林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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カテゴリ:古書日録( 808 )

雑駮筆記2

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梅廼屋俊彦・編輯『雑駮筆記 三』より。上は《元禄十一年十二月五日筑前国博多の聖福寺とかや境内にて異朝古物の金銀及銅銭を掘出せし金銀十五枚もありとかや云々》。

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《是朝鮮国之字也在深田氏随筆海東諸国記ニモ載ス之ヲ有リ大ニ同メ少異》


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鳥居のルーツを考察した図の一部。


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長崎より[?]しておくりし通便の者を紅夷餐する治具[コンダテ]左》


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《民具を隠し朝鮮へ渡せし[誡?]船荷物品々左の如し》


他にもいろいろな事物の考証や歴史上の出来事について記しているのは面白く読めるが、紹介はこのくらいにしておく。ご興味のある方はご一報を。

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by sumus2013 | 2018-03-16 20:53 | 古書日録 | Comments(0)

雑駮筆記

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梅廼屋俊彦・編輯『雑駮筆記 三』。写本。昨年の百万遍での収穫のひとつ。広く書物を漁ってその抜書きをまとめ、短いコメントを述べている。本来の意味での随筆集である。梅廼屋俊彦さんが誰なのか、まったく分らないが、とにかく享保時代に書かれたもので、尾張の住人であるということは本書の内容から推察できる。

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《今年享保八年》の記載。一七二三年。三百年近く前の写本か……。中御門天皇の代で、将軍は吉宗である。この年、東都(江戸)に百歳以上の人が五人いると知人から手紙が来たという記事なのだが、それにしても最高齢が百七十七歳とは、さすがに素直には信じられない。他にもいろいろ面白い記事があるので、引き続き少し紹介してみる。

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by sumus2013 | 2018-03-15 20:16 | 古書日録 | Comments(0)

哀れな男の独り言

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本の整理中という某氏より仏蘭西書を四冊ほど頂戴した。深謝です。なかでもこの一冊は嬉しかった。ジャン・リクテュス(1867-1933)『哀れな男の独り言』。

Jehan-Rictus『Les Soliloques du pauvre』(Eugène REY, libraire éditeur, 1934)

これは歿後刊行の後版だが、それでもフランスで買えば、そこそこの値打ちもの。初版は一九〇三年(Sevin et Rey, 1903)で、そちらは状態が良ければ1000ユーロ以上。ジャン・リクテュスの代表作とされる詩集である。

表紙と挿絵はスタンラン(Théophile-Alexandre Steinlen, 1859-1923)、十九世紀末から二十世紀初頭のパリのシーンを描いて活躍した画家、イラストレーター。キャバレー「シャノワール(黒猫)」のポスターがよく知られる。本書でも哀れな男(「貧しい男」とも)が夜のパリをほっつき歩く、その様子がうまくとらえられている。

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貴重なのは、このカバー。出版社が付けたのではなく、書店が汚れ防止のために被せている。英語で言うところの「ダスト・ジャケット」。リブレリー・ジベールの名前入り(現在のジベール・ジョセフ書店の前身だろう)。そして本体のタイトルが手書きで背と裏表紙に書き込まれている。ジャケットの背にはタイトルを書き入れるための空欄がある。この手のカバーはパリの古本漁りでも見かけたことがなかった。裏表紙(表4)は保険会社の広告。

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以下、ざっとページをめくる感じで紹介するが、多数のイラストがまるで劇画のように展開するのが、非常に興味深い。絵本と言ってもいいくらいだ。

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フランス語のウィキに「Jehan-Rictus」は不完全な「Jésus-Christ」のアナグラムだと書いてあった。そう言われれば、たしかに。本名は Gabriel Randon de Saint-Amand。最晩年の彼はペンネーム「Jehan-Rictus」のハイフンを必ず付けるようにうるさく言っていたようだ。多くの編集者がそれを無視するのを嫌ったと言う。残念ながら本書でも省略されているが…。


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by sumus2013 | 2018-03-09 20:48 | 古書日録 | Comments(0)

大阪繁昌詩

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田中金峰『大阪繁昌詩』の中巻のみ入手。むろん双白銅文庫なり。この詩と註釈からなる三冊(続が三冊の計六冊)本についてはネット上で多く取り上げられており、小生ごときがとくに註釈することもない。

