林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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<   2015年 08月 ( 33 )   > この月の画像一覧

畠中光享・林哲夫作品展

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2015年9月1日(火)〜16日(日)

ギャラリー恵風

ひょんなことから畠中先生と二人展をやらせていただくことになりました。畠中先生とは直接的な関係はまったくなかったのですが、八〇年代から小生は先生のファンでした。インド細密画の蒐集家として超一流品を集めておられることにも心酔しておりました。初めてお話したのは一九九四年に京都の村田画廊で個展をさせてもらったときだったかと思います。湯川書房での個展(二〇〇二年)も見てくださり、メリーゴーランドの前々回個展(二〇一三年)のときに二人展をやりましょうと声をかけていただきました。それが実現することになりました。明快かつ繊細な畠中ワールドにどう向き合えばいいのか……むろんこれまで通りでいいのでしょうが、対畠中作戦として新しいモチーフも描いてみました。それが案内状に出ている「空(クウ)」です。会場で直接御覧いただきければ幸いです。


by sumus2013 | 2015-08-31 20:16 | 画家=林哲夫 | Comments(4)

チヒョルト

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ヤン・チヒョルト展を紹介した短い記事にアクセスが集中している。いわずもがな、オリンピックのシンボルマーク問題で取り上げられているからであろう。

ヤン・チヒョルト展

上が図録の表紙。このデザインはチヒョルトではなく白井敬尚形成事務所。たしかに初案にそっくりである。ただし小生はパクリについてはさほど悪だとは思わない。人間は模倣する生き物である。遺伝子そのものがコピーから成り立っているわけだから模倣を否定することは存在を否定することであろう。オリジナリティというのがそもそも幻想ではないのか? とは言え、もっとひねれよというのが正直なところ(ひねった結果も良くなかったらしいけど)。



by sumus2013 | 2015-08-31 19:11 | 古書日録 | Comments(2)

ホーニヒベルガー博士の秘密

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エリアーデ『ホーニヒベルガー博士の秘密』(直野敦+住谷春也訳、福武文庫、一九九〇年一〇月一六日)をかなり久しぶりに読み直した。富士正晴の「游魂」とやや似た雰囲気がある。ただしこちらは死ぬのではなく生から解脱(?)するのだが。

エリアーデはルーマニアのブカレスト生まれ。世界的な宗教学者であり、幻想小説家としても知られた。一九四〇年に故国を去り八六年にシカゴで歿する(七十九歳)まで亡命生活を送った。四五年から五六年まではパリにいたそうだ。論文は英仏語で執筆したが、小説だけはルーマニア語でしか書かなかったという。

小説として特別ユニークだとは思わない。ただ背景や細部の描写にはエリアーデならではの知識に裏打ちされた周到さが宿っており、ぐいぐいっと引き込まれてしまう。

《今度の件よりだいぶん前に、私はドゥンボヴィツァ河岸の古書店街の一軒の店で、中国関係の本を一箱みつけた。その本はみんなよく研究してあり、前の持ち主の手で書き込みがあり、時にはミスプリントの訂正さえしてあった。持ち主の名は、大概の本の見返しにしるしてある。ラドゥ・C。このラドゥ・Cはただのアマチュアではなかった。今では私の所有に帰している彼の蔵書は、彼が中国語の本格的かる系統的な研究を志していたことを証明している。その証拠に、彼はエドアール・シャバンヌによる司馬遷の『史記』のフランス語訳六巻本に書き込みをし、漢文テキストの誤植を訂正している。クーヴルール版の中国古典を読んでいる。『通報』誌を購読し、『ヴァリエテ・シノロジック』の大戦勃発前に上海で出たバックナンバーを全部買っている。その蔵書の一端を入手して以来、長いあいだフルネームも分からぬまま、私はこの人物が気になっていた。古本屋は一九二〇年に数百点の本を買い入れ、そのうち挿絵入りの何点かがすぐ売れたほかは、このシナ学のテキストや研究書のコレクションに目をつける愛好家は一人も店に現れなかったのである。私は思った。いったい、これほど熱心に中国語に取り組み、しかもあとになにひとつ、フルネームすら残していないこのルーマニア人は何者であろう?

