カテゴリ
全体古書日録 もよおしいろいろ おすすめ本棚 画家=林哲夫 装幀=林哲夫 文筆=林哲夫 喫茶店の時代 うどん県あれこれ 雲遅空想美術館 コレクション おととこゑ 巴里アンフェール 関西の出版社 彷書月刊総目次 未分類 以前の記事
2018年 04月2018年 03月 2018年 02月 2018年 01月 2017年 12月 2017年 11月 2017年 10月 2017年 09月 2017年 08月 2017年 07月 2017年 06月 2017年 05月 2017年 04月 2017年 03月 2017年 02月 2017年 01月 2016年 12月 2016年 11月 2016年 10月 2016年 09月 2016年 08月 2016年 07月 2016年 06月 2016年 05月 2016年 04月 2016年 03月 2016年 02月 2016年 01月 2015年 12月 2015年 11月 2015年 10月 2015年 09月 2015年 08月 2015年 07月 2015年 06月 2015年 05月 2015年 04月 2015年 03月 2015年 02月 2015年 01月 2014年 12月 2014年 11月 2014年 10月 2014年 09月 2014年 08月 2014年 07月 2014年 06月 2014年 05月 2014年 04月 2014年 03月 2014年 02月 2014年 01月 2013年 12月 2013年 11月 2013年 10月 お気に入りブログ
NabeQuest(na...daily-sumus Madame100gの不... 最新のコメント
メモ帳
最新のトラックバック
検索
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
人間 小野蕪子![]() この『俳句』は「特集/弾圧以降/戦時下俳句史」として昭和十五年の「京大俳句事件」前後のことを総合的に回顧しようという編集になっているのだが、ここに永田耕衣が「人間小野蕪子」と題して小野との関係をかなり詳しく振り返っている。改めて『澤』の永田耕衣年譜を見るとこの文章の一部が引用されていた。 年譜によれば耕衣は昭和四年頃から小野蕪子主宰の俳誌『鶏頭陣』に投句しはじめている。昭和六年には小野が編集していた『茶わん』という古陶趣味雑誌にも投稿するようになる。ここが大事で、耕衣には初めから骨董的なもの、民芸的なものへの憧憬があった。とくに昭和十二年頃に出会った棟方志功から大きな影響を受けているようだ。そしてそれ以前、蕪子において趣味人としてのスター性を認めていた。 《小野蕪子は、その道の代表者の資格で世上を闊歩できた、高度の趣味人であつたと思う。古美術の蒐集と鑑賞に情熱を捧げ、古陶の鑑定に秀れた。また、みずからも陶を作り、絵を描き、随筆に耽り、書道の巧者を以て任じ、かつ味覚にも通じるという達人ぶりは、まばゆくて羨望に値した。》 趣味的生活ばかりでなく蕪子の俳句をもかなり高く評価していた。 うのとりの水面にかけるばかりなる ざくろの実うつして水のとゞまらず うたがひは皆影にあり冬の星 《これらの諸作は、大胆簡潔で概して正座即興の風格をもつ。強健端的で思想のカオスを伴つてもいない。而も把握すべき急所を間違えていず、ちぎつて捨てたようなその裁決ぶりに快味がある。私は「うのとり」「ざくろの実」「冬の星」などに当時人生観的共鳴を感じたが、この共感は今も変っていない。》 ところが、この同じ特集で高柳重信は「「鶏頭陣」の終焉」と題して小野を解析しているなかで、その俳句について以下のようにバッサリと切り捨てている。 《雑誌『鶏頭陣』自体は、常にほとんど無力な存在でしかなかつた。そこには、俳句に関する顕著な見解が発表されたためしもなく、特に出色な作品が見られたわけでもない。》 《小野蕪子自身にしても、俳論らしい文章は、ほとんど書く力をもたず、くりかえし「健康な俳句」という言葉を力説していたにすぎない。また、その作品にしても、仮りに、句集「雲煙供養」の末尾の五句をここに引用してみるが、 [略] 白梅や大仏の膝あたゝかに (昭和16年の作) とても、当時の他の第一線作家に伍して、その優俊さを誇れる水準には達していなかつた。》 