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<   2016年 10月 ( 28 )   > この月の画像一覧

ラッキーの活躍

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不二木阿古『ラッキーの活躍』(北星社、一九三四年四月二五日)。これも百万遍にて。表紙と見返しがなくなっているので安かったが、珍しい漫画本であることには間違いない。はっきり言って「のらくろ」をそっくりそのままかえるのラッキーに置き換えただけ。いかにもな大阪の赤本マンガである。

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著者の不二木阿古だが、検索してみると、これが田河水泡にも遜色のない、いやそれ以上の画家としての経歴を持つ人物だった。

《不二木 阿古(ふじき あこ、1896年(明治29年)‐1943年(昭和18年)4月23日)は明治時代から昭和時代にかけての日本画家。
北野恒富の門人。本名は藤木正夫。兵庫県の生まれ。神戸の国際港近辺で育ち、15歳か16歳ころ、まず島御風に師事した後、恒富の門下に入り、10年ほど主に恒富の創立した白耀社という画塾において活躍した。その後、堂本印象の門下になり、東丘会でも活躍した。また、大正期には大阪美術展、大阪市美術協会展などに当時の先鋭的な意識を反映した未来派のような実験的作品を出品したが、昭和に入ると端正かつ温雅な画風に変化、特に風俗画、人物画に優れていた。》(ウィキより)

《文展無鑑査、東丘会の中堅であつた不二木阿古は4月23日逝去した。享年48。本名藤木政雄、明治29年兵庫県に生れ、15、6歳の頃島御風に師事、故北野恒富門に入り10余年の後、堂本印象門に転じた。旧帝展文展に数度入選。昭和12年に「将棋親旧」を出品し特選を得、16年無鑑査となり、印象塾東丘社に重きをなした。》(『日本美術年鑑』昭和19・20・21年版、東京文化財研究所アーカイブより)

不二木阿古で画像検索すると色々な日本画家としての作品あるいは挿絵画家としての作品を見ることができる。日本画では奈良ホテルが所蔵する女性像が代表作らしい。《未来派のような実験的作品を出品した》という時代があったというのがまた田河水泡にも通じる経歴だ。『ラッキーの活躍』もそういう意味でグラフィックな面において『のらくろ』に見劣りするということはない。ただし『のらくろ』以上の斬新さや新機軸は見られない。上質な模倣に終始している。

新星社の住所は大阪市北区靭北通三丁目三三、発行者は岡田菊二郎。

岡田菊二郎 文祥堂書店

本書の巻末には新星社ととも文祥堂の広告も掲載されており、住所もまったく同じである。
キシモトモトイ『トモスケ ノ マンユー』
『漫画童謡 漫画の缶詰』挿絵=不二木阿古、漫画=大野清

大野清(きよし)は以前取り上げたことがある。大阪赤本漫画界の巨匠。松屋町に住み、手塚治虫をはじめ多くの漫画家がそこに出入りしていたようだ。

ブチ公のホームラン

新星社の名義では「カナオトギ文庫」カタカナ五篇、ひらかな五篇。その他の童話(極彩色漫画付き)六篇、そして樋口紅陽『偉人童話』。『童話』1年生から6年生まで六篇。畑米吉著、不二木阿古画の『一年生の童話』から『六年生の童話』まで六篇。樋口紅陽『童話劇と対話第一篇』、葉多黙太郎『童話劇と対話第二篇』。

樋口紅陽は《明治22(1889)年12月4日~昭和25(1950)年9月28日 大正・昭和期の口演童話家、児童文学作家》で葉多黙太郎はこういう人。

《昭和4年五月から土師清二さんの弟子の葉多黙太郎が、『神戸新聞』に『平安異香』という連載小説を書きました。その挿絵を描いたのがいちばん最初の仕事なんです。でも葉多黙太郎には悪いですが、やはり直木三十五の方が、有名ですから、『本朝野士縁起』でデビューしたということにしていたわけです。》(『挿絵画家・中一弥』、大貫伸樹氏のブログより)

なんとも大阪の出版界には数多くの未知の人材が眠っていることを思い知ったのだが、とにかくラッキーな一冊だった。

by sumus2013 | 2016-10-31 21:27 | 古書日録 | Comments(0)

遠西名物考

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百万遍のクズ和本の山から拾い出した珍本のひとつがこちら。題簽もなくなっている。手に取って表紙を開いたところに《遠西名物考 巻ノ一/二三》と書かれていた。本文をざっと眺めると写本でしかも医学か科学の本らしい。とにかくこれは「ゲットだぜー」。

