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林哲夫の文画な日々2
by sumus2013


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酢橘の熟れる里

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所用にて帰郷しておりました。実家の庭のスダチがすっかり黄熟していました。四国に雪が降りました。



by sumus2013 | 2014-12-06 17:38 | うどん県あれこれ | Comments(2)

サド歿後二百年

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フランスのテレビ・チャンネルに「ピュブリック・セナ(PUBLIC SÉNAT)」(二〇〇〇年設立)というのがある。インターネットで放送しているため番組は日本からでも視聴できる。そこには名物の書評番組「ビブリオテック・メディシス」があって、これがなかなか面白い。と言っても正直なところ内容はあまり理解できないのだが、テーマに興味と多少の知識があれば、なんとかそこそこ分るものだ。毎週同じ内容の番組を土、日、火と六回放送しているらしい(アーカイヴで過去の放送も視聴できる)。リュクサンブール宮の図書室(すなわちメディチ図書館)で撮影しているのも重厚な趣があってよろしい。

ジャン-ピエール・エルカバックという切れ者の司会者(一九三七年生、右派のジャーナリスト)が、テーマに沿って何冊かピックアップした書物を紹介しながらその著者たちに(ゲスト一人だけのときもあるが、たいていは六人くらい)その内容や執筆の動機などについてビシビシ斬り込んで行く。ゲストがくだくだ説明していると直ぐに遮って次に進む、そのテンポの小気味好さが売りのひとつでもあるようだ(田原総一朗の司会ぶりを連想していただければいいかもしれない)。

最近はそれなりに忙しくてあまり見ていなかったのだが、ふと昨日のぞいたらサド特集をやっていた。十二月二日はサド歿後二百年になるという。

BIBLIOTHEQUE MEDICIS
Sade
Diffusée le 28/11/2014

というわけで取り出したのが上の絵葉書。サド侯爵の城「ラ・コスト LA COSTE」(現在、村としてはラ・コストではなくラコスト LACOSTE と表記するようだ、もともとは海岸という意味のラテン語から)。これは今パリに住んでいる知人が、かなり前にラ・コストへ旅した記念として送ってくれたもの。南仏というかもう地中海に近い場所なのだが、当時は交通手段がなく相当長時間歩いてたどり着いたらしい。自ら訪問したいとまでは思わないものの、この写真がいい感じなのでずっと大切に保存している。


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ラ・コストのことを少し書こうかと思ってジルベール・レリー(Gilbert Lely)『サド侯爵 Sade』(Gallimard, 1967)とその訳本『サド侯爵』(澁澤龍彦訳、ちくま学芸文庫、一九九八年)を取り出した。

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レリーの本にはラ・コストの写真が掲載されているようで(上のポケット版には収録されていない)、澁澤はそれを転載してくれている。レリーが最後にこの城を訪れたのは一九四八年だそうだ。屋根と壁がちゃんとある部屋は一室だけというくらい荒廃していた。

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レリー(1904-85)はフランスの詩人。シュルレアリスム系で、二十世紀の重要なフランス詩人の一人とみなされているらしい。一九四二年にラ・コスト城を初めて訪れ、サドに開眼した。『神侯爵 divin marquis』(一九六二〜六四)などサドの評伝を何種類も発表、サド研究先駆者のモーリス・エーヌについての著書もある。

《しかしカラヴォン河の渓谷を通って歩いて行く《近道》は、まさに風光絶佳である。まず半ば崩れた低い壁に両側を挟まれた、せまいガロ=ロマン時代の道を行き、次いで一時間あまり、畠やオリーヴ園や葡萄園のあいだの道を行くのである。この素晴らしい風景のなかに一きわ高く聳えているラ・コストは、歩いているうちにだんだん大きくなり、だんだんはっきり見えてくる。まるで永いこと渇望していた憧憬の対象に、もう少しで手が届くといったように……
 人家のある村は、古い城砦の西の門まで、けわしい傾斜をなして上り坂になっている。やがて侯爵の邸の下の、幽霊が見張り番をしている幾つかの廃屋に沿って、打ち捨てられた台地の村を私たちは通ることになる。右手に古代の螺旋階段があり、ぱっくり口をあけた地下牢に通じている。この階段をのぼるのは不安である。のぼりながら、見上げると、いきなり、城の東の正面(ファッサード)の全景が眼前にあらわれる。今にも北風(ミストラル)の攻撃を受けて崩れかかり、その巨大な重量の下に私たちを埋めつくしてしまうかと思われるばかりである……べつに変ったこともなく、物置の扉をあける。円柱の破片、巨大な男根像などがそこに転がっている。深い亀裂が縦に入っている、この同じ城の正面をさらに奥へ進み、崩れ落ちた石の階段をのぼると、迫持造りの二階の広間にいたる(一九四八年五月、私が最後に城を訪問した時には、異常に雨の多い季節のあとで、崩壊した建物の階段には雛罌粟の花が満開であった)。》

ポケット版のテキストと突き較べると、何箇所か意味が食い違ったり、文章が抜けていたりするところがあるが、おそらく澁澤の用いたテキストとポケット版には異同があるのかもしれない。

この荒廃振りはサドの晩年においてもすでに始まっていた。レリーは奉公女ゴトンから裁判所判事へ宛てた手紙を引用している。

 《「前略御免下さいませ、旦那様にお知らせ申し上げますが、当地ラ・コストでは、とくに薪が切れております時は大そう寒く、大そうひどい風が吹き荒れまして、お庭の塀の石が落ちてくるほどでございます。旦那様も御存知のように、もうずいぶん前から、お城は今にも崩れそうな状態なのでございます。ーーあらあらかしこ。ゴトン。」

あらあらかしこ」には苦笑させられる。とにかく城を維持するのも楽じゃなかった。

***

目下パリのオルセー美術館で「サド。太陽を侵す」という展覧会が来年の一月二十五日まで開催されている【という情報をコメントいただきました】。美術品はともかく資料類に見所が有るようだ。サド展紹介サイトで展示責任者アニー・ル・ブランの短いインタビューが見られる。彼女に興味をもった。

Sade. Attaquer le soleil

by sumus2013 | 2014-12-01 22:02 | 古書日録 | Comments(2)