この主人公は見知らぬ夫人から手紙を受け取る。亡き夫が医者でありながらインド研究に没頭したホーニヒベルガー博士に関する著書を大量に集めているので見て欲しい。亡き夫と書いたが、実のところ死んだのかどうなったのかははっきりしない。ある日掻き消えたのだった。夫人の邸宅を訪問するとそこには見事な書庫があった。

《がっしりした樫板の扉が開いた時、私は敷居の上で凝然と立ちすくんだ……。それは前世紀に建てられた大富豪の館にもめったにないような大きな一室である。広い窓が裏庭に面している。カーテンがわずかに開かれていて、秋の夕暮の澄んだ光がさしこみ、ほとんど書物でうずまった、天井の高いこの広間にいそう厳粛な趣きを添えている。書庫のかなりの部分は木造の書棚で囲まれていた。ざっと三万冊は越える本の大部分は革で装幀されており、医学・歴史・宗教・旅行・神秘学・インド学など、文化のさまざまな領域にわたっている。》

《マルコ・ポーロとタヴェルニエから、ピエール・ロチとジャコリオに至る数百冊のインド旅行記がある。そう思わなければ、たとえばルイ・ジャコリオのたぐいのいかさま作家の本があることの説明がつかない。それから『ジュルナル・アジアティック』とロンドンの『王立アジア協会ジャーナル』の全号揃いがある。たくさんの学会の紀要や、インドの言語、文学、宗教に関する数百の学者の記録については、今さら言うまでもない。ペテルスブルグ版の大きな辞書から、カルカッタやベナレスで発行されたサンクリット語テキストに至るまで、インド学の領域で前世紀に出た重要な出版物のすべて。なかでも私は大量のサンスクリット語テキストに驚嘆した。》

……まだまだ続くが、直接的には物語のストーリーに絡んで来るわけではない。ここから更にホーニヒスベルガー博士の秘密を探求した男についての探求が始まる……その結末は、バラしてしまっては面白くないので、ヒミツ。

「ホーニヒスベルガー博士の秘密」の他に「セランポーレの夜」という短篇も収められているが、これら二作は一九八三年にソムニウム叢書第三巻として初めて翻訳出版されたものだと直野敦氏の「解説」にある。そうだったのか!

ソムニウム叢書2 アウラ


by sumus2013 | 2015-08-30 20:38 | 古書日録 | Comments(0)

游魂

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吉川幸次郎のことを書いたので序でに『富士正晴作品集』(岩波書店、一九八八年)の二に収められている「游魂」という小説のことも書いておく(初出は全国書房の『新文学』昭和二十四年二月号)。これは富士正晴に対して吉川幸次郎が個人的に依頼した小説だったそうである。

《昭和二十三年(一九八四)の秋ころか、吉川幸次郎が妙な注文をわたしに出してびっくりさせた。何故そのような注文を出す気になったかのか、たずねたこともないから判らないが、たずねておけばよかったと今頃気がつく。》(吉川幸次郎 游魂の煙草代)

《こういうことを二つ書いてもらいたい。その一つは、わしは儒者やから死後の世界というものはない筈なのだ。ところが、わしが死んでみると、その死後の世界があったということ、その二つは大阪と神戸との間で、阪急が右や左へ傾くだろう、山の方へ傾いたり、海の方へ傾いたりする。わしはあれが好きなんや。この情景も入れてもらいたい。是非書いてほしいことはこの二つやね。これで小説を書いてもらいたい。》(同前)

そして何とも奇妙な苦労と楽しみの果てに小説は出来上がった。こんなふうに始まる。

《それは暁方であったのだろうか。うすら白い光が曇った硝子戸越しに室の中をぼんやりと満たして居り、本のギッシリつまっている本棚は古めかしい断層のように書物の背を並べていた。そして室の机や椅子のあたりにも霧のようにうす暗い闇の尾がただよい、心細い蚊の鳴き声がどこかに一筋たちのぼっているようだ。このたちのぼるという言葉がおかしい、どこか変なところがある、これは随分推敲の余地があるのではないか、そう思った時、私は自分が昨夜の夜更に死んだ(!)ということに愕然とするのだった。》(游魂、以下同じ

