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カテゴリ:おすすめ本棚( 287 )

古書古書話

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荻原魚雷『古書古書話』(本の雑誌社、2019年3月25日)読了。『小説すばる』誌上で十年以上続いた連載、および『書生の処世』未収録のエッセイ(『本の雑誌』連載)、をまとまめた一冊。タイトル通り、古本についてのおもしろくてためになる内容ばかりである。一話が六枚と読み切るのにちょうどいい長さ。

『小説すばる』連載は二〇〇八年一月からスタートということで、多少なつかしい話題も出てくるが(ブックマーク・ナゴヤでの『sumus』トークショーとか)、古本がテーマなのだから、内容的にはそうそう古くはなっていない。自らの話題のレパートリー(抽き出し)を存分に披瀝しながら古本哲学(それは人生哲学あるいは生活哲学に通じる)を語る技、というか芸、はすでに円熟の域に達している。古本エッセイの傑作になった。

論より証拠、本書からいくつか名言を拾ってみよう。

《おそらく今も古本屋の均一棚には未来の古本屋における人気作家が眠っているはずだ。それが誰なのかはわからない。わからないからおもしろいのである。
 古本における「鉱脈」というのは将来値上がりする作家や作品だけではない。文学史の本流から外れたところに自分にとっての「鉱脈」というべき一生の本を見つけることも古本屋通いの楽しみだ。》(文学は勝手放題のネゴト)

《ひとつのジャンルを追いかけていくうちに、行き詰まってくるし、まわりの人と話が通じなくなる。かといって、守備範囲を拡げすぎると、自分を見失う。
 今のわたしは見失っている最中なのだが、当面は「手数料」を払いながら「即興」で本を買っていきたいと思う。》(武満徹の対談がすごい)

この「手数料」というのはナット・ヘンフ『ジャズに生きる』(東京書籍、一九九四年)の《ジャズ・ミュージシャンの用語で、ギャラが小額かつ不規則ななかで、個性的な音とスタイルを摸索している時期のことを言う》。

《ふらっと古本屋に行く。何を買うかはわからない。途中、寄り道したり、ものおもいにふけったりする。》(雨の神保町、下駄履きで早稲田)

《安くていい本はすぐ売れる。ほりだし物を買いたければ、初日の午前中に行ったほうがいい。同じ本が二冊あれば、安いほうが先に売れる。人気の稀少本は二日目だとほとんど買えない。古本の即売会に関しては、残り物に福のあることは少ない。
 ただし、二日目の午後は客も少なく、押し合いへし合いがないから、ゆっくり本を見ることができる。古雑誌のバックナンバーを目次を見ながら探すときには都合がいい。早起きしなくてもすむのもいい。》(二日目の古書展)

毎日通うという御仁もいるにはいるが・・・

《竹中労がいなくなった四半世紀のあいだに世の中はずいぶん変わった。
 わたしも変わった。図らずも心ならずも。
 それでも家の本棚の竹中労の本を見るたびに古本屋通いをはじめたころをおもいだす。
 汝、志に操を立てよ。過程に奮迅せよ。迷ったら買え。》(竹中労への招待)

迷ったら買え・・・う〜ん、言い聞かせてはいるのだが、これがなかなか難しい。

《趣味ではなく、それでメシが食えるところまでいかなければ、古本のことをわかったとはいえない。》(書庫書庫話)

これは小林秀雄が骨董に入れ込んで、原稿を書かずに、骨董を売り買いしていた時期があったことが前ふりとしてある。とにかく何でも買わなければ分らないのだ。買うためには、たいていの人は、売らなければならない。

そして、神様・八木福次郎さんの言葉の引用。

《「古本屋に足を運び、書棚に並んだ本を手にとりながら、その内容や美汚を確かめ、気に入った本を求めることは喜びである。古本屋や古書展へ足を運ぶことによって、目指す本だけでなく、それに関する本を見つけることもできる。時にはこんな本もでていたのかと気付くこともある」(『新編 古本屋の手帖』あとがき)》

これを荻原流に翻案すれば

《本は一冊で完結しない。一冊の本は無数の本につながっている。つながっているのは本だけではない。文学、実用書、漫画、音楽、将棋、野球、釣り、家事。ジャンルはちがっても掘り下げていけば、かならずどこかでつながる。人が歩いた後に道ができるように読書の後にも道ができる。》(あとがき)

まさにその通りである。


by sumus2013 | 2019-03-25 21:37 | おすすめ本棚 | Comments(0)

