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ノーベル文学賞

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柏倉康夫『増補新装版 ノーベル文学賞 「文芸共和国」をめざして』(吉田書店、二〇一六年一二月一日)が届いた。前著が二〇一二年一〇月だから早いものだ。その間にマンロー(カナダ)、モディアノ(フランス)、アレクシエーヴィチ(ベラルーシ)、そしてボブ・ディランが受賞している。前著を紹介したとき偶然にもバーナード・ショウが受賞を固辞した話題を取り上げたのだが、今年は例の貰うのか貰わないのかはっきりしないディランの態度が注目だった。受賞の記念講演をしないと賞金は貰えないらしいが、これまたするのかしないのかはっきりしない。本書では「増補新装版 あとがき」にボブ・ディランへの授賞についての波紋が取り上げられておりひとしお興味をひかれた。

《隣室の扉があき、スウェーデン・アカデミーのノーベル文学賞委員会の事務局長サラ・ダニウスが発表会場にあらわれて、手にした紙ばさみを開いた。
 まずスウェーデン語で今年のノーベル文学賞の授賞理由を述べ、その後で「ボブ・ディラン」とアナウンスすると、取材陣からどよめきが起こった。

そしてサラ・ダニウスは発表後テレビのインタビューでこう発言した。

《「押韻と鮮やかな光景を描き出す歌詞は彼独自のものだ。過去にさかのぼれば、ギリシアのホメロスやサッフォーは〔朗読などで〕詩を聴き、楽器と一緒に吟じられることを前提に詩的な文章を書いた。ボブ・ディランも同じだ。私たちはホメロスやサッフォーをいまでも読んでいる。彼もまた読まれるし、読まれるべきだ、彼は英語の偉大な伝統のなかの偉大な詩人だ」と讃えた。

これに対してさまざまな意見や感想が飛び交った。チリのバチェレ大統領やアメリカの作家ジョイス・キャロル・オーツは授賞に対して賛意を表した。一方でフランスの作家ピエール・アスリーヌは

《「ディラン氏の名前はここ数年頻繁に取りざたされてはいたが、私たちは冗談だと思っていた。今回の決定は作家を侮辱するようなものだ。私もディランは好きだが、だが〔文学〕はどこにある? スウェーデン・アカデミーは自分たちに恥をかかせたと思う」と辛らつに批判した。》

詳しくは直接本書を読んでいただきたいが、ヴェルレーヌが「詩に音楽の富を取り戻そう」と宣言し、マラルメは

《音楽と言葉と仕草の総合芸術をめざすワーグナーの楽劇に対抗できる詩の創造を真剣に訴えた。
 ノーベル文学賞がはじまったとき、すでに詩人たちはあえて音楽と手を切ることで、詩という表現手段を一層強力なものにする努力を積み重ねていた。スウェーデン・アカデミーはこうした文脈のなかで、今回のボブ・ディランへの授賞を決めたのである。

というフランス詩にとりわけ造詣の深い柏倉氏ならではの感想に重みがある。

では誰がディランに決めたのか? スウェーデン・アカデミーは定員十八。このなかの五名が委員会を作り、世界中の有資格者に推薦の依頼状を送る。届いた推薦のなかから第一次リストが作られる。候補者はおよそ百五十人ほど。委員会はリストを元に比較的早い段階で十二、三人に厳選する。これが第二次リスト。そしてそこからさらに第三次リストの五人前後に絞られ、これをアカデミー会員の全員によって検討し、最後に投票が行われる。最終的には多数決だそうだ。

学が紙を離れて飛翔し浮遊している現代、ある意味で文学はホメロスの時代にまで後退しているとアカデミー会員たちは考えたのかもしれない。いや単にディラン世代だっただけなのかも……。

とにかく座右に必需の一冊。文学の世界は限りなく広い。

by sumus2013 | 2016-11-30 20:37 | おすすめ本棚 | Comments(0)

世界最大?

