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ショパンの肖像

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『日佛藝術』第二十七号(日佛藝術社、一九二七年八月一日)。標題の字は中村不折だろう。河東碧梧桐にあの特徴的な六朝風の書体を示唆したのは不折だという。日佛藝術社は黒田鵬心が三越を退社して(一九一八年よりPR誌『三越』を編集していた)フランス人の画商デルスニスとともに一九二四年に設立した。フランス美術の紹介、作品販売を行った。しかし経営が大胆過ぎたようで早くも一九三一年には解散している。

表紙には東京(日本橋三共ビル)とパリ(73, RUE NOTRE DAME-DES-CHAMPS)の住所が記されている。このノートルダム・デ・シャン通りというのはモンパルナス、ヴァヴァンの近くで昨年の滞在時にも頻繁に通ったところ。

パラパラッとめくっていると児島喜久雄の「ショパンの肖像」という文章が目に留まった。というのはついこの間、ショパンのCDを買ったばかりだったから。アシュケナージの「FAVOURITE CHOPIN」(1983, The Decca Record)。収録されている演奏は一九七五年から八〇年にわたって行われたもの。ショパンのモダンさがよく分る演奏のような気がした。

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児島はショパンとドラクロワの親交の様子をドラクロワの日記から拾いながら説明している。

《ドラクロワがジヨオルジ・サンドと交際し初めたのは何年頃だか分らないけれども、有名な男装の肖像は既に一八三三年に描かれて居るのだから、其時よりも相当前からのことに違ひない。従つて、彼がシヨパンを知るやうになつたのもジヨオルジ・サンドが一八三七年リストの紹介によつてオテル・ド・フランスで初めてシヨパンに遇つた時から遠くないことゝおもはれる。ドラクロワはそれ以来、シヨパンと深い交りを結んで死ぬ迄変らなかつた。

《一八三八年の七月八月頃にはシヨパンは屢々リウ・デ・マレイ・サン・ジエルマン十七のドラクロワの画室を訪ねてピアノを弾いたらしい。ドラクロワは其為にプレイエールのピアノを借りて居た。》

《[一八四七]六月一日には三時にシヨパンのところの会合に出た。「彼の演奏は非常だつた。誰かゞ彼のトリオを弾いた.其後で彼自身夫を弾いた。素晴らしい演奏だつた』》

ジヨオルジ・サンドとシヨパンの関係が断絶した翌々年一八四九年の一月二十九日の晩には、シヨパンを訪ねて十時まで話して居た。『実に立派な人間である。吾々はマダム・サンドの事を話した。あの奇怪な運命を背負つて居る女、善と悪との混合した性格について話した。》《自分がマダム、サンドの晩年は不幸だらうと言つたら、シヨパンは反対だつた。彼女の友人達が非難するやうな事も彼女の良心は一向咎めない。彼女は丈夫だから長生するだらう。彼女の感情を深く動かし得る唯一の事柄はモーリスが死ぬか又はやくざ者になつた場合だけであると云つた。》

モーリスはサンドの子でドラクロワの弟子だった。

《[一八四九年四月]十四日の晩にもシヨパンを訪ねた。ショヨパンは非常に元気が無く苦しさうだつた。暫く話して居るうちに段々回復して来た。シヨパンはアンニユイが一番耐へ難い苦痛だと言つた。ドラクロワはシヨパンに自分は時々堪らない空虚を感じることがあるけれども、君は之迄そんなことはなかつたかと尋ねた。シヨパンは自分はさういふ時はいつも何かしら為て居るやうにして居た。つまらないことでも為て居れば時間が潰れて気が紛れて行く。然し悲哀はまた別のものであると言つた。》

《十月二十日昼食の後で、シヨパンの死んだ知らせを受けた。『不思議だ。今朝床を離れる前自分は其考に襲はれて居た。かういふ予感に出遭つたのは之で数回になる。何といふ損失だ。此美しい魂が亡びて行くのに下劣な奴等が場塞げをして居るとは!』》