再見なにわ文化

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肥田皓三【皓はツクリが日】『再見なにわ文化』(和泉書院、2019年2月27日)読了。口述筆記ということで、じつに読みやすい。「大阪のもんやったら、何でも好きです」とおっしゃる肥田せんせいが自ら体験した大阪の娯楽シーン(落語、歌舞伎、歌劇、奇術、ジャズ、文学、出版、古書、人形、絵本、などなど)あるいはそのルーツ、および代表的な趣味人たち(木村蒹葭堂、耳鳥斎、生田南水、南木芳太郎)について喋り倒しておられる。聞き手であり原稿にまとめたのは読売新聞の滝北岳氏。同紙上で三年余り連載されたものが一冊になった。楽しくてスイスイと読み終わってしまった。これまでの肥田せんせいのご本にも書かれているおなじみのテーマも多く、なんというか、集大成のような感じである。

ここでは「上方子ども絵本」についてのみ紹介しておきたい。

昭和五十五年に三重の松阪市で子ども絵本が十冊以上発見された。それは、それまで上方には子ども絵本はなかったという定説をくつがえす《児童文学史の世界では、高松塚古墳に匹敵する発見》(肥田)であったという。なぜ上方に子ども絵本がないとされていたのか? その理由は、加賀文庫(加賀豊三郎)、狩野文庫(狩野亨吉)、岩瀬文庫(岩瀬弥助)という江戸時代の書物の三大コレクションに上方の絵本がほとんど見当たらない、からではないかと肥田せんせいは推測しておられる。

近世初期上方子供絵本 10冊附195点/江戸時代(17世紀)/射和町自治会

この発見が契機となって『近世子ども絵本集』(岩波書店)の企画が生まれた。江戸篇は鈴木重三、木村八重子の担当。上方篇が肥田せんせいと中野三敏氏の担当となった。中野氏と肥田せんせいは昭和四十五年頃、せんせいが中之島図書館に居られたときに出会って、意気投合した仲だった。中野氏が肥田せんせいを指名したとのこと。

まずは本を集めることからスタートした。中野氏と氏の師匠筋にあたる中村幸彦の蔵書で六十冊、肥田せんせいが六十冊(《私は府立中之島図書館に行きだした時分の昭和四十五年くらいから、十年ほどで六十冊くらい集めました。即売会で割とよう出まして、なんとはなしに買うてました。》)、その他、信多純一(大阪大学)が十冊ほど、宗政五十緒(龍谷大学)も何冊か、神原文庫(香川大学初代学長・神原甚造のコレクション)に二十冊、国会図書館に四十数冊(これらは何冊かごとに合本になっているそうだ)。結局、上方篇だけで三百五十冊くらいになった。《私と中野三敏さんの概算ですけど、上方の子ども絵本というのは全部で千冊ぐらいやないか、と。だいたいそんなもんで間違いないと思います。

次の写真は『肥田せんせいのなにわ学』(INAX出版、2005年6月15日)の「近世子どもの遊び」の章より、享保から明和あたり(十八世紀中)の子ども絵本(肥田せんせい蔵)。

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ここに注目すべき古本談が挿入されている。江戸の書物を原本そっくりに再現して発行する「稀書複製会」が刊行した唯一の上方子ども絵本に『絵本菊重ね』(北尾雪坑斎)がある。この元本が稀覯書なのだそうだ。

《ところがね、去年(二〇一五年)です。京都の古い本屋さんで、先々代から心安うしてもらってるところがあります。そこが出してる販売目録に、人形のことばっかり描いた子ども絵本が載ったんです。私は今でも子ども絵本となると、気になります。表紙がないので題名はわからない。けど写真が載っていて、一目みただけでわかりました。『絵本菊重ね』の原本に間違いない。稀書複製会の複製で見ているんで、中身はそらで知ってます。値段は八万円。安い。えらいこっちゃ、こんなもん出てくるとは、と思て、私はすぐに申し込んだんだ。けど、手遅れでした。売れてました。これが『絵本菊重ね』の原本やと気い付くのは、よっぽどです。誰も気づかんやろと思ってた。そやけどいてまんねん、これに気づく人が。
 運のええ人です。八万円なんてただ同然でんがな。こんなもんね、最低三十万円ですわ。五十万や六十万つけてもね、売れる。この本屋はね、そんな安く売らない店なんです。表紙もない、しおたれた本でも、まあ気張って八万円の値をつけたんやろけどね。私は絶対買えると思ったんです。癪ですけど。誰が買うたんか、知りたいくらいです。まあ、古本屋は売った先は絶対に言いませんけど。》

世の中にはすごい人たちがいるものだ・・・。これは空振り三振談。しかし、もちろんホームランも飛び出す。上方子ども絵本ではなく、耳鳥斎(にちょうさい)を語った章に出てくる。耳鳥斎は「がこう絵」と同時代の書物に書かれているそうだが、その「がこう」とは何か、肥田せんせいは、その頃、鴻池雅好という粋人がものすごい長い髷をしていて大注目を浴びていたことから、その「がこう髷」を得意に描いたのが耳鳥斎だったので「がこう絵」と呼ばれるようになったのではないか、と耳鳥斎展の図録に書かれたそうだ。すると・・・