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タイトルの次の頁には「目録」があり「百春窗」(たぶん窗だと思うのだが?)の朱印。
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そして書名と著者名、編集者名が並んでいて、本文もここ三丁目から始まる。原著者は宇田川玄随(1756-1798)、号は槐園、東海。津山藩(岡山県津山市)の藩医の子として江戸で生まれ、江戸蘭学勃興期に活躍した蘭方医の一人。

《オランダの医者ホルテルの内科書を翻訳し,わが国最初の西洋内科書刊本『西説内科撰要』全18巻を刊行。この書は江戸での刊行途中で玄随が死んだことから大坂に移されて続刊され,京都の小石元俊が続刊の陰の協力者となって完結に至っている。また同書収載の西洋薬物を解説した『遠西名物考』を準備したが未刊に終わった。》(宗田一)


未刊に終わった『遠西名物考』を誰かが書写した一冊がこの写本だということになる。検索してみると京都大学大学院薬学研究科・薬学部図書室に一冊(三巻)所蔵されている。寄贈者は百々復太郎。この人物は明治期の神戸病院医員で神戸医学校の教諭だったらしい。『京都帝国大学図書館案内』(一九〇八)によれば

《医方ノ大家百々漢陰及其父南岳両先生ノ遺書トシテ其孫百々復太郎氏ヨリ五千七百四十九冊》

が寄贈されている。百々漢陰(どど・かんいん、1774-1839)は京都出身、朝廷の御医だった父俊亮に医を皆川淇園に儒を学び、父の後を継がず開業医となった。御医は弟の俊道が継いだ。

また二年ほど前のヤフオクに写本が一冊出品されたことがあるようだ(残っている書影によると本書とはわずかに記述が異なる)。版本になっていないため江戸時代の医学生たちがせっせと筆写したのだろうか。

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「酒」の項目にはワインの製造過程の説明も見える。白酒が白ワイン、赤酒が赤ワイン。

《酒羅甸ニ之ヲ非奴謨[ヒヌム]ト謂ヒ拂郎察ニ之ヲ欣[ヒニ]ト謂ヒ和蘭ニ之ヲ物応[ウェイン]ト謂フ此レ熟シタル葡萄ヲ絞搾[シボリ]テ其汁液ヲ聚メ製醸スル所ナリ其初テ絞搾シテ未タ製醸ヲ経サルノ汁液羅甸ニ之ヲ没私黙謨[モスチユム]ト謂ヒ拂郎察ニ之ヲ没烏私多[トウスト]ト謂ヒ和蘭ニ之ヲ没私多[モフト]ト謂フ其味美ニシテ賞スベシ》

《白酒ヲ造ルニハ全ク水晶葡萄[シロブトウ]ヲ用テ只赤酒ヲ造ルニハ即チ其葡萄汁ト其搾リ取リタル余渣ヲ合シテ醸シ成ス此ノ少シノ外ニ添タル所為ヲ作スニ由テ赤酒ノ方ハ白酒ニ比スレハ酒石多ク且ツ之ヲ飲ムニ体中ニ停滞スルコト更ニ久シ》

没烏私多[トウスト]の没(ト)はママである。

フランス人ショメールの『厚生新編』(一七〇九年、家事百科辞典)の翻訳(オランダ語からの重訳で抄訳)が始まるのが一八一一年(文化八)、この翻訳には宇田川玄随の養子・宇田川玄真も参加した。七人の訳者が三十年かかっても未完成だったようだ。また玄真とその養子の榕庵がまとめた西洋の薬物を紹介した本『遠西医方名物考』三十六巻は文政八年(一八二五)に刊行が終わっている。ヴォリュームはまったく比較にならないものの『遠西名物考』はそういう流れの端緒でもあろうか。

by sumus2013 | 2016-10-30 21:20 | 古書日録 | Comments(0)

第40回記念秋の古本まつり

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あいにくの雨模様ながら、百万遍へ向かう。やっぱり口切りは臨川書店である(こちらの大バーゲンは11月1日まで)。九時半着でこの様子。開店前から並んでいたMさんによれば、僧体の扉野氏がいい本をガサッと買ってすぐに帰ったとか(本日はお勤めがあるようす)。U大先輩や中島先生の姿も。小生はカウンター横、和本などの入っている箱を掘りに掘る。珍しい冊子を発見。虫食いがあるも資料としては貴重ではないだろうかなどと迷うことしばし。百円なんだからさっさと買いなさいという心の声にようやく踏ん切りをつけて、この一冊だけをカウンターに出して清算してもらう。袋に入れてくれた店員さんが「スムースの林さんですよね、デイリースムース毎日みてます!」と。は、は、ありがとうございます。百円ですいません。

