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<   2014年 05月 ( 27 )   > この月の画像一覧

「ほんの趣味」

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「ほんの趣味」八の三、しげを書店(岡山市高砂町)昭和十一年七月二十日、通巻三十七冊。ガリ版刷の古書目録である(寸法はタテ105×ヨコ155ミリ)。八冊ほどご恵投いただいたので有り難く頂戴した。そのうち六冊がこの「しげを書店」の古書目録。表紙多色刷、本文は単色。内容はだいたい趣味の本、文芸書が中心で郷土書も。なかなか上等な目録だ。値段は穏やか。一番高額なのが『吉田松陰全集』(岩波書店、十冊本)25円。単品では『歌舞伎隈取概観』(ぐろりあそさえて)9円50銭、『第四回宝船絵葉書集』(宝葉会)8円。現状と比較すると十冊本の松陰全集はかなり値崩れしている。歌舞伎はほぼ同じくらい。宝船絵葉書集は木版刷り絵葉書百二十二枚だから、もし今この本があったら、そうとう高額になるだろう。当時の8円は今のおそらく4万円くらい。メチャ安い。


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「ほんの趣味」、ともに八の四と表記されているが、上が昭和十一年十月二十五日発行で下は昭和十一年九月七日発行。岡山市高砂町三十一番地、趣味のふるほんや しげを書店。八の四の裏面はこういう図案、なかなかに凝っている。

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細長い方は夢二特集。

《"夢二遺作展"
が昨日今日会[ママ]催されて居ます。岡山人たる夢二を知らぬ人達でも夢二の画や本に一のみ力を感ぜされます。夢二式の女それは一時騒(やか)ましく言われさわがれたものでした。人々は彼を忘れはてゝゐた二年前不士見の正木博士の病院で死んでいつた。私は人間の変遷を今考へさせられて居ます。こうもはかないものかと。今輯へは特殊報告書と夢二展にちなんで夢二の著作と装訂本を蒐めて見ました。》

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夢二本も今からするとウソのように安いけれど、注目はやはりヨヘイ。五〇銭とは……。このなかでは『デモ画集』も高額になっている。佐藤三重三は数倍に。小杉未醒はほぼ同じレベル。



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八の五、昭和十一年十二月十五日発行。第四十冊。



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「本」とタイトルは変っているが、NO46だから「ほんの趣味」と連続していると思われる。昭和十三年八月十五日発行。花柳特集号。注目の一冊は平沢計七の遺稿集『一つの先駆』(玄文社、一九二四年)二円五〇銭。解説にいわく。

《本書は関東地方大震災の後を受けた騒擾混乱の中を、突如、亀戸署に検束され、戒厳令下に出動したる軍隊のため同志九名と共に、兵卒の銃剣に依つて刺殺された平沢計七の遺稿集である。序文は菊池寛、小伝は中西伊之助、玄文社発行。大辺[ママ]少ない本であります。極美。



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「ほんの趣味」に戻って四十九輯、昭和十四年三月二五日発行。

《二月二十日前住所より約南一丁へ転宅致しまして又々発行がおくれました。次号からは確実に発行して行き度いと存じて居ります。》

転居先は岡山市高砂町十二。高砂町は現在では岡山市北区中央町に編入されている。アイアイ傘の似顔絵が主人だろうか。こんな本屋が近くにあったらなあ…と思う。戦後も営業していたのかどうか、手持ちの資料では分らなかった。




by sumus2013 | 2014-05-26 20:24 | 古書日録 | Comments(0)

白鯨など

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佐々木幹郎氏が『清水昶詩集 暗視の中を疾走する朝』の栞で触れておられたので、これを取り出してみた。『白鯨 詩と思想』6(白鯨舎、一九七五年一一月二五日、装丁=三嶋典東)

《一九六九年に清水昶は第三詩集『少年』を出し、翌七〇年にわたしは最初の詩集『死者の棘』を出した。やがて清水昶と一緒に、六人のメンバーで同人誌「白鯨」(一九七二〜七五)を刊行した。わたしが詩人として出発し始めたこの時期のことをふり返ると、まさに「暗視の中を疾走」するような気分になる。