《同じ年の九月に東京の古本即売会の目録にね、『鳥羽絵風雅好元髷・今様後篇紋日鬘[とばえふうがこうげんまげ・いまようこうへんもんびかづら]』というのが出ましてね。二万八千円。和本ばっかり扱ってはる本屋さんです。こんなんゆうたら怒られますけど、このお店はあんまりまともな本はおまへんねん。私しばらく考えたんです。好元髷というのは何や知らんのやけどね、髷という言葉にひっかかった。やっぱり、これは見とかなあかんやろと、見ずに買うのは危険なんですけどね。二万八千円、放[ほか]すつもりで、注文したんだ。
 そしたら、まさに「長い髷」の本でしたんや。大当たりでした。》

「風雅好元髷」がどういうものか、それは本書の図版にて確認されたし。むちゃくちゃ面白い。

以上、上方好きのみならず、古書好きにもきっと役立つ一冊であることを保証する。肥田せんせいの語り口もうまく再現されている。上方子ども絵本・・・さすがに均一では見かけたこともない。断片でもいいから転がっていないものだろうか・・・・

by sumus2013 | 2019-03-18 20:20 | おすすめ本棚 | Comments(0)

マイ・ブックショップ

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http://mybookshop.jp


こんな映画来てるよ、と教えてもらった。そういえばチラシ持ってたな、と思って取り出してみた。タイトルからしてそそられる映画である

《1959年のイギリス、海辺の小さな町。戦争で夫を亡くしたフローレンスは、それまで一軒も書店がなかった町に夫との夢だった書店を開こうとする。保守的な町でそれを快く思わない町の有力者ガマート夫人の嫌がらせに遭いながらも何とか開店にこじつける。レイ・ブラッドベリの「華氏451度」など、先進的な作品を精力的に紹介し、書店は物珍しさで多くの住民がつめかける。だがガマート夫人の画策により、次第に経営が立ち行かなくなっていく。フローレンスの味方は40年も邸宅に引きこもっている読書好きの老紳士ブランディッシュ氏だけ――。》

by sumus2013 | 2019-03-13 16:41 | おすすめ本棚 | Comments(0)

あの日からの或る日の絵とことば

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あの日からの或る日の絵とことば』筒井大介編(創元社、2019年3月10日、装幀・ブックデザイン=椎名麻美、装画=荒井良二)。東日本大震災のあったあの日、あなたはどこで何をしていましたか? という問いに三十二人の絵本作家たちが答えた一冊。誰もが絵と文章でその時のどうしようもなく不安な感情を表白していて(ときには息の抜けるマンガもあって)、読み応え、見応えのある画文集になっている。

自然の力、美しさは人間など眼中にない・・・と知らしめる印象的な言葉があった。

南椌椌の声掛けで集まった仲間達と被災地を巡ったのは、惨状まだ生々しい七月の事だった。岩手県大船渡、少し高台にある慰問先の保育園。園庭から見下ろす風景は、津波の無慈悲な破壊力のあとを見せつけて凄まじいのひと言。休憩時間に僕は園長先生と立ち話をした。「こんなじゃない時に来てほしかったわ。ここからの景色はほんとに素晴らしかったの」「変な話だけど、あの次の日も海はとても青くて美しくて目を見張ってしまったの」》(原マスミ「あの時」)

しかし、人間も簡単には参らない、なぜなら自然の一部だから。例えば、震災から三ヶ月後、少年野球の子供からこんな話を聞く。長谷川義史「野球少年」より。

《Sくんはなんと地震の後の津波で、自分の家の屋根の上にお父さんと乗って流されたそうです。流されてどこか違う家に衝突し、そのかろうじて建っている家の屋根に乗り移って助かったというのです。
「そこの家にあったウインナーをいただいて食べたのが美味しかったよ」とSくんは僕に嬉しそうに話してくれました。
 なかなか救助されず二日間その家の屋根で耐えたと言います。》

《今年の夏、僕に石巻の小学校の先生から連絡がありました。それは驚きの嬉しい知らせでした。
 なんとあの時デコボコのグランドで野球をしていたあの二年生だったSくんがこの夏の甲子園に出場するというのです。僕は涙が出てきました。あの少年が、津波で命を落としそうになった少年が、レギュラー、ショートで甲子園のグランドに立つという。》

《試合に出たSくんは見違えるように精悍な青年に成長していました。また涙が出ました。「子供ってすごいなあ、人ってすごいなあ」と感動しました。》


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nakaban「stillness」


絵では nakaban の「stillness」が好きだ。ピカソをちょっと思わせる鳩と女性。

《この文章を書きながら、こうして今生きていることが奇跡のように思えてくる。》(nakaban 「stillness」)

われわれは奇跡を生きている、そうなのだ、そうに違いない。おすすめの一冊。


文士が体験した関東大震災

by sumus2013 | 2019-03-10 17:25 | おすすめ本棚 | Comments(0)