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『花森安治装釘集成』を呈上した方々よりお礼のメールやお便りをいただいている。そのなかで反響が大きいのはこの謹呈箋。本体と同じB5サイズでしかも「謹呈」の文字は黒マットの箔押しなのだ。いまだかつてない(かもしれない?)謹呈箋なのである。

"謹呈"が短冊ではなく本と同じ大きさであるのは、本書に自信あり、とのメッセージとも受け取りました。

と言って下さる方もおられた。ありがたいことだが、実のところ、これは紙が余ったための窮余の策なのだった。この謹呈箋は表紙と同じGAファイルという銘柄である。表紙にこの紙を指定したところ、印刷所からB5判の取り都合が悪くかなり大量のロス(すなわち紙の切れ端)が出てしまうと言われた。そこでみずのわ社主が「謹呈箋にしてはどうです?」と提案してくれたのはいいが、普通の謹呈箋サイズでは厚みがありすぎる。ならば「本体と同サイズにしよう!」、ただしB5判にカットしてしまうと厚さがあるため普通の小型印刷機にかからないそうで、それなら文字も箔押しでとなり、このような形に落ち着いたしだいである。

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紙の取り都合ということで、たまたま池島信平『雑誌記者』(中央公論社、一九五八年一〇月六日、装幀=花森安治[装釘ではなく装幀と印刷されている、念のため])をめくっていると次のような話が出ていた。池島は昭和八年文藝春秋社入社である。花森とも親しくしていた。『文藝春秋』が復刊した昭和二十一年頃のこと、紙が値上がりして途方に暮れた。闇で入手しなければならなかった。

《ヤミ紙といえば、当時のヤミ屋のことを思い出す。ほとんどのヤミ紙は第三国人の経営の新聞社から出たものである。新聞に対する紙の配給は当時、順調であり、ことに第三国人の新聞社は大威張りで公定価格の紙を獲得し、そのほとんどをヤミに流していた。》

要するに何も印刷しなくてもボロ儲けできたわけだ。第三国人……久々に聞く単語である。

《彼らとその代理人は一種の「乱世の雄」であった。いっそサッパリしたくらい商魂に徹していた。ハッキリした商売だから、こっちもその気で立ち向かえば、事はスムーズに運ぶのである。思えば彼らにずいぶん儲けられたものだが、また彼らのためにわれわれの雑誌も発行をつづけることができたのであるから、考え方によっては一種の恩人である。彼らは今、どうしているだろう。大儲けした彼らが、韓国や、台湾に帰って、朝鮮戦争や中国の内戦でクタバッていないことをわたくしは祈る。》

これらのヤミ紙は主に新聞の巻取用紙なので『文藝春秋』のような雑誌を刷るにはこの端を何十センチか切らなければ、印刷の輪転機にかからない。そこで呼ばれたのが何と「木樵」であった。

《まことに妙な取り合わせだが、実はこの木樵はわれわれにとって大へん重要な人物だったのである。それは新聞巻取を雑誌用のサイズに切るためである。紙は木材パルプから造られるが、巻取紙のようになると、これは紙ではあるが、むかしの木材にかえったかと思うほど固く重い。これをノコギリで横に断ち落すということは木樵でなければできないのである。彼はただちに凸版印刷に案内され、そこで毎日作業に従事した。》

この凸版印刷は板橋工場のことである。なんとも不思議な光景だったろうと思わざるを得ない。

by sumus2013 | 2016-11-29 21:19 | 装幀=林哲夫 | Comments(2)

山家秋

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もう十一月も終わろうとしているが、遅ればせながら今月の短冊を(淀野は別にして)。

 山家秋
 のかれ来ていは岩本の中々に
 身をおく山の秋そ悲しき 長隣

と、このように読んでみた。いは(者)岩木……かと思ったが「岩本」(巌)ではというご指摘をいただいたので、なるほどと訂正した長隣(ヘンとツクリが逆)は有賀氏。画像検索すると他にもいくつか短冊が見られる。歌人の家元だけにおそらく相当な数を残したものと思われる。

ありが(あるが) ながちか
幕末・明治の歌人。大阪の人。長雄の父。号は情新斎。歌道の家に生まれ、柿本人麿を尊崇した。明治39年(1906)歿、89才。》(コトバンク)


by sumus2013 | 2016-11-28 20:23 | 雲遅空想美術館 | Comments(2)

河童

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矢部登さんの『田端人』第二輯には細川書店の『河童』も出て来る。

《芥川龍之介が「河童」を発表したのは昭和二年三月の「改造」。
 吉田泰司がその批評を「生活者」にのせたのは翌月。倉田百三の編輯、岩波書店の発行であり、吉田は創作月評を受けもっていた。
 それを読んだ芥川は四月三日朝附で吉田泰司あて書翰をしたためる。》

この書簡は全集にも収められ芥川研究の重要な史料となっているそうだ。

吉田泰司はそのとしの七月、旅の空で芥川龍之介の訃報を知る。返事もかかず、会いもしなかった吉田は、死なれてしまったという、とりかえしのつかぬ淋しい思いをいだく。芥川書翰の一行にはこうある。
「あらゆる『河童』の批評の中に、あなたの批評だけ僕を動かしました。」》

