林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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川端彌之助作品展

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川端彌之助作品展が京都市南区東九条の「長谷川歴史・文化・交流の家」で開催されている。川端彌之助の回顧展は一九八四年に京都市美術館でたしか見たような記憶があるのだが、久しぶりにもう一度と思って出かけた。会場の長谷川家住宅というのにも興味があった。

長谷川歴史・文化・交流の家
http://hasegawa.okoshi-yasu.net

地下鉄の十条駅から歩いて七、八分。一般の住宅街のようでありながら、このあたりは寺院や古い農家が点在して歴史を感じさせる地域だった。

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長谷川家住宅の長屋門から母屋へのアプローチ。戸を開けて入場すると上品な婦人が応対、そして一部屋ごとに案内してくださった。チラシの文章をよく読んでいなかったのはうかつだが、この長谷川邸は長谷川良雄の住居だったのだ。長谷川の姉と妹(姉の歿後)が川端に嫁いでいるため二人は義理の兄弟にあたるのである。

長谷川良雄は一九〇二年に創設された京都高等工芸の第一回入学生で浅井忠や武田五一に学び、浅井死後、絵筆を放棄した時期があったようだが、家業の地主を務めながら発表する意図をまったく持たずに数多くの水彩画を制作した。

長谷川の水彩画を京都市美術館で見たのはいつだったか。九〇年代の後半だったと思う。そのときまでまったく知らない作家だったのだが、なんとも見事な水彩テクニックに感嘆した。浅井忠と同じく透明さを極限まで生かす筆運びながら、浅井よりももう一歩踏み込んだ描写になっている。京都、とくに洛南の風景を多く残しているが、その爽やかさ、渋さは小生のもっとも好むところである。

描きためた水彩画は長らく人知れず納戸に保管されていた。『長谷川良雄画集』(長谷川景子、一九九四年)の発行をきっかけとして再評価が始まったそうだ。長谷川邸には常設の展示場が設けられており、作品はもちろんのこと絵具、パレット、筆、ペインティングナイフ(ナイフを使ってひっかく浅井直伝のテクニックを得意としていた)などの遺品も展示されていた。久々に長谷川作品に触れることができ心が洗われる思いだった。

また、良雄の父・清之進はかなり熱心な歴史研究家だったらしい。清之進の蒐集した幕末の地図各種や黒船関連の同時代資料、各種の時計、地球儀なども見所のひとつだ。襖の書は江馬天江、宮原節菴。円山派の絵師による衝立や南蘋派の花鳥画軸なども。

川端彌之助の作品では、パリ時代がいずれも佳作だったが、とくに印象に残るのは画家が自ら手作りしたたくさんのぬいぐるみ人形。竹久夢二の創作人形を連想させるヨーロッパ調のスラリとしたもの。あるいは川端が留学していた当時のパリにそのような形のプペがあったのかもしれない。

土曜の午前中をゆったりと過ごすことができた。土日祝のみの開館なのでご注意を。




by sumus2013 | 2015-02-28 21:20 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

宇賀神社

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長谷川歴史・文化・交流の家から徒歩二分くらいのところに宇賀神社がある。藤原鎌足にまつわる金璽伝説があるように京都でももっと古い歴史をもつ社のひとつ。最近、塩見仁一『狛犬誕生』(澪標、一九一四年)を読んでいるので、神社というと狛犬に目が行く。狛犬コレクション(もちろん写真です)してみよう。

宇賀神社
http://kamnavi.jp/yamasiro/ugauga.htm



by sumus2013 | 2015-02-28 21:20 | コレクション | Comments(0)

乳のみ人形

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深瀬基寛『乳のみ人形』(筑摩書房、一九六〇年一二月二〇日)。函の題字と表紙絵(自画像)および口絵「祖父像」は著者の孫である深瀬鈴子の作。小学校へ入学するにあたってランドセルを買ってもらう代わりに祖父の似顔絵を描いたのだそうだ。