半七捕物帳

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岡本綺堂『初稿半七捕物帳六十九話集 壱 江戸時代の探偵名話 半七捕物帳善渡爾宗衛編(東都 我利我書房、二〇一九年三月一〇日)読了。名高い半七捕物帳だが、読んだのは初めて。だいたいが捕物帳については、子供のころに大川橋蔵の「銭形平次」を楽しみにしていたくらいで(放映1966〜1984!)、書物なり雑誌なりで読むという考えそのものがなかった。本書はそういう意味では新しい発見であり、じつに面白いジャンルだと思う。まずは巻末の半七捕物帳のこと」から出版の経緯についてを引用しておく。

《捕物帳の嚆矢とされる、『半七捕物帳』は、これまでにいたる、テキストで何度もの調整がとられている。その半七が活躍する物語の最初のテキストを容易に読めるようにするには、どうしたらよいかと、一考した。先年、京都の三人社から、「半七捕物帳 初出版集成」が、六冊で刊行されたが、おそろしく高価な物で、限られた図書館では閲覧出来るものの、おいそれとは、個人の手中に出来るモノではありませんでした。
 初稿半七捕物帳六十九話集』を編むにあたって、以下のことに留意しました。テキストは、一から探索して、初出の極力きれいなものにすること。原誌に近いかたちで誌面覆刻とし、容易に持ち歩くことが出来、「江戸名所図会」や、「江戸切絵図」、「守貞漫稿」「武江年表」などと、一緒に懐中ものとして、江戸散策の一助となるものとすべく編纂につとめました。それゆえ、半七捕物帳 初出版集成」とは、もととなる原誌が別の系統のものを求めました。

ファクシミリ版ということで、これなら誤植の心配はない(元々の誤植もそのまま)。初出として掲げられているのは『文芸倶楽部』大正六年一月〜七月掲載の「江戸の探偵名話半七捕物帳」七編、挿絵は白帆(下図の最初の方、八幡白帆)、および大正七年一月〜六月掲載の「半七捕物帳後編」六編、挿絵は青風(下図二番目、松田青風)。そして岡本綺堂のエッセイ「日本の捕物と支那の捕物」(『写真報知』2巻39号、大正十三年)も収められている。

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《『捕物帳といふのは與力や同心が岡ツ引等の報告を聞いて、更にこれを町奉行所に報告すると、御用部屋に當座帳のやうなのがあつて、書役が取あへずこれに書き留めて置くんです。その帳面を捕物帳と云つてゐました。』》(「石燈籠」)

なるほど・・・これは連載第二回「石燈籠」の冒頭に出ている説明で、さらに岡ツ引、御用聞、手先、小者、与力、同心などの立場について給料についてなどの詳細を語っていく、このへんがリアルでいい。漫然とドラマなどから得た知識で理解していたが、警察組織として合理的な組み立てが出来上がっていたことが分かる。

物語はたわいもないといえば、たわいもない。しかしそれが面白さの秘訣でもあろう。四季折々の描写も筆によりをかけてなされており、江戸情緒を楽しむにはもってこい。上に引用した編者の言葉にもあるように江戸散歩の友にもなる。半七は神田の三河町に住んでいたというから、さっそく『江戸切絵図集』(ちくま学芸文庫、一九八九年)で紙上散歩に出かけてみる。三河町というのは「日本橋北神田辺之絵図」で見ると神田橋のすぐ近くである(下の地図は上が南)。最近の地図帳も取り出して比較してみると、どうやら現在の内神田あたりのようだ。お江戸の地理にはうといのでこころもとないが。

江戸の風物や風俗もちりばめられており、読み方は人それぞれいかようにでも広げられる。この小説が受けたということは、大正時代にはもうすでに、お江戸は遠くなりにけり、というような次第だったのであろう。

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さらに

《そして、またすぐに次巻『半七聞書帳』をお届けできるとおもいます。この二巻で「文芸倶楽部」掲載のものを収録して参ります。以後、二冊を第一期『半七捕物帳』にあて、「文芸倶楽部」以外の雑誌収録のものと、雑誌初出不詳のものは、新作社版から補うかたちで納めてまいります。さらに付随するエッセイも採録してゆきます。》(半七捕物帳のこと」

ということなので、これは大いに期待したいと思う。

by sumus2013 | 2019-03-07 21:03 | おすすめ本棚 | Comments(0)

アポリネールと堀辰雄

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季村敏夫個人誌『河口から』V(二〇一九年三月四日)が届く。前号もそうだったが、今号も広く深くの内容で、少々読むのに骨が折れます。

『河口から IV』

なかで、個人的に注目したのは、冨岡郁子さんの「アポリネールと堀辰雄、二つの『窓』」である。冨岡さんは日本におけるアポリネールの受容というテーマで、昨年十一月、イタリアのトリノ大学で開催されたアポリネール国際学会で講演を行なった。その内容に加筆訂正した文章がここに発表されている。アポリネール好きとしては興味津々であった。

