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カテゴリ:うどん県あれこれ( 33 )

四国古書通信他

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荒木伊兵衛書店 昭和5年2月15日


戦前昭和十年代の古書目録をまとめて頂戴した。最近、この手の古い目録はほとんど見ない(あるいはけっこうな値段が付いている)から大変有難い。それらのなかに地方の古書店の目録が何冊かあった。これらがまた貴重である。ざっと表紙だけ掲げておく。大阪の荒木伊兵衛書店の目録(古書雑誌『古本屋』の付録)はこれまでも何度か取り上げたので一冊だけ。

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松本書店古書目録第二十号
昭和12年1月1日発行
名古屋市中央区南大津町一ノ四



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西塔書林 六
昭和15年12月20日発行
広島市尾道町二二



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藤本書屋 古典蒐報 第六号
昭和15年6月発行
神戸市湊区五宮町四〇



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福井図書販売組合 南越通信3
皇紀2600年9月発行
福井市日之出中町三二



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古典堂書店 古書販売目録 第三十三号
昭和17年11月20日発行
高知市帯屋町一ノ二三



そして、何より驚かされたのは讃岐高松で発行された『四国古書通信古書目録』夏季号(昭和十六年七月十二日発行)と秋季号(昭和十六年十月二十三日発行)だ。四国古書通信社(高松市丸亀町二四)の編輯兼印刷発行人は宮脇千代となっている。宮脇というからには、現在も盛業中の新刊書店・宮脇書店と関係があるのかもしれない。丸亀町だし。

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中丸清十郎「平賀源内肖像」


裏表紙に「平賀源内肖像」の写真版が掲げてあり《高松家中所蔵の像に原き中丸清十郎氏描く》と記されている。現在は早稲田大学図書館が所蔵するようだ。

ざっと眺めていると秋季号には次のようなことが書かれていた。ビックリ。

本の通信賣買時代と弊社
今や古本の買は店頭買から通信買の時代に移行し組織を持つ地方古書肆として營業費の低率ですむ弊社は斷然高く買ひ得る時代になつて來ました。

また、菊池寛の探求書告知もある。

《今回當地に郷土の文人菊池寛先生の菊池寛文庫が設立されます。弊社は古書部門に属する同先生の御舊著を一手で納入する事となりました。◯菊池寛の著書(何でも可)但しカバー又はケース付の美本◯菊池寛の有名小説入雜誌(大正年間のものに限る)特別最高値にて申受けます。約十册宛入用につき、詳細御照會下さい。》

戦中から菊池寛文庫の計画があったとは知らなかった。現在は高松市中央図書館の建物のなかに菊池寛記念館がオープン。

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四国古書通信社の更生館陳列場
(『四国古書通信古書目録』秋季号より)


秋季号に陳列場の写真が掲載されている。そこに「更生館」と書かれていた! 予想通り、これは宮脇書店の前身である。

『香川県の古書店の歴史』




by sumus2013 | 2019-03-24 20:46 | うどん県あれこれ | Comments(0)

詩稿二

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久しぶりに覗いた古書店にて、こんな漢詩集の草稿を手に入れた。最近はとんと漢詩集にもご無沙汰だったので、内容はともかく、これは嬉しいと思ってざっと見ていると、なんと筆者は讃岐の人のようである。買わないわけにはいかない。

たとえば下の「遊正華寺五首」の正華寺は香川県高松市西山崎町に現存。他にも善通寺駅や善通寺の出釈迦寺(四国八十八ケ所73番札所)、高松市の玉藻城、教法寺、万燈寺なども詠みこまれている。

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文字がすでにペン字ふうだから書写の年代は新しいと思ったが、その通りで「甲辰歳空観禅衲遊京奉謁」と題された詩が見つかった。甲辰歳すなわち明治三十七年(一九〇四)だから、おおよそその前後の作ではないかと推測できる。新しいと言っても百十五年前にはなるが。

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空観の他に学定(いずれも
禅衲としてあるので僧だろう)そして葛正夫、蓮武平という人名(親友のようだ)が登場している。後二者は漢名ふうに三文字にしたのかもしれない。作者自身の名前らしきものが見当たらないのがなんとも残念。

by sumus2013 | 2019-02-05 21:23 | うどん県あれこれ | Comments(2)

