林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
カテゴリ
全体
古書日録
もよおしいろいろ
おすすめ本棚
画家=林哲夫
装幀=林哲夫
文筆=林哲夫
喫茶店の時代
うどん県あれこれ
雲遅空想美術館
コレクション
おととこゑ
巴里アンフェール
関西の出版社
彷書月刊総目次
未分類
以前の記事
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
お気に入りブログ
NabeQuest(na...
daily-sumus
Madame100gの不...
最新のコメント
猛暑です。どうぞお気にな..
by sumus2013 at 09:48
見に行けず聞きにも行け..
by arz2bee at 09:43
岩田さんとも、久しくお会..
by sumus2013 at 17:33
暑中見舞い申し上げます。..
by 岩田 at 09:48
東海鯤女九歳! なるほど..
by sumus2013 at 07:21
落款は、こうは読めないで..
by epokhe at 06:23
助かりました。検索するに..
by sumus2013 at 21:46
狂草と言うのでしょうか。..
by epokhe at 21:20
フィル・スペクターの功罪..
by sumus2013 at 07:41
最初の「刷り込み」のため..
by 某氏です。 at 22:55
メモ帳
最新のトラックバック
天才画家ゴッホの生涯と画..
from dezire_photo &..
ルーベンスの故郷、ヨーロ..
from dezire_photo &..
シャガール、ピカソ、マテ..
from dezire_photo &..
ポン=タヴァン派、総合主..
from dezire_photo &..
視聴率に関係なく選んだ2..
from dezire_photo &..
宝石のような輝をもった印..
from dezire_photo &..
ルネサンス美術の巨匠・ピ..
from dezire_photo &..
既成概念から絵画の解放に..
from dezire_photo &..
既成概念から絵画の解放に..
from dezire_photo &..
過去に来日した傑作を回顧..
from dezire_photo &..
検索
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧


カテゴリ:おすすめ本棚( 264 )

寺島珠雄書簡集

f0307792_08385545.jpg

『寺島珠雄書簡集 石野覺宛 1973-1999』(龜鳴屋、二〇一八年六月一五日)。龜鳴屋さん、また渋い本を作ってくれた。感謝。

「編集後記」によれば、龜鳴屋・勝井氏は、二〇〇二年五月、石野氏より寺島書簡を譲り受けた。寺島の詩やアナキスト関係の本を読んでいた勝井氏は『藤澤清造貧困小説集』(龜鳴屋刊本)を注文してくれた石野氏の名前にピンときて、本を直接届けることにした。

《誰が頼んでも書かなかったという自筆年譜をこの選詩集に書かせた人として、石野さんの名が記憶の隅にあったのだ。それで、これはと思い、西泉のお宅に直接本をとどけに行くことにした。》(編集後記

石野氏に対面して氏が寺島の詩集を編んだことに言及した。

《「寺島さんに興味がおありですか…」。返事は一言だけ。話をつがねばと、図書館ではじめて『寺島珠雄詩集』を手にしたとき、タイプ打ちの素っ気ない薄手の一冊が、いかにも寺島珠雄にふさわしく思えたと言うと、しばらく黙ったままだった石野さん、急に別の部屋に立って行かれ、大きなあられの缶を持ってもどって来られた。
「このなかに寺島さんからの手紙があります。よかったら、差し上げます。あとはどうなさってもかまいません」。》

ということで、あっさりと勝井氏の手に入った寺島の書簡類。ひまひまに整理しながら入力をすませたが、その後、出版の腹が決まらず、そのままになっていた。二〇〇七年一月には石野氏も亡くなられた。

《寺島が金沢の無名の詩人に寄せていた信頼と親愛が伝わって来る。石野さんが手元にとどめた手紙を、書簡などすべて処分したという寺島本人は無きものにしたかったかも知れないが、残されたればこそ。二十余年に及ぶ手紙からは、アナキスト詩人の行跡がさまざま確認できるし、やはり何かと素の心根がみえ、人間味がただよってくる。》

小生も、晩年の寺島さんとは、文通だけのお付き合いがあった。一九九九年七月に亡くなっておられるから、たぶん『ARE』のあたりからきっかけができたのだろう(今すぐ思い出せないが)、寺島さんが発行しておられた個人ペーパー『低人通信』を十通余りもらっている。本書にも『低人通信』についての言及が随所に見られて興味深い。忠実なアシスタント紫村美也さんが制作実務を行っておられたようである。

寺島珠雄『小野十三郎ノート』

晩年の寺島さんは尼崎の東七松町に住んでおられた。本書収録の書簡類も一九九〇年以降は尼崎からの発信。それ以前は大阪西成区山王である。七〇年代の後、八〇年代は八九年の一通だけで、九〇年代が分量としてはもっとも多い。