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《この本はことしの春、久々ぶりに入洛した筑摩書房の古田晁氏との雑談中に同氏の出された提案にもとづいて、ともかくわたしの孫と多少のつながりのある随筆だけを集めてみたものです。》(あとがき)

深瀬が気の合う孫を溺愛する様子となかなか利発な孫娘の掛け合いが面白く描かれている。深瀬は千本に住んでおり、孫は松尾のアパート暮らし、ということで洛西の風光や風俗(レトロなカフェ「天久」も登場、一九八六年閉店)も楽しめる味な随筆集。けっこう珍しい本なのか、目下のところ日本の古本屋その他でも見つからない。本冊は筑摩書房の資料を提供してくださった某氏よりお借りしている。さすがいい本、ヒットである。

エリオットなど深瀬の翻訳ものは安価で出回っている。しかし随筆集はそれなりに高価なため、これまで一冊も求めたことはなかった。かなり迷って買わなかった思い出がある。買っとけばよかったな、とこの本を読んで少々後悔。

まず本屋が出てくる場面を。千本通りと中立売の四つ辻。

《四つ辻といえば、都会の中心部ならばたいてい銀行とデパートが四つに組んで離れないのだが、千本のこの四つ辻はどうだろう。東南の一角が妙なぐあいに歯抜けの空地になっていて、そこを新聞売子の媼さんがたった一人、それも夕方四時ごろから七時ごろまで占拠しているだけ。西南角はなるほど時計屋兼、タバコ屋なのだが、なんと明治時代の文明開化のシンボルのような時計台なるものが二六時中、がん強に十時を指したままガンとして動かない。時計台の下には時計は売っていない。西北角が朝から晩まで「南国土佐」一点張りのレコード屋。東北角の奥行き四尺ばかりの軒の下が実は筆者のおなじみの古本屋だったのだが、八十をこした爺さんも死に、好人物の息子も死に、今では息子のおかみさんがいつのまにかボタン屋に化けている。ボタンは洋装のはしっくれ。千本は京都のボタン屋だ。》

千本通りはちょくちょく車で通るので知らないわけではないが、さすがに昭和三十年代の面影はほとんどなかろう。中立売通りを電車が通っていたそうだ。Googleストリートビューで見ると、南東角は「おたべ」を売る菓子店、南西角は焼きそば・鉄板焼の店、北西角はマンションで一階がマクドナルドになっている。北東角はタバコ屋、隣がすき家。千本通りには丸太町と北王子の間に小生の知る限り二軒の古本屋があるが、そのうち一軒はここしばらく閉まったままである(看板は上がっている)。

深瀬がかなりの古美術通であったことも知った。本格的な品がいろいろと登場する。

《その日爺さんは天目茶碗の名品を入手して悦に入っているところへ》

《わたしなどはむろん骨董屋に出入りするがらではないのだが、買っても買わなくてもおかみさんは一向平気だし、小林秀雄と同様に人生の味は古陶磁にとどめを刺すと信じているものだから、千本を語ってこの店を素通りするわけにはゆかない。》《戦後のどさくさの最中のこと、この店を何気なくのぞいてみると疊の上に古風な信楽茶碗らしいものがころがっていた。どうも光悦の匂がする。「ちょうどあなたと入れ違いでしたーー嵐電にいま乗ったころです。こんなのはお金にならんでしょうかといって品のいいお媼さんが置いてゆきました」という。何百円だったか忘れたが、ほとんど只値で譲ってもらった。その後わたしの書斎にくすぶること十数年。最近博物館の藤岡さんに発見されて桃山時代ということにきまった。むろん光悦以前で、新次郎というのが実在の人物なら、この陶工の作風に完全に一致している。》

《現にいまわたしの手元に嵐山渡月橋を描いた広重の絹本半切の肉筆が残っているが、これは大正の末年に故人となった亡父の旧蔵品である。》

《北野の古道具屋でふとしたチャンスで買ってきたものである。これは洋画である。洋画といっても広重と全く同時代の加賀金沢藩士、遠藤高璟(一七八四〜一八六四)という人の筆になるセザンヌ式風景画である。この絵の裏面には「文政四年辛巳 初夏望考図 半日成 此図ハ心積ノ観積法也」云々という文句がある。》