日本でアポリネールといえば堀口大学の翻訳で知られている。ところが堀辰雄はアポリネールの詩集『カリグラム』や『アルコール』のなかからいくつもの詩篇を日本で最初に翻訳しているのである。二人には似通うところがあったようだ。

アポリネールも堀も、その詩学は反レアリスム、反自然主義であり、両者ともに、社会的文化的文脈はまったく異なるものの、それぞれの国で新しい抒情を立ち上げようとした、と思うからである。堀は自分自身の創作の上で、アポリネールの何に惹きつけられ、何を得たのか? これが私の課題である。

堀にはアポリネールの詩にヒントを得たと思われる作品がある。初期作品のひとつ『窓』(一九三〇年一〇月『文学時代』)という短編。芥川龍之介の恋愛問題を取り上げている。

『聖家族』が心理分析の叙述によって話が展開してゆくのに対して、『窓』では二人の深い心の交流が、主人公に啓示のように示される。この啓示の直感性と叙述の抽象性はアポリネールの詩「窓」を知ったことと関係しているように私には思われる。この作品が書かれたとき、発表誌は未詳であるものの、堀はすでにアポリネールの「窓」を訳していた。一九三〇年五月出版の金星堂出版による『現代世界詞華選』に掲載されている。

アポリネールの「窓」は一九一三年にベルリンで開催されたロベール・ドローネーの個展のカタログのために書かれた詩だそうだ。ドローネーはその頃エッフェル塔や窓という連作を試みていた。「窓」は、パッと見では、キュビスムの一種と言っていいだろう(ただしアポリネールはキュビスムと区別して「オルフィスム」と名付けた)。まだ具象的な形をわずかに残しながらも、画面全体は分割された色面で構成されている。

ロベール・ドローネーの作品


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架蔵の『GUILLAUME APOLLINAIRE』(POETES D'AUJOURD'HUI 227, SEGHERS, 1978)から「窓」の全文を引用しておく。

 Les Fenêtres

Du rouge au vert tout le jaune se meurt
Quand chantent les aras dans les forêt natales
Abatis de pihis
Il y a un poème à faire sur l’oiseau qui n’a qu’une aile
Nous l’enverrons en message téléphonique
Traumatisme géant
Il fait couler les yeux
Voilà une jolie jeune fille parmi les jeunes Turinaises
Le pauvre jeune homme se mouchait dans sa cravate blanche
Tu soulèveras le rideau
Et maintenant voilà que s’ouvre la fenêtre
Araignées quand les mains tissaient la lumière
Beauté pâleur insondables violets
Nous tenterons en vain de prendre du repos
On commencera à minuit
Quand on a le temps on a la liberté
Bigorneaux Lottes multiples Soleils et l’Oursin du couchant
Une vieille paire de chaussures jaunes devant la fenêtre
Tours
Les tours ce sont les rue
Puits
Puits ce sont les places
Puits
Arbres creux qui abritent les Câpresses vagabondes
Les Chabins chantent des airs à mourir
Aux Chabines marronnes
Et l’oie oua-oua trompette au nord
Où les chasseurs de ratons
Raclent les pelleteries
Étincelant diamant
Vancouver
Où le train blanc de neige et de feux nocturnes fuit l’hiver
O Paris
Du rouge au vert tout le jaune se meurt
Paris Vancouver Hyères Maintenon New-York et les Antilles
La fenêtre s’ouvre comme une orange
Le beau fruit de la lumière


冨岡さんによれば、この詩はアポリネール、デュピュイ、ビイの三人がカフェで一杯やっているときに、突然、ドローネーのための原稿の締め切りを思い出し、やにわにそこで書き始められた。三人が連句のようにして一行ごとに共同して即興で作ったのだそうだ。意味不明でありながら、その場面のイメージとドローネーの絵画の印象とが、うまく織り込まれているような気がする。


赤から緑へ すべての黄は色褪せる
鸚鵡が彼等の生まれた森のなかで啼くときに
アバチス・デ・フィヒス
たった一つの翼しか持たぬ小鳥について詩を書かねばならぬ
我々はそれを電報で送ろう


これは冨岡さんの引用している堀が翻訳したアポリネール「窓」の冒頭。う〜む、堀のフランス語の力量では訳しこなすのは難しかったようだ(これは小生の勝手な憶測です)。「アバチス・デ・フィヒス(Abatis de pihis)」と訳さないでラテンの呪文のように残した部分、冨岡さんによれば「ピイの殺害」という意味である。