ショパンの死んだのは十月十七日早朝だった。

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《ルーヴルには尚リースネエルの寄贈にかゝるドラクロワのシヨパンの顔だけの素描もある(挿絵参照[本誌の挿絵はモノクロ、上はネット上より])。黄色い紙に鉛筆で描いて光の部分を白絵具で塗つた〇、二七米突に〇、二一米突大の丁寧な写生である。》


by sumus2013 | 2016-01-31 20:49 | 古書日録 | Comments(0)

鮎をきゝに

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久しぶりに阪急六甲へ。MORISさんで開催されている「河東碧梧桐」展を見る。ほとんどは遅日草舎の出品物だそうだ(販売しております)、なかに戸田勝久さんの所蔵品や書籍が並んでいる(こちらは非売)。屏風もあり、磁器もあり、「これは珍しい」と戸田さんのおっしゃるマクリの書まで。戸田さん製作の『河東碧梧桐の書』というヴィジュアル・ブックも見事な出来だ(販売中)。碧梧桐、嫌いではなかったが、それほど惚れ込んでもいなかった。今回の展示を見て認識を改めた。碧梧桐は無理でもお弟子の短冊くらい手に入れたいものだ……。

口笛文庫をのぞいてから、これまた久しぶりに心斎橋へ向かう。心斎橋ではヴォリーズの大丸を取り壊すという愚挙が行われようとしていた(営業していなかった)。心斎橋筋は押すな押すなの人ごみ。外国の方々も多いようだった。小大丸のビルの画廊で某会の懇親会があったので参加。某氏の驚くべき掘り出し作品を目の当たりにして愕然とする。小生が定期的にのぞいている古書店で入手したというのだ。ショック!

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河東碧梧桐
2016年1月30日(土)〜2月7日(日)

MORIS
http://moris4.com/exhibition/



by sumus2013 | 2016-01-30 21:39 | もよおしいろいろ | Comments(0)

月の輪書林古書目録を一考す。

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かわじもとたか編著『月の輪書林古書目録を一考す。』(杉並けやき出版、二〇一六年一月二〇日)を頂戴した。深謝です。

昨年十一月、善行堂でかわじ氏にお会いしたとき月の輪書林の目録についての本を準備しているとおっしゃっておられた。単独の自家目録でなく合同目録をまとめるとうかがい「それは素晴らしい思いつきです!」と感激した。要するに勝手に合同目録の月の輪ページ全再現を妄想したのだ。しかし正気になって考えてみると、さすがにそれは不可能事だ、そんな本できるはずはない(ただし「日本古書通信・稲垣書店目録」を作った方がおられると本書にもあるように物理的には可能です。誰かいませんか! 月の輪書林目録の場合は書名の並びおよびその書体にも意味がありますので全頁複写でないといけません)。

本書によればかわじ氏が精査したのは「趣味の古書展」「本の散歩展」「五反田古書展」「五反田遊古会」目録のうちの131冊。氏の琴線に触れた様々な書物類(もちろん月の輪書林が出品したもの)の情報およびそれらに対する氏のコメントがこの一冊にまとめられている。

《不備もあるがあえてここでは手持ち分だけにする。月の輪書林に確認して不備な部分を補完すればいいのだが、思いつくままに選んだ本にこだわりたいからである。「こっち」の感性と「あっち」の感性が入り交り生れた「そっち」や「よっち」の本だということである。》

「あとがき」によれば氏はそもそも売立目録を集めようと思いついたそうだ。しかしそれはすでにまとめた人が存在していた。そこで古い古書目録を集め始めたという。

《いつごろから写真版が付くようになったのだろうか、小説類がメインになってきたのはいつか、本の値段の動きなど、処女出版本の値段は?とかである。水谷不倒の『明治大正古書価之変遷』を知ったのもその頃だ。そうした中で面白目録を見出したのがなないろ文庫ふしぎ堂という変った屋号と月の輪書林の目録である。その前に背文字屋書店古書目録も新聞で知って取り寄せている。室蘭にあった古書店で一号(1980年秋)だけで終っている。目録を構成し編集しているのだ。これは図書に関する新聞かでみて注文したのだが、私にとってはみごとなものだった。主人の意図のあらわれた目録は楽しい。》