《昭和初年のいつごろだったろう。聖護院カブラで有名だった大根畑が埋められてその跡に京都大学が建ってすでに久しく、熊野神社前の楠(?)の大木が市電敷設の犠牲となって薙ぎ倒されてから間もなく、当時あのあたりに店を出していた平安堂で私は何か一冊の美術書を買った。どういうはずみかそのとき女主人から古丹波の大根おろしを見せてもらった。まるで端渓石の大硯のような恰好で、その鋸歯もまるで昨日刻まれたかのように先鋭であった。》《あれから三十年以上も経たこのごろ、同じ平安堂主人から古瀬戸の中形石皿の掌(たなごころ)に同じような鋸歯を刻まれた大根おろし五客をゆずり受けた。》

《私の孫娘は二歳半のころ寒山拾得の石摺屏風を見て「サンタクロースのおじいちゃん」と放言した。》

《ちょうどわたしは停年退職の記念として、小杉放庵先生の良寛和尚手まり図と、童顔そのままの寒山拾得の二幅を拝受したばかりのところ》

たいへん趣味がよろしい。また深瀬は詩誌『骨』の同人でもあった。

《依田義賢君のキケン絵巻に至っては、流動再展して行き着く先を知らぬ。先々月の安土での例会の席に、繰りひろげられた一巻を横からねらっていたところ、臨時に列席された土地のお医者さんに横取りされて残念で堪らず、翌日、お医者さんの懇意な老蘇の多喜さんに頼んで奪還に成功した。帰途京都駅から表具屋へ直行して表装を依頼した。》

《詩を作らない自分がどうしたものか同人に入れられた詩誌『骨』の例会を明日、嵐山駅の湯どうふ屋でやるからという通知を受けた。遅刻した自分が庭先の縁側に片足を掛けたとたんに障子のなかから依田義賢君があたふた飛び出して来て、わたしの肩をぎゅっと掴んで廻れ右を命じ、その手で空と山との境目を指した。珍らしく暖かい昭和三十二年、十二月七日の洛西の夕陽はもうとうに嵐峡の丹波路の彼方に没したあとで、まさに天と地とのけじめが地球の最後の一日を争うかのように、名残りの空は鴎のごとくほのかに白く、山の黒さはしんしんと深淵に沈むような黒さであった。しかし山の曲線には光悦の茶碗のほんのりとしたふくらみがあった。一足おくれていつのまにか同じ縁先きに棒立ちしていた江州の詩人、井上多喜三郎君がわたしの左肩のところで同じ方向に眼を向けながら「ほう、ほう」とみみずくのように鳴いていた。


本書に挟まれている栞。表と裏。

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そして深瀬編『エリオット研究』(英宝社、一九五五年)のかっこいい函。

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by sumus2013 | 2015-02-27 20:48 | 古書日録 | Comments(2)

一枝春信

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濱田杏堂「一枝春信」を入手した。特に佳作ではないものの、それなりに見所はつくっている。杏堂についてはすでにある程度詳しく紹介しておいたので参照されたし。


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印は「世憲」と「子徴氏」。杏堂は梅を得意としていたようである。

昨今、梅花で連想されるのが広島カープに戻ってきた黒田博樹投手。彼が好きな言葉として披露してヤンキースの選手たちに感銘を与えたと言われるのが「耐雪梅花麗」だ。この句を白抜きに刷ったトレーニングウエアを黒田は着用し、チームメイトにもプレゼントしたという。ちょっと演歌チックなこの句は西郷隆盛の「示外甥政直」と前書きの付いた五言律詩からとられている。この詩は各所で引用されているので全文は示さないが、ここのところは対句になっている。

 耐雪梅花麗
 経霜楓葉丹

雪に耐えた梅の花はうつくしい、霜を経た楓の葉は真赤だ。苦難に耐えて大成しろと甥(妹の三男)市来政直が渡米するに当って贈った詩だそうだ。黒田投手にはピッタリである。