TakaMatsu Bookshop map

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讃岐・高松の書店ガイド「TakaMatsu Bookshop map」を頂戴しました。ありがとうございます。半空、な夕書、かまんよ書店、本屋ルヌガンガ、YOMS、touca、BOOK MARÜTE、Solow、へちま文庫。ここしばらく高松から足が遠のいている。知らないうちにこんなに(古)本屋ができているとは、オドロキ。


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また別の方より「西荻窪 古本とアンティークマップ」も頂戴した。こっとうの街と言っていいくらいアンティークショップが並んでいる、これにもビックリ。一度、ゆっくり西荻巡りもよさそうだ……。



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表紙もまぶしい『雲のうえ』28号(北九州にぎわいづくり懇話会、二〇一八年二月一八日、アートディレクション=有山達也)。特集『雲のうえ旅行社』。岡崎氏が牧野伊三夫氏と北九州を旅している。門司港へ来てここへ寄らずに帰る法はないという「佐藤書店」がなんとも良さそうで旅情を誘われる。

『雲のうえ』28号

by sumus2013 | 2018-03-11 17:37 | うどん県あれこれ | Comments(0)

荷亭秋點

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菊池五山は以前掲げた掛軸の他にこの色紙があった。

凋傷何必恨春

これがまた小生にとっては難物で容易には読めない。epokheさんかどなたかに御教示いただきたいと思う。


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[小釣雪]
荷亭点若湧  荷亭の点(鐘声)は湧くがごとし     
秋気已堪餐  秋気已(すで)に餐に堪ふ
氷簟就眠易  氷簟は就眠に易し
風荷書字難  風箋は書字すること難し
紅衣軽百冷  紅衣は百冷に軽し
雪羽照波寒  雪羽は波を照らし寒し
破困昧盃酌  困昧を破り盃酌す
碧簫也足歓  碧簫也(また)歓ぶに足る

荷亭秋点 五山 [池桐孫印] [池無弦父]

度々の御教示に深謝です。

ひとまずこれで解読できたように思う。餐に堪ふ……検索すると「秋色餐」という使われ方があった。その説明にいわく

堪:可;餐:吃。形容女子容貌秀丽动人或景色非常美

すなわち、文字通りの意味なら「食べられる」(可吃と同じ)だが、美人や美しい景色を形容する表現だとのこと。五山の「秋気已堪餐」は、秋の空気はすでに澄んで美しい、くらいの意味になろうか。


by sumus2013 | 2018-01-30 15:05 | うどん県あれこれ | Comments(6)

子を負うて釣する人や秋の雲

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1週間ほど郷里の讃岐に戻っていた。本の整理と古家の補修でクタクタ。もうそんなに古本を残しているつもりはなかった、のだが、片付け始めるとまだまだ数だけはある。値打ちモノがあればいいんですけどねえ・・・・

讃岐うどんは満喫してきた。古本屋もないので、食べるのだけが楽しみ。下の写真はマルタツと言う最近できた店のざるうどん。

東かがわ マルタツ 手打ちうどん


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本日のタイトルに掲げた俳句。吉岡実『うまやはし日記』(書肆山田、一九九〇年四月一五日)より。昭和十四年十一月十二日に以下のようにある。

快晴。手帖と『山家集』を持って、東武線に乗り郊外へ出る。小菅刑務所が青空の下に淋しく見えた。西新井大師に参り、土産物屋の間を歩く。気ままに田の草の道を行く。小川のほとりに鶺鴒がいる。花車を引いた田舎の人とすれちがったり。風もなく、赤とんぼが夥しくとんでいた。水門のところに腰をおろし、「手帖」に句を書きつける。

by sumus2013 | 2017-11-13 20:25 | うどん県あれこれ | Comments(4)

錦渓集初篇再版

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中桐絢海編著『錦渓集寒霞渓記勝初編』(発行所=紅雲亭、発行者=木村弥助)の初版を昨年の百万遍で入手した。

中桐星岳『錦渓集 寒霞渓記勝初篇』(紅雲亭、一八八九年)

中桐絢海については以前かなり詳しくその著書を読み解いたので、記憶されている方もおられるかもしれない。讃岐の医師でいわゆる文化人と言っていいだろう。

中桐絢海『観楓紀行』

その後ヤフオクに『錦渓集』の再版本が出ていると某氏よりお教えいただき、さっそく入札すると競合する者もなく無事スタート価格で入手できた。綴じ糸が少しゆるんでいる他は良い状態である。上がその表紙。以下は扉、挿絵、奥付。