ピイ(pihis)はどうやらアポリネールが作り出した単語のようで、元は中国の比翼鳥biyi niao)の「biyi」からきているのだろうと、これは仏語のウィキ「Pihis」に出ていた。堀の時代にはウィキペディアはなかったわけで、むろん辞書にも載っていなかったろうから、訳しようがない(おそらく渡邊一夫に尋ねても容易には判明しなかったのではなかろうか?)。ロベールにはソニアというロシア人の妻がおり(彼女の作品の方がセンスがいい)、互いに影響を与えあったようだが、ひょっとしてこの比翼の鳥というのはこの二人(あるいは二人の制作過程)を指すのか? などと横道に逸れて邪推したりしてみる。

冨岡さんの分析はさらにアポリネールの「鏡」という形象詩からも堀の『窓』はヒントを得ているようだと続き、詳しくは書かないが、『風立ちぬ』の落日の情景へと進んで行く。そして

彼が日本の伝統である、自然という無限抱擁の世界に、一見回帰していくかのように見えて実は、彼の作品世界の中性的抽象性と絵画的構築性が示すように、アポリネールをはじめとするアヴァンギャルドたちが投げかけた問いを強く意識していた。だからこそ堀が特に興味をもって訳したのがマポリネールの会話詩であったのだ、と思う。

と結論する。さらにもうひとつ会話詩の例として中原中也の「雨の朝」を引用し、そこにもアポリネールの影を見ている。『アルコール』に収められた「女たち Les femmes」に似ているという。たしかに似ている。

堀はアポリネールのこの詩を訳していない。もちろん、中也がこの詩を読んだとは思えない。ランボーの優れた訳者である中也とアポリネールは、インターナショナルなアヴァンギャルドの運動の中で、期せずして同じ磁場に、詩の言葉の性質と機能を問う、芸術が本来持つ実験と経験の場にいたと言えるのかもしれない。

と冨岡さんは推測しておられるが、さて、どうだろう(ついでながら中也は渡邊一夫に教えを乞うている)。何はともあれ、示唆に富む論考を堪能させていただいた。深謝です。

by sumus2013 | 2019-03-05 20:56 | おすすめ本棚 | Comments(0)

ふくしま人 佐藤民宝

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菅野俊之氏の「ふくしま人」シリーズの新しい記事が届いた。今回は佐藤民宝(さとうみんぽう)。作家。その生涯を菅野氏の掲げる年譜からかいつまんで引用しておく。

明治四十五年若松市生まれ、本名年宝(としみ)。旧制会津中学から法政大学へ進学。三木清の影響を受ける。在学中に処女小説「芽」を発表。昭和十一年商工省に奉職。文芸同人誌『現実』『批評』『槐(えんじゅ)』『構想』に参加し平野謙、山室静、埴谷雄高らと交遊。昭和十四年農民小説集『希望峰』出版。表題作が第九回芥川賞候補参考作品に選ばれる。昭和16年短編集『軍鶏』出版。戦争中に長編『白虎隊』『菩薩行路』を刊行。昭和二十一年商工省を退職、新日本文学会会員となる。二十二年会津若松に帰郷。会津魁新聞社へ入社。同人誌『盆地』創刊。昭和二十八年福島民報社の編集局次長・論説委員長となる。代表作である小説「小原庄助」を連載。昭和三十一年『北陽芸術』創刊。昭和四十五年県文化功労賞受賞。昭和五十二年福島市で死去。

やはり古本者である菅野さんらしく古書、古雑誌の書影が多数かかげられていて目が釘付けになる。昭和十六年の『軍鶏』の版元は第一藝文社である!(北川冬彦『詩人の行方』昭和十一、杉山平一『夜学生』昭和十八、天野忠『重たい手』昭和二十九などを出版している)

平野謙の『昭和文学史』(筑摩書房)によって民宝の存在を再認識した菅野氏は、今から四十年以上も前、ご本人を訪ねたという。

《当時、福島市瀬上にあった民宝の自宅を思い切って訪ねてみたこともある。彼は「家内が不在なので」と言いながらコーヒーを入れ、気さくな態度で口下手な私に対して問わず語りにこれまでの文芸活動について話してくださり、たくさんの著作も見せていただいた。戦前戦中のそれは無くしてしまったものが多いが、東京の会社に勤めている息子さんが「古本屋で見つける度に送ってくれて」とうれしそうに出してきた著作の中には、もちろん「希望峰」もあった。
 そのとき民宝から聞いた話はほとんど忘れてしまったが、「この作品を平野君が雑誌で批評してくれてね」という言葉は、はっきりと覚えている。》

人は褒められたこと(けなされたことも)はいつまでも忘れないものなのだ。


ふくしま人 伊藤久男

ふくしま人 門田ゆたか

ふくしま人 関屋敏子

世界探検家 菅野力夫


by sumus2013 | 2019-02-20 17:09 | おすすめ本棚 | Comments(0)

菱 矢部公章追悼号

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鳥取市の手皮氏よりいつも頂戴している詩誌『菱』(詩誌「菱」の会)の204号(二〇一九年一月)が届いた。矢部公章追悼号となっている。本誌に掲載されている矢部氏の略歴は以下の通り。