むろん耕衣とてそのことには気付いていたはずだ。年譜の昭和十五年には《新風を求めて石田波郷「鶴」に二月号から投句》、同人に推され、石塚友二や波郷に面会している。また《新興俳句の結集をめざした同年創刊の『天香』にも投句(同誌は同年三号で廃刊)。蕪子に難詰される。》と見えている。そろそろ巣立ちを意識していたか。ところが…… 《翌月、「天香」主要メンバーの過半が検挙され、いわゆる「俳句事件」が勃発した。当然「天香」人のリストが押収され、私の名まで発見されたという。当時情報局の俳人監視に関与していたらしい小野蕪子にこのことが伝わり、私は恩師の蕪子から直接「仮面を脱ぎたまえ」と爆弾的な難詰を受けた。この種の難詰は矢つぎ早に半年ばかりも続いた。蕪子は「君には年老いた母があるからなア」「庇護すべきや否や」等々の凄文句で私に迫り通した。》 とにかくも検挙はまぬがれ、俳句を中断することを蕪子に約した。ところで石塚友二も同じこの特集に「日本文学報国会俳句部会」を執筆しており、そのなかにこういうくだりがある。俳句事件では石田波郷や友二もブラックリストに挙がっていた(それを戦後、山本健吉の文章を読んで知った)。昭和十八年の夏頃、友二は失職状態の波郷を文学報国会事務局へ入れようとして河上徹太郎、久米正雄に頼むと、彼らは快諾してくれたが、甲賀三郎が俳句部会の幹事に相談したところ「要注意人物だから」と反対された。そして友二は尋ねられた。 《一体、要注意人物とはどういふことなのか、ーーさういふ質問であつた。私は、自分にも理由はと判然しないが、草田男、楸邨、の両氏等が、小野蕪子に依つてさまざまな方法で圧迫を加へられてゐるといふ噂があるから、多分波郷の場合もさうなのではあるまいか、と答へた。すると、久米さんがさも手を拍ちたげな笑顔を示しながら、「なんだ、小野蕪子の奴がそんなことをしてゐるのか。どうして蕪子なんかに俳句部会が動かされるのかね。相手が蕪子なら石田波郷は問題なんて何もないよ」かういつて即座に事は決定したのであつた。》 久米正雄に笑い飛ばされた小野蕪子、耕衣が縮み上がらねばならなかったほど権力を握っていたかどうか、実際のところは分らないようである。 松井利彦編「現代俳句年表 昭和12年〜20年」も参考になる。 ■
[PR]
▲
by sumus2013
| 2014-04-22 21:03
| 古書日録
|
Comments(0)
ザ・ハリケーン![]() ![]() ![]() ■
[PR]
▲
by sumus2013
| 2014-04-21 20:34
| 古書日録
|
Comments(0)
ブルーバード![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 敗戦後しばらくした頃の感傷的な気分にぴったりだったのだろうか。あまりに救いの無い内容ではある。ウィキによれば、以下のような一連もあったらしいが、一八一八年刊の選詩集では作者みずから削除したそうだ。 I had a mother, but she died, and left me, Died prematurely in a day of horrors - All, all are gone, the old familiar faces. ブルーバードではその他さまざまな催しが開催されたようだし、雑誌や出版も行われたという。まさに綜合文化施設だったわけだ。後に河野氏は自ら喫茶店を経営しはじめるのだから、よほどブルーバードは忘れがたい空間だったのだろうと思われる。 ■
[PR]
▲
by sumus2013
| 2014-04-20 20:52
| 喫茶店の時代
|
Comments(0)
谷根千ちいさなお店散歩![]() 「不忍ブックストリート」が始まったのは二〇〇五年四月だそうだ。これもまた南陀楼氏でなければ成し遂げられなかったイベントであろう。そのせいもあって本書には本に関係する店が多く収録されている。先月、関西では『SAVVY』が新しい古本屋の特集を組んで話題を呼んだのだが、こちらもそれらのニューウェイヴとかなり共通するテイストの店が増えているのが分って面白い。