背文字屋書店古書目録……たしか郷里の書庫にあったような気もするが(うろ覚えながら)、そんなに貴重な目録だったか。今度探してみよう。




by sumus2013 | 2016-01-29 20:31 | おすすめ本棚 | Comments(2)

建築資料共同型録

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『建築資料共同型録』(建築資料協会、一九二五年八月三一日)。建築資料協会の会長(=本書の発行人代表)は内田嘉吉。逓信官僚、政治家、第九代台湾総督、貴族院議員。随筆家内田誠の父親である。巻末の名簿によれば建築資料協会には百三十五の会員(団体)がいた。

大正十四年八月末発行は関東大震災より丸二年に当るわけだが「はしがき」によれば震災直後に建築資料協会は創設された。先行する同様のカタログには府立商工奨励館が刊行していた『建築資料』があったが部数が少なかった。そこで共同型録の出版が計画されここに《我国に於ける第一次共同型録の創成を遂げ》たのだそうだ。部数は三千。内地および植民地の官公庁などおよび建築土木関係者に配布され一部は販売することになった。編集においては米国のスウヰーツ型録にならった。

畑違いなので目に留まった図版だけ並べてみる。今日用いられている資材の多くがこの時期には出揃っていたことが分る。例えばアスベストやモルタルも画期的な耐震耐火材として各種の製品が製造されていた。

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「日ノ出石御使用ノ建物 安田家寄付東京帝国大学大講堂新築設計図」
日ノ出材工業所


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タイルとテラコツタ
淡陶株式会社


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各種堅練色ペンキ
小泉塗料製造所


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ドライヤ 所謂乾燥剤で金鵄印ドライヤ
帝国塗料株式会社


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不二塗料株式会社


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震災後の東京府立第三高等女学校に於ける我社洋瓦と普通瓦との被害比較
(中央の写真)
日本洋瓦株式会社


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田中式D号木骨装置 松竹キネマ蒲田撮影所
田中商会


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神田橋側 復興局全景 大正十三年九月竣工
東洋鉄網製造株式会社


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大野式防火巻上ケ戸[シャッター] 大災奏効実例の一二
大野正営業所


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コンクリート混合機
キューブ式ミキサー 可搬式ガソリン発動機直結
門田商店


以上はごく一部。まだまだ興味深い建築資材や各種装置、建具類、施行機械まで、たいていの品物は載っている。今日に続くものも多いが、もちろん時代を感じさせるものも少なくないし、全体のデザインがやはりアールデコの雰囲気を漂わせているのも面白い。かなりの古書価がついているのもむべなるかな。

by sumus2013 | 2016-01-27 20:01 | 古書日録 | Comments(0)

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『壺』第八号(提壺会、一九三四年七月一日)。編輯兼発行者は吉田博一。発行所住所は兵庫県武庫郡精道村芦屋字樋口新田七一四、吉田の自宅であろう。国会図書館に創刊号から十号(終刊)まで所蔵されている。陶磁器の雑誌かとも思われるが、内容的にはもっと総合的な芸術随筆を集めた編輯である。本号の目次を掲げておく。

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昨日に引続いてパリネタ。椿貞雄「パリ行」を簡単に紹介してみる。椿がパリへ渡ったのは昭和七年のようだ。《子供達の貯金迄かき集めての貧乏旅行》なのに為替レートが悪くなって《パリに居る内に日本の金が半分になつたのだから不運と言へば不運と言へる》。

《パリでは急に帰国する人があつてバス台所付きの素晴しい最新式のアパルトマンを安く譲り受け、それも一階に住んでゐたのだから豪盛なものだ。あんなアパルトマンのしかも一階に住むなぞと言ふ事はブルジヨアでなければ到底出来ない事なのだ。それにフランス語の先生に早速来て貰ふし、モデルを使つて勉強もする悠々とカフエーへも行くし、たまには晩食を人におごつてもやつたし、少々は金も貸してやつたし、それに運のよかつた事は、パリに行くと間もなくオランダにレンブラントの大展覧会とゴオホの大展覧会があつて、英国や独逸迄出掛けなければ見る事の出来ない絵を一遍に見る事が出来たし、スペイン及イタリーをミラノからナポリ迄は見て来たし、それにパリではマネーの大展覧会があり、ヒカソ[ママ]の二年振りの最近作と一緒に初期からの作品を集めた大展覧会があつたし、帰へる前リユドセイヌのカルミンと言ふ画商で僕自身の個人展覧会を半月間開催した。》