つづいて死者(吉川)はウィリアム・ジェイムスの逸話についてひとくさり述べた後、「在物亡人」という熟語の出典を探そうとして書棚へ近づく。

《私はあわて乍ら自分の著書の並べてある次の室へと急いだ。すると私は立て切ってある襖を何の抵抗もなく通り脱けたことに気付くのだった。しかも私が次の室へと動いて行ったその急激な行動には何の肉体的努力感もない。私は自分の肉体がどこかへ喪われてしまっていることを今更ながらエアポケットに転落する飛行機が感じるように感じた。》

……とこの小説は少々新感覚派ふうに死に対する思索をどんどん展開させてゆくことになる。むろんそれは実際に読んでもらわないと響いてこないと思うので紹介は控えておくが、ひとつだけ、吉川の師である狩野君山についての逸話は引用しておきたい。

《私の故(な)くなった老先生は或日、例の皮肉屋の若い小説家がこのごろ何して暮らしていらっしゃいますかとさも御退屈だろうと、底意を秘めて問うたのに対して、君、書物を読んでいるよ、これから何十年生きたところで読みきれない位なのだと答えられた。ために小説家は圧伏され、今更ながらに読書人の生活というものが強いゆるがぬ積極性に満ちあふれた豊饒のものに見えた、老いてはあれに限ると私に語ったことがある。》

この若い小説家は富士正晴であろう。富士は青年時代からどういうわけか狩野老先生と仲良くしていたらしい。そして游魂吉川はこう続ける。

《私にも思い出はあるのだ。恰も喜寿に達せられ、矍鑠として読書に専心していられる老先生の面影。このごろは本を読むと疲れて困るとの仰せに、毎日どのくらいお読みですかと伺うと、朝八時から晩十時まで読んでるよ、とけろりとしていられた。あの怠け者の小説家が圧伏されたのは当たり前の話、虎のひげをひっぱったに等しいことである。その充実した読書生活が、どこへ行こうと思えば閉鎖された書庫であろうと個人公共の別もなく浸透し飛行往来出来る強みを加えるとなると、自由自在のものとなり、時間も際限なくたっぷりと我がものであるこの死後の生活は何とも頼もしいものと言わねばならない。》

ううむ……死んでも治らない、ようである。


by sumus2013 | 2015-08-29 20:46 | 古書日録 | Comments(4)

スタイルブック

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『スタイルブック』(衣裳研究所、一九四六年九月一〇日、デザイン・花森安治)久しぶりの花森本。神戸の古本屋でたまたま見つけたが、あまりに状態がいいのでつい買ってしまった。敗戦後一年、いかにも贅沢な仕立てではないだろうか。巻頭にいわく

《着るものは、たべもの、住むところ、と同じように、私たちが毎日暮してゆくために、無くてはならない大切なものです。
 だから着ものについて考へることは、私たちの暮しについて考へるといふことでなければなりません。私たちの毎日の暮しを、少しでも高め、明るくしてゆく、そのために役立つ着ものこそ、ほんとうに美しい着ものであり、そのことを一生けんめいに考へることが、とりもなほさず、ほんとの美しいおしやれだと思ひます。》

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『文藝別冊花森安治』(河出書房新社、二〇一一年)の年譜にはこう書かれている。

《昭和21年(1946)年 35歳
3月、花森を編集長、大橋鎭子を社長として銀座八丁目、日吉ビル三階に衣裳研究所を設立。5月に「スタイルブック」刊行。以後、9月に秋号、11月に冬号、翌年夏号と真夏号、計5冊を出す。》

また同書掲載の唐澤平吉×南陀楼綾繁対談「「花森安治の装釘」談義」で唐澤氏はこのように述べておられる。

南陀楼 昭和二十一年です。
唐澤 その一年前かな、大橋鎭子さんと花森が会うんですね。いっしょに衣裳研究所をつくって「スタイルブック」を出し、昭和二十三年九月「美しい暮しの手帖」の創刊にいたるわけです。しかし、そのころも他社の依頼をうけて装釘をやっています。このころの花森の立場は、まだ定まっていませんね。衣裳研究所では直線裁ちの服飾デザイナーで、服飾評論家としても活動していますし。まさにマルチ人間の面目躍如。だから、もし花森に「暮しの手帖」を出す構想がなければ、装釘家になったかもしれないし、服飾デザイナー、あるいはイラストレーターかコピーライターでめしを食うようになっていたかもしれませんね。