■
[PR]
▲
by sumus2013
| 2014-04-19 20:47
| おすすめ本棚
|
Comments(0)
太田垣蓮月尼展![]() ■
[PR]
▲
by sumus2013
| 2014-04-18 20:55
| もよおしいろいろ
|
Comments(0)
書誌学辞典![]() 植村長三郎『書誌学辞典』(教育図書、一九四二年八月二五日)。版元の教育図書株式会社は京都市中京区河原町通四条北入。発行者は田村敬男である。田村は山本宣治の同志として必ず引用される人物。『追憶の山本宣治』(昭和堂、一九六四年)などの著書もある。ウィキにはまだ名前がないので、いろいろ探してみると、『改訂増補山本覚馬傳』(宮帯出版、二〇一三年/元版は『山本覚馬伝』京都ライトハウス、一九七六年)に著者紹介として田村の略歴が出ていた。 《明治37年11月18日長野縣に生まれる。立命館大学専門部法律科中退。過去、政経書院、教育図書KK、KK大雅堂各代表取締役社団法人日本出版会評議員後理事。昭和49年11月京都新聞社会賞受賞。現在、社会福祉法人京都ライトハウス常務理事兼盲人養護老人ホーム船岡寮長》 歿年は一九八六年のようである。 著者の植村長三郎(1903−1994)についてもウィキがないので(いろいろ批判されますが、便利です、ウィキ)序文から略歴を拾っておく。 《このほど京都帝国大学図書館の植村司書が蹶然と起つて単身書誌学辞典の編纂を達成し》《植村君は古く帝国図書館における図書館員養成所の業を卒へて以来、多年九州および京都の両帝国大学図書館の司書を勤められ、汎く東西の群籍に通じ、普く新古の蔵書に渉り、その整理、その目録、その出納、歴任の間、究め獲たる成果を採り、経験の際、自ら備用し来たれる精華を摘み、周到を極め、該博を期しつつも、敢て煩瑣に流れず、強ひて深遠を求めず…》(新村出) 《君は嘗て文部省図書館講習所に於て書誌学及び図書館学を履修し九州帝国大学司書として付属図書館並に同法学部研究室に勤務し、現に京都帝国大学司書として在勤中である。余は時恰も付属図書館長の職に在り、君が繁劇なる本務の余暇を以て本書を著述せられた労苦を多とし…》(本庄栄治郎) 《著者植村氏は早く文部省図書館講習所を卒へ山梨高等工業学校図書課を経て、九州帝国大学付属図書館に入り最近京都帝国大学付属図書館に転ぜられたのであるが…》(間宮不二雄) 辞典的な記述でありながら、著者の意見も反映されているためなかなかに読み応えがある。間宮不二雄の『欧和対訳図書館辞典』でも取り上げた「露天文庫」についてはこう書かれている。 《ロテンブンコ[露天文庫](Out door library, Open air library)神社、仏閣、公園等多数の人の集合する所を選定して図書の陳列台を設け、四、五十冊の新刊書を紐又は鎖などで陳列台に結付け、さながら欧州の中世期寺院図書館の鎖付図書又は停車場の列車時間表の如く紛失予防を行ふ。これを露天文庫といふ。此に備へる図書は便覧書、年鑑書其の他一般向きの図書が宜しい。近時「林間図書館」又は「海水浴場図書館」等を実験的に行ふ図書館がある。》 鎖付図書については以前紹介したことがあった。 本の背中 また「フランス装」が出ていないか期待したが、出ていなかった。その代わり「仏蘭西仕立」(箔押が背だけの革装本)、「仏蘭西ジョイント」(ヒラと背の間の溝を幅広く取った仕立法)、そして「仏蘭西綴」が立項されていた。 《フランストヂ[仏蘭西綴](Uncut edges)アンカット小口又は丸縁小口ともいひ、小口の截断を行はぬもので読み進むにつれて紙ナイフで切り進むもの。仏蘭西本に多いところから其の称がある。仏蘭西人は自家装釘を好むため出版書は殆ど仮綴本で販売される。》 「仏蘭西綴」はアンカットのことか……。フランス装のことかと思っていたのだが。 フランス装考2 植村は終始「装釘」を採用しているのも気になった。植村の著書は下記の通り。 書誌学辞典 教育図書 昭17 新制学校の図書館運営法 文徳社 昭和23年 学校図書館の運営法 文徳社 昭和24年 書物の本 文徳社 昭和25年 図書・図書館事典 文徳社 昭和26年 書物の本 明玄書房 昭和29年 学校図書館入門 : 設備と経営の技術 明玄書房 昭和30年 ■