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一応リンクしておくと、活字で読みやすいのがこちら。評伝も収録。


『大阪繁昌詩』上中下の全ページ画像はこちら。

大阪繁昌詩 お茶の水女子大学附属図書館

田中金峰の略歴はこちら。

大阪繁昌詩 日本漢詩選 詩詞世界

幕末の天才少年だったらしい。ところどころしか読んでいないけれど、観察が若々しいというか、やや幼い感じがしないでもない。たとえば祖母が田楽好きの部分とか。

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心斎橋の夕涼みの様子など、いきいきと描けている。

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そして、書店はみな心斎橋筋(條)にあった。その繁昌の様子が簡潔に描かれている。

武編文帙利頻鋤   武編文帙 利頻りに鋤く
戸戸乗晴驅白魚   戸戸 晴に乗じて白魚を驅る
肆上老商私詑我   肆上の老商 私かに我に詑/ジマンイフ/す
今朝交易得珍書   今朝 交易して珍書を得たり

 書肆は皆、心齋橋條/シンサイバシスジ/に在り。肆下、白招牌/シラハリノカンバン/を安/ヲ/き、牌面に其の名を題す。二酉五車、庫に藏し、汗牛充棟、肆に列す。方伎生/イシヤ/、緇流客/ボウズ/、去來頗る織るが如し。屨、常に戸外に満つ。
 家父の七絶、華城詩鈔に見ゆ。

上下巻も……入手したいなと思って調べると、ちょうど上下巻が、なんとか手に入れられる値段で「日本の古本屋」に出ている。これは迷います。


因果道士著・中島棕隠軒編集『都繁昌記』

寺門静軒『江戸繁昌記初篇』

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by sumus2013 | 2018-03-06 20:45 | 古書日録 | Comments(0)

青梅

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高井有一『青梅』(集英社、一九八〇年三月一〇日、装丁=菊地信義、装画=文承根)。高井有一の小説だから、というわけでもなく、なんとなく手に取ったところ、表紙が素敵だった。目次の次のページに《装画 文承根》とあったので躊躇せず求めた。

文承根(ムン・スングン)については昨年 ART OFFICE OZASA で没後35年 文承根 藤野登 倉貫徹を見ていたのでその名前が印象に残っていた。作品も良かった。作品や略歴は下記サイトがよくまとまっている。

ときの忘れもの
文承根 MOON Seung-Keun


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この表紙の作品は《1970年代半ばから集中して制作した色を何層もぬり重ねた水彩》(上記サイトより)の系統に属するのかもしれない。伝統的なものを感じさせながら清新な仕上がりになっているように思う。

高井作品も読んでみた。なかなか読ませる。高井の父は画家の田口省吾で(ということは祖父は編集者であり明治末頃の流行作家・田口掬汀)、父親に関係する作品「夭折」と「戦争画集」がいいと思った。

「夭折」は、パリ留学時代の友人だったヴァイオリニストの肖像画を、その未亡人から引き取って欲しいと言われて、貰い受ける話。田口省吾は昭和十八年に四十六歳で歿している。その後、空襲で焼かれて、作品はほとんど残っていない。

《床に拡げた絵を覗き込んで、未亡人は言つた。描かれた標[しめぎ]氏は確かに若かつた。左手にヴァイオリンを、右手に弓を持つて、背凭れの高い椅子に浅く腰掛けてゐる。練習を終へて、一と息ついたといふ感じでもあるのだらうか。鼻梁が高く細く通り、髪も眉も豊富に濃く、艶の褪せたカンワ[ワ;濁点付き]スからさへ、肌の白さの察しられる風貌は、昔ならば〈西洋人の血が混つてゐるやう〉とでも評されたかも知れない。》(「夭折」)

この作品にからめて戦時中の疎開の話と従姉妹(母の姉の子)の話が描かれており、戦時中の東京の様子がじわりと身に迫る。

検索してみるとこの絵の絵葉書が見つかった。「ヴァイオリニストH氏」第二十回二科展(1933)出品。
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「戦争画集」は、米国から返還された戦争画が話題になっていた頃発行された戦争画集を眺めながら、昔の父の画家仲間や弟子のことを思い出す話。