九〇年代における寺島さんの執筆活動は盛んで、小野十三郎の年譜、南天堂研究など、大きな仕事を残している。また『彷書月刊』とごく親しくなったのもこの時期である。

古書業界誌のシニセの日本古書通信というところ、これに11/10〆切で10枚(西山勇太郎関連)を約束したら、こんどは同じ業界の新進である彷書月刊というところが、来年一〜三月号に巻頭エッセイをと言って来て、何だか古書業界人にされかかった気分です。しかし、ちょっと考えれば私自身が"古人"なので、まずは分相応です。》(一九九四年一〇月一五日消印)

二十四日に東京へ出ます。
 その日は「彷書月刊」の面々が夜の席を設けて他からも(森まゆみ)来ます。
 翌日はコスモス忌(秋山清忌)で、まず十数人の集りになるでしょう。》(一九九五年一一月一八日消印)

この頃から彷書月刊の面々(田村芳治、内堀弘、高橋徹、諸氏)と急速に親しくなったらしいことが分る。

六月一日には東京から若い友人でもある古本屋が来ます(月の輪書林)。
 来年は竹中労を中心の目録という企画があってその話でしょう。
 一夜を酔談します。
 まだその程度は体力を残しています。(一九九六年五月二九日消印)

先日、月の輪書林高橋氏の還暦記念(月の輪さん、カンレキ!)のアルバムというものを見せてもらう機会があったのだが、そこには一九九七年と思われる飲み屋でのスナップ写真が貼付けられていた。彷書月刊の面々と寺島さんがいかにも和やかな雰囲気でカメラに向っている。その写真の脇、月の輪さんの日記(?)の活字になった切り抜きにはこうあった。

尼崎の寺島さんからハガキが届く。竹中特集ができたら、こういう人に送ったらどうかと一〇人の名前と住所が書いてあった。目録のことを一番、気にかけてくれている。》(一九九七年二月二七日)

f0307792_09562529.jpg
『月の輪書林古書目録10』平成九年一一月三〇日発行


一九七六年六月十三日消印の絵葉書に港野喜代子の名前が出ている。

12日貴翰拝承
四月に不慮の死に遭った港野喜代子さんの追悼集会があり、少ししゃべらされ、そのあと伊藤信吉さんなどと話し合って帰ったら着いてました。

六月十二日に追悼集会があったということか。涸沢純平『遅れ時計の詩人』(編集工房ノア、一九一七年)には港野喜代子の葬儀や『新文学』の追悼号についてのかなり詳しい記述があるが、寺島の名前も出ていないし、この追悼集会についても触れられていないようなので、メモしておく。

一九九五年一月の阪神淡路大震災のとき、寺島さんも尼崎で被災した。

水、ガスの止りのうち、水は19日朝にチョロチョロ回復。
 屋根工事の方は、丁度武内君の来ている時に屋根で足音がしましたから、応急のシート張りくらい始めたのだと思います。少くも一安心です。
 本は段ボール箱+ビニール包みと箱のみとの荷造りを相当やりましたが、全体やれば六十箇以上かと思われ、屋根工事の具合いではやらずにすませます(やった分だけ骨折り損でも仕方ありません)。地震当夜の文章で低人通信22号を作ります。すでに原稿は渡しずみです。(一九九五年一月二十日消印官製はがき)

本棚の修覆は、結局半年ほどもかかると思っています。そのくらいの気分でやって丁度いいことは一種のカンと経験でわかります。
 それにしても、整頓していた本が散乱した状態(容積)はすごいですよ。人を絶望に誘う。ガサ入れの無遠慮も地震にはかないませんね。》(同)

地震についての文章、十九日にもう書いていたのだ(地震は十七日です)。さすが、である。ガサ入れと比較するところも。寺島さんの尼崎の住処は街の草さんの自宅の近くだった。地震の少し後、街の草さんから寺島さんの本がグチャグチャになって大変だったことを聞いた記憶がある。街の草は、残念ながら、本書には登場していない。

他にも寺島さんの食べ物への執着も随所に見受けられ、読みどころの多い一冊である。

f0307792_09452345.jpg


[PR]
by sumus2013 | 2018-07-15 09:45 | おすすめ本棚 | Comments(0)

ぽかん07 その他

f0307792_18295179.jpg

近頃、頂戴した定期刊行物。

ぽかん 07 ぽかん編集室 二〇一八年六月二六日 表紙絵:片桐水面
山田稔さんの「ひょうそーー「門司の幼少時代」(二)」が絶品。今号は長めのエッセイが多く読み応えがある。いずれも粒よりながら、小生の好みで言えば郷田貴子「おばあちゃんからの便りと、最期の絵日記」がいい。真治彩「a poem as an amuletーー片山令子さんのこと」も真治さんらしい屈折のある追悼文で読ませる。いつもながら人選の妙に真治さんの編集者としてのセンスを感じる。

田端人 第四輯 矢部登 二〇一八年六月夏至
清宮質文の作品と美術館の記憶、そして文学とのつながりをたどる「ながれ」。花紋折りの内山光弘、内山義郎、内山興正をめぐる「花紋折りの人」。田端「だるまや食堂」。室生犀星をたどっての散策、古書ドリスで水島爾保布集、古書ほうろうで筑摩書房版堀辰雄全集を手に入れたりしながら。小生もこういう高雅な冊子を出したいと思うのだが……