[PR]
▲
by sumus2013
| 2014-04-17 19:57
| 古書日録
|
Comments(0)
原色千種昆虫図譜![]() ![]() 本書には校閲者の松村の序があるが、そこにはこう書かれている。(例にならって旧漢字は改めた) 《平山修次郎氏が始めて余に昆虫標本を送付し来たり、その種名の同定を求めたるは既に二十数年の昔なり。その当時氏の標本製作の堪能なるを見て余は如何なる人なるかを知るに迷へり。而して氏の余に送付せる標本は裕に三千種に達せり。余はこれによりて稀有なる標本と、美作なる標本とを得て、大いに日本昆虫の研究に便を得たり。》 序の日付は昭和八年だから《二十数年の昔》は明治末年頃ということになる。また、平山自身の「はしがき」にはこうある。 《本書に載せた昆虫は、著者の所蔵標本の中から努めて新鮮で完全な材料を用ひ、鮮明な原色版で天然色を表はすことに務めた。》 《本書の校閲を賜はりました理、農学博士松村松年先生、常々標本を頂いて居る萩原一郎氏、製版の市村駒之助氏の諸彦に厚く感謝の意を表する次第であります。 昭和八年七月 井之頭公園池畔にて 平山修次郎識》 製版の市村駒之助とわざわざ名前を挙げているのは、よほど苦労をかけたとみえる。その図版、これがいい味わいなのだ。ごく一部だが見て頂こう。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ■
[PR]
▲
by sumus2013
| 2014-04-16 20:53
| 古書日録
|
Comments(0)
村上朝日堂月報![]() ![]() ![]() 「村上朝日堂月報」、これは古本関係のクリアファイルに入れておいたもの。目下、村上春樹の本は一冊も持っていない。昔、均一で買ったときのものだろう。それが村上朝日堂シリーズのどの本だったのかも分らないし、興味もないが、この二つ折りの栞が好きなので本は売っても栞は残しておいた。 「安西水丸が死んだよ」……三月末に新潟へ出張しているとき、携帯電話のメールにこの一行が入っていて「まだ若いのに」とちょっと驚いた(でも実際はそう若いわけでもなかった)。そのときすぐに思い浮かんだのがこの月報なのだった。 そんなこともあって『週刊朝日』の安西水丸追悼号を買おうと思っていた。のだが、つい買いそびれてしまった。そこで図書館へ寄ったついでにざっと読んでみた。村上春樹の追悼文「描かれずに終わった一枚の絵 安西水丸さんのこと」にはこの月報の浴衣で並ぶ二人のイラストが使われていた。 偶然にもそこには村上が新潟県村上市で開かれるトライアスロンに参加した後、応援に駆けつけた安西と二人で〆張鶴の蔵元を訪れ〆張鶴を心ゆくまで飲みながら温泉につかるのが至福の時だったという話も書かれていた。 「描かれずに終わった一枚の絵」とは村上が近刊の著書『セロニアス・モンクのいた風景』の表紙画としてモンクの絵を安西に依頼したことをさしている。死ぬ数週間前だった。 《水丸さんは「いいよ、やりましょう」と快諾してくれ、ついでにニューヨークでモンクに会ったときの話をしてくれた。1960年代後半、彼がニューヨークに住んでいたとき、あるジャズ・クラブにモンクの演奏を聴きに行った。いちばん前の席で聴いているとモンクがやってきて彼に煙草をねだった。水丸さんは持っていたハイライトを一本彼に進呈し、マッチで火もつけてあげた。モンクはそれを吸って、「うん、うまい」と言った。「モンクにハイライトをあげたのは、たぶん僕くらいだよね」と嬉しそうに水丸さんは電話で語っていた。 水丸さんの描いたセロニアス・モンクの絵を見ることなく終わってしまったのは、悲しく、また心残りだ。その絵の中でモンクはあるいはハイライトを吸っていたかもしれない。その絵を失ったことを、僕は心から惜しく思う。人の死はあるときには、描かれていたはずの一枚の絵を永遠に失ってしまうことなのだ。》 当たり前のことを上手に書くなあ……。 ■
[PR]
▲
by sumus2013