他に西郷の漢詩で有名な句は「感懐」の《不為児孫買美田》だが、小生は「失題」が好きだ。

 雁過南窓晩
 魂銷蟋蟀吟
 在獄知天意
 居官失道心
 秋声隨雨到
 鬢影与霜侵
 独会平生事
 蕭然酒数斟

明治六年、野に下って以降に作られたもの。通奏する無力感がいい。


by sumus2013 | 2015-02-26 21:04 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

ブッダ・カフェ

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二十五日は東寺の弘法さんの日だし、今日はまた北野天満宮の梅花祭なのだが、それらはおいておいて徳正寺で毎月開催されているブッダ・カフェ(第四十六回)に初参加した。六人プラス2の参加だった。「為才の日記」の為才(いざい)さんを中心としての論談は、めったにこういう会合に加わらない身としては、なかなか新鮮であった。憲法については口火だけで、ほとんど現在の日本が置かれている状況について(政治だけでなく生活レベルでも)、なぜこうなのか、われわれに何ができるか、という意見交換が中心だった。

ブッダ・カフェ第46回 憲法Part4
「わかりやすい」は真実に届くか~二者択一と民主主義

憲法がテーマということで『改正日本六法』(文明堂、大正五年?)を持参してみた。巻頭が大日本帝国憲法。当時の大臣連名がいろいろな意味で凄いと言えば凄い。当時、榎本武揚は逓信大臣だった(ウィキによると発布式で儀典掛長を務めている)。

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by sumus2013 | 2015-02-25 21:18 | もよおしいろいろ | Comments(0)

CARTE DES LIBRAIRIES DE PARIS

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「パリ古本屋地図 CARTE DES LIBRAIRIES DE PARIS」(Syndicat de la Librairie Ancienne et Moderne)をパリ在住の方が送ってくださった。いつ発行されたのか明記されていないのだが、前からこういうマップが欲しかったのだ。

SLAM

上(A面)パリ市内全体の地図で下(B面)が古書店が集中する5区と6区の地図。

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掲載されている店の九割方は確認済みなのだが、まだ西の方面16、17区あたりには未踏の店がいくつかある。もちろんSLAMに加盟していない古本屋も多数あるのでこれがすべてではない。なおベースになっている地図は一八九二年発行のヴィルマン(A. Vuillemin)製作のもの。


by sumus2013 | 2015-02-24 19:56 | 古書日録 | Comments(2)

筑摩本・束見本

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臼田捷治『書影の森 筑摩書房の装幀1940-2014』、手直ししてもらった束見本が届いた。さらに検討を加えて、さらに微調整する。こういうことは滅多にないが、今回は納得できるまで詰めるつもり。帯の用紙や幅もあれこれトライして無い智恵を絞る。現時点では上のような感じにしようかと……ただし、もう少し練って色味や紙をガラリ変えることもありえるが……。

by sumus2013 | 2015-02-24 19:30 | 装幀=林哲夫 | Comments(0)

銭湯

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『ある塵シリーズ第3回 銭湯』(入谷コピー文庫、二〇一五年三月一日、通巻59号、限定15部、表紙イラスト=石川正一、表紙デザイン=元吉治)を某氏より頂戴した。名前だけはよく耳にしていたが、実物は初めて手にした。はてなキーワードには次のような説明がある。

東京都入谷在住のフリー編集者の堀内恭が、個人で発行している、「究極のミニ出版」。
編集発行は「堀内家内工業」(堀内氏と奥さん)。発行部数は当初は「限定15部」だったが、最近は10部以下の場合も。執筆者は主に知人で、執筆料は基本的に図書カード1500円分。ページ数は20ページほどで、最終的にはコンビニのコピー機で制作される。

小生自身もかつてまさにこのスタイルで『AM(オールムサビ)』というミニコミを作っていた。「限定」という発想はなかったため残部がなくなればすぐに増刷していた。なつかしいというか時代錯誤な感じで好感を持つ。昨今のフリーペーパーのおしゃれさ加減には多少閉口するところもあるのだ。限定15部はすごいなあ。書き手が10人いるとすれば、あと5部しか余分はないのか?(あるいは寄稿者分は計算に入れないのだろうか)。とにかく貴重な一冊である。某氏と書いたが、恵投下さったのは本号寄稿者の塩山御大である。深謝いたします。