たしかに何になっていても不思議ではない才能だ。ただ、すべてひとりでできるなら……もうこれは雑誌を作るしかないようにも思える。戦前、戦中にやっていたように。

『みだしなみとくほん』

『婦人の生活』

by sumus2013 | 2015-08-28 19:42 | 古書日録 | Comments(2)

白鳥

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女学生雑誌『白鳥』第一巻第二号(大地書房、一九四七年二月一日)。表紙絵は長澤節。編輯人は速水律子、発行人は秋田慶雄。大地書房は昭和二十一年に秋田が創立し、野上彰を編集局長として招き『プロメテ』『白鳥』『日本小説』などの雑誌や織田作之助『夫婦善哉』(一九四七年)、草野心平『定本・蛙』(一九四九年)、石井桃子『ノンちゃん雲に乗る』(一九五〇年)などの単行本を刊行した。

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川端康成(野上が師事していた)をはじめとして執筆陣もなかなかのものだが、挿絵を担当するのも芹沢銈介(目次カット)、松野一夫、初山滋、長沢節、脇田和、古茂田守介らという豪華なメンバーだ。ここでは古茂田のカットから二点紹介しておこう(五点掲載)。

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ついでながら挿絵は提供していない画家・三岸節子のエッセイ「生活の中から」から三岸節子らしい文章を引用しておく。

《わたくしは毎日ぢつとアトリエに座つております。そしてわたくしはこゝから一生動かないでゐようと思つております。周囲の壁面にはギッシリ未完の作品がとりまいております。どの絵もなんだかブツブツこごとを言つたり、何かを囁やいております。
 一日中絵を描くこともできないで、じつと見て暮らしてしまふ方が多いようです。それでもさすがに太陽が東からぐんぐん西に移動して、もう暮れようとする一瞬は、なんとしても画架にすがりつくように、夢中で描くことがあります。正に一刻千金です。いちじに烈しいインスピレーションが奔流のようにわきたってくるのです。
 一日中絵のことを思ひ、絵を描かうとし、絵にかぢりついてゐるようです。私の最幸福なときです。人間業ではない。なにか大きな力がわたくしにのりうつつて描いてゐるような、時には神の手を感じる程、充ち足りて、なんともいへず酔つたように幸福です。》

毎日ぢつとアトリエに座つて絵ができるのだから羨ましい。それにしても、敗戦後間もない時期である(三岸は四十過ぎ)いくら芸術家でものんきに過ぎるとも取れるが、あるいは三岸が六十三歳から八十六歳まで南仏に暮らしたのも、こういう画作三昧に浸りたいという気持ちが早くからあったためとも思われる。

三岸アトリエ

アトリエM

アトリエM スタジオ概要

by sumus2013 | 2015-08-27 21:18 | 古書日録 | Comments(0)

浮田要三の仕事

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『浮田要三の仕事』(りいぶる・とふん、二〇一五年七月二一日、書容設計=扉野良人)。ようやく手にする。図版に移る前に置かれた浮田自身による「浮田要三小論」(自伝のようなもの)がすこぶる面白い。

《小学校1年生の時、ボクの持っているランドセルは、兄2人が使っていた古いもので、見た目には皮にひびが入っていて、友達の背負っている新しいランドセルにくらべると、みすぼらしいもののように思われましたが、ボクはそのランドセルが無上に好きで、古くてきたないランドセルなのに誇りを持って背負っておりました。そしておもしろいことに、7歳のボクが、このランドセルは古くて見た目はキタなくて皮にヒビが入っているから、そんなことが好きなのだと自覚していたことが明確に頭に残っております。》

《朝礼の時、ボクのぐるりにいる友達がランドセルの悪口を言っているのは分っておりましたが、ボクは逆に、こんな素晴らしいものが分らないのかと、心の中で嘲笑しているようでした。妙にそんな風に物事を感じて振る舞うのが好きであったようです。》