『白鯨』が何冊出たのか? 近代文学館には二〜六号まで揃っている、カナブンも六号まで三冊。この六号の後記(白鯨舎からのメモ)を読むと、大幅に刊行が遅れた弁解が連ねてあるから(執筆=佐々木)、そろそろ限界だったのかもしれない。この時点での同人は粕谷栄市、佐々木幹郎、正津勉、米村敏人、荒川洋治、清水昶、倉橋健一、倉田良成、鈴木麻理、藤井貞和、鈴村和成、田村雅之、村瀬学。

「白鯨通信」という雑報欄の鈴木麻理「骨相学騒動の経過」がバツグンに面白い。鈴木麻理は鈴木志郎康夫人。『現代詩手帖』五月号誌上で藤井貞和が鈴木志郎康の妻マリに対して面識もないにもかかわらず《骨相学的に平凡な女性で》云々と書いたのを読んで麻理本人が憤慨した。その二日後、お茶の水駅のホームを鈴木夫妻が歩いていると、藤井貞和に出くわした。

《「フジイサン!」 自分では、狂[ママ]悪な声を出したつもりだった。緑色のシャツは振り返った。「だれだかわかりますか?」しばらく双方沈黙。「あったことはないの」(クイズみたいだなー。)「あっ、ええ、ええ、わかります。あの……」 誰だかわかったらしいけど、名前は出てこないらしい。「マリです!」(これが正解!)「ええ、あの、スズキさん、スズキシロヤスさんの?」「そう、私、怒ってるの。あんなこと書かれて。」ここで、二、三度、藤井さんの頭を、軽くぶったような気がするのだが、ここらへんから、私のほうが、ドキドキしてきたので正しい会話の運びは覚えていないのだ。ちょっとばかり文句を言い、「もう、あんなふうに書いちゃいやよ!」とかなんとか言って、ポカともう一回ぶった。藤井さんは、「はい!」と言ったように思う。私は、なんとなく、すっきりしたような、しないような、ドキドキしているような、していないような、それもわからないくらい興奮した胸をおさえて、階段の上り口で待っていた志郎康さんのところへ、もどった。

なかなかです。対して藤井貞和の解説もこの後に掲載されている。

《駅のホームで衆目のなか、ポカポカと殴られた一瞬の悪夢のような時間ののち、気をとりもどしてすぐ八木忠栄さんに、スズキマリと名のる女性と対決、暴行を受けた旨一報を入れた。二日後、麻理氏の「文句の手紙」と、麻理氏の自画像が送られてきたのだが、それよりも対面のほうが早かったのだ。一晩寝込んだだけですぐ立直ったから、神経は太い部分があるのかもしれない。

こういうトラブルに関する記述は同人雑誌の醍醐味とも言える。詩や詩論より人間の方が面白い、ということだろうか。

鈴木志郎康作品『景色を過ぎて』
鈴木志郎康作品『極私的魚眼抜け』
鈴木志郎康作品上映会


***


新潟の鈴木良一さんより頂戴している『野の草など』31号(書物屋=新潟市中央区本馬越1−16−12、二〇一四年五月一五日)。常山満遺稿集を紹介する記事が注意をひいた。

《同人の寺井青が、常山満(一九四七〜二〇一二)の遺稿集『新潟魚沼の抒情詩人 常山満詩集』を編集発行した。費用を含めすべて寺井青の責任での編集発行である。その功を大とする。相談を受けて幾つかのアドバイスをさせてもらったが、寺井青の常山満への哀悼の意と詩誌「ジュラ」への思いを存分にまとめた一冊となったと喜んでいる。》(編集後記 鈴木良一)

詩人・常山満と詩誌「ジュラ」(一)。抒情を、詩を。
http://kokoroutakokoroehon.tamaliver.jp/e385520.html

by sumus2013 | 2014-05-25 17:35 | 古書日録 | Comments(0)

今日はメーデーです


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昨日のビラで思い出したのがこちら。学生運動の時代よりは少しさかのぼるが、一九五二年のメーデー参加を呼び掛けるもの、全大丸労働組合教育宣伝部が配布したようだ。