知恩寺に着いてみると、まだブルーシートは開いていない。K先生に久しぶりにお会いする。京都の大学に勤めておられたのが今年引退されたそうだ。まだ定年には少し早いと思ったので「水明洞がなくなったからですか?」と返すと「いや、そうじゃないですけど、運命をともにしました(笑)」。今は非常勤で来られているそうだが、でも、さびしいので定期券を買って毎日京都に通うつもりだとか。そうこなくちゃ。先生、ブルーシートの前から動こうとしない。どうして? 「じつはここに寺山修司があるんです」とブルーシートの上から平台を指差す。前日(?)すでに偵察しておられたようだ。「ぼくが買いますから」。はい、はい、どうぞ。どうやら多田道太郎さんの旧蔵書がごっそりと放出されているらしい。今年の目玉。

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雨は降っていないが、客の出足はやや悪いようだ。こちらはまず和本の山を目指す。すでに熱心に取り付いている異国の人が。いつもなら中華圏のお客さんなのだが本日は白人の方でした。三番手くらいで見始めると、すぐに中桐星岳『錦渓集 寒霞渓記勝初篇』(紅雲亭、一八八九年)が見つかった。これだけでもやってきた甲斐があった。

中桐絢海『観楓紀行』

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面白いように珍本が見つかる。当たり年だった。外人さんも粘っていたが、しばらくしていなくなり、今度は前にもここで顔を合わせた業者らしい男性が面前に立ちはだかる。店主と挨拶している。「今年はないんかと思てた」「急にまとまって出たので」というような言葉が交わされた(ウブなままなのか、どうりで)。この人がまた底の底まで全て見ていくのはいいのだが、見終わった本をポイポイと乱雑に放り出す。これにイラッとする。小生はきちんと積み上げないと気分が悪い方だ。横からきれいに並べ直していく。チラッと不審な視線が飛んできた。

昭和初期の漢詩集があった。活字本だった。作者も知らない人。どうしようか迷って傍に降ろすと、まだかなり若い(二十代でしょう)男性がさっと拾い上げた。もう一点、帙に入った二冊本の漢詩集、これも迷ってもどしたら、また同じ彼がさっと拾った。こういうのは何かしらイヤですね。といってもこちらが決断できなかったのだから仕方ないけど、目の前でさらわれると「アッ」と内心の声が出る。その若い人はかなりどっさり買っていた。感心した。

珍しく九冊ほども選んで(三冊五百円)レジに並ぼうとすると先客にMさんが。両手で胸いっぱいに抱えている。「Mさんがそんなに買うほどいい本ありましたか!」とビックリしたら「多田道太郎さん宛の献呈署名本がたくさん出てたんで」との答え。山田稔さんの本もあった。

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あとはぶらぶら会場をめぐる。何人かの知人と立ち話。そのあと正午に善行堂らと六人で進々堂へ。黒田辰秋の長テーブルが空いていた(大人数だといつも庭の席なので珍しい)。アパート水漏れ事件の顛末を聞きながら昼食。ひどい話だが、これでエッセイ一本書けるでしょう。

食後、他の人は会場に戻るというので別れて、元田中の山崎書店の別店舗「月末土日堂」へ向かう。月末の土日だけ12時〜18時オープン。普段は倉庫になっているようだが、月イチで開店しているそうだ。東大路に面した旧店舗のあった場所のちょうど向い側、東大路の一本西側の通り、マンションの一階。左京区田中西大久保町50-3メゾンド・ヴィルタカノ。電話は075-762-0249(山崎書店)。

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ここでもなかなかの二冊を発見。そのうちの一冊、表紙だけ紹介しておく。状態は良くないので安くしてもらった。

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『Dada. Zürich, New York, Paris, Berlin, Köln, Hanover』(Stedelijk Museum Cat. 199, 1958-1959)。ダダ百年なので(?)うれしい。

帰途、思文閣ぎゃらりの「戸田勝久展 いつかどこかで」へ。いつもながらの爽やかな戸田ブルーに古本の垢を洗い流されるようだった。ちょうどこれから句会があるという俳人ご夫妻が来場しておられて、戸田さんに紹介されて少しお話。善行堂をご存知だった。そこで百万遍で求めた蔦雨散人『浮巣集』(天保六年序)という幕末の合同句集を見てもらう。現代俳句の人たちは江戸期の版本をご存知ないようなので面白がっていただけた。百池という名前を見つけて「百池って、あの百池?」。