銭湯エッセイ、人それぞれに面白い。巻頭、山田太一手書きメッセージが目を奪う。目を奪うと言えば、こちら、ムトーさんの文字。

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もうこれは佐野繁次郎の域に達している! 驚いた。他に知人では大川渉さんも書いている。それ以外の方々は存じ上げないものの、それぞれ銭湯にはこだわりもあり人生もあるようだ。


by sumus2013 | 2015-02-23 20:44 | おすすめ本棚 | Comments(0)

パリっ子は親切

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『しんぶん赤旗』 二〇一五年二月二三日号


by sumus2013 | 2015-02-23 15:34 | 文筆=林哲夫 | Comments(0)

空海伝の基本問題

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上山春平『空海』はまず著者自らと空海との関わりを述べておいて、伝記の基本中の基本として生年の確定、そして得度の年齢の確定、というふたつの大問題の再検討に着手する。基本中の基本であるはずが、それらを明瞭にすることはそう容易ではない。

空海の伝記資料としてまず空海の著作『三教指帰』の序が挙げられ、次いで最も古く(古さではもっと古いもののあるが)正史の記録として正確さを期待できる「崩伝」(空海の略伝、『続日本後紀』貞観十一年[八六九]撰上、に所載)が俎上に乗せられる。

《空海死去の日付けは承和二年三月二十一日であり、そのときの年齢が六十三歳(数え年)であるということは、承和二年(八三五)から六十二年前の宝亀四年(七七三)が生年ということになる。しかし困ったことに、宗門の定説では、生年は宝亀五年(七七四)ということになっており、一年のくいちがいが生じることになる。

この食い違いは宗門が空海伝の基準としている『御遺告(ごゆいごう)』では死去した承和二年における空海の年齢は六十二歳としてあるからだ。『御遺告』は空海の真筆という《タテマエ》になっているそうで、宗門としてはこの説を取るしかない。

この問題を解決するため上山は資料を読み直して最澄の手紙に注目する。空海が最澄の元へ自分の「五八の詩」(空海が四十歳を迎えて作った「中寿感興の詩ならびに序」)を送って、これに和してくれと頼んで来た。ところがその空海の漢詩に分らない語句があった。最澄は空海の元に送り込んでいた弟子の泰範に宛てて語句の意味を空海に聞いてくれないかと頼んだ、その手紙の日付が弘仁四年十一月二十五日。ということは弘仁四年(八一三)に空海は四十歳になった、すなわち生年は宝亀五年(七七四)と考えてまず間違いない。空海「五八の詩」はこういうものだった。

 黄葉索山野
 蒼々豈始終
 嗟余五八歳
 長夜念圓融
 浮雲何処出
 本是浄虚空
 欲談一心趣
 三曜朗天中

五言が八句、四十語に作られている。上山は四十の寿について

《今日の常識からすれば、長寿を祝うのはせいぜい六十の還暦以上であるが、空海の時代には四十の寿を祝うという風習があったのだろうか。それとも、とくに空海が、四十という歳に、特別の思いを託していたのでもあろうか。》

と書いているが、これは上手の手から水が漏れた。少し長いが拙稿の一部を引用しておく(これは還暦について調べた原稿で未発表のままになっているもの)。

四十を初老として祝う風習は奈良時代からあった。漢詩集『懐風藻』には長屋王の四十(シの音を嫌って五八と言い換える)を祝う刀利宣令「五言。賀五八」や伊與連古麻呂「五言。賀五八年宴」が選ばれている。後者は次のような詩である。