《戦争の危機が暗く私たちにのしかかつているとき、沈黙を強制する破壊活動防止法案、労働組合さえつぶそうとする破壊活動某氏法案を実力で反対するため、右も、左も一緒になつて、全国的なストや抗議大会を行いました(労闘スト)また、全自動車・私鉄やその他の組合(私達の身近かなところでは高島屋労組)は、困難を堪えて、勇敢に賃上げ闘争を展開しています。》

現在と状況が似ているような気もするが、やや紋切り型ながら文言の熱さにはこの時代ならではの調子がある。




by sumus2013 | 2014-05-25 17:21 | 古書日録 | Comments(0)

暗視の中を疾走する朝

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『清水昶詩集 暗視の中を疾走する朝』(築地文庫、二〇一四年五月三〇日)が届いた。清水昶の最初の詩集、私家版、その復刻版である。「栞」に佐々木幹郎氏が刊行の経緯を書いておられる。

《築地文庫の湊準二郎さんの話によると、湊さんが関東学院大学の生協で仕事をしていたとき、同志社大学を卒業したばかりの清水昶が職員として赴任。親しくなって、もはや絶版になっていた『暗視の中を疾走する朝』の謄写版の版下原稿を譲り受けたのだという。それを半世紀近く大切に保管していて、今回の復刻につながったらしい。

原本は「謄写ファックス」、復刻版はリソグラフだが、《限りなく原本そのものに近い感触に仕上がっている。》そうだ。


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  吊した舌に激しい痛み 海草のような神経を
  はいあがり いきなり海 例えば街でも良い
  消えて行く ジャズ 闇の部分にシャム猫の
  眼 少女の唇その光りの流れに 紙飛行機浮[ペーパープレイン]
  び 墜ち行く先は女の嗤い ハッハッジャズ
  ブラックコーヒーに溶けた僕の顔 店内は長
  くて昏く 西陣の家は長くて暗く 汚れた便
  器にあくび吹き込み ジャズジャズ流れちゃ
  うジャズ 失踪した男が聞く朝のジャズ 僕
  かも知れない たしかに僕は 瀑布の飛沫に
  濡れゲラゲラ笑いたかった[以下略]



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『暗視の中を疾走する朝』は、清水昶の「アキラ調」とも呼べる粘りつくような呼吸法と、土俗的な美意識に包まれた言語感覚が誕生する前の、詩の文体がまだ未成立の段階の習作詩集である。しかし、そのことがより一層、一九六〇年代中期の日本の典型的な青春像を浮き彫りにしていて、初々しい魅力を持っている。ジャズと革命と恋と学生運動が一体になっていた時代の匂いを、紫煙のように立ち上らせている。

と佐々木氏が述べておられる通りだと思う。むせかえるくらいだ。自筆手書きの詩がほとんどなのだが、その字体に触れたこういう指摘が注意をひく。

《ちょっと説明しておくと、六〇年安保闘争以降の京都の学生運動の諸党派は、それぞれ大学ごとに、タテカンに文字を書く係の学生を決めていたため、文字を見ればその内容を読まなくてもどこの党派かわかった。また、キャンパスで配られるビラの書体もレイアウトも(当時ビラはすべて謄写版印刷だった)党派ごとに異なっており、その書体は先輩から後輩へ引き継がれ、新左翼運動特有の文字文化が代々続いていたのである。》

なるほど、そういうものか。六〇年安保のビラなんだか面白そうだ。

《京都の学生詩人たちが出す詩誌のほとんどは京都市役所の近くにあった双林プリントで印刷されており、印刷人はそこで働いていた詩人の大野新であった。大野さんは清水昶の兄である詩人の清水哲男と一緒に、同人誌「ノッポとチビ」を刊行していて、京都の学生詩人たちは大野新を畏敬していた。

そして清水昶の第二詩集『長いのど』は文童社から出たそうだ。文童社は言うまでもなく双林プリントで詩集などの出版をするときの社名である。佐々木氏は触れていないが、経営者は山前実治で住所は山前の自宅になっている。

《わたしは「文学研究会」で出していた同人誌「同志社詩人」の印刷と校正のために、大学時代は双林プリントに頻繁に通っていた。大野新さんと親しくなって、「首」や「ノッポとチビ」の例会にも誘われた。その頃の京都には、詩の巨匠として天野忠がいて、異端児の中江俊夫がいた。京都詩壇の黄金期だったように思う。