| 2014-04-15 20:18
| 古書日録
|
Comments(0)
欧和対訳図書館辞典![]() 間宮不二雄編纂『欧和対訳図書館辞典』(文友堂書店、一九二五年一〇月五日)。東京本郷で生まれた間宮は小学校卒業後、丸善で丁稚として働きながら東京府立工芸学校(現東京都立工芸高等学校)の夜学でタイプライターを学んだ。タイプライターの製造をしていた黒澤貞次郎に認められアメリカへ留学、そこで図書館の重要性に気付き、帰国後は大阪で図書館用具の販売を行う間宮商店を開いた。大正十年のこと。間宮商店の社員だった森清(後、国立国会図書館職員)は日本十進分類法を考案した。間宮はその普及に尽力したという。その蔵書は富山県立図書館に寄贈された。(以上ウィキによる) 本書の「序」において間宮はまず図書館の分類基準や用語の不統一を、また類書のないことを嘆いている。その不便を埋めるため自ら用語集を作ったところ文友堂の堀徳次郎に勧められて出版することになった。草稿は東北帝大図書館の司書田中敬(後、大阪帝大図書館嘱託、近畿大学図書館長)に見てもらった。印刷中に笹岡民次郎が近代欧米著述家の雅号と本名対照表を寄せてくれたので収録した、そのような事情が述べられている。 間宮が欧米の書を参考にして作った本書の標題紙(タイトル・ページ、扉)。こうしておけば図書館員の目録作製が楽になるという意図だそうだ。 《十数種又は数十種の図書を各別に鏝を通し, 是に紐又は鎖を付して, 簡単なる展列台に装置し, 神社仏閣, 公園等多人数の集まる場所に出陳し, 全く無制限に市民の閲覧に供するものにして, 我国にては, 大阪市立図書館が試みたる事あり.》 露天文庫は昭和十七年の日比谷図書館にもあったそうだが、これとは少し違うようだ。 和書と洋書の形状名称と寸法の一覧。 ![]() ![]() ![]() これでもかと詰め込んである。間宮の情熱が伝わってくるようだ。判型は新書サイズ。これも持ち運びや参照するときの手軽さを考慮したのだろう。 最後に奥付・検印紙と古書店レッテル。 ![]() ![]() なお、このレッテルにある地下鉄花園駅(花園町駅、大阪市西成区)は昭和十七年五月十日開業。ということはそれ以後に印刷されたもののはずである。 ■
[PR]
▲
by sumus2013
| 2014-04-14 21:01
| 古書日録
|
Comments(0)
書物のエロティックス![]() 谷川渥『書物のエロティックス』(右文書院、二〇一四年四月二〇日)。二〇一二年に阿佐ヶ谷のアートスペース・煌翔で「谷川渥が選ぶ百冊と萩原朔美が作る三冊」という展覧会が開かれた。そのときに小冊子が作られた。 《本書は、七十ページほどの小冊子のかたちで刊行されたこの『書物のエロティックス』を核に大幅に加筆し、さらにエッセイや書評や対談などを付加して立体的に構成し直したものである。》(おわりに) 書物のエロティックス ニュース@スペース煌翔 谷川渥のよき読者ではなかったが(よきも何も断片的にしか読んでいないが)、一読してその美的な判断に対して共感するところが少なくないことを納得した。言及された書物は美術(あるいはもっと広く「表象」)関連書のみならず多岐にわたる。美術・文学を核とした戦後思想史の見取り図がきわめてスマートな形で展開されており、しかも多数の書影が付されており、それらのほとんどは小生にとっては古本屋の小僧くらいに背文字学問程度に聞きかじったていのものであるが、その論じるところは濃く薄くさまざまに変型された媒体を通して吸収してきた、いわば文化的な空気のようなもののなかに拡散しているために吸収せざるを得なかった、すなわち一種の美的な倫理観を共有していたということがはっきり分る内容だった。 その内容について詳述する気力はないけれども、ひとつだけ、例えば、先日再読したいと書いたばかりの澁澤龍彦やそのきっかけとなった種村季弘、彼らに対して本書では重要な柱として多くの紙幅が割かれている。なかでは種村季弘・矢川澄子訳『迷宮としての世界』(グスタフ・ルネ・ホッケ、美術出版社、一九六六年)は、 《この本がどんな衝撃をもって迎えられたかは、いくら強調してもし過ぎることはあるまい。》 