 結構な二百十日や遠きぬた  八十八翁 百池

気づかなかったが、たしかにこれは寺村百池だろう。京都の糸物問屋の主人で与謝蕪村に俳句を円山応挙に画を習っていたという人物。蕪村の百池宛書簡が多く残されている。天保六年の年末に歿しているから間違いない。他にも有名な人が参加していれば面白いのだが。ギャラリーを後にすると小雨がパラパラ。空模様はいまいちながら収穫には満足の一日だった。

by sumus2013 | 2016-10-29 17:48 | 古書日録 | Comments(2)

マザリナード集成

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パリの学士院とマザリーヌ図書館


東京大学の総合文化研究科駒場博物館で開催中の特別展「東京大学コレクション『マザリナード集成』」をご覧になった某氏より《結構娯しめました》という報告を頂戴した。パリにしげしげ通っているわりにはフランス史については無知なのでマザリナード文書(LES MAZARINADES)といってもなんのことやら。マザリナードというのだからマザランと関係あるのかな、というくらいの認識だったのだが、某氏の展示について報告を読ませてもらうと、たしかになかなか面白いそうな展覧会である。

ごく簡単に言うと十七世紀中葉、フランス宮廷で権力をふるっていた宰相マザランの三十年戦争などにともなう重税政策に業を煮やした貴族および民衆による反乱が起こった。それがフロンドの乱(La Fronde, 1648-53)である。その時期に、両陣営から様々な文書が出版され、それがまた大受けして類似書が多数出版されたそうだ。ポン・ヌフあたりの行商人の本屋がそれらを販売しており初刷は二〜三百部で版を重ねて千部を超えるものもあったとか。マザラン自身もそれらの文書を蒐集して、読みながら朝食をとったのだとか。マザランと関係なくてもマザランとタイトルに入れれば売れたというから人気のほどは察せられる。マザランは何度も国外へ逃亡をはかりながら(といってもイタリア人なのだが)最後には王党派の勝利となりルイ十四世の絶対王政が開始されることになった。ある意味、フランス革命の序章というか、その種が播かれたということなのだろう。

詳しくは東大のサイトなどをご覧いただきたいが、その文書が具体的にどんな姿なのか、国際マザリナード文書研究サイトには画像つきのカタログページもある。ごく一部、マザランの名前が見えるタイトルページを引用してみる。

RECHERCHES INTERNATIONALE SUR LES MAZARINADES


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東京大学コレクション『マザリナード集成』

ところでどうして東大に大口コレクションが入ったのかというと某氏のメールにはこうあった。

《東大のコレクションは丸善の斡旋で、昭和の末に国庫補助を得て四千五十万円でオランダの古書籍業者から一括して買い入れられたものだが、この国費負担予算が通ったのは当時の貿易黒字問題解消を図るための国策の一環だった由》

貿易黒字解消とはなつかしい響き。一九七八年購入というからバブル前夜ではあるが、一ドル200円を突破したと騒いでいたまさにその時代の遺産であったか。買い入れ以来誰も手をつけていなかったものが、何十年かを経て今ようやく陽の目を見ているというわけだ。何でも買えるときに買って取っておくものだなあ……。


by sumus2013 | 2016-10-28 20:41 | 古書日録 | Comments(0)

添水句集

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処女句集の話題を取り上げた翌日、こんな本を買った。所用で街中へ出たついでにのぞいた某書店にて。二冊揃っていた。奥付を引き写しておく。

添水句集
 昭和五年十二月十五日印刷
 昭和五年十二月二十五日発行
   京都市中長者町室町西入
 発行兼編輯人 野崎添水
   愛知県幡豆郡西尾町中町四八
 印刷人 富田富[ママ]三郎
   愛知県幡豆郡西尾町中町四八
 印刷所 うしほ印刷所
   京都市中長者町室町西入
 発行所 林鐘社


添水第二句集
 昭和七年六月十五日印刷
 昭和七年六月二十五日発行
   京都市中長者町室町西入
 発行兼編輯人 野崎添水
   愛知県幡豆郡西尾町
 印刷人 富田兼三郎
   愛知県幡豆郡西尾町
 印刷所 うしほ印刷所
   京都市中長者町室町西入
 発行所 林鐘社


野崎添水の私家版。どういう人物かは検索してもあまり詳しくは分らなかったが、京都の画家で俳句は『懸葵』の中川四明に師事したようである。句集の方に「申込者芳名」というリストと謝辞があり、発行部数は二百だったことが分る。他には函館師範学校の関屋盛一、越後柏崎の大倉清一、越後塚山の長谷川楽水、函館の笹本如九、東京の林田曉見、大津の木村芳翠、門田史湖らに特別な声援をもらったとしてある。