小学一年生からこの自覚があるのは凄い。たぶん生涯、この姿勢は変らなかったであろう。それは作品を見ればよく分る。

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《ボクは1948年ごろから、子どもの詩と絵の雑誌の出版に携わって来まして、10年間ばかり単独でその編集をいたしました。『きりん』と命名された雑誌でありました。編集ですから集まってくる絵画作品から選んで表紙絵だとか本誌の中のうめ草カットなどを決めなければなりません。その時、それらの作品がどこかに作者のオリジナリティがありはしないかと探して、それの濃厚なものから使っておりました。そんなわけで薄っぺらい子どもの雑誌でありましたが、何となく重く感じられて、グレードの高いものになっておりました。
 1950年ごろ、前衛芸術の強い画家・吉原治良先生が『きりん』をごらんになって、その内容を絶賛してくださり、こんないい作品ばかりを選ぶ力があるなら、浮田君も前衛画家のグループ「具体」にはいって、いっしょに制作してはどうかとお誘いいただきました。》

《ところが実際に制作を始めますと、作品の良し悪しが全く分らず、当初出品しました「具体とアンフォルメル・世界展」では、自分の作品の価値判断が分らないまま出展したことを覚えております。実に怖い経験でありました。
 ところが、今から思い起こして考えてみますと、全く分らないために、旨くやってやろうという考えを差し入れる余裕がなかったために、単に自分が感じたことだけに頼って制作したのですが、吉原先生はそれを天衣無縫の作品と評して、それが正に現代美術作品の粋だといってほめてくださいました。》

吉原先生は褒め上手だなという感じがするが、図版を見るとやはり当時の浮田はかなり力んでいたようである。それが制作休止、デュッセルドルフでのグループ展などいくつかの出来事を通過して晩年になればなるほど自由な造形に脱皮していくのが図版を追っていてワクワクするほどだ。

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本書に「浮田先生の呼び出し」という一文を寄せている井上明彦氏がこう書いている。亡くなる直前に浮田に「絵描きになったらあかん」と諭されたという。

《「いい作品をつくること」をめざす以前に、まずは「人間として一生懸命生きること」が大事である、と先生は諭されたのだ。》

人間として一生懸命生きた軌跡がこの作品集にもはっきり見て取れる。

by sumus2013 | 2015-08-26 20:15 | おすすめ本棚 | Comments(0)

漱石詩集印譜附

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『漱石詩集印譜』(名著複刻漱石文学館、ほるぷ、一九八二年)。『漱石詩注』巻末に付された一海知義の解説によれば漱石の漢詩は生前まとまった形では刊行されなかった。大正七年版漱石全集第十巻に「漢詩」として収められたのが初めである。そして大正八年に単行本として岩波茂雄によって和装『漱石詩集』が出版された。その複刻版が本書だろう。写真で巻頭に出ている印は「漾虚碧堂図書」。

by sumus2013 | 2015-08-25 14:20 | 古書日録 | Comments(0)

漱石詩注2

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吉川幸次郎『漱石詩注』は一九六七年の漱石全集第十二巻のために書かれ、岩波新書『漱石詩注』としても刊行され、さらに『吉川幸次郎全集第十八巻』(筑摩書房、一九七〇年)にも収録された。筑摩版全集には「漱石詩注補」があり、それが本書では〔補訂〕として挿入されているのだが、これがとりわけ面白い。例えば、

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この「無題」の二行目「校屨」について吉川はこのように注した。

《この二字わかりにくい。臆説をのべる。漢代の地方官で王喬という男、任地と都とをまたたく間に往復する。天子が不思議に思ってしらべると、彼は仙術を心得、屨(くつ)を空中に飛ばせてやって来るのだった。先生と同時の秀才たちも、みなつぎつぎに屨を空中に飛ばせて、西洋に留学した。いままでは「迍邅」と指をくわえて、その屨の数を勘定するだけであった。「校」の字には、数うる也という訓がある。かくてむなしく「塵の中に滞る」のが、これまでのおのれであった。しかし今度はおのれも海外に留学するというのが、次の句。