瀬戸内作文連盟 vol.19 瀬戸内作文連盟事務局 二〇一八年六月二〇日
菊池恵子「ヤァ ヤァ! ヤァ!」、田中美穂「インドの畑」、能邨陽子「二ヶ月半待て」、出海博史「髭」・・・書き手が揃っているためか二十六頁の冊子とは思えない濃い内容。これもまた発行人である出海氏のセンスであり人柄なのだろう。

大和通信 第一〇九号 海坊主社 二〇一八年七月二五日
扉野良人「群れを離れて」、中尾務「伊東静雄、羽山善治——富士正晴調査余滴」、中野朗「特装本二冊」、当銘広子「枝うち」、御館博光「彦根の夜は更けて」など。いつもながらB4裏表にこれだけ詰め込んだ濃さにも驚かされる。

新潟県戦後五十年詩史 隣人としての詩人たちーー〈11〉 鈴木良一
 北方文学 第七十七号(二〇一八年六月二三日)別刷
『紙魚』は七十号で終ったが、こちらはまだまだ続くようである。一九七一年から七五年まで(前半)。

 202 詩誌「菱」の会 二〇一八年七月一日
編集人の手皮氏の「編集後記」がいつも面白い。今号は合評会について。発行数と同じだけの合評会を開いて来たのに合評会について論じた記事がないという。『VIKING』は合評会を活字化して載せているが、そういう同人雑誌は珍しいのか。

[PR]
by sumus2013 | 2018-07-06 21:57 | おすすめ本棚 | Comments(0)

アピエ vol.30

f0307792_20155425.jpg

『アピエ』vol.31(アピエ、二〇一八年六月五日)「テーマ:小説と食卓」、および『いつもより本が多いーー金沢一志の出張本棚』(アピエ、二〇一八年五月)。

「小説と食卓」は絶対面白いテッパンの特集だろう。食の小説にはことかかない。

巻頭、千野帽子氏がペトロニウス『トリマルキオの饗宴』を取り上げているのは王道だ。食卓小説の嚆矢(かどうかは断言できないが)にして最高傑作。金沢一志氏はジェームズ・ボンドの朝食。成瀬義明氏はエルキュール・ポワロは晩餐に何をたべたか。

他にも、武田泰淳『もの食う女』、吉行淳之介「食卓の光景」、織田作之助『夫婦善哉』、谷崎潤一郎『美食倶楽部』、このあたりは手堅いが、高田郁『銀二貫』、中島京子『妻が椎茸だったころ』とか川崎彰彦『夜がらすの記』を挙げておられる方も。ウサギやウミガメもあの作品やこの作品に。パート2も期待したくなる。

善行堂の連載はジャズ喫茶と現在進行中らしい名文集について。なるほどな、とあらためて思わされる。

金沢氏の出張本棚『SLIGHTLY MUCH BOOKS THAN USUAL』はいつもながらデザインセンスの光る一冊。金沢氏の書物体験がつづられていてじつに面白い。『ありえざる星』の表紙を描いた金子三蔵なんて全然知らなかった。この表紙に目をつけるとは、むむむ、唸らされる。巻末「出張書および随行者」リストのなかに林哲夫『読む人』(2006年 みずのわ出版)を見つけてニンマリとする。

Apied アピエ Cafe & Book | Cafe


[PR]
by sumus2013 | 2018-06-27 21:16 | おすすめ本棚 | Comments(0)

橄欖 第四号

f0307792_19581277.jpg

マン・レイ石原氏より『橄欖』第四号(瀧口修造研究会、二〇一八年七月一日、装幀=カヅミ書林)を頂戴した。深謝。第三号から三年経過している。その分、内容の充実ぶりは211頁という厚さに現れているようだ。これまでと違って表紙がミラーコート(ピカピカの光沢)になっていること。これはこれでいい感じ。

『橄欖』第4号 マン・レイと余白で
f0307792_19581453.jpg
口絵:瀧口修造のデカルコマニイ


石原氏は「マン・レイと宮脇子、そして、もちろん……」と題して、宮脇子の画廊展カタログを中心に紹介しながらマン・レイ、宮脇、瀧口の交流を紡ぎ出しておられる。ミニマ画廊、東京画郎、ベルタ・シェーファー画廊、ステンフリー画廊……冊子好きにはたまらない。ここで紹介されているカタログの一部は ART OFFICE OZASA の「瀧口修造・宮脇愛子 ca.1960」(〜6月30日)に出展中である。

f0307792_19581664.jpg

f0307792_20130952.jpg
ART OFFICE OZASA


永井敦子「シュルレアリスト研究誌『メリュジーヌ』の日本特集について」も興味深く読んだ。『MÉLUSINE』は一九七一年に創刊されている。パリ第三大学のアンリ・ベアール(Henri Béhar)が編集責任者だった。二〇一七年に紙媒体での発行は終了し、現在はシュルレアリスム研究所のサイトが活動の中心となっているようだ。日本特集は二〇一六年に永井氏とマルティーヌ・モントー氏の編集によってまとめられた。