《何しろパリのパンとコーヒーは実にうまいから(僕の知つてゐる限りあんなにうまいパン、コーヒーは無い)それを齧つても簡単に済ませるが、僕はイタリー米を買つて来て自炊をやつた。味噌も醤油もカツヲブシも味の素も売つてゐるし、器用な人はパン屑とビールの残りなどでヌカ味噌漬を造ると言ふ。》

《時々友人が僕のアトリエに集まつて鋤焼をやつたが、思ひ出すと懐かしい。しかしあつちの牛肉は変に水ツポくて味が悪るく日本の牛肉にくらべて段違ひにまづい。》

《兎に角僕は最初から美術のみの勉強に定めてゐたから、他の事で金を使ふ事を極力避けた。》《頭髪もカミソリでけづり落して間に合せた考へて見ればコーヒー一杯が日本の金で四五拾銭するのだから馬鹿に出来ない。》

昭和七年なら日本で飲むコーヒーは十銭から二十銭だったろう。為替レートが半分を考慮してもパリのコーヒーは高かったということになる。美術ではレンブラントの傑作を数多く見て腰が抜けたほどに感動した。ただしルーブル美術館の造りには感心しなかった。

《王宮をそのまゝ美術館としたもので採光が悪るいせいもあるだらうし、絵の陳列の仕方がゴチヤ[繰返記号]してゐるせいか実に見にくい處だ。それに絵の取扱ひや保存法にもあまり熱心でないらしく思はれたが、美術国と言はれるフランスの恥だと思ふ。凱旋門をみがき上たり、切角古びのついたオペラを塗りかへたり、フランスにもわけのわからぬ人間は相当多いと見へる。》

また和食についてこんな意見も吐いている。

《しかし料理は日本が世界一だと思つた。と言つても向ふの第一流のレストランを食ひ廻つたわけでないから大きな事は言へないが、何もかも油でいためて造る料理なぞは下の下と思ふ。日本の季節料理、ことにそのものゝ持味を大切にする事、そして食膳の構図や食器に対する神経、日本ぐらひ進んでゐる處はないと思ふ。第一日本のオツユぐらひ微妙で味の深いスープはどこにあると思ふ。》

昭和七年でも昨今と同じようなことを言う人間がいたのだと思うと興味深くはある(そう言えば魯山人も似たようなことを言っていたような気もする)。「料理は日本が世界一だ」などと日本人が言うとお国自慢にしか聞こえない。これはフランス人に言ってもらわなければならないわけで、そういう意味では最近になってようやく風向きが良くなってきたように思わないでもない。だからラーメンが流行っているねというのとはちょっと違うのだが、ま、それでもよしとするべきか。

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by sumus2013 | 2016-01-26 20:59 | 古書日録 | Comments(0)

話の特集

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『話の特集』第118号(話の特集、一九七五年一一月一日、表紙=横尾忠則「谷内(六郎)さん」)。某古書店に『話の特集』が数十冊並んでいた。ほとんどが横尾忠則の表紙。どれも魅力的だったが、いくら気に入っても全部買い締めるような気分の時代は通り過ぎたので一冊だけ選んで帰り、今は本棚に面陳して喜んでいる。横尾の仕事のなかではこの手の肖像写真をペンでなぞってハデに色分けしたイラスト群が好きだ。

面白そうな記事が並んでいる。写真付きの著者紹介ページ、みんな若くて驚いてしまう(例えば黒柳徹子…)。パリという文字で目に留まったギリヤーク尼崎のエッセイ「パリに踊る」を紹介しておこう。七五年の七月七日朝、ギリヤークはアンカレッジ経由でドゴール空港に到着。バスで市内に入った。