『暗視の中を疾走する朝』元版は限定三〇部。この復刻版は三〇〇部である。実に丁寧な仕事ぶりだと思う。






by sumus2013 | 2014-05-24 19:48 | おすすめ本棚 | Comments(6)

キック・オフ 

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先日『』80号(脈発行所、二〇一四年五月一〇日)では中尾さんの「雑誌『雑記』について」が面白かったと書いた。『雑記』というのは太田順三が主宰していた雑誌である。創刊一九七四年九月。大阪文学学校のチューターだった川崎に学生だった太田が喫茶店で「雑誌やりませんか」と声をかけて実現した。実際にはもう少し込み入っているようだが、詳しいことは中尾稿を見て頂きたい。中尾さんはこう書いておられる。

《太田順三の小説について触れる余裕はないので、ここでは、川崎彰彦が、近年とみに再評価の機運があがっている佐藤泰志より太田を買っていることだけをいっておきたい。》

《〈佐藤泰志と太田順三と、二人の新人のどちらの〈批評(クリティシズム)〉がヨリ上等であるかーー問うまでもない〉(「一班全豹談ーー文芸時評」一九七九・八『新日本文学』)と断じるのである。これが川崎の身びいきかどうかは、ふたりの作品にあたっていただくほかない。》

これを読んだら太田の小説が読みたくならない方がどうかしている。中尾さんにご無理を申し上げ、コピーを頂戴した。「キック・オフ」の初出(『燃える河馬』三号)。そこに太田順三の単行本『水の戯れ』(雑記舎、一九七九年二月一日)の目次と小沢信男さんによる解説文コピーも付けてくださった。



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一読、太田順三の小説が佐藤泰志より〈批評〉が上等であるかどうか、一概には断定できないように思った。ただ正直に言えば「海炭市叙景」は途中で挫折したのに反して太田の短篇はなかなか面白く読めたのも事実。仮に佐藤がCOM系としたら、太田は明らかにガロ系である。そこに川崎との近縁が感じられないわけではないし、小生の好みも今はややガロに傾く(同時代的には『COM』を毎号買っていて『ガロ』は読んでいなかったにもかかわらず)。小沢さんはこう言っておられる。

《また、八篇を通じて会話が多く、これもこの作者の特徴のひとつと言える。作中人物たちは一向に深刻な論議をするでもなく、ごく日常的な、屁のような会話をころがしてゆく傾向がある。そこで、私の老婆心で言うのだが、近ごろのせっかちな読者諸賢の目には、太田順三はちょっと毛色が変っただけのたよりない饒舌家と、あるいは見えるかもしれない。だが、さきに『水の戯れ』で指摘したように、この作者には、むしろすっきりと寡黙な姿勢があるのだ。書かなさすぎるウラミさえある。そのへんの食い違いはなぜか。》

《"現在"という時間と空間の接点を、作者は凝視する。小さな青葉に光る水玉が転げるほどの、一回かぎりの今、だから。青葉を空間、水玉を時間とすれば、彼は、個の週末の方角から現在をみるわけである。それぞれの作品が、似よってもいながら、孤立生をおびる所以である。
 もう言ってしまおう。"水玉の転げるほどの命かな"これがこの作者のテーマ・ソングだ。そのように、どうやら立場をきめてしまった。そのとき彼は、一気に年老いた。》

《いっそかろやかで、それこそがなみなみならぬ独自性だが、彼のうちなる当惑も、また、そこにあるような気がするのである。自分がなんのために覚めた目をもっているのやら、おもえばそればわからすもどかしい、とでもいうふうな。》

「キック・オフ」から屁のような会話の一例を引いておこう。

《私はミヤ子さんから視線を外して、井戸端の陰からふと現れ出た白犬を見た。
「あ! あの犬はどこの犬なんかな?」
 と再びミヤ子さんの目を見上げた私である。
「ああ、この犬は、学校の裏の大野さん家の犬じゃろ」
「あれ、それならもう五六歳になる犬かなあ」
「さあ、そがいになるのじゃろうか」
 とミヤ子さんは自信の無い声で言った。それから彼女は首輪も見えにくいほどに毛深いスピッツの見えなくなった、彼女の家の陰を見やった。それから、彼女は私を振り返って、
「あ、順ちゃん。電話を貸して貰わないけんのよ」
「いいですよ。どうぞどうぞ」
 と私は答えて、慌てて上り框に立った。》