《ちょうどこの特集号の刊行以降に、フランスでもヨーロッパ前衛芸術の日本における受容に関する主要な史学・芸術社会学的研究が複数発表されたので、そうした成果も取りこみつつ、今後も日仏、そしてもちろん中国や韓国をはじめ、それ以外の地域も含めた研究者による共同研究が、ますます活発化することが期待される。》

スシ、ラーメンだけじゃない、日本へのより深い興味が高まっている、ということであろう。

野海青児「瀧口修造と郷土の悲しい宿縁ーーコレクションは残ったが……」は瀧口と郷里・富山との具体的な関係について考えさせてくれる内容。以下かいつまんで紹介しておく。

瀧口修造が亡くなってから先祖代々の墓も菩提寺もなくなった。瀧口修造自身の墓碑は残っており、妻の綾子も眠っている。しかし墓守となる子孫がないため無縁仏のような状態である。

菩提寺である曹洞宗龍江寺は瀧口家三代が元禄年間に寄進建設したと伝わる。墓地整理とともに本堂も解体された。再建に合わせて瀧口本家の墓も建立し直す予定とのことだが……。

瀧口修造の墓に参りました

《修造の生まれた実家は修造の治安維持法違反容疑による検挙がきっかけとなって郷里から疎外され、屋敷は言うに及ばず田畑まで終戦前後に売られてなくなっていた。父・四郎の遺品を持っていた集落はずれの家庭薬配置業者も亡くなった。
 しかし、本家の修造に憧れていた英子さんは本家に対して深い思い入れを持っていた。英子さんの夫は歌人として名高い宮柊二であった。》

宮英子は修造の「また従姉妹の娘」とのこと。菩提寺も瀧口本家もなくなったが、瀧口のコレクションは現在富山県立美術館三階に展示されている。オブジェなど数千点。没後、西落合の瀧口アトリエからごっそり移された「夢の漂流物」である。綾子夫人が引き取ったごく一部の他は全て保管されている。

瀧口生前、当時の中田県知事が再三訪問し、近代美術館の初代館長就任を要請したが、瀧口は断った。その代りに(?)知事は瀧口コレクションの寄贈を依頼したとされるが、詳しい経緯は分らない。瀧口は

《『郷里といっても私は無縁に生きてきたし、ひとがいわば身銭を切って集めたものを全部ひきとるなんて無礼な話ですよ』》(針生一郎「拒絶のアプリケーション」より、『コレクション瀧口修造』十二巻月報)

ともらしていたという。思想犯容疑で検挙された時(昭和十六年)によほど悔しい思いをしたのであろう。戦後、大学教員に誘われたが、これも拒絶している。

《戦後の瀧口家の家計の流れも戦中の延長上にあるようだ。ことに、一九六〇年代に入って瀧口が美術雑誌にあまり寄稿しなくなってからの、綾子夫人のご苦労はいかばかりだったろうか。そんな状態だったのに、瀧口家に来客があれば、当時の季節の果物が机の上に並べられた。綾子さんは自分が食べる物がなくても、お客には心からもてなすことを怠らなかった。
 瀧口修造のコレクションは、そんな瀧口の生活の身銭の喫水線に成り立っていたのではなかろうか。瀧口修造を顕彰すると共に綾子夫人の陰の力をもっと顕彰すべきではないだろうか。》

晩年の瀧口は美術家であろうとしたし、実際に一流のアーティストだったわけだから、しっかり者の奥方は必要欠くべからざる存在だった。そして、瀧口は気に入らないかもしれないが、「夢の漂流物」が富山県美にまとめて収蔵されていること、何よりの僥倖である。


[PR]
by sumus2013 | 2018-06-21 21:33 | おすすめ本棚 | Comments(2)

紙魚 No.70

f0307792_19081356.jpg


『紙魚』No.70(書物屋、二〇一八年六月五日)を頂戴した。この号をもって完結とのこと。詩誌『新年』が特集されている。発行人鈴木良一氏のことばを引用しておく。

《詩誌目録「紙魚」を創刊したのは、一九九六年四月二十日だった。二十二年間で七十号に至った。時間がかかり過ぎているなぁとの思いはする。「紙魚」創刊の経緯は創刊号の「あとがき」で記した通りで、詩誌「唄」第三号との出会いからだった。》

《創刊号の目録は一九九五年で、この年は「戦後五十年」という言い方で日本の戦後の歩みを総括するというか、回顧する論陣がメディアを賑わしていた。そんな雰囲気から私は新潟県の詩集詩誌を集めて、自分なりの「新潟県戦後五十年詩史」を構想した。最初の目標は一九四六年までの五十号だった。》

