僕が髪を長くしていると女の子のようだと言われます。しかし、ルイ王朝時代とか、リチャード八世の映画を観れば、当時の男は僕より立派な髪をしているんですよ。生理的に、女の人の髪が長くて、男が短いということは、どんな生理学者も言わんと思うのです。それがたまたま、緑なす黒髪ということが、ある時代の男の嗜好にかなったということから、いつか女の一つのスタイルになっているだけです。女の髪は長く、男は短いというのは一つの固定観念ですよ。》

鶴見 既成のものを破壊しようとおもって、わざと赤いものを着たり、女の服装をしていらっしゃることは、こだわりをぶちこわすこだわりでしょう。
花森 そうです。たいへんなこだわりだ。僕のほんとの希望というのは、赤いものを着たい人は着る、モーニングの着たい日には着てみたり、したいというときにはしてみることですよ。こういう気持が、おそらくは二十四時間中燃えているんですね。だから、あまり僕は楽じゃありませよ。僕も紺のダブルなんか着て、白いワイシャツでグレイのネクタイでもつけていれば、同じことを言っても、あいつはなかなか優秀な編集長だとか評論家だとか言われるでしょう。そのほうがずっと楽だということはわかるのですよ。それを、あれはなんじゃいな、と言われながらやっているということは、たいへんなこだわりだけれども、僕はこのこだわりを捨てるわけにはいかんのです。しかし、そうじゃない自然な状態が近い将来にくると思うのですがね。親と子、使用者と被使用者、為政者と被統治者とかいろいろな区別や階級があるが、近頃では頭のなかでは、だいぶ均[な]らされてきたと思うのですよ。しかしそのなかで、男だから、女だからということは依然として温存されているわけだ、男の立場からも女の立場からも。》

花森の姿勢というか思考法はつねにこの弁証法的パターンのようである。対談の最後には憲法改正問題も取り上げられている。

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鶴見 最後に、憲法改正の問題が、「らしさ」に関連していちばん大きい問題だと思うのですが……。いま改正案が出ていますが、女の人たちは現在の憲法と改正案とを並べられても、実際に自分たちの生活にどういうふうに響いてくるのか、関心をもっていない場合が多いと思うのですよ。改正案の意図するのは、旧道徳の復活であり、個人の自由に対する圧迫であるということは、基本的人権を守るということが削られていることで理解できるのです。それは、親は親らしさ、子は子らしさ、夫は夫らしさ、妻は妻らしさという、上からの強制が復活することです。》

なるほど、昨今の改正論議がこの時代からの悲願だったという主張が良く分る発言である。

花森 改正するというときに、だれが改正するかということが問題なんです。信用できる人の手で改正してくれるまで待ったほうがいいということも声を大にする必要がある。それから、前の欽定憲法のときには、国民をどういうふうにしばってきたかということを、示すということをだれもやっていませんが、これは大事な作業だと思うのです。今度の改正案が、前の憲法と似ている面を、わかりやすく説明するということは大事ですね。》

信用できる人の手で改正》というのはアグレッシブな鶴見女史の発言と較べるとかなりノンポリな感じが出ている。しかしながら欽定憲法の実態を検証するという大事な作業》、こちらは『戦争中の暮しの記録』と同じ発想である。概念的な思考を先行させるのではなく事実を提示して善悪の判断に供する。いわば憲法の商品テストであろう。善くも悪くもこれが編集者・花森安治の真骨頂であった

by sumus2013 | 2016-12-24 20:55 | 古書日録 | Comments(7)