《パリの朝は好きだ。
 朝食後、場所探しに出かけた。ルクサンブルグ公園、コンコルド広場、その他パリ市内の名所は、観光客で一杯だったが、どこも警官の取締りがきびしく、とても踊れる状態ではなかった。日本をたつ時の不安が、あたっていた。でも必ず踊れる場所はあると思って必死になって探した。そして、七月九日午後四時すぎ、ソルボンヌ大学のある、サンミッシェルの路上で、『じょんがら一代』を踊った。この作品は、七年間の大道生活の中から生れた私自身の姿だった。赤いジュバンに白い袖なし羽織り、手作りの曲り三味線を背に、ボロ笠かぶり、朽木の杖とゴザを手に、テープレコーダーから流れる津軽民謡の音色と共に、寒風吹きすさぶ荒野の中を、とぼとぼ歩む、「日本人の押し込められた情念の世界」の踊りだ。

 狂気のように踊った。踊り終った時拍手が湧いた。いつの間にか、人垣が出来ていたのだ。投げ銭もあった。後かたずけをして、夢中でその場を去った。もう何がなんだか解らなかった。只間違いなく、パリで踊ったという実感だけだった。パリ警視庁の厳しい監視の目を盗み、街頭で踊ることは大へんだ。翌日から、サクレクール寺院広場、サンジェルマン通り、その他場所を変えて踊った。一回一回が緊張の連続だった。

 そして遂に、十三日の夕方、最もパリ祭の雰囲気のある、コントレスカルプ広場、トルティユ街の路上で、パリの夜を踊った。若者も、老人も、子供も、この日の為に生きていたように思えた。アコーディオン弾きや、ギター弾きの芸人が集まって来て、いやがうえにも景気を盛りあげていた。黒山の輪の中で、『芸人』、『白鳥の湖』、『じょんがら一代』、最後に赤フン一つで『念力』を踊った。四十四年間の生きざまを、必死に踊った。これしか私になかった。踊り終った時、拍手とアンコールで、しばし茫然としていた。突然ひげづらの男がとび出してきて、私の体をしっかり抱き、ホホにキスした。はずかしかったが、私は泣いた。そして嬉しかった。》

ところが、十五日、ついにシャンゼリーゼで警官に捕まって連行された。日本にいたことのあるフランス人のジャーナリストが同行して通訳してくれたので無事釈放された。出るとき警部は「シャンゼリーゼはパリの顔です。その衣裳はちょっと派手過ぎますね」と言った。その後アビニョンに出掛け、パリに戻って、最後の夜はモンパルナスで踊った。熱狂した見物人が胴上げしてくれた。……パリってそんな街だったのか。

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他には「おや?」と思わせる広告が載っていた。

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この手書き文字は横尾忠則だろうか? ある古本屋さんの文字に似てませんか。

by sumus2013 | 2016-01-25 20:36 | 古書日録 | Comments(0)

菊地康雄ノオト

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『木山捷平研究』増刊号(木山捷平文学研究会、二〇一五年一一月一三日)を頂戴した。御礼申し上げます。内海宏隆「菊地康雄ノオト 日本の浪漫と美を索めて」という論考が一冊になったもの。内海氏は前回は大西重利という無名の教育者を掘り下げておられた。

『木山捷平研究』増刊号

そして今回もやはり木山捷平と関係のあった菊地康雄の探求である。菊地は文学事典類にも短いながら項目の立てられている詩人、編集者だったから、探索はかなり広範囲にわたり年譜も詳細をきわめる。労作である。ここでは細かい紹介は省くが、興味のある方はぜひ本誌を繙いて頂きたい。

《唐突だが、さいきん富士正晴に興味がある。詩・小説・評論・随筆・絵画…多岐にわたる彼の為事のうち、私がもっとも興味を持つのは彼の遺した評伝の類だ。竹内勝太郎久坂葉子、桂春団治…ーーその多くは、かれの周辺にかつて実在し・その後忽然と姿を消した人物だがーーそうした人々のことを長い時間をかけて徹底的に調べ上げた上で、愛情と愛惜の念をもって描きあげる。富士正晴のそうした根気強い姿勢に私は心打たれるし、敬意を表するものである(だれにでもできる為事ではない)。富士正晴はそうした為事を「死者を立たす」という言葉で著わす(「死者が立ってくる」『軽みの死者』編集工房ノア、昭和六十年)。》(とりあえずの「まとめ」)