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そして初版の『錦渓集』。状態は悪いが、なんとか本文は無事である。再版では木版摺りの部分以外は活字を組み直してあるようだ。初版が明治二十二年十一月二日で再版が明治二十七年七月二十日ということは五年近くの隔たりがあるわけだから、活版直刷りなら当然組み直しということなる。

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内容は小豆島の紅葉で有名な寒霞渓について言及された漢詩や漢文を集めたアンソロジー。明治二年に東京朝野新聞の成島柳北がこの地を訪れて絶賛したところから一躍内外にその名勝ぶりが知られるようになり、次々と有名人が訪ねてくるようになった、というようなことらしい。

巻頭の揮毫「錦渓集」は梧楼と署名されている。おそらく三浦梧楼であろう。萩出身の軍人で、明治十九年より二十五年まで学習院院長だった。つづいて成斎書の「秀気一所盤磚」、成斎は歴史学者の重野安繹か。寒霞渓を描いた挿絵「神懸真景」は東讃奚山仲陳年という署名があるが、この人物については不明。さらに王治本の揮毫「模水範山」、王は明治十年に来日し漢詩を通じて多くの日本人と交わった。そして序文(述)は六石片山達、高松藩儒であった片山恬斎の子で藩校講道館の教授をつとめた。維新後は判事などを経て帰郷、私塾を開いた。序を書くのは弟子の三野知周。次いで中桐星岳の「小引」が来て、ようやく本文が始まる。そこには成島柳北、韓中秋、小野寺鳳谷、岡本黄石、山田梅村……藤澤南岳、江馬天江、長三州ら三十数人の詩文が収められている。跋は藤澤南岳(寒霞渓の名付け親)。中桐星岳の非常な情熱を感じさせる編輯ぶりである。

第二集も出ているようだが、さて入手できるだろうか。


by sumus2013 | 2017-01-24 21:07 | うどん県あれこれ | Comments(0)

凋傷何必

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しばらく前になるが、こんな軸を買った。「五山」とあるから菊池五山だろう。クセのある筆致で書かれた五山の漢詩は今日でもしばしば見かける。よほど需要があったものと思われる。貧生でさえこの他に色紙ほどの大きさに書かれた漢詩をも架蔵するのだから。この軸は七言絶句のようだが、例によって読めない。こんなもんかいなという程度で読んでおく。御叱正をお待ちする。

[小鈴雪]
 凋傷何必[1]青腰
 木荷風光更是饒
 一抹斜陽天亦酔
 酒亭隔水近相招
  舎北[2]荷景物殊[3]
        五山 [桐孫][無絃]

木荷というのはツバキ科の樹。青腰がよく分らない。[1]は抬?、[2]は捨、[3]は座であろうという御教示をたまわった。深謝です。もう少し考えさせていただく。

新たに御教示コメントいただいた。

[小釣雪]
凋傷何必恨青腰  凋傷何ぞ必ずしも青腰を恨まん
木落風光更覚饒  木落の風光、更に饒(ゆたか)なるを覚ゆ
一抹斜陽天亦酔  一抹の斜陽、天亦酔う
酒亭隔水近相招  酒亭は水を隔て近づき、相招く
 舎北揺落景物殊佳 五山 [池桐孫] [無絃]

詳しくはコメント欄を参照していただきたいが、これで決まりとしておく。深謝です。

おおざっぱに五山の書斎である五山堂から見える風景を嘆賞しているということでいいと思うが、富士川英郎『江戸後期の詩人たち』(麥書房、一九六五年)によれば五山堂は以下のような質素な佇まいだった。

《中年から晩年にかけての五山は本郷一丁目あたりに住んで、徒弟に詩を教えながら暮らしていた。しかし、その五山堂は大窪詩仏の詩聖堂のような派手なものではなかったらしい。彼自身、『五山堂詩話』巻一で、「余貧にして書を貯ること能わず。偶ま購い得しもの有るも、早く已に羽化し去れり。筐中、集五部を留むるのみ。一は白香山、一は李義山、一は王半山、一は曾茶山、一は元遺山、此を外にして有るなし。因て五山を以て、堂に名づく。》