などと何度も言及されている。『迷宮としての世界』はさすがの小生もかつて架蔵していた。読了はしなかった、というかできなかった。とは言え、このじつに雑多な内容の書物は戦後思想のあるひとつの方向をはっきり示していると思う。それはオルソドクスでなくヘテロドクス、中心の喪失ということではないか。そしてその喪失した中心には善くも悪くも理屈ではなくこんな感情が巣食っていた。 《谷川 それは、僕も種村さんと前にちょっとお話ししたことがあるけれども、戦中から戦後にかけての、今まで鬼畜米英だとか、アメリカ軍が上陸してきたら竹槍で最後までやるんだとかいっていた連中が、突然、進歩主義者の顔をして批判なんかをし始めた。あのあたりのことを種村さんは心の中にいつまでも持っていて、いかにいいかげんな連中で、言葉というものがそういうふうに突然回転してしまうというかな……。 諏訪 転向というか転回ですね。 谷川 何かの本のあとがきにそのことを書いているんだけれども、やっぱり種村さんの問題意識には、戦争体験ということがすごくあったと思うんですよ。 諏訪 そうなんですよね。焼け跡ですね。》(「アサッテの人」執筆前後) 先には澁澤龍彦の病院での様子を種村が描いているのを紹介したが、ここには谷川が種村の病院を訪ねたときの発言が出ている。 《谷川 [略]そして病院の名前を聞いて種村さんのお見舞いに行ったことがあるんですよ。軽い脳梗塞だということだったんだけれども、病室に入るとき、どういう状態でおられるのかなと思ってちょっとドキドキして戸をあけたらね、寝巻きを着たままベッドの上に座って、原稿の山に赤入れているの。 諏訪 うわあ。 谷川 それで、僕は思わず「先生、大丈夫ですか」と叫んだわけ。そうしたら、「大丈夫だよ」とかいってね、まだ口がもつれているんですよ。[略]口をもつれさせながら、ものすごい量のゲラの手入れをされている。そのゲラがヴィルヘルム・イエンゼンの『グラディーヴァ』なんですよ。フロイトの論文も一緒に翻訳していたものだから……。 諏訪 W・イエンゼンとフロイトの『グラディーヴァ/妄想と夢』ですね。》 文筆家は死ぬまで筆が離せないようである。もうひとつ、谷川のユイスマンス『さかしま』についてのコメントはなるほどと思った。 《デ・ゼッサントが行きついたのは、ペプトンの滋養灌腸だった。つまり、肛門から栄養を摂取しようというのである。 ここにおいて、われわれは『さかしま』という書名の本当の意味を知るにいたる。それは、小説の主人公が意識的に背を向けた十九世紀末フランスの大衆社会への反逆の姿勢を意味するだけではない。「さかしま」は口からではなく肛門から栄養を摂取しようという文字通り即物的な意味を担わされていたのである。》(終りをめぐる断章) 原文で灌腸(lavement)を探してみるとたしかに最後の方に出ていた。ペプトン入りを一日三回。 《et un pâle sourie remua les lèvres quand le domestique apporta un lavement nourrissant à la peptone et le prévint qu'il répéterait cet exercice trois fois dans les vingt-quatre heures.》 さらにこの何日か後に召使いは変った色と匂いの灌腸液を用意した。ペプトンとは違うようだ。医師の処方箋にはこうあった。 肝油 Huile de foie de morue 牛肉スープ Thé de boeuf ブルゴオニュ酒 Vin de Bourgogne 卵黄 Jaune d'oeuf これはレストランと同じだな……と主人公はつぶやく。カンチョーで食事をとる(星新一の「宇宙のあいさつ」みたい?)、だから原題は「A Rebour「さかしまに」と「に à」が付いているわけだ(ほんとかな)。 例によって細かいところばかり引用したが、どこをめくっても知的好奇心をかきたてられる、まさに『書物のエロティックス』だった。ごちそうさま。 ■
[PR]
▲
by sumus2013
| 2014-04-13 20:48
| おすすめ本棚
|
Comments(0)
|