《創刊号には「準備三年、調査十年」と言っている。集る詩誌を頼りに、さらに次の詩人へと確かに三年間は新潟県内を隈なく巡り、各市町村の図書館等も訪ねた。そうして集る資料を整理していて分って来たのが、新潟県の戦前戦後の断絶というか、近代詩から現代詩への詩史的記録が全くといって無いのである。》

《一九二六年から一九四五年までの時代の資料はなかなか見つけ出せなかった。新潟県の近代詩を読み解くためには、新潟県の近代詩の勃興期を探る必要を感じ、「新潟新聞」「北越新報」の調査を始めた。
 今号での新潟新聞の記事からも分るように、「新年」以前にも「黒潮」という協力な詩誌があった。しかし「新年」以外は、今もいまだ見つかっていない。こうした経過から一九二六年を最終目標にしたのだった。》

《多くの詩集詩誌はいまだ休眠仮眠中である。書き続けることに依って、眠っている詩集詩誌を揺り起さなければならない。そういう思いも「紙魚」を刊行し続けた動機ではある。詩史を通じて、歴史を映しだすためにも。》

《今後はこの「紙魚」を基礎資料とし、『新潟県戦後五十年詩史』の完成と『新潟県の近代詩成立過程』の完結を目指します。》

こういう方がいないといけません。

[PR]
by sumus2013 | 2018-06-19 19:26 | おすすめ本棚 | Comments(0)

幻華堂漫記其の他

f0307792_19351531.jpg


山田一夫『幻華堂漫記其の他』(東都我刊我書房、二〇一八年七月一日)。二巻の小説集に引続いて佚文集とも言える本書が刊行された。十篇。初出時の版面を複写する形で収録されている。および小野塚力氏の跋。

幻華堂漫記 其の他:書肆盛林堂
http://seirindousyobou.cart.fc2.com/ca4/401/

山田一夫『初稿 配偶 山田一夫モダニズム小説集 弐』

まずは巻頭の「鴨東四時雜詞」を面白く読む。このブログでも以前、その写本を取り上げた中島棕隠『鴨東四時雜詞』について、中京生まれの山田が自身の体験を重ねて読み解いている。初出は『洛味』新生第一号(昭和二十四年十二月)。

山田はまずその架蔵になる文化十三年刊鴨東四時雜詞』から次の一首を取り上げる。

 杏園桃塢自相隣
 看遍軟紅嬌
 栩栩寧知在塵世
 無非胡蝶夢中身
  葛原菊澗之間名園頗多

《今のあの圓山の池のあたりに以前茶畠があつたと云ふ事であるが、それは私の記憶にはない。其後公園が出來て地勢も大分變り、料亭や茶店などにも色々と變遷があつて、「杏園鳩塢自相隣」というふのが果してどの邊の事であるのか、今では全然わからなくなつた。がそれもその筈で、文化十三年は既に百二十年以上昔である。》

としてあるところは誤植。文化十三年序の刊本を見ると「紫」となっている。興味深いのはこの次に引用されている「孔雀茶屋」を扱った一首。以下の引用は本書によるが、一字抜けているところは「嬋」である。「」という表記は山田が付したもので文化十三年序の刊本にはない。

 勝事追時誰著鞭
 花茶房裡闘 妍
 請見林下新風景
 日暖金籠孔雀眠
   近日有〓[環の王をニンベンに換えた字]子於葛原西側開大茶肆経営殫美屋後園榭畜孔雀鸚鵡之類供客遊玩遞茶佐酒者莫不絶世佳人一時翕然相傳稱孔雀茶屋

《これは初期肉筆浮世絵屏風の、しかも極彩色の豪華版である。棕隠先生屹度夢でも見てこんな詩を制作したものに相違ない。……いや、しかし註迄加へてあるのを見ると、まんざら嘘でもなささうな氣もする。
「私は中島棕隠ですが……」
棕隠先生の聲が聞こえる。
「眞葛ヶ原に野外の演奏場が出來て居て、明晩學生のブラスバンドが演奏するとか云ふ事ですが……」
「さうのやうですね」
「それは本當の事なんですか?」
「どうしてですか?」
「誰かの創作ぢやないんですか?」》

さすが、しゃれたコントに仕立てている。孔雀茶屋はむろん実在した。動物園カフェみたいなものである。

この拾遺集では他に「京都物語(1)」(『京都』第三十二号、昭和二十八年五月)も逸品。昔の京都を知るためのかっこうの読み物となっている。山田一夫、雑文がまたなかなかによろしいな。


『鴨東四時雜詞』

[PR]
by sumus2013 | 2018-06-12 21:05 | おすすめ本棚 | Comments(0)

こないだ

f0307792_17370737.jpg

山田稔『こないだ』(編集工房ノア、二〇一八年六月一日、装幀=森本良成)。読了。

《これまでに主な雑誌、冊子などに発表した文章のうち、単行本未収録のものから選び、これに若干の新作を加えて一本とした。》(あとがき)