私小説の系統であり、青春小説ふうな会話もあって、さらにプロレタリア小説の味もわずかに残す。ようするにガロ系なのだ。暗さのなかに明るみ、暖かみのさす、なんとも言えない味わいがあるように思う。なおこの作品の舞台は愛媛である。






by sumus2013 | 2014-05-23 21:20 | 古書日録 | Comments(0)

開化小野がばかむらうそじづくし

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鴻田真太郎編輯『開化小野がばかむらうそじづくし』(大橋堂、刊行年不詳、明治初期)、さてこれもまた面白本の一冊。元本は式亭三馬『道化節用小野がばかむらうそじづくし』。しゃれのめして組み合わせた漢字すなわち嘘字(ウソが言偏になってます)を中心に文字にからむおもしろおかしい話を集めた滑稽本。オリジナルは下記サイトで(洒落指南所』でタジャレ将棋図は江戸時代にもあっただろうと推測したが、やはりこの式亭三馬の本に出ていた)。

式亭三馬『小野[バカムラ][ウソ]字尽』上総屋忠助、文化3(1806)
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he13/he13_00983/index.html

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《開化の化ハばけると読むなり 人に化るにはよくよく心得べし 片(ヘン)ハ人と云字 つくりハヒ(さじ)と云字也 此人ヒ(このひとさじ)にて世の中へすへひ出さるれバ仕合よし すへられねばたちまち片仮名のヒの字イの字になる也 貧乏を一生かたに荷(にな)ひピイピイ風車も売(うれ)ぬ身となる御用心御用心
   小野ばかむらの
        歌に
能化(よくばけ)よ化そこのふて狐にも 
おとる尻尾を出さぬ用心》

序文の下の図。化(ばける/くわ)を中心にして「氏族の娘娼妓に」「芸妓華族の奥様に」「ブリキの盥(たらい)銅(あかがね)に」「生て居る女地獄に」「於三殿権妻(おさんどんごんさい)に」「濃花(こいはな)の裏地紫に」「奥州者の爺蜘(おやぐも)に」という警句が取り巻いている。地獄は私娼のこと。権妻はめかけ。濃花は……濃紺の裏地が紫になるということは粗悪な染料か。奥州者の……はよくわからないが、あまりいいことではなさそうだ。なかなか社会派の化け演説ではないか。以下いちいち解読していてはキリがない。数頁だけ引用しておくのでご自分で楽しんでいただきたい。


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上段の「あめりか」が意味深長。

《飴[さかさまの借=りか]
○いままでハ飴をくわせて居たがこちらもたしなくなつたから借になつたとうその親玉親玉》

日米関係ということだろうが、この時代からこういう関係だったようだ。鴻田真太郎は新太郎、新田郎、雨水とも名乗り『うそ字尽し』の他に次のような著書がある。

小学開化要文
鴻田真太郎 編 大橋堂 1879

小学開化女用文
耕田雨水 (鴻田新太郎) 編 大橋堂 1878

徳川略伝記 1-5
鴻田真太良 編、静斎芳村 画 大橋堂 1878

◆◆[言偏に「虚」]字盡. 開化大日本國盡 : 名頭盡 : 世界圀盡
鴻田真太郎輯書、鴻田真太郎[製作者不明]




by sumus2013 | 2014-05-22 22:09 | 古書日録 | Comments(0)

夏・子供・わかれ

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岩橋正子詩集『夏・子供・わかれ』(的場書房、一九五八年八月二日、カバー装幀=服部宏)を頂戴した。

《同封の一冊は荻窪ささま書店店頭105円(4月以降も)棚で入手したものです。作者もカバー装丁者もほとんど誰なのかわかりませんが、的場書房の本ですし、なかなか奇抜な? デザインなので、お送りいたします。》