印刷人の富田兼三郎は富田うしほと名乗る俳句仲間であろう。村上鬼城の弟子だったらしい。

俳人鬼城、逝く
富田は西尾市の印刷業者で、大正3年(1914)25歳のとき鬼城に弟子入りし、鬼城を7回も西尾市に招いて直接指導を受け、月刊俳誌「山鳩」「若竹」を発行しました。また、鬼城臨終の時も含めてたびたび高崎を訪れています。

号は添水「テンスイ」だろうか、普通は「そふづ」。前書きで固有名詞の出ている俳句をいくつか引いてみる。

   真如堂の畔に某友の画室を訪ねて
 花の鐘筆洗ふ水のくもりかな

   對池兄と落柿舎を訪ねて
 閑談の中に蛙の唄の節

   寺戸なる卯之助氏の陶房を訪ねて
 陶窯の煙りやほそき梅の月

   元井三門里氏の絵更紗画塾にて一句
 絵更紗や遅日の筆を弄ぶ

   柏崎 洞雲寺に遊ぶ
   閑月老師、涓潤師、對池兄、添水
 寝転んで話すに涼し松の風

   画人近藤氏と語る
 耳澄むや常磐木のみの庭の面

   蓬軒子を悼む
 ものたらずなりし木幡の夏霞

   史湖子と吟行して
 蜩や山の陽のこる三井の鐘

   痩石翁の上洛を迎へて
 秋灯の僅かの酒に夜の更けし

   伊賀友田の里なる深井國手の邸にて
 霧雨や鐘に暮れゆく山館

 
卯之助は陶芸家の河合卯之助。元井三門里は絵更紗の作家。涓潤は上杉涓潤、柏崎天輪寺住職で「貞心尼雑考」などの論考あり。蓬軒は埼玉県比企郡嵐山町の俳人か。痩石翁とあるのは新潟の画家・山岸痩石であろう。對池兄とはとくに親しかったようだが、誰なのか分らない。

俳句は絵描きだけに見たままの素直な作風である。

by sumus2013 | 2016-10-27 21:20 | 古書日録 | Comments(2)

続処女句集

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『本の手帖』第七巻第七号(昭森社、一九六七年九月一日)と第八号(一九六七年一〇月一日)。特集は「処女句集」と「続処女句集」。

《今まで六年間を過ごしても触れ得なかった俳句について試みた特集ですが、時間をかせいだだけの効果はごらんの通りです。しかもたいへんな皆さんの協力で厖大な量と成り、二分冊にせざるを得なくなりました。》(第七号「dessert」)

本の手帖

まず続の方から石塚友二「石田波郷処女句集に就て」を読む。波郷の処女句集を『鶴の眼』だと思っている人が多いと始まる。しかし、それは処女句集ではなかった。

《処女句集は、大正十一年[昭和十年の誤植]十一月五日発行の奥附を附した『石田波郷句集』である。発行所は東京市渋谷区神宮通二ノ一五の沙羅書店。『鶴の眼』の発行所も同じ沙羅書店で、これは私の経営する小出版社であつた。

石塚友二

石田波郷句集』は、四六判、九十頁といふ小体な句集である。頁数の少なさを補ふ為に確か百斤だつたと思ふが、厚い上質紙を使用し、厚いボール紙を以て表紙とし、箱入といふ体裁であつた。っこの箱も、著者の意見から、普通の差込式の他に、箱蓋式のを半分ほどの割合で使用したこと等も異色といへば異色であつたらう。
 一頁平均三句組、これも著者の希望で、天地は揃へぬといふ組方、使用活字は明朝四号であつた。これは、印刷所にポイント活字の備へがなかつたからである。何でも、タイプライター式の機械植字で、組上りが、普通の文撰植字の工程に比し余程速いといふのが触込みであつたやうに思ふ。その工程の単純さに比例して頁当りの料金も低廉である、といふ言ひ方でもあつたやうだ。組代は五十銭以下だつたらう。
 定価は一部一円三十銭、部数は三百であつた。当時としては比較的に高い定価である。しかし、部数が三百であり、仮に全部が売れたとしても、莫大な儲けとなるといふやうなものではなかつた。何しろ、無限の前途を約束された大才といつても、漸く数へて二十三歳といふ著者であり、また、心ある人の目に認められつつあるといつても、読者の対象は「馬酔木」の範囲に止つてゐる。》

タイプライター式の機械植字というものが昭和十年当時すでに登場していたのだ。

石田波郷句集』は、その全部が発行所で無くなるまで、凡そ二年間を要した。四年後に、同じ著者に依る句集『鶴の眼』(定価一円六十銭、部数五百。)が、半年も待たず売切れるといふやうなことはまだ考へられなかつたのである。

その四年間に雑誌『俳句研究』(改造社)の二代目編集長・石橋貞吉がホトトギス王国に対抗する新しい俳壇を出現させたそうだが、その石橋が石田波郷にスポットライトを当てたということらしい。