しかしながら、これは空想に過ぎる解釈だった。

〔補訂〕屨の二字、「易」の「噬嗑」の語であることにうっかりし、大へんでたらめな説を書いていた。いま宇野精一氏および和田利男氏の教えによって、訓読と注を改めた。訓読ーー屨に校(かせ)して。注ーーこの二字も「易」の語。「」はくつ。校は足かせ。「迍邅」もじもじと、靴にかせをはめられたように、「塵の中に滞る」のが、これまでのおのれであった。しかし今度はおのれも海外に留学するというのが、次の句。

このあたり漱石詩のクセモノぶりがそのまま出ている。仏語や易の語をやたらに放り込んでくるから吉川でさえも解釈できないことがある。

他には「明治百家短冊帖序」の「好句」について吉川は《この熟語、漢語の辞書にありそうで、実はない》と書いたが、実は《宋の欧陽修の「詩話」に見えることを、やはり田向竹夫氏から教示された》と。今なら割合と簡単に検索できるようにも思うが昭和四十年代ではいかに博学であってもこういうこともあった。ただし単なるポカも見える。「無題 明治四十三年九月二十二日」の「青山」について。

《青い山にはちがいないが、西郷南洲の「人間至る処青山有り」という句が、先生の心にもあり、埋骨の場所としての含意があろう。〔補訂〕注に引く句は西郷南洲のものでなく、村松文三のものと、和田利男氏よりの、またむしろ蘇東坡の獄中の詩の「是(いた)る処の青山骨を埋む可し」を引くべしと、清水茂氏よりの教示。

蘇東坡の「青山」は小生でも知っていた。吉川の補訂の潔い態度に敬意を表しつつ、専門家でさえこれなのだから生半可な素人が漢詩の解釈などするものではない(自戒)。

漱石詩とはあまり関係ないが、なるほどと思ったのは次の解説。詩注第三の「無題」五言絶句六首のうち。

 元是喪家狗
 徘徊在草原
 童児誤竹殺
 何日入吾門

最後の行の解説はこうである。

何日入吾門ーー子供にひょっくり叩き殺されてしまった犬、うちへ帰って来ることは、もはやない。

ここで連想したのが島崎藤村の詩「椰子の実」の最終行《いづれの日にか國に帰らむ》。これを「いつの日かふるさとに帰ろう」あるいは「帰れるだろうか」と現代語訳している例が多いようだが、吉川の解説からすれば、また実際問題として椰子の実が遠い島に帰れるはずはない現実から考えても「もはや故郷には帰れない」と訳すべきではないだろうかなどとフト思った(……自戒した舌の根も乾かないうちに、愚かにも)。

by sumus2013 | 2015-08-24 20:36 | 古書日録 | Comments(0)

鴨居玲と神戸

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8月22日〜9月2日

ギャラリー島田



江之子島から阪神野田へ出て神戸まで足を伸ばしギャラリー島田の「鴨居玲と神戸」を見る。東京、そして金沢(石川県立美術館)でも回顧展が開かれるのだが、ギャラリー島田では神戸において関わりのあった作家たちの作品も出展されており、鴨居の人柄もしのばせる島田ならではの展示だった。鴨居の使ったコートやブーツ、最初の(?)遺書と思われる走り書き(スケッチブックかデッサン用紙を引きちぎって殴り書きしている)、絵具盛り上げパレットなどの遺品も並んでいた。遺書らしきものは島田を通じて旧蔵者から石川県美へ寄贈されたものという。内容もよく読み取れないが、鴨居のひとりよがりの苦悩が形になったようで痛々しい感じ。

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鴨居展のカタログを取り出しながら島田さんのぼやくこと。

「この絵もこれもみんなうちから出たやつなんや。鴨居はたくさん扱ってきたけど、今思たら、持っておいたら良かったなあ……この自画像なんか鴨居自身が一番気に入っていたんや。これがうちにあった。これは置いておきたかったなあ」

鴨居玲には熱烈なコレクターが多い。古書においても画集や素描集はかなり高額だ。島田さんはコレクターではなく画商だから、いつでもすぐに正当な価格で換金できる鴨居玲がそうそう手許に残るはずはない、重々承知であろう。しかしそれでも歎かずにはおられない。そんな名品だった。

手放した珠玉はもう戻らない。持っている者の勝ち(勝ち負けがあるのかどうかは別として)と言うのはまさにこのことである。

by sumus2013 | 2015-08-23 20:51 | もよおしいろいろ | Comments(2)