初出一覧によれば、一九八六年〜二〇一八年にわたる三十五篇および書評十一篇、計四十六篇が収められている。内訳は八〇年代四篇、九〇年代六篇、二〇〇〇年代十一篇(および書評十一篇)、二〇一〇年代十四篇である。

三十年以上にわたる執筆期間なのだが、そう大きなスタイルの変化は感じられない。淡々としかし時計の秒針のように正確な筆の動きで人間や文学作品について描く(作品の梗概を述べるくだりが見事だ)。それでいてまったく窮屈さはなく、分かりやすい表現で自然に読まされる心地よさを持つ文章である。ただ八〇年代は少しタッチが違うかな、という感じもする。キレがある、というかキレを求めている雰囲気。若さとでも言うのか。

また本書には、山田流文章入門、というおもむきもある。そこがこれまでの山田本と少しばかり手触りの違うところだろう。

《それから私はずっと年上のこの姉というより「おばさん」のようなひとを相手に、せっせと手紙を書いた。日常のこまごましたことを書きつづった。その幼い文章を姉はいつもおもしろがり、ほめてくれた。それでまた書いた。返事欲しさに私は書いていたのだと思う。》

《文章を書くとはペンでプレイすること、遊ぶことである。私はまず「スカトロジア」で遊び、さらにフランス便りの「フランス・メモ」(『幸福へのパスポート』)など長短の文章で遊んだ。遊びながら書くことを学んでいった。》

《思想や理念から見捨てられ、地べたに転がる日常生活の断片、「くだらないもの」こそが散文芸術の貴重な糧となる。》

《文章は誰にでも書ける。だから難しい。文をつづることもまた「芸」である以上、他の芸ごと、音楽、スポーツ等々と同様、お稽古を、練習を怠っていいはずはない。毎日の発声練習、バットの素振り、ランニング……。
 書く技術については各自、自分の資質に合ったお手本を選び、書く習慣のなかで学びとるしかない。》

以上は「書く習慣」から。これは『エッセイの書き方』(岩波書店、一九九九年)所収だから本当の文章指南である。

あるいは、こういう逸話もある。鶴見俊輔の出版記念会で鶴見さんが山田さんの文章を褒めた。

《「桑原門下、富士門下では山田稔がいちばん文章がうまい。飾りがないんだ、お化粧をしていない、音楽でいう cadenza がないんだ。こういう文章は study しても書けないんだ。study された文章はそのうちそこから剥げ落ちる」と一気にしゃべった。》(褒められて)

文章がうまい」という意味なら、山田さんの親友でもあった杉本秀太郎ではないか、とも思うのだが、『うまい』の意味合いが一般に考えられているものとは少し違うのかもしれない(いずれにせよ杉本・山田は好一対だ)。

バルザックの「パリにおける田舎の偉人」の梗概を述べたくだりも面白い。田舎出の詩人リュシアンと出版人のドグローの会話。

《「へぇ! あんたは詩人かね。それじゃあんたの小説はもういただきますまい」と言って突っ返し、
「ヘボ詩人が散文を書こうとすると失敗する。散文にはつけ足しの文句などない。かならず何ごとかちゃんと言わなければならんからね」
と、批評家のような口を利く。》(ある文学教育)

《あっけにとられたリュシアンにむかって、先輩のルストーは教訓を垂れる。売れるか否かが唯一の問題なのだ。本は直ぐ売れなければならぬ。時間をかけなくては高い評価の得られぬような、内容の充実した本は、出版社は断る。》(同前)

同じことを大阪人が言うとこうなる。

《「大阪てひどいとこやで。小説書いてる言うやろ、ほんならどんな小説ですかなんて訊いてくれへん。それでどんだけもうかりまんの、それだけや」》(〈あと一円〉の友情)

ロジェ・グルニエが言うとこうなる(『ユリシーズの涙』より)。

《もし文学がつねに身近にいて、可愛がり、食事をやり、散歩に連れて行かねばならぬ犬だとしたらどうであろう。それを愛するのも憎むのも勝手だ。しかしそれはあなたより先に死んで、あなたを悲しませる。「今日では、一冊の本の命はとても短いのだから」》(読むたのしみ)

鶴見さんが「褒めた」ように、山田さんも同じ基準で他人の文章を評価するようだ。伊藤人誉『馬込の家』(龜鳴屋)について。

《伊藤の文章には全体にわたり無駄な飾り、思わせぶり、文学臭がないのである。さきに紹介した出だしの文章のように、名文でもなんでもない。言ってしまえばごく普通の文章で、そこがいい。むかしはじめて読んだとき、私はそう感じたのだと思う。それはいまも変わらない。》(思い出すままにーー黒瀬勝己、そして二人の伊藤)

まさに山田さんの文章も名文でもなんでもない。言ってしまえばごく普通の文章で、そこがいい」と言えるだろう。編集工房ノアの本とは思えない(夏葉社か龜鳴屋みたいな)装幀もそんな風合いにふさわしく出来上がっている。

[PR]
by sumus2013 | 2018-06-04 20:31 | おすすめ本棚 | Comments(2)