この記事の次に香西照雄「中村草田男『長子』」が続いている。『長子』も沙羅書店から出たものだった。

《昭和十一年十一月に俳人石塚友二氏の経営する沙羅書店から頒価一円八十銭で出版された。四六版[ママ]、箱入。三〇二頁。一頁二句組。初版千三十部の中、三十部は背皮装舶載紙の特製本である。》

富本憲吉の装幀だった。部数がその貫禄の違いを表わしていると言えるのだろう。草田男はちょうど波郷のひと回り年長。同じ松山中学(現・松山東高校)の先輩後輩になる。そうそう波郷は洲之内徹と同窓のはずである。

by sumus2013 | 2016-10-26 21:02 | 古書日録 | Comments(0)

花森バースデー

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本日十月二十五日は花森安治の誕生日。明治四十四年(一九一一)生まれ。よって生誕一百五年に当る。小生架蔵のなかではいちばん古い『美しい暮しの手帖』第三号(衣裳研究所、一九四九年四月一日)を取り出して、花森の仕事を偲んでみた。この号は『暮しの手帖』史上で唯一の汚点(?)、ゾートス化粧品の広告が裏表紙に掲載されている。

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これについてはいろいろ憶測されているようだが、暮しの手帖社のHPでは以下のように説明されている。

『暮しの手帖』たったひとつの広告について

花森が大政翼賛会に在籍していた頃、報道技術研究所のデザイナーだった山名文夫といっしょに国策宣伝のポスターを作ったりしていた(津野海太郎『花森安治伝』年譜による)。そんな旧知の山名が窮状を察して助け舟を出したのだろうか。いずれにせよ、このデザインはどう見ても山名らしくない。やぼったい。以前紹介したこちらの方がずっとスッキリしている。


山名は生活社から『宣伝技術』(一九四三年)を刊行している。これは花森と生活社の関係から実現したものとも推測されるが、生活社と言えば、河津一哉・北村正之『「暮しの手帖」と花森安治の素顔』(論創社)が刊行されたという記事を日本の古本屋メールマガジンで読んだ(河津氏には『花森安治装釘集成』でもたいへんお世話になりました。お礼申し上げます)。

天才編集者花森安治のもとで薫陶を受けた日々をふり返る
ここにこのように書かれている。

鐵村はその「東京社」に勤務ののち、1937(昭和12)年に「生活社」を創業している。『婦人画報』だけでなく、『スタイルブック』の編集にも係わっていたようだ。つまり、翼賛会時代に花森は、これらの雑誌づくりのノウハウを鐵村から学び、『婦人の生活』を企画編集したと考えられる。

これは『「暮しの手帖」と花森安治の素顔』でインタビュアーをつとめた小田光雄氏の推測であるという。う〜ん……婦人雑誌すなわち生活社から出た『婦人の生活』シリーズを編集することになって花森は既存の雑誌を参考にしたとは思うが、鐵村からそんなに学ぶことがあったのだろうか、とも思わないでもない。具体的には小田氏の論旨をつぶさに読んでみなければならないが。

それはともかく『美しい暮しの手帖』の広告に話を戻すと、これもたまたま架蔵する第五号(一九四九年一〇月一日)の「あとがき」につぎのように書かれている。

《やっと、ここまで来ました。初めて、この雑誌を出してから、やつと一年たちました。雑誌のいのちから言つて、一年は短いものでしようけれど。私たちには、苦しい長い一年でございました。
 いまどき、そんな雑誌を出せば、三号も経たぬ中に、つぶれてしまうと言われました。真面目すぎて売れないだろうとも言われました。止めた方がいいとみなさんが言つて下さるのを、振り切るようにして、第一号を出し、第二号を出しました。親兄弟の反対を押し切つて結婚する、そんな気持ともうしましようか。ただ一すぢに、私たちの心の中の、強いものを信じる思いでございました。
 第一号は赤字でした。第二号も赤字でした。今だから申せるのですが、そのために昨年の暮は、正直に申して生れて初めて、私たち、お餅をつくことも出来ませんでした。どうぞ、つぶれないで下さい、というお手紙を、あんなに毎日いただくのでなかつたら、どんなに私たちが意地を張つても、やはり第三号は出せなかつたことでしよう。》

署名は(S)だから大橋鎭子だろう(?)。安堵と覚悟の感じられるいい文章である。広告が喉から手が出るほど欲しかった……に違いない。

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『婦人の生活』シリーズにも共通する目次の構成。

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花森得意の「直線裁ち」の見開き。これは学生時代からのアイデアらしい。