いや、たしかに奇抜。気に入った。ジャクソン・ポロックのモノクロームの作品でこういうのがあったような気もするし、ピカソあるいはキュビストにもありそうだ。「日本の古本屋」に何冊か出ているが、さすがにちゃんとした値段が付いている。また岩橋正子は串田孫一が編輯していた雑誌『アルビレオ』(十字屋書店、1951~65)にも執筆していたことが分る。一般的な検索をかけると服部公一の合唱曲に歌詞を提供したり、外国の歌曲に詩をつけていることも判明した。詩集としてはもう一冊『ブルースをあなたに』(詩苑社、一九六三年)があるようだ

的場書房の本として見ると、鶴岡善久『薔薇祭』は奥付方式だったが、この『夏・子供・わかれ』は前付け、扉の裏面にコロフォンが挿入されているのが特徴的。フランスの詩集などの模倣かもしれない。目次は巻末にある。また、ジャケットとともに印象的なのは口絵として挿入されている写真作品。前付けの直ぐ後に一枚、また裏見返しの手前に一枚。巻頭と巻尾に配置されサンドイッチのようになっている。非具象の雰囲気がなかなかいい。作者は今井寿恵。この人にはウィキがある。それによれば一九三一年東京生まれ、父は銀座松屋デパートの写真室を経営していた。五二年、文化学院美術科卒業。平松太郎に勧められカメラマンの道に進む。五六年第一回個展。その後交通事故で視力が低下する。友人だった寺山修司が競馬場へ連れて行ったのがきっかけで馬に魅せられ競走馬や騎手の写真を中心に活動するようになった。二〇〇九年歿。寺山修司と友達だったのなら的場書房とつながっていても不思議ではない。


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著者の住所は東京都杉並区阿佐ヶ谷一ノ七四四と記載されている。現在は阿佐谷北と阿佐谷南に分れているためどの辺りかはっきりしないが、JR阿佐ヶ谷駅周辺にはちがいないようだ。

by sumus2013 | 2014-05-21 20:58 | 古書日録 | Comments(2)

美しい暮しの手帖 古今東西帖

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暮しの手帖増刊『美しい暮しの手帖 古今東西帖』(暮しの手帖社、一九五一年七月一五日、表紙=花森安治)。三月に町家古本はんの木で求めた。表紙の鮮やかさ、そして挿絵のふんだんに入った構成に目を奪われた。内容はいわゆる暮しの手帖とは違って「何でも物知り百科」という感じ。執筆担当は大島泰次郎、小牧あき、豊田克彦、久松正男、渡邊紳一郎。

《項目は編集部でえらび、ひとつの項目について少なくとも三人以上の方に、別々に書いていただき、それを一つに集めて、最後に、やはり執筆者のおひとり、渡邊紳一郎氏に、削除加筆して、まとめていただきました。大げさに申しまして、前後稿を改めること、三たびでございました。(S)

渡邊紳一郎以外の執筆者たちは本書の執筆者として以外にはこれといって検索にひっかかってこない。花森が隠れているのかな?


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目次の大胆なイラスト(川上澄生ふうだ)がいい。選ばれている項目も趣味的なものがほとんど。それぞれ蘊蓄が傾けられている。

例によって「コーヒー」はちょっと引用してみたい。【喫茶店の時代】

《コーヒーの発祥地はアラビヤだが、そこの上等を積み出す港がモカ MOCHA とも MOKHA とも書く、紅海の出口のところにある。西洋でも一流レストランか上流社会の食事のあとで、ドミ・タスに、ちょっと飲むほど、本物のモカは貴重品だ。東京のカフエやレストランで、どこにもモカと名付けるものを出すが、本物ではないだろう、モカの対岸のエチオピアの場違いモカですら、あり得ない。小田原のそばに鴨の宮という駅がある。駅の名だから仮名で横書きにしてある「やみのもか」、東京のモカも、これと同類だろう。モカは酸つぱいというので、南米の酸つぱい種類をモカと称しているらしい、商売人が、そういつているのだから正に、その通りだろう。

現在ではコーヒーの発祥地はエチオピアとされており、エチオピア産がモカ・ハラー、アラビア半島のイエメン産がモカ・マタリである。ブルーマウンテン(ジャマイカ産)が登場する前はモカがコーヒーの最高級品だった。ブルーマウンテンでも同じようなことが言われているように思うが、ブレンドのパーセンテージが問題となってくるわけだ。