河口から IV

f0307792_20084956.jpg

『河口から IV』(季村敏夫、二〇一八年五月一五日、装幀=倉本修)を頂戴した。深謝です。通常号ながら六十頁のボリューム。

【インタビュー】品川徹さんに聞く………倉本修
春の言葉………扉野良人
ひかり………ぱくきょんみ
外出………季村敏夫
「応答」は、つねにもはや、饗宴の戯れに隠されて在る………宗近真一郎
神戸と私 小学生の頃………岩成達也
「自然と作為」について………水田恭平
打ちすえられしもの あとがきにかえて………季村敏夫

品川徹さんはテレビ「白い巨塔」で実直な老教授を演じて以来、テレビでもシブイ脇役としてよく見るようになった劇団転形劇場の俳優。このインタビューは品川さんのウィキペディアよりずっと情報が多くて貴重だ。岩成達也氏の「神戸と私」も興味深く読んだ。仏教とキリスト教に関するエッセイの対置も、妙にくすぐられるものがある。「あとがきにかえて」に書かれた内容をもっと詳しく描いて欲しかった(私小説のように)。

「澪標」本を、もっと楽しもう。

『河口から I』(二〇一六年三月四日)

『河口から II』(二〇一六年十月念)

『河口から』特別号(二〇一七年二月二五日)

『河口から』III(二〇一七年九月一五日)

[PR]
by sumus2013 | 2018-05-21 20:44 | おすすめ本棚 | Comments(0)

初稿 配偶

f0307792_20104859.jpg

山田一夫『初稿 配偶 山田一夫モダニズム小説集 弐』(片倉直弥編、書肆盛林堂、二〇一八年四月三〇日)読了。あまり堅苦しいことは考えず、ゆるゆると小説を読む愉しみを得た。文学好きとしては、以前も書いたことだが、自分だけの作家を持つということが、何にもましての悦びとなる。忘れ去られた作家、しかも、時を経てなお、捨て難い魅力を発している書き手。そういう目的があれば、古書探求にも熱が入る。

山田一夫もそういった忘れられた作家の一人だったのだろうが、生田耕作らが『耽美抄 山田一夫作品集』(一九八九年)を刊行して以後、事情は変わったようで、目下の古書価は相当なものである。書肆盛林堂の「山田一夫モダニズム小説集」(壱、弐)はそういう意味でも意義深い出版だ。とは言え、部数が少ないので、これもまた希書となろう(むろん壱は売切)。

山田一夫『初稿夢を孕む女 山田一夫モダニズム小説集 壱』(書肆盛林堂、二〇一五年)

f0307792_20105176.jpg

正直、小説そのものは、偏食の永井荷風に厚遇され、苦労人の川端康成が無視したということで(作風はむしろ川端に近いか)、ほぼそのクオリティは想像してもらえるかと思うが、なかなかの手練でありながら篩の目に残らなかった理由もそれなりに理解できる。忘れられなければ、掘り出す愉しみもないわけで、それもまたよし。

文中に喫茶店がいろいろ出ているのがモダニストらしく、小生としては有り難い。ユーハイム、ホンジョー(本庄)、富士屋(不二家?)、モナミ、万茶、きゅべる(きゅうぺる)。神田の古本屋街も贔屓だったようだ。

特に「四次元瞥見記」(初出『新科学文芸』昭和六年三月)に登場している書斎には興味を惹かれた。主人公は友人に誘われて、ある第二号の女性K子の家を訪問する。

《建築の様式は印度サラセンとローマネスクとスペイン風との巧みなコンビネーションだった。サロンは二十畳ばかりの室で、古風なランプが点してあった。(尤もランプの灯は電燈だった。)》

《ピアノの隣に蓄音器があった。蓄音器はラジオと一緒にしたもので、別に短波の受信機があった。レシーバーを耳に当てゝみると、何か話して居るのが、聞えたが英語でもなく仏蘭西語でもなかった。
「これはハバロフスクで放送して居るものをモスクバで中継して居りますのよ。ラジオドラマのようですわね。」
「そんなに遠いのが聞えるんですか。」
「えゝ、これでざっと世界の半分は聞えるって云うんでございますわ。」
 サロンの壁にはヴン[ママ]・ドンゲンやマリー・ローランサンやマティスなどの油絵の額が懸けてあった。サロンの隣にレコードの室があった。そこには八千枚ばかりのレコードが声楽と器楽の二種類に分けてあった。その隣に書斎のような室があった。書架の半分は小説や脚本などで、その他は全部世界各国の美術の本だと云うことだった。絵画や彫刻や工芸品や建築などの写真帳や精巧な複製などであった。この室と寝室と浴場は四ツ目風につなぎ合してあった。》