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おや、と思ったのは「昼はソファに/夜はベッドに」という一頁の記事が島崎八郎の名義となっていること。島崎は島木健作の兄で神田神保町の喫茶店「ラドリオ」オーナーでその二階が自宅だったらしい。本郷の古書店・島崎書院(八郎が養子に入った家、島木の本名は朝倉)の神保町店だったという。本郷は空襲で焼けて神保町は残ったそうだ(なお拙著『喫茶店の時代』では島木八郎と誤っているので訂正しておきます;p203)。

本文はエッセイが三分の二ほどを占めて、挿絵は多いものの、見る雑誌というより読ませる雑誌となっている。執筆陣も幸田文、壷井栄、福島慶子、片山廣子、網野菊、田村秋子、長谷川春子、森田たま、松本千恵子らの女性がおおよそ半数を占めるのも当時にあっては異色だったかもしれない。

花森自身は「服飾の読本」を連載している。これがまたいいたい放題の反骨漢を彷彿とさせる。

《どうして、街を歩くときは、あかるい色のスエタアを着るのに、学校へ行くときは、ドブネズミのような色の服を着てゆかねばならないのだろうか。》《ペストやコレラのように、あかるい色や美しい色を、恐れるのであろうか。》(通学服は花のように)

《どういうものか、学校を出たてのひとは、紺という色が嫌いらしいが、これは、おそらく学校時代に、あまりにも着なれた色であり、学校を出たからには、もう見向きもしたくないという気持からではないかとおもう。
 しかし、紺はいい色である。ことに、二十才前後の若いひとにはいい色である。》(若いひとには紺)

ううむ、矛盾しているようで一貫した主張、ようするに世間の常識には反対(あるいは見直す価値あり)ということなのであろう。



by sumus2013 | 2016-10-25 21:13 | 古書日録 | Comments(0)

花森安治装釘集成大詰め

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みずのわ出版
http://www.mizunowa.com
〒742-2806 山口県大島郡周防大島町西安下庄、庄北2845
Tel/Fax 0820-77-1739
mizunowa@osk2.3web.ne.jp


『花森安治装釘集成』唐澤平吉・南陀楼綾繁・林哲夫編
2016年11月出来
B5判並製288頁 収録タイトル500点超 カラー図版約1,000点
松江高校時代から戦前戦中戦後の装釘作品をほぼ網羅
税込予価 8,640円(本体8,000円+税640円)
ISBN978-4-86426-033-6 C0071 ¥08000E

・本が出来次第、郵便振替用紙同梱でお送りします(送料無料)。
書籍の到着から10日以内を目処にご送金をお願いします。
恐れ入りますが、郵便局への御足労と、振替手数料はご負担願います
(窓口よりも、ATMを使ったほうが手数料が安く上がります)。
・銀行振込をご希望の場合、別途見積書、領収書等が必要な場合は、
その旨お知らせください。
・代引サービスは取り扱っておりません。あしからずご了承ください。


* * *
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う〜む、とうなる細かい直し。
これが最後の難関だと気を引き締める。


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束見本届きました!


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ただいま三度目の校正を行っている。六年越し、ようやくのことでほぼ完成形になったわけだが、情報量が多いため誤植などのチェックを出来る限り万全にと思って取り組んでいる。上掲のようなチラシもできた。版元に直接ご予約いただければ送料サービスです。


みずのわ出版
http://www.mizunowa.com
〒742-2806 山口県大島郡周防大島町西安下庄、庄北2845
Tel/Fax 0820-77-1739
mizunowa@osk2.3web.ne.jp

by sumus2013 | 2016-10-25 19:36 | 装幀=林哲夫 | Comments(2)

古本屋ツアー・イン・京阪神

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小山力也『古本屋ツアー・イン・京阪神』(本の雑誌社、二〇一六年一〇月二〇日、造本=真田幸治)。これは、すごい。岡崎氏の『気まぐれ古本さんぽ』もすごいのだが、タイトル通りの気まぐれな案内というところで紹介の文章で読ませるスタイルだ。本書は古本屋ツアー・イン・ジャパンでおなじみのように紹介文も軽妙、そこに加えて網羅性と即時性がある。すなわちどの店の情報も今すぐに使えるまさにリアルタイムの案内なのだ。

小生はもうほとんど古本屋めぐりということから足を洗ったのではあるが、京都の古本屋はときどきのぞいている。そうするとどうしてもやはり行きつけの店にしか足が向かない傾向があり(要するに年を取ったということなのだろうが)地元京都の店舗情報にもすっかり疎くなっており、知らない店が多くてビックリしてしまった。また、既知の店についてでも、日本一場数を踏んでいる(?)だけのことはある、その評価の的確さには納得させられた。たとえば平安神宮そばの「古書 HERRING」についての