《「河童」を読んだのはいつであったろう。「河童往来」の余韻のなか、読みなおそうか。よむんだったら、せんに読んだ細川書店の本がよい。》

ということで細川書店版『河童』。左が昭和二十三年一月二十日再版。右が昭和二十一年八月二十日初版(函がある)。敗戦直後の発行(細川書店の処女出版)なのに初版の方が紙質がいいのは用紙に備蓄があったのであろう。

小説の主人公「僕」は山中で河童に出会い、その後を追ううちに河童の国へ入り込んでしまう。そして人間世界にかなり似ているその異界にだんだんと馴染んでいく。親しい河童も何人(何匹)かできてくる。そのなかに硝子会社の社長ゲエルがいた。そのゲエルの紹介状を持ってゲエルの友人たちが関係をもっている工場を見学して歩く。

《そのいろいろの工場の中でも殊に僕に面白かつたのは書籍製造会社の工場です。僕は年の若い河童の技師とこの工場の中へはひり、水力電気を動力にした、大きい機会を眺めた時、今更のやうに河童の国の機械工業の進歩に驚嘆しました。何でもそこでは一年間に七百万部の本を製造するさうです。が、僕を驚かしたのは本の数ではありません。それだけの本を製造するのに少しも手数のかからないことです。何しろこの国では本を造るのに唯機械の漏斗形[じやうごがた]の口へ紙とインクと灰色そした粉末とを入れるだけなのですから。それ等の原料は機械の中へはひると、殆んど五分とたたないうちに菊版、四六版、菊半裁版などの無数の本になつて出て来るのです。僕は瀑[たき]のやうに流れ落ちるいろいろの本を眺めながら、反り身になつた河童の技師にその灰色の粉末は何と云ふものかと尋ねて見ました。すると技師は黒光りに光つた機械の前に佇んだまま、つまらなさうにかう返事をしました。
「これですか? これは驢馬の脳髄ですよ。ええ、一度乾燥させてから、ざつと粉末にしただけのものです。時価は一噸[トン]二三銭ですがね。」》

マンガみたいな世界だ。SFと言ってもいい。やがて「僕」は人間世界へ戻りたいと思うようになる。教えられて相談に行った年取った河童は、会ってみると年寄どころか、幼い姿をしていた。

《「お前さんはまだ知らないのかい? わたしはどう云ふ運命か、母親の腹を出た時には白髪頭をしてゐたのだよ。それからだんだん年が若くなり、今ではこんな子供になつたのだよ。けれども年を勘定すれば、生まれる前を六十としても、彼是百十五六にはなるかも知れない。」》

逆まわりの時間……P.K.ディックの世界を先取りしている。




by sumus2013 | 2016-11-27 21:00 | 古書日録 | Comments(0)

汽車の罐焚き

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矢部登さんより『田端人』第二輯(二〇一六年十二月)が届いた。味わい深いエッセイが並ぶ。巻頭は「田端機関区」、そのなかに中野重治『汽車の罐焚き』(細川書店、一九二七年)が登場している。

《緊迫した二十ページほどの文章のタッチはすばらしい。カタカナの言葉のリズムが疾駆する機関車の音ともかさなる。いつのまにか作中の罐焚きとなったわたしは緊張感に身ぶるいし、機関士と罐焚きへよせる作者の詩に感動する。

とこう書かれては、読みたくなるではないか。幸いにも細川書店版の『汽車の罐焚き』を架蔵するので早速取り出してきた。今までどうして読んでいなかったのか、手にして判った。アンカットなのだ。ページを切るのがもったいなくて読んでいなかった(他の版でも読めます、もちろん)。ごく一部を抜書きしておく(元テキストは旧漢字)。