さらに寝室、化粧室、浴場の描写が続いて、厨房はというと、こんな感じなのである。

《厨房は殆んど全部純白だった。電気冷蔵庫があり、電気乾燥機があり、時計仕掛のセルフクッカーもあった。》

谷崎潤一郎の豪邸も連想させるわけだが、このような現在とほとんど変わらぬ生活をしていた富裕層が昭和ヒトケタには存在したのだろうか? 実際、巻末の解説のひとつ、善渡爾宗衛「幻華堂 山田一夫の住まい」によれば、山田孝三郎(本名)は昭和四年に京都市下鴨に本邸を建設している。設計したのは「聴竹居」(下記案内参照)で知られる藤井厚二である。

f0307792_20105356.jpg

《山田邸は、木造住宅を得意とする藤井が、あえて新日本様式の鉄筋構造でつくった住宅のうちのひとつである。庭園は飛石林泉風のもので、その一隅には、「寸法録」の著者で蝸牛庵(幸田露伴ではなく)こと廣瀬拙齋の指導により茶室「麗日庵」が設けられている。》

《山田孝三郎の京都市下鴨の本邸は、昭和四年のうちに建てられた鉄筋コンクリートの住宅として、大沢徳太郎邸とともに、『鉄筋混凝土の住宅』昭和六年A3変版、和装袋綴、田中平安堂から刊行されている。》

「四次元瞥見記」に描かれている邸宅とは少し違っているようではある。四次元というのだから、現実の三次元にはまだない、理想の邸宅ということなのかもしれない。それを、山田は、この和風でありながらも、きわめてモダンな出来たてホヤホヤの住宅で夢想していたのであろう。

初稿 配偶 
―山田一夫モダニズム小説集 弐 ―


f0307792_20105525.jpg
聴竹居 -藤井厚二の木造モダニズム建築-
2018年5月12日(土)〜 7月16日(月・祝)

竹中大工道具館1Fホール
https://www.dougukan.jp/special_exhibition/chochikukyo


[PR]
by sumus2013 | 2018-05-08 20:25 | おすすめ本棚 | Comments(0)

背中の地図

f0307792_16550062.jpg

『背中の地図 金時鐘詩集』(河出書房新社、二〇一八年四月三〇日、デザイン・組版=鈴木一成デザイン室、装画=Yokomizo Miyuki)。ある方より頂戴した。

東日本大震災の当日、詩人は高見順賞の授賞式のため東京にいたのだが《贈呈式は自然の驚異のあおりを食って流れてしまった》。

《ノアの洪水を思わせた東日本大震災はそのまま、現代詩と言われてきた日本のこれまでの詩の在りようをも、破綻させずにはおかなかった。観念的な思念の言語、他者とはあくまで兼ね合うことがない、至ってワタクシ的な自己の内部言語、そのような詩が書かれるいわれが根底からひっくり返ってしまったと実感した。》《拙詩「渇く」は大震災以後、「記憶に沁み入」ろうとなんとか書き継いできている、私の連作詩の一篇である。》(「渇く」に寄せて)

いずれの詩も、部分的に引用してはしっくりこない。ここでは略しておく。本書を手にしてご覧いただきたい。「あとがき」より、出版の経緯に関する部分を引用しておこう。

《原発破綻という人工的な災禍も加わって大災害をもたらした、東日本大震災を改めて思い起こす小さな目覚まし時計の役にでもなれればと、駆け込み出版を河出書房新社の阿部晴政編集長にお願いしたところ、二つ返事で引き受けてくださった。》

《この私の非常識とも思える駆け込みには実はいきさつがあって、私を阿部氏につないでくれた編集者が私と阿部氏との古い関わりを知っていてくれたことから、詩集出版は実現した。そのことも併せて記しておきたい。
 向井徹という、心根の芯からやさしい友人である。いま脚、腰をいためて難渋している作家の梁石日を、何かと手助けしているのも彼である。私は彼と会うだび、なにかにつけ日本を悪く言っている自分が恥ずかしくなる。本当は日本人はやさしいのだ。
 その彼が仲立ちをしてくれたのが河出書房新社の阿部晴政氏はなんと、三五、六年もまえ、ぽっと出の私をずいぶん押し出してくれた、図書関連新聞の気鋭の編集者だった。浮き世の妙味と言おうか、人生の巡り合いの妙に自ずと手が心の内で合わさっていったものである。

f0307792_19485834.jpg

タイトル文字(本文も)は筑紫アンティーク明朝かと思われる。かっちりした雰囲気がよく出ている。装画として用いられているのは横溝美由紀の作品。一見、織物のようなテクスチャーなのだが、実は油彩画である。画面を斜めから撮影した写真を使用している。美しいカバーに仕上がっている。

一本の糸に油絵の具をまとわせ、糸を手で弾くことによって、キャンバスや紙といった支持体に絵の具が定着する。その糸は、縦糸と横糸が折り重なる水平と垂直を示し、まるでつづれ織りのような作業の中で絵画が編み込まれる。時間と行為の痕跡の刻印された画面からは、驚くべき数々の線が重層する。(加藤義夫

Miyuki Yokomizo




[PR]
by sumus2013 | 2018-05-04 20:05 | おすすめ本棚 | Comments(0)