《ギシギシミシミシ色々な所を鳴らしながら、手元も良く見えない薄暗い中で本を探し求める姿は、まるで自分自身が形而上の怪物に変貌したような錯覚を起こさせる。それほど様々な方向から、人と世界の秘密を探求するような棚造りは、冥く、魅力的である。値段はしっかりのスキ無しタイプ。読売新聞社『かぼちゃと風船画伯/吉田和生』を購入する。表に出て靴を履くと、日光がことさら目に沁みる。思わず元の暗闇に引き返したくなる、強烈さである。》

などという描写はみごと。ヘリングさん、もう少しスキを作っておかなきゃ……元コレクターの店というのは、自分がスキを狙う人間だっただけに、抜かれたくないという気持ちが出てしまいがち。開店してからある程度時間がたったので表の均一に多少スキを作ろうと試みているようであるが、いまだし、今後を期待しているところ。

六甲の口笛文庫も引いておこう。

《非常に良いお店である。店内はわりと本の山なのだが、基本的には整頓は行き届いており、だからこそ理知的にそれほど労力を使わずに、本を掘り出すことを楽しむことが出来る。そしてこのお店の根っこが古書で固まっている感じが、たまらないのである。値段は嬉しい安め。それほど人通りのない坂の途中なのだが、お客さんが次々と飛び込み、ちゃんと本を買って行く。地元に愛されているのが、短い間でもひしひしと伝わってくるのだ。……あぁ、ずっとずっと古書を漁っていたい。底の底まで。面白い本にたどり着くまで。》

まったく同感である。

もちろん大阪の案内も充実しているし近県も歩いている。労作である。善行堂との千林ツアーも面白く読んだ。制作日記もおもしろく、巻末の地図も分りやすい。掲載写真にも工夫があり、カバーの折返し、および奥付頁に「KOYAMA」というレッテルも配されている(誰かの本にもあったなあ、笑)。まれにみる古書店案内!

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by sumus2013 | 2016-10-24 21:29 | おすすめ本棚 | Comments(0)

小寺鳩甫と酒井七馬

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京都国際マンガミュージアムで「小寺九甫と酒井七馬 『大阪パック』から「新寶島」まで」展を見て、トークイベント「酒井七馬というマンガ家が大阪にいた。」を聴く。展示は少々見にくい感のなきにしもあらずながら、内容は素晴らしい。漫画好き(とくに大阪漫画)、古本好きなら必見である(サイトでは十一月八日までとなっているが、十三日まで会期延長するとか)。

トークイベントは中野晴行氏と柳たかを氏が登壇。柳氏は西上ハルオが中心になって大阪の若い漫画好きを集めて刊行した『ジュンマンガ』に参加した経緯から、酒井七馬との出会いを語った。『ジュンマンガ』(文進堂、一九六九年)は酒井七馬の寄稿をあおいで刊行される予定だったが、酒井の約束した漫画は結局仕上がらず、そのせいもあって、かろうじて創刊号を出しただけで終わってしまった(酒井は創刊の言葉だけ寄稿)。掲載されている幾つもの漫画論は西上がペンネームですべて執筆したという。それらの若者たち「ジュンマンガサークル」のメンバーは奈良のドリームランド(なつかしい! 小学生のときに訪れた記憶がある)や大阪万博の会場で似顔絵などのイベントを開催したのだが、その後自然解散してしまったようである。

途中で三邑会(さんゆうかい)の女性の方による紙芝居上演があった。酒井七馬(さかいしちま、ペンネーム:佐久良五郎)作「少年ローンレンジャー」、小寺九甫(こてらきゅうほ、ペンネーム:熱田十茶=あったとさ)作「孫悟空」、そして柳たかを作「THE WAY オズの魔法使いより」。それぞれ第一巻のみ。だいたい一巻十枚で十巻、十五巻という構成になっているそうだ。「この続きはまたあした!」と言われると、ええ〜と会場から失望の声が。かなり前の作品だろうと思うが、絵の保存も良く、じゅうぶん楽しめる内容だった(むろん口上があってこそ)。

中野氏には『関西の出版100』でお世話になったので終了後にご挨拶(直接お会いするのは初めて)。京都国際マンガミュージアムはその名の通り外国人の来場者でごったがえしていた。とくに売店の付近でうろうろしているのはほとんど外国の人たち。カバンがぶつかって思わず「パードン」と言ってしまった(!)。日本のマンガ力・アニメ力をあらためて実感させられた思い。




by sumus2013 | 2016-10-23 19:57 | もよおしいろいろ | Comments(0)