《一九五六年七月 鳥取県八頭郡丹比村(現・八頭町)に生まれる。鳥取大学文芸部に属し、部誌「砂丘街」「多島海」にて詩作。同大四年生より「菱」に参加。鳥取県現代詩人協会・中四国詩人会会員。二〇一八年八月逝く。詩集「七つめの疑問詞」(二〇〇五年 菱の会)「にわたずみ」(二〇一八年 土曜美術社)「えがお」(二〇一八年 菱の会)

昨年、『にわたずみ』も『えがお』も頂戴していた。小生と同世代で(『菱』のなかではもっとも若いとのこと)共感する作品も少なくなかった。なかでは「台秤」はまさに小生のことではないかとビックリした。にわたずみ』より、「台秤」全文。

 きょう台秤を捨てた
 柿の木は残らず切ってしまったし
 田んぼはとうから人に任せきりだ
 最後に何を載せたのか
 最後に量ったのはいつなのか
 台秤の思い出を尋ねるには
 母は体も心も軽くなり過ぎた

 収集場から立ち去るまえ
 ふと台を手にとった
 別れの挨拶をするかのように
 台が頼りなげに揺れていたから
 裏返すと
 そこには父の名があり
 昭和三十八年吉日購入と記されていた
 マジックインキの父の筆跡は
 怖いくらいに几帳面でそして新しい

 米俵を載せ
 まるい分銅を何枚か吊るす
 棹は浮遊するように上下動を始める
 少しずつ米を加減してやると
 やがて棹は水平に鎮まる

 五十年前
 父にとって高い買い物をしたはずのその日は
 どんな良き日だったのだろうか
 小学生の私には
 父が営む生活の重さを量りかねたし
 父は私の振舞いを量りかねていた

 父よ 台秤の棹のように
 あなたと私が釣り合うことが
 一度でもあっただろうか
 あの頃交わした言葉も記憶も
 もう台秤には載せられない
 だから五十年後のきょう
 あなたがずっと捨てられないでいたものを
 私は捨てる


我が家にも台秤があった、ひょっとしたらまだあるかもしれない、今度探してみよう。矢部氏は収集場へ持ち込んだわけで、小生もかなり多くのものを同じような場所へ運んだが、昨年末の「父の仕事場」展では、どうしても捨てられなかった道具類を、もっとずっと広く拡散できたのではないかと自己満足している。

にわたずみ』の「あとがき」にはこうある。

《ところがこの二〇一八年初旬に、胆管癌ステージIV、平均余命一二か月という告知を受けることになった。このあまりに過酷で絶望的な状況が誰でもない他ならぬ自分自身に降りかかってきたことを受け入れざるを得ないと悟ったとき、第二詩集の編集を直ちに始めようと決意した。私という一人の人間が確かに存在したということを詩集の出版によって証しておく。それこそが残されたあまりに少ない時間のなかで私にできる仕事だと考えたからだ。

そしてこの後すぐに第三詩集『えがお』も上梓する。その「あとがき」より。

《わずかに二十編というささやかな詩集となったが、これが今の私に残されている力のすべてである。この詩集を編むことで私は自分の生を支えようとした。その意味で私に見切りをつけないで最後まで寄り添ってくれた詩というものに対し何より感謝しなければならない。》

自分のこととして考えたとき、こんなふうな「あとがき」が書けるだろうか、そもそも本など出せるだろうか、あるいは絵を描けるだろうか。手皮小四郎氏の友情をも思う。


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うらたじゅんさんが亡くなられたと善行堂の日記を読んで知る。ショックだ・・・。

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うらたじゅんの道草日記



by sumus2013 | 2019-02-09 20:02 | おすすめ本棚 | Comments(2)

茶壺

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江口節『篝火の森へ 生田薪能詩篇』(編輯工房ノア、平成三十一年一月十七日)。神戸三宮生田神社で毎年九月二十日に行われる薪能、そのパンフレットに発表された詩篇が一冊にまとめられている。それぞれ演目にちなんだ詩なのではあるが、ちなんだ、であってテーマはもっと身近で広くて深い。熟達の詩境という感じがした。

なかの一篇「足を鍛えて」は狂言「ちやつぼ(茶壺)」をふまえている。三つの連のうち最後の連を引いてみる。

 それそれ 茶壺ばかりに眼[まなこ]を凝らし
 押してもだめなら引くものを
 何が何でも己[おのれ]が己が と言い立てて
 鳶に油揚げをさらわれる
 選りすぐりの茶葉 十斤
 うばい合う輩を出し抜いて
 いつの世も
 利を獲[と]る漁夫はすばしこい
 鍛えた足は この日のため
 聞こえるか
 雲の向こうの笑い声