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サボ(木靴)を読んでいて教えられたのはサボタージュ(sabotage)がサボに由来しているという説。

《日本に関係のないサボが、我々に名高いのはサボタージュのお蔭である。怠けることを、サボるーーなぞという。SABOTAGE というフランス語はサボを作ることである。これが労働争議の言葉となつたのであるが、その理由は明らかでない。フランスにおける鉄道従業員の争議から起つた。転轍のところをサボで壊したことから始まつたろうというのが一番信じられている。

リットレの辞書によれば鉄道用語で枕木を固定することをサボタージュというそうだ。

《サボタージとは、不注意により、つまり、見張りを怠つて、工場の機械が壊れるように仕向けたり、製造したものがローズ物になるように仕向けることである。大正八年に、日本の砲兵工厰の従業員が争議を起し、罷業をやらないで、出勤しながら、何もしないで怠けるという戦術を取つた。その時の新聞が怠業と書き、それにサボタージとルビを振つた。それ以来、怠業則ち、サボタージユとなり、ただ、怠けることをサボる、というようになつた。

フランス語のウィキでもほぼ同様な怠業説が紹介されている。サボ(木靴 sabot)という言葉はアラビア語の sabbat(けたたましい舞踏)を語源とする savate(古靴)、古フランス語のボット(bot, botte、靴)からきたようで、木靴を踏みならす音のうるさい舞踏、そしてその木靴を意味していたようだ。サボタージュという単語は十九世紀中頃に現れた。印刷工場には古くなったサボを吊るしておいて、そこに使い物にならなくなった活字を放り込んでいたことから、これがアナーキストたちのシンボルになったとも。密談をするときにサボを踏みならして外部にもれないようにしたなどとも言われる。

今、たちまち調べた範囲内では大正八年の砲兵工厰の争議が見つからなかった。その代わり大正八年九月十八日に賀川豊彦らが指導した神戸川崎造船所職工たちが新戦術「サボ」で勝利したという記事を見つけた(『日録20世紀 大正8年』講談社)。


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裏表紙内側の自社広告がいかにも花森らしい文字組みである。





by sumus2013 | 2014-05-20 21:59 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

宮本常一離島論集完結

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【書評】

「宮本の「離島」という問い 「離島論集」完結により総覧が可能に」
 重信幸彦 『週刊読書人』2014年2月28日号

「民俗学者の枠を越えて立ち上がる宮本常一 世間師にして経世者の面目躍如」
 和賀正樹 『図書新聞』2014年5月17日号



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二〇〇九年一〇月に第一巻を刊行して以来まる四年、五巻および別巻の六冊を完結させた。その間にいろいろ環境の変化もあったが、昨今の状況下でよくぞやりとげた、と思う。装幀に関しては巻ごとに文字の組み直しをしただけなので苦労はなかった。カバーに使ったマーメイド紙の値段が高いため申し訳ないなと思いつつ同じ紙で通した。附録 CD-R のデザインも絣の模様で統一。けっこう気に入っている。


みずのわ出版
宮本常一離島論集(全5巻+別巻)2013年8月全巻完結につきまして
http://www.mizunowa.com/index.html


宮本常一離島論集第一巻
http://sumus.exblog.jp/12009942/

著者 宮本常一
編者 森本孝
装幀 林 哲夫
発行所 みずのわ出版

216×153mm

ジャケット マーメイド しろ砂 四六判Y目115kg
表紙 NTラシャ くち葉 四六判Y目100kg
見返 NTラシャ 濃茶 四六判Y目130kg
別丁扉 タント0-56 四六判Y目100kg

by sumus2013 | 2014-05-20 15:57 | 装幀=林哲夫 | Comments(0)

洒落指南所

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『洒落指南所(しやれしなんじよ)』(編輯兼発行者=加藤福太郎、発兌=三井新治郎、一八九二年三月二一日出版)。江戸のダジャレ本『わらひ竹』につづいて明治二十五年発行の駄洒落本を紹介しよう。日清戦争(明治二十七年)の少し前、まだまだ江戸時代の常識がまかり通っていた時代、表紙も江戸の意匠を踏まえているようで、どこかのんびりした風情である。