なるほど内海氏もまた《菊地康雄の魂を少しでも「立たす」こと》を試みておられるわけなのだ。

by sumus2013 | 2016-01-24 17:33 | おすすめ本棚 | Comments(0)

蝸牛廬句會

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昨年末に求めていたのだが、正月に紹介しそびれてしまった短冊。柿衞文庫(かきもりぶんこ)で俳画の展覧会が開かれるという案内を頂戴して思い出した。

 残る燈の町見下すや初詣  炭翁

状態もいいし、もちろん筆もよろしい。炭翁とは誰か? 林田安平(1873-1955)、本名松三郎、炭翁。鎌垣春岡に師事し漢詩人としても名を成した。池田史談会、同郷土史学会を設立。池田町長。書斎号を蝸牛廬文庫。林田家は炭商を業とし「群雀」という銘柄で酒造業にも携わっていたと言われ幕末にもっとも栄えたそうだ。

蝸牛廬文庫の成立


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短冊の裏面には「昭和八年一月」という記述の下に「蝸牛廬句會」の印がある。この印も洒落ている。

by sumus2013 | 2016-01-23 21:02 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

Reclam Universal Bibliothek

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本棚にレクラム文庫が二十冊ほどある。レクラムの表紙はいつ見てもスッキリしていて良いなと思う。以前にもすこしばかり紹介したことがある。


上の二冊は数年前に頂戴したもの。一九七二年の目録(左)と百周年の記念冊子(岩波文庫や岩波新書もこれを真似たような冊子を作っている)。一九六七年が百年目だとすれば来る二〇一七年は百五十周年にあたるわけだ。一九二七年創刊の岩波文庫も来年は九十歳になる。

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一九七二年目録の表2と扉。


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ライプチヒの繁華街グリマイシェ通りにアントン・フィリップ・レクラムが一八二八年に創業した「文学博物館」の図。そして下がアントンの肖像。どちらも百周年冊子より。

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一八六五年から一九五七年まで、レクラム文庫の表紙の変遷を示す図。上左端はレクラム文庫とまだ名乗っていなかった。上の右端は改造文庫が真似している。以下にそれ以後の表紙を四冊ほど。

1964 / 1960
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1958 / 1960
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このうちの一冊に円印が捺されており、それは「富士川英郎」と読める。だからこそこの六冊をまとめて残してあったのだと今ごろ気付いた。そうそう、同じときに頂戴したインゼル叢書はすでに紹介していたのだった。富士川蔵書としては雑本中の雑本だったのだろうが、やはりそれなりに嬉しいものである。

インゼル叢書 富士川英郎旧蔵書

by sumus2013 | 2016-01-22 20:36 | 古書日録 | Comments(0)

風信第三号

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『風信』第三号(風信の会、一九九一年九月一五日、表紙絵=マックス・クリンガー)。これをざっとめくっていてビックリ。気谷誠氏が「慇懃小説受容史考ーー占領下の翻訳事情と三島由紀夫」という論考および山田俊幸氏との対談で何とクレビヨン・フィスについて言及しているではないか! 『風信』が届いたのと小生が『ソファー』の記事をブログに書いたのは同じ日である!

まず対談の内容から紹介しておく。気谷氏は神保町の古書会館で開催されたぐろりあ会の二日目にクレビヨン・フィス『セクストラ・ヴァガンツァ』(勝見勝訳、五元書庫、一九四九年)を五百円で見つけた。クレビヨン・フィスはきわめて十八世紀的ないいかげんな作家、国会図書館の翻訳書目録によれば昭和二十四年に三冊、二十五年に一冊翻訳が出ただけでそれ以後はない。

ソファー
伊吹武彦訳、世界文学社、1949

セクストラ・ヴァガンツァ
勝見勝訳、五元書庫、1949

夜とひととき
大木登志夫訳、世界文学社、1949

炉辺の戯れ
小林正訳、白水社、1950

『セクストラ・ヴァガンツァ』と『夜とひととき』は同じ小説の異訳。また、今検索するとクレビヨン・フィスの作品は以下のような翻訳がその後刊行されている(河出書房と白水社の版は選集)。

炉辺の戯れ
小林正訳、創元社、1953 (創元文庫 ; B 第96)