富士川はさらに森銑三「酔桃庵雑筆と無可有郷」から鈴木桃野『酔桃庵雑筆』を引用している。そこにはこのように書かれているそうである。

《五山がり行きたれども、これもよくもてなさず。且つ五山が家は甚だ不雅なりとて、こちらより見限りて行かずといへり。其故はいかにと問ふに、入口に額もなく、床に懸物もなく、机上に文房、内宝もなし。木地呂色の硯箱に筆墨一揃へ入れたるが、唐机の上に一つあるのみ。談話もまた一通りの言にみにて、持て行きたる詩草も、口のほど一二首読みたるままで彼机上に差し置きて、異日来ます時迄に見置くべしといひたるばかり、詩の談話もなし。かかる人の所へ行きたりとて何の益あらんといひてけり。これにて思ふに、京坂の人は風流なるやうなれども、金銀を取る事の上手なるを知れり。》

これは桃野が梅陀という頼山陽の門人だったという人物から聞いた話である。梅陀が江戸に出て来て山陽の勧めに従って江戸でナンバーワンの詩人、佐藤一斎と菊池五山を訪ねたところ、どちらにも冷たくあしらわれたという愚痴なのだった。愚痴であっても書斎の様子が伝え残されたというのだからお手柄であろう。

簡素な五山堂で《木地呂色の硯箱に筆墨一揃》を用いてこの漢詩を揮毫した……そう思うと見え方も少し変ってくるような気がする。

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by sumus2013 | 2016-05-08 22:07 | うどん県あれこれ | Comments(7)

市川箱登羅日記

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『歌舞伎』第四号(歌舞伎発行所、一九〇〇年七月六日)。この雑誌は本日のお題とは関係がない。歌舞伎と名の付く資料はほとんど持ち合わせていないのだが、何かないかとさがしていたらこれが手に触れたというだけのこと。ただ明治三十三年発行の第四号はそうそうは見ないと思う。

ついでに中を覗いたら鏑木清方の挿絵二点が。清方は明治二十七年の十七歳頃から挿絵の仕事を始めている。しかし成長とともに挿絵だけでは物足りなくなってきた。『歌舞伎』のこの挿絵を描いた次の年になるが、仲間らと「烏合会」を結成し、挿絵ばかりでなく「本絵」(展覧会で発表するための作品)にも力を入れ始める。ちょうど青雲の志が胸に渦巻いていた時期だろう。いまだ後年の清方をこの挿絵から想像するのはやや難しいものの、何と言うか画筆のしなやかさはさすがだと思う。

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さて本題。『歌舞伎』は『歌舞伎』でも『歌舞伎 研究と批評』55(歌舞伎学会、二〇一五年一二月一〇日)。某女史よりこの雑誌を頂戴し、ほとんど必要最小限の知識しか持ち合わせていない分野なのでざっと目を通してすまそうと思っていたところ、おや、と目を惹く長尺の読物があった。

菊地明「市川箱登羅日記(四十九)大正三年六月〜七月」。読物ではなく日記の翻刻であった。これがまた巡業の日々におけるさまざまな出費をこと細かに書き記した内容で、なんとも貴重この上ないもの。しかも驚いたことに七月一日には讃岐の高松へ渡っている。これは中桐絢海の『観楓紀行』以来のうれしい収穫。

観楓紀行10 高松港

七月一日、市川箱登羅一行は尾道から高松へ向かう。汽船香川丸に一座残らず乗船(ただし船が嫌いな者は汽車にて出発……とあるが、どこかで船に乗らなければならない)、午後二時出船。午後七時五分高松港着。宿からの迎えの車あり(人力車らしい)。箱登羅一行は丸山旅館へ七時二十五分安着(どうです、この細かさ)。この日より日差しきびしく九十度以上。むろんこれはファーレンハイト(華氏温度)であるからセルシウス(摂氏)に直せば三十二度少々になる。

七月二日は金比羅参詣。今でこそ金比羅歌舞伎などと大流行りのようだが、徳川時代に繁栄した金比羅大芝居も明治以降はすっかり寂れてしまっていたようだ。日記には芝居小屋などについて一言も触れられていない。

七月三日 歓楽座初日。巡業中の演目はずっと「だんまり」「仙台御殿」「紙治」「鞘当」の五幕だったそうだが、この日は「だんまり」は省略された。初日は午前十時から幕が開く予定が遅れて十一時に始まり午後四時四十分に終っている。