《牛ノ駅通過。
 そして出発信号機からどれだけ進んだかと思つた途端にドラフトの音が変つた。ぐわあツというひびき、同時に爆発的な勢いで湯気と煤煙がまくりこんできた。トンネルへはいつたのだ。
 ものすごく反響するドラフトの騒音。一ぱいになつた湯気と煙とでウオーターゲーヂはもう見えない。プレッシャーゲーヂもぼんやりとしか……中原は気が狂つたように砂ハンドルを動かした。がらがらン、がらがらツ……機関車の下で物の砕けるようなすさまじいおとがした。鉄のやけるにおいがくる。と、スピードがぐぐぐうツとおちた。
「空転だ!」
「火床がひつくらかえるぞ!」
 鈴木は無我夢中でファイヤドライをひきあげて腕シヨベルをふりまわした。
「おい! テンダのクーラー出してくれえ!」
…………
 煙にむせて鈴木は声がでない。手さぐりでクーラーのコックをさがすと彼は足で蹴とばした。
 やつと空転は止まつた。中原がまたレギュレーターをあける。また煤煙がはりつめてくる。ゲーヂの針がさがつた。投炭。インゼクター。水をきらしたら万事休すだ。鈴木は全身汗ぐつしよりになつた。口と鼻にあてたタオルはまつ黒になり、それを通して鼻の孔があつくなり、のどがえがらるぽくひりついている。
 煙突の上の口へ顔をつつこんでいるような苦しい幾秒がすぎて中原が「閉めるツ!」と叫んだ。のぼり勾配を頂点までのぼりきつてくだり勾配にさしかかつたのだつた。煙と湯気とが身をかわすようにかけ去つた。ハンドレールやブレーキハンドルに黒い露の玉が一ぱいとまつている。
 スピードがでた。一そうはやく……。》

ふう、たしかに迫力の描写だ。本書に挟まれた「細川だより」には機関車用語の説明が付されている。

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「田端機関区」に続く「たそがれ」は小品連作、まず「お坊坂」には吉田泰司と芥川龍之介が登場、そして室生犀星「古本屋」というエッセイに描かれた古本屋とのやりとり(犀星の負けん気の強さがうかがえて興味深い)。駒込駅近くの菓子舗中里主人・鈴木三安の随筆集『野人の夢』について、矢部氏鐘愛の清宮質文と結城信一について、湯呑について、津軽の福井さんについて。まったく読み終わるのが惜しい気さえするのだが、小冊子なのでアッという間に読み終わってしまう。もう一度読み返そう。


『田端人』第一輯(二〇一六年八月)

by sumus2013 | 2016-11-26 15:44 | 古書日録 | Comments(0)

泥のごとく

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淀野隆三の色紙が安いというので思い出した。淀野の短冊をもうずいぶん前に手に入れていたのだ。これは御教示いただいた色紙より少しだけ高かったが、このころは熱心に淀野のものを集めていたので決断できたのだと思う。他に書簡も求めた。それはすでに紹介済み。

昭和二年九月二日消印淀野繁宛淀野隆三書簡

この短冊、いつの時期だろう。紙質が悪いので戦後すぐだろうか。歌にもやけっぱちな感じが漂う。高桐書院を潰して上京したころか、そうすると昭和二十五年以後ということになるが、よく分らない。戦後の日記を精査すればなにかヒントが見つかるかもしれない。そこまでできるかどうか。もちろん気力しだいながら若い人にやってもらいたいような気もする。梶井をやるより面白いよ。ご子息もまだまだお元気のようだが、お若いとは言えないし……。

by sumus2013 | 2016-11-23 20:54 | 古書日録 | Comments(0)

完成!

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本日、届きました。いや、これは見事なできばえです(自分で言うのもおろかな話ですが)。何度も何度も校正紙を見ていると判断力が麻痺してきて実際これでいいのかどうか分らなくなります。結局は仕上がってみて、ビックリしたり悲しんだり喜んだりするしかないわけです。しかし今回は「仕上がりはこうだったらいいな」と考えていた、その通りに近い結果になっています……怖いくらい(これが限界かと考えると)。

山田写真製版所さんの完璧と言っていい品質管理によって実現されたしっとりとした質感・色調、これは期待以上です。唐澤氏、南陀楼氏の尽力は言うまでもないのですが、文字校正と色校正に最後の最後まで食らいついて完璧を目指したみずのわ出版社主・柳原氏の執念にも脱帽したいと思います。花森安治の仕事を見渡すときにどうしても欠かせない一冊になりました(勝手にほざきます)。


花森安治装釘集成
唐澤平吉・南陀楼綾繁・林哲夫 編

B5判並製282頁 収録タイトル500点超 カラー図版約1,000点
税込定価 8,640円(本体8,000円+税640円)
ISBN978-4-86426-033-6 C0071

みずのわ出版
〒742-2806 山口県大島郡周防大島町西安下庄、庄北2845
Tel/Fax 0820-77-1739 mizunowa@osk2.3web.ne.jp

by sumus2013 | 2016-11-22 21:23 | 装幀=林哲夫 | Comments(4)