炉辺の戯れ
世界風流文学全集第5巻 フランス篇. 第3
小林正訳、河出書房、1956

空気の精
フランス幻想文学傑作選 1 (非合理世界への出発)
鷲見洋一訳、白水社、1982

さらに続けて気谷氏は昭和二十四年には十八世紀フランス文学に関してゴンクール兄弟、サド、ラ・フォンテーヌなどの翻訳が相次いだ、《一八世紀フランス文学の受容史を考えるにあたって、山田さんのいうようにカストリ本の流行に便乗したものと思いますが、どうやら昭和二四年前後に、見逃せないピークがあるような気がします。》と発言しているが、この発言は上記論考に結実したようである。その論考の内容をかいつまんで紹介しておく。

十八世紀フランス文学は一般読者になじみがなく、特筆すべき傑作もない。ロココ趣味全盛の時代の文学は《闇市で怪しげな雑炊をすすっていた終戦後の日本から、およそかけ離れた時代の文学といわなければならない。しかし、焦土の復興した露店の本屋では、確かに少なからぬロココの文学が商われ、人々はカストリ焼酎を傾けながら、ザラ紙に刷られた典雅な会話体の小説に目を走らせていたらしいのである》。たいそう珍しい作品がこの時代に翻訳出版されている。当時出版された十八世紀フランス文学の作品で今日(一九九一年)新刊本で読めるのは澁澤龍彦訳のサドなど数えるほどしかない。

どうしてそういう現象が起こったか、いくつか原因を挙げている。まず第一は戦後出版ブーム。好色本の流行である。第二は占領下における「翻訳権五十年擬制」(GHQによる規制、米国以外の外国の出版物は原著作者死後五十年以上経過したもののみ自由に出版できる、未満のものには著作権者およびGHQの発行許可が必要)。擬制というのはGHQの公式文書にはこの規制についての記述が見出せないため(法貫次郎「占領政策と外国著作権」)。この擬制が《一時的に十八世紀フランス文学など、古典文学の翻訳・出版を促すことになるのである。》

翻訳権について雑誌『世界文学』の記載を丁寧に調査している。これにより敗戦後しばらくの間(昭和二十七年講和条約発効まで)日本における外国文学翻訳権のめまぐるしい変遷が分るのであるが、ここでは省略。

そして三島由紀夫の『サド侯爵夫人』の成立にそれらカストリ時代に発行されたロココ文学が大きな影響力をもったことへ話は進む。「慇懃文学」というのは三島が『世界文学』に発表した文章で十八世紀フランスのギャラントリィ小説をそう名付けたことによる。三島はこう書いている。

《これら慇懃小説は、ソファーや寝台や手紙だけしか存在しない抽象的な環境で試みられた無道徳なロマネスクの探求で、その抽象性と超倫理性が、作品の構造を即物的なもの以上に浮き上がらせて、いはば方法論的な構造を作品に與える結果になつている。》

この抽象性と独立した構造体であるというところが十八世紀文学と二十世紀に共通する特性だそうだ。要するに「頭で書いた」観念小説だということだろう。三島の戯曲『サド侯爵夫人』はクレビヨン・フィスの『夜とひととき』やサド『閨房哲学』を参考にしており、三島の澁澤龍彦『サド侯爵の生涯』に触発されたという発言の背後には終戦直後に刊行された十八世紀フランス文学が下地としてあったのだと気谷氏は推測する。三島の歿後『サド侯爵夫人』はマンディアルグによって仏訳されルノー=バロー劇団によって上演された。それは好評のうちに迎えられたが、その理由はストイックな演出が「方法論的な構造」を浮き彫りにしたためであろうという。それもみな敗戦直後のどさくさで出版されたザラ紙のロココ小説があったればこそ、ということになる。

考えてみれば江戸川乱歩の「人間椅子」もまたその「方法論的な構造」を浮き彫りにした作品だったのではないだろうか。探偵小説の観念性も思われる。

第三号では巻頭の岩切信一郎「河野通勢の装幀本」も読み応えがある論考だ。河野装幀本の詳細なリストが素晴らしい。


by sumus2013 | 2016-01-21 21:23 | 古書日録 | Comments(0)