「ちやつぼ」のアドは主人に命じられて栂尾の《峯の坊谷の坊、殊に名誉しけるは、赤井の坊の穂風を、十斤ばかりかい入れ、背中に急度せおふて、兵庫さして下れば》(『大蔵虎寛本能狂言』岩波文庫、一九五九年版)遊女に引き止められ飲めや歌えや、酔っ払って翌日、茶壺を背負ったまま道端でうたた寝してしまう。そこへ通りかかったシテが茶壺を我が物にしようとするので目覚めたアドといさかいになる。そんな最中へ目代が現れ、互いの申し分を聞く。アドが説明して、言う通り、する通りを、シテもまったく同じように真似して自分のものだと主張して譲らない。結局、まとまりはつかず、言い募る二人を尻目に目代が茶壺を持ち逃げしてしまうというオチである。漁夫の利とはこのことか。

『山上宗二記』(岩波文庫、二〇〇八年版)の「大壺の次第」を見ると、その当時(十六世紀後半)の名物茶壺というのはだいたい六斤から七斤半くらい入るのがふつうだったようだ。例えば「捨子」と名付けられた茶壺は《六斤七つ八つ入る壺なり》とあって註にはこう書かれている。

《一般的な茶の詰め方は、茶壺のなかへ並の茶を詰め、その中に上等な茶を紙袋(茶袋)に入れて埋める。茶袋は一袋二〇匁、半袋一〇匁とされ、捨子の場合、六斤の茶のほかに約一四〇〜六〇匁の茶袋が入る容量であった。》

一斤はおよそ一六〇匁で六〇〇グラム相当。ということは「捨子」には少なくとも七斤の茶が入ることになる。「ちやつぼ」の言う十斤は六キログラムだから、壺も大きいだろうし、相当な重さになる。「足を鍛えて」は言いえて妙なり。しかも重さだけではない。アドの口上によると

《某の頼うだ者は殊無い茶數奇[ずき]で、毎年栂の尾へ茶を詰めにやられまする。又當年もまんまと茶を詰て下りまする所に》

あるいは

《おのが主[しう]殿は、中國一の法師にて、日の茶を點[たて]ぬ事なし。一族の寄合に、本[ほん]の茶を点んと、五十貫のくりを持、おほくのあしを遣ふて、兵庫の津にも着たり。兵庫を立つ二日[ふつか]に、栂の尾にも着きしかば

というようなことである。「おほくのあし」を使って手に入れる高価この上ない嗜好品だった。逃げ足も早くなろうというものだ。

茶は平安初期に初めて中国から輸入され、一時もてはやされたが、国風の流れとともに廃れてしまう。ところが、栄西が中国の江南地方の製茶法と喫茶法を伝えるや、それが日本人の好みに合ったものか、急速に普及した。

《茶の生産地も拡大してゆき、上等なお茶(本茶)をつくる京都の栂尾[とがのお]に対して、下級のお茶(非茶)とされた伊勢や信楽などの茶を飲みわける本非飲茶勝負をはじめとするさまざまな種類の闘茶が誕生し、十四から十五世紀に大流行をみた。そうしたなかで京都の宇治の茶も本茶に加えられ、やがて宇治は茶業の中心地へと発展してゆく。》(『山上宗二記』解説、熊倉功夫

宇治の前には、栂尾が製茶の本場だったというわけである。

by sumus2013 | 2019-02-01 20:33 | おすすめ本棚 | Comments(0)

ヒルダ・ウェード

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グラント・アレン&アーサー・コナン・ドイル『ヒルダ・ウェード』平山雄一訳(書肆盛林堂、二〇一八年一二月三一日、表紙デザイン=小山力也)読了。

面白かった。舞台はロンドンの聖ナサニエル病院からはじまる。主人公である看護婦ヒルダ・ウェード、そして偉大な医学者セバスチャン教授、若き医師ヒューバート・カンバーレッジが主要な登場人物。看護婦ヒルダは非常な洞察力と記憶力を持つ。並みの医師顔負けで患者の過去と未来をズバリと言い当てるようなスーパー・ウーマンなのである。そのヒルダが、どうしてこの病院で働いているのか・・・教授との関係は? 女シャーロックの推理が謎を呼び、物語は途中から突然冒険活劇へと激変する・・・あらすじはこのくらいにしておきましょう。

《本書は HILDA WADE by Grant Allen, G.P. Putnams's Sons, New York & London, 1900. の全訳である。初出は Strand Magazine 一八九九年三月号から一九〇〇年二月号にわたって連載された。ただし、著者グラント・アレンが完結の前に急逝したので、最終回(最終章)のみ、アーサー・コナン・ドイルの筆による。》(解説)

初版本の書影を画像検索してみるとBIBLIOに二種類出ていた。原文はグーテンベルク計画で読むことができる。

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1900, 初版 $650.00


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1900, アメリカ初版 $250.00


Hilda Wade, by Grant Allen - Project Gutenberg

by sumus2013 | 2019-01-27 20:42 | おすすめ本棚 | Comments(0)