七月四日 十一時半楽家入り。午後三時過ぎ帰宿。

七月五日 十一時半楽家入り。《此日日曜にて見物よし》。午後三時過ぎ帰宿。

七月六日 この日は宿や車夫、スタッフ全員に茶代・心付・祝儀を出す。

《堀越氏ニ連られ 我等 福之助 楠瀬 状書 留床 土手供いたし水野支店海水掛店へ行 夜食御馳走ニ相成 片原町道具や二軒へは入り 十一時帰宿致し直ク寝ル 入用 十六円種々出銭 外ニ二十八銭伊東立替 〆金十六円二十八銭 入金十五円成駒家ヨリ頂戴ス》

片原町は繁華街である。現在も長大なアーケード街として賑わっている。成駒家は初代中村鴈治郎。箱登羅の師匠。

七月七日 舞台が終ってから栗林公園を見物。

七月八日 《歓楽座千穐楽 是ニテ巡業終 此夜高松ヲ出立》 宿へ勘定する。宿の払い四円八十五銭。築港桟橋さんえ社より第十五宇和島丸に乗り込む。午後八時二十五分出船。

七月九日 午前二時過ぎ起きる。午前三時十五分神戸港へ着。四時過ぎ出船、六時過ぎ川口(大阪)へ着。電車から阪堺電鉄で帰宅。《高松滞在八日間入用 金二十四円九十一銭

大正三年の一円は今の三千円前後の感じではないかと思う。



by sumus2013 | 2016-03-21 20:40 | うどん県あれこれ | Comments(2)

画人蕪村

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河東碧梧桐『画人蕪村』(一九三〇年六月一〇日三版、中央美術社)が格安で出ていたので買ってしまう。題字はむろん碧梧桐。先日の展示会を見て以来なんとか碧梧桐に関するものをと思っていたが、手始めはこのくらいの古本から。

本書には与謝蕪村ついての詳細な論考あり、青年蕪村が主人公の小説あり、蕪村作品を入手した経緯をつづる随筆あり、と碧梧桐思うがままの編集。著者の蕪村に対する執着がよく伝わってくる内容である。蕪村研究書としても早い時期のもののようで『与謝蕪村 翔けめぐる創意』展図録(MIHO MUSEUM、二〇〇八年)に掲載される参考文献リスト(刊行年順)ではトップに置かれている。

ここでは与謝蕪村の讃岐時代に関するところだけを紹介しておく。蕪村は明和三年(一七六六、数え歳五十一)春第一回の渡讃をした(望月宗[ママ、宋]屋追善集『香世界』)。同年冬から翌四年春へかけて二度目の讃岐滞在(望月武然の歳旦帖『春慶引』および『香世界』)。一旦京に戻り、明和五年春ふたたび出遊した。これが三度目。ただしMIHOの図録の年譜では明和三年秋讃岐地方へ赴くとあり、四年に宋屋一周忌のために京都に戻って、ふたたび讃岐へ。五年四月帰京としている。

《翌五年丸亀妙法寺に滞留してゐたやうである。讃岐は丸亀以外主として高松、琴平の知人の許に寄食してゐた。左様に頻繁に往来してゐたにも関らず、其の遺作は可なりに纏つてゐる。》

どうして讃岐へ渡ったのかという疑問に対して碧梧桐は次のように推測している。

望月武然は望月宋屋の弟子であった。武然には讃岐琴平に弟子がいた。宋屋と蕪村はともに巴人の弟子であった。武然を通じて讃岐の俳人(暮牛、文路、鯉人、柱山)たちと知り合った。

琴平には琴平七軒という富家があり、いずれもかつて菩提寺は丸亀妙法寺だったという。そのなかの菅氏に暮牛が、荒川氏に文路がつながるのだと古老から聞き取っている。蕪村が滞在した高松の三倉屋も彼らの縁故であろうという。また《西讃に客して東讃の懶仙翁に申おくる》と前書きのある俳句が発見されているところから東讃へも足を伸ばしたかと思われる。

  東へもむく磁石あり蝸牛

ただ望月宋屋が巴人の弟子だったのかどうか、今ここでははっきりさせることができない。下記サイトでは望月宗屋を巴人門とし『香世界』の望月宋屋は原松門としてある。

江戸時代俳人一覧

MIHO図録では宋屋が早く結城や江戸に滞在していた蕪村(まだ三十歳の頃)を訪ねたとしているから若い頃からの知り合いだったのだろうし一周忌にわざわざ帰京していることからしてかなり親しい間柄だった。