淀野隆三再評価

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十一月十九日土曜日の毎日新聞に「Topics 梶井基次郎「檸檬」の恩人 仏文学者・淀野隆三/没後半世紀 再評価の声」という記事が掲載された(記者=鶴谷真)。二カ月ほど前に鶴谷氏が来宅して取材してくれたのである。来年が歿後五十年なので多くの人に淀野のことを思い出して、あるいは新たに知っていただければ有難いことである。小生の顔写真はいらないでしょう(笑)

ご子息より記事の訂正がひとつ。ミカン行商と文中にあるが、行商ではなく買い付けだった。

《ミカンの行商につきましては、母がたの里がニシキ通りで御所に収めている八百屋さんでした。ある年の暮れに、店の前が空いていますから、ミカンを売らせて、ということになり、やってみたら売れて売れて困った。そこで、八百屋が出来てしまったわけです。
 東京に単独で出かける前でしたか、父は有田ミカンなどの買い付け折衝を手伝ってやったことがあったわけです。》

また「一種の塾」とあるのは洛南文庫という淀野の構想した教育機関のようなもの。

《川端の鎌倉文庫設立に刺激され、洛南文庫を設立しました。私が小学校の4年生の頃です。構成は貸し本と言語講座、特別講演でした。貸し本については、京都の友人、桑原武夫、貝塚茂樹等文学者、作家の所蔵本、当然自分の所蔵本が中心でした。対象者は、最後の三高生、同志社、立命館の専科、のちに新制度になり、三高は京大に編入されます。この言語講座から、第1期のフルブライト生、中でも東大の言語学者の池上先生、カリフォルニア大の教授、現象哲学の下店栄一などが排出されています。
 その後同志社の学生が、刺激を受け、洛南クラブを結成し、夏休みに小学生の学習指導講座として継続された形です。私が遊んでいた知り合いが先生ですが、私が先生と親しすぎて、バカにするもので彼らは困ってました。》

小生の説明が足りなかったと反省している。

by sumus2013 | 2016-11-22 08:53 | 文筆=林哲夫 | Comments(16)

これくしょん

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『これくしょん』三冊頂戴した。もらってばかりです。深謝。67号(小林ドンゲ・叢書票、一九七七年八月五日)、71号(富士山 堀口大學・米寿記念詩集、一九七八年一一月三〇日)、75号(堀口大學先生受章記念・秋黄昏、一九八〇年四月一四日)。71号から堀口大學「僕と書物」の一部を引用してみる。

《無数と言ってもおかしくないくらい数多いこれまでの自著中、いま思い出して一番なつかしいのはやはり、大正七年の四月に、籾山書店に発売を依頼し、自分で世話した二百部限定の自費出版、訳詩集『昨日の花』だという事になりそうだ。これが自分の最初の著作物だというだけではなく、印刷所の選定、本文用紙の表紙のクロースの選択、購入、装幀を引き受けてくれた長谷川潔君の装画の彫師、金版[かなばん]の彫金師を探し出したり、依頼に廻り歩いたり、神田の鎌倉河岸にあった製本所へは、何度催促に足を運んだかわからない。内容は、サマン、グールモンを軸に、四五年前から親しみ始めたフランスの近代詩人、十八家の六十八篇を収めている。》

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『昨日の花』函


また75号で大學は「表題あれこれ」というエッセイを書いている。自著のなかでは『昨日の花』がもっとも気に入っているタイトルだと書いてこう続ける。

《さて次に語るこれも訳詩集の表題ですが、今日から逆に数えて五十五年以前、それまでも詩集の表題に、やれ『月光とピエロ』だの、やれ『月夜の園』だのと、やたらにお月さまが好きで、お世話になって来ていたが、この度もやはり、この集を月かげのさやけさで包んで、読書の机上に送り届けたいの一念から、収録の詩人六十六家、作品三百四十篇という大群なので、思案のあげく辿りついた表題が『月下の一群』と相成ったという次第。その当時、まだ若く発足早々の無産の出版者、第一書房の長谷川巳之吉君が、あの時分としては未曽有の豪華本、大版、天金、背皮、七百四十九頁、定価四円八十銭という金色燦爛たる大冊に仕立て、社運をこの一冊に賭けるほど惚れこんだこの訳詩集の魅力の一半は、実に『月下の一群』というこの五文字にあったのではなかろうか。僕は今でもそんな気がしている。

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『月下の一群』函


『月下の一群』……どうして月下なのか、いまひとつ不明ながら、象徴詩を中心とした内容にはたしかに似つかわしいようにも思える。タイトルは大事である、これは間違いない。