口絵は「宗信画」とあるが、さてどなたでしょうか? いろいろな職業階層の人々が洒落指南で笑いころげている図と見た。

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《洒落指南所序
昔あくび指南所有りて田鼠化す鶉の酢豆腐連を能く感服せしめしとか今や二ツ山形の星移りて洋装(ようしやう)の花魁(おゐらん)が落ちを取る時世にハ誰か叭(あくび)の稽古をや為すべきこのごろ瓢(ひさご)の尻と倶(とも)に風羅(ぷら)〜[くり返し]歩行(あるき)の途次(とちう)ふ斗洒落指南所の看板を見受たり余り滑稽(をかしさ)の事ゆへ如何なるものやと繙(のぞ)き見れバ其意気なこと……うがちなこと……滑稽(こつけい)ーー洒落ーー腹ゑぐり……等実に野暮退治をほん的そんじよ的そこら的等の楷梯にてまことや丹後殿の前を学びし六方扮装(ろくぽういでたち)の通客(すゐしや)伽羅沈香(きやらぢんこう)耳には篳篥(しちりき)宇陀法師と賞賛するも過言(かげん)にハあらざるべしナカ[ママ]と大叭(おほあくび)の後即墨候然(そくほくこふぜん)として云ふ

 洒落といふものハおそろし一ト言に
       人の腹をバゑぐりとるとや》

序文を解読するにも当時の一般常識が必要だ。「あくび指南」は落語、「田鼠化す鶉」は七十二候のひとつで晩春、あるいはやはり落語の鶉杢(「牛ほめ」)にかけているか。「酢豆腐」は腐った豆腐を珍味と言わせる落語から。「二ツ山形の星」は芸妓の家紋? 「丹後殿の前」は『好色一代男』に出ている。湯女風呂がその屋敷の前にあった。「六方」は歌舞伎のろっぽう。「宇陀法師」は宇多帝遺愛の和琴の銘。「即墨候」は『三国志』に登場する……とこれはにわか仕込みだが、当時の人はスラスラ分ったのだろう(かな?)。


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洒落も江戸振りが主だが、明治ならではの世相も混ぜ込まれている。「いろは短歌の地口」は犬も歩けば…を《色もあるけど法に欠る》だとか、論より証拠を《ドンヨリ正午》だとか実にくだらん(ドンは正午の大砲)。なかに「念には念を入れ」のところがこうなっている。

  パンには餡を入れ

木村屋があんパンを考案したのは明治七年のこと。また「当世地口行灯」ではこういうのもある。

  新聞罰が五十円  人間五十年

  洋犬(かめ)に鰻ハ華族でござる  金に怨みは数々ござる

そのものズバリ「開化進歩びつくり仰天」はこうである。

  蒸汽車の走るを見て  百足山のむかでがびつくり仰天

  電信柱の糸金(いと)を見て  軒端の蜘(くも)がびつくり仰天

  一塊(ひとつ)二銭の麺包(ぱん)を見て
             与一兵衛の擔(にぎ)り飯がびつくり仰天

  上野公園の噴水を見て 沖の鯨がびつくりぎやうてん

  写真の画(ゑ)ぞうを見て  八重垣姫がびつくり仰てん

与一兵衛」は忠臣蔵、金包みと握り飯を間違えられる。八重垣姫は人形浄瑠璃『本朝廿四孝』のヒロイン、上杉の娘で武田勝頼との縁組みが決まるが、見合い写真があったらびっくりしたろうという洒落。まさに江戸と明治がお見合いしているような気分。

将棋に関するシャレを発見。「娼妓(せうぎ)の指法(さしはふ)」。こういうのは江戸時代にもあったのだろうか。なんとなく孫引きのような気もするが。

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他にもさまざまに趣向を凝らした洒落の列挙にはつい「ご苦労様」と言いたくなるくらい。加藤福太郎さんがどなたか存じませんが(新聞記者?)、かなりの人物と見た。


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それにしても日清・日露を経て日本は大きく変わったことをこの一冊から実感する。あくび指南ほどじゃないにしても、こんなのんきな洒落指南をやってられる時代じゃなくなった。決して嘆いているわけではないのだが。

  




by sumus2013 | 2014-05-19 20:01 | 古書日録 | Comments(0)