もう一つ、ひとしお興味深いのは碧梧桐の掘り出し話。

《琴平の荒川翁の懐旧談によると、琴平の栗屋といふ旧家で、五月節句の三反幟(三丈の反物二つを合せた幟)に、朱で鍾馗を書いたのが蕪村だといふことだつた。正面きつて立つた素晴らしい鍾馗だつた。後に森寛斎が来た時、伊勢屋といふのが、又た三反幟に朱で鍾馗をかいてもらつた。一時琴平での二本の名物幟であつたが、後に蕪村のは日覆になり、寛斎のは火燵蒲団の裏になつてゐた、といふ。》

まだこんな思い出が語られるような時代だったが、ある日、高松の高瀬屋こと厨司某が碧梧桐を訪ねて来た。昂奮した手つきで新聞に巻いたものを開いて見せた。

《何といふ精彩な筆なのだ。筆数も少い紙本の墨画ーー顔面其他に僅かに着色をして居るがーーではあるが、単に一時の即興でなぐりつけたものでなくて、十分な用意と、余裕のある準備をもつてかゝつた、言はゞ謹厳な作なのだ。》

《私はもう人の囁くのを待たないで、自分で自分に叫んだ。蕪村! 蕪村! 蕪村稀代の大作!》

それは「寒山拾得」を描いた横長の秀作で、それまで全く世間から忘却されていたものだという。

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《出所としてわかつてゐる唯一の事実は、高松から東にあたる某寺に保存されてゐた、といふだけである。昨夕何らの予告もなしに、真に突然に売りに来たのであつた。
 衝立か、壁紙にでも貼りつけてあつたのを、めくつて久しくしまひこんでおいた証拠には、横に二筋、縦に一筋、著るしい折目がついてゐる。》

《其後京都の表具屋に一見せしめた時、其の裏打ちをした厚紙なり、其の古びさから言つて、裏打ちしたのも、既に六七十年経つてゐると言つた。折目は裏打をしない前につけたのであるから、少なくも百年前後、どこか筐底に押し籠められてゐたと想像すべきである。》

またその数ヶ月前、播州龍野の知人宅で蕪村に関する蔵幅を見せてもらっていたとき久しく掛けっぱなしの煤けた小額面が蕪村の讃岐出立をするときの手紙だということに気づいて驚喜していた。

《……今明日斗之讃州と存候得は山川雲物共にはれを催す事に御座候……》

そしてそこへ「寒山拾得」の出現である。

《蕪村の霊感も余りに迷信的な言ひ分であるが、偶然なこの二つの奇縁は、更に第三の奇縁を生むのでないかの予感をも持たしめる。》

古本は古本を呼ぶ、古画もまた古画を呼ぶのだろうか。


by sumus2013 | 2016-02-25 21:01 | うどん県あれこれ | Comments(0)

銅脈先生狂詩

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昨日の尚学堂さんではこのマクリを一枚買った。

 十方諸仏腹脹日
 一切衆生揉時気

  七月十四日 □詩中句
        [銅脈之章][太平館]

裏面に「銅脈先生」とある。畠中観斎の狂詩か。以前取り上げたことがある。讃岐生まれの詩人。京に住まいした。

銅脈先生『太平樂府』

浅学にして詩の意味はよく判らない。十方諸仏は『法華経』にあり、一切衆生は「一切衆生悉有仏性」(涅槃経)などと耳になじんだ言葉である。腹脹日は「はらふくるゝひ」でいいだろう。揉時気の揉にはいろいろな意味がある。「もむ」「やわらかくする」の他に「もつれる、みだれる」「曲げる」など。仏教批判でもあろうか……とヘタな考え休むに似たり。銅脈先生を調べておられる方より御教示をいただいた。

調べたところ、銅脈先生の詩は、最後の狂詩集『太平遺響二編』に「七月十四日」として載っているものでした。送り仮名も付されているので、それに従って読むと、

十方ノ諸仏 腹ノ脹ルルノ日
一切ノ衆生 気ノ揉メル時

浅学ゆえ不確かながら、盂蘭盆会にでも関係していると想像されます。
なお同書には「餓鬼宴」という五言絶句も入っています。

なるほど七月十四日という日付に注目しなければならなかったわけだ。仏たちがお供え物で腹がふくれる時に衆生は餓鬼道へ堕ちた亡き縁者のことを心配して気を揉むということになるのだろう。狂詩はこうでなくちゃいけません。




by sumus2013 | 2016-02-13 22:00 | うどん県あれこれ | Comments(0)