晩秋長貴戚。五八表遐年。真率無前後。鳴求一愚賢。令節調黄地。寒風変碧天。已応螽斯徴。何須顧太玄。

 「五八表遐年」の遐年(かねん)とは遐寿、遐命ともいい、長寿を意味する。また天平十二年(七四〇)には興福寺の良弁が聖武天皇四十の賀を金鐘寺で執り行った例もあるし、もっと下って平安時代には、フィクションながら当時の風習を正しく反映しているとされる『源氏物語』若菜上巻の例がある。ここでは光源氏のために四十の賀が三度も開かれている。正月に玉鬘、十月に紫の上、十二月に秋好中宮と夕霧がそれぞれ賀宴を主催した。その折の光源氏の感想は四十男の切なさを表しているようで興味深い。引用は与謝野晶子訳。

「過ぎた年月のことというものは、自身の心には長い気などはしないもので、やはり昔のままの若々しい心が改められないのですが、こうした孫たちを見せてもらうことでにわかに恥ずかしいまでに年齢を考えさせられます。中納言にも子供ができているはずなのだが、うとい者に私をしているのかまだ見せませんよ。あなたがだれよりも先に数えてくだすって年齢の祝いをしてくださる子の日も、少し恨めしくないことはない。もう少し老いは忘れていたいのですがね」

「私はもう世の中から離れた気にもなって、勝手な生活をしていますから、たって行く月日もわからないのだが、こんなに年を数えてきてくだすったことで、老いが急に来たような心細さが感ぜられます」

「四十の賀というものは、先例を考えますと、それがあったあとをなお長く生きていられる人は少ないのですから、今度は内輪のことにしてこの次の賀をしていただく場合にお志を受けましょう」

 文中「この次の賀をしていただく場合」というのはむろん五十の賀を意味しているのだろうが、四十、五十、六十、七十などの年齢に達したことを祝う「賀」は中国の古い習俗で、算賀、賀寿などとも呼ばれる。とりわけ唐代末から宋代にかけて長寿を祝って詩を贈ることが流行したらしく、その影響が先に引いた『懐風藻』に現れているということになる。

思いを託していたも何もミーハーな空海らしく中国風に四十を祝いたかったわけであろう。四十を初老と呼んだりするのはこの風習がもとになっていると思われる。

もうひとつの謎、空海の得度の年齢。宗門の通説は二十歳。「崩伝」は三十一歳。どちらが正しいのか? 得度とは出家して沙弥(しゃみ、具足戒を受ける前の出家者)になること。当時、得度は原則として国家機関の承認を必要とする「官度」であって、その承認を経ない「私度」は禁止されていた。毎年、得度できる人数も決められていた。

ここで上山が注目したのは空海得度に関する太政官符の写しである。そこには《右は去る延暦二十二年四月七日、出家入唐せり。省、宜しく承知し、例に依って之を度すべし。符到らば奉行せよ》(原漢文)とある。日付は延暦二十四(八〇五)年九月十一日(出家の二年後!)。これは野里梅園『梅園奇賞』(文政十年刊)に模写が収録されているので知られていたが、元は石山寺に所蔵されていたものらしい。その原本らしきものはその後、古文書学者中村直勝のコレクションに入っていた(大和文華館所蔵)。上山はこの公文書(の写し)に延暦二十二年とあるところを別の資料によって二十三年(八〇四)の誤写ではないかと推理し、それならば三十一歳得度である、と推断する。

どうやら、空海が遣唐船で唐に渡ったとき、いまだ得度していなかった。「官度」の僧ではなかったのである。それでいてよくぞ留学できたものと思われなくもないが、このあたりも空海らしい腕力なのかもしれない。ただ同行した時の遣唐大使藤原葛野麿から厚い信頼を得た。中国語あるいは漢文の力量を十二分に発揮して大使一行を大いに助けたようだ。空海より一足早く延暦二十四年に帰国した葛野麿は空海を正式に「官度」させる命令書を発行させた。だからこそ得度手続きは留学直前なのに発令の日付は一年以上後になっている。

いずれも細かい話のようだが、この推論に到るには空海を取り巻く様々な事情を理解する必要がある。容易でないはずである。何しろ一千二百年前のことなのだから……

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by sumus2013 | 2015-02-22 21:39 | 古書日録 | Comments(0)