とにかく長い書名ってあるもんだ


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そうそう「「これくしょん誌」終刊について」という刷物も同梱されていた。終刊の百号は増頁したので誌代が割り増しになるためその計算書きが付いている。日付は昭和六十一年十一月。「これくしょん」の名称は吾八書房の古書目録として引き継がれている。



by sumus2013 | 2016-11-21 20:16 | 古書日録 | Comments(0)

饅頭本

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『彷書月刊』の完揃いを目指しているわけではない……と書いたことがあったのだが、それを覚えておいてくださる読者の方が居られてときおりバックナンバーを頂戴する。先日も二十冊ほど頂戴した。二〇〇二年からは定期購読していたのでそこから終刊までは揃っている。そしてそれ以前(十六年間余り)も徐々に埋まってきた。創刊(一九八五年一〇月号)から四年ほどは今回通巻第十六号を頂戴してすっかり揃った。後はボチボチ拾っていけばいいと思っている。リストを眺めると一九九二年、九七年あたりが寂しいな……。

二〇〇〇年二月号「特集・饅頭本の小宇宙」には小生も寄稿している。思えばよく書かせてもらった。田村編集長から電話がかかってきて、こんな特集やりたいけど書ける? みたいな話があって「書きますよ」と答えると梗概ファクスが届く。ときには他に誰かこれについて書ける人知らない? と尋ねられたこともあった。

いつだったか、黒岩比佐子さんの名前が古本界に響き始めたころ、田村さんからの電話で黒岩さんの名前を出したら、まだそのときには田村さんは黒岩さんのことを知らなかった。ぜひぜひ書いてもらったらと推薦しておいたのである。だからおそらく二〇〇六年の早いころかもしれない。同年六月には東京古書会館で黒岩・岡崎トークが開催されており田村さんも来ていたのでそれ以前であることは間違いない。

総目次をざっと見たところ二〇〇八年二月号の菅野すが特集に巻頭インタビューの聞き手と寄稿という大役を務めておられるのが黒岩さんの誌上初登場のようだ。同年十二月号には「特集・私の先生」に「十一年前の出会い」を寄稿しておられる。そのおよそ二年後には田村さんと黒岩さんが相次いで亡くなられるとは想像だにできなかった……。

『彷書月刊』(2008年2月号、管野すが特集) 古書の森日記

饅頭本というのは何かの記念品として配られる本である。故人を追悼して作られる本あるいは遺作集などを指すことが多いようだ(一周忌に配られたりするため)。小生は「食うべき本」として『秀島正人画集』と『高見堅志郎遺稿集 風景の旅びと』附録の回文集について書いた。オチとしてフランス語で「マンジュウ・ド・リーブル」と言えば「本を食う人=本の虫」の意味になると付け足している。

久しぶりに読み返していて田村義也「「追悼本」のこと、書き文字のこと」に目がとまった。田村の父の書棚にあった内村鑑三『余は如何にして基督信徒となりし乎』(岩波書店、一九三五年)の函背の文字が強く印象に残っており、それを特製本にして父の告別式で配ったという話から始まる。

《この書き文字を実際に書いた人は誰なのか? およそ戦後の岩波本の大部分の版下は、木版は五島木版(落合木版も)、金版は加藤地図に依頼することにきまっていたし、その書き文字が岩波学術書のカタチを特色づけてきたといえるだろう。これは、私たち制作経験者の、ついこの間までの本づくりのやり方だった。だが、岩波の坂口顯君に調べてもらったところでは、五島木版との取引は昭和十一年に開始されたものだから、この本は五島の書き文字ではなく、それ以前の加藤地図(大正十三年開始)か谷山木版(大正十四年開始)の文字ということになる、という。
 こういう推理は実に面白い。版下を書く職人によって文字の描き方は当然異るし、たとえ積極的に模倣しようとしても、明朝文字などは、しおおせるものではないからである。戦中戦後、書き文字の版下を書く職人や活字を彫る職人たちが競いあって、出版文化を支えていた時代があったし、今日でも私たちは、彼らの遺産を継承した文字書体と日常むきあっているのである。》

昭和になってもタイトルや見出し活字などは版木を彫っていたのである。たしかに微妙なテイストは彫り師の腕や好みに左右される部分が大きいかもしれない。江戸時代の木版本の伝統とも言えるだろう。


『彷書月刊』の初期号を何冊か頂戴した。

『七色物語』

by sumus2013 | 2016-11-20 20:43 | 古書日録 | Comments(2)