弟子の中で一人だけ父の歿後も彼の家を訪ねてきてくれた塩路裕介という画家が中心に据えられている。塩路もまた戦争画を描いていた。

《「戦争なんて、簡単に絵になるものぢやない」
 胡坐をかいた薄い膝を、軽く叩きながら彼は言つた。
「白兵戦なんて滅多にありやしないし、あつたにしても、その中へ巻込まれれば、死ぬ覚悟をしなくちやならないですからね。絵の題材にするなんて、とんでもない話だ。今はやつてる血腥い絵は、みんな人の話を聞いたり、写真を見たりしただけで描いてる。拵へ物ですよ」
「藤田さんは、自分の絵にお線香をあげたつていふわね。あんまり凄くて、祟られさうだからつて」
 と母が言つた。藤田嗣治の「アッツ島最後の攻撃」は、当時最も評判を呼んだ戦争画であつた。敵味方の死体が折重なる大画面の中央に、守備隊長の山崎保代大佐が、泣き叫ぶやうな表情で剣を振つてゐる。塩路裕介は、母には直接答えず、
「まあ、あれだけ死骸を沢山描くつていふのも、大変な事ですよ」
 と、曖昧に紛らせてしまつた。彼の戦陣の生活は平穏であつたらしい。》

作者は『太平洋戦争名画集』を前にして塩路裕介の姿を探すような気持になっている。

《素晴らしい絵を描いて呉れたと軍の報道部長から感謝されたとか、自分の絵がきつかけとなつて特攻隊の記念碑が建つたとか、楽しさうに書いてゐる人がある。塩路裕介がこれを見たら何と言つただらう、とは私は思はない。ただ、見え隠れする彼の姿を追ふやうな気分で、暗い褐色に塗られた画面を眺めてゐる。

高井の他の作品も読んでみたくなった。

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by sumus2013 | 2018-02-27 20:52 | 古書日録 | Comments(4)

船川未乾君の装幀

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これらの図版は『書影でたどる関西の出版100』(創元社、平成二十二年十月十日)の「自己陶酔 園頼三・船川未乾」(宮内淳子)より。園と船川についてはこれまでも何度か取り上げている。

未乾の一生

『自己陶酔』「園頼三先生の思い出」

竹内勝太郎『西欧芸術風物詩』表紙=船川未乾

船川未乾について未見の資料を中島先生がお送りくださったので、簡単に紹介しておきたい。尾関岩二「船川未乾君の装幀」(『書物倶楽部』第一巻第一号、裳鳥會、一九三四年一〇月五日、掲載)。

《船川君は京都の洋畫家であつた。船川華舟はその兄であるが、弟はその弟といはれることをひどく嫌つて居つた。しかし彼は繪の手ほどきを兄に受けた事は事實であるらしい。彼は太平洋畫會に學んだといつてゐたが、そのことの確實性はあきらかでない。
 大正七、八年頃京都南禅寺北ノ坊町に住んで、セザンヌ風な繪を描いてゐた。彼は個人展覧會を四回開いてゐる。》

《彼の死後、夫人咲子さんは友人の誰もに消息を絶つて、その後を知らない。彼はその生立も明かでないし、また、その死後も明瞭でない。彼の一生は戀をする間だけ我々の目にとまる蛍の様であつた。》

兄だとされる船川華舟についての情報もない、と書いたところ、読者の方より御教示いただきました。船川華洲は《未乾の実兄・船川華洲(ふなかわ・かしゅう)は、明治13年6月京都生れで、山元春擧塾、早苗会に所属していました。》とのことです。華舟ではなく華洲が正しい。このように尾関の述べる伝記的な事実については誤謬が多いので富士正晴の年譜を参照していただきたい(上記「未乾の一生」)。

《船川未乾君は或程度まで商業主義を認めながら、その一線を潜つて低下させようとする出版者の要求を一蹴して居つた。その點、船川未乾君ほど、我ままに振舞える装幀畫家は多くはあるまい。彼の要求は承認せずにはゐられないやうにさせる押があつた。押しといふより、人間的魅力といつた方がいいだらう。そしてどんなに算盤に合はない計算でも、彼によつて主張される時には、肯かずにゐられなくなるといふ、さういふ樣な不思議な力を持つてゐた。
 だから、彼が殘して行つた装幀は、その發行の都度、讀書家の眼をうばつたものである。
 いや、或は最後まで商業主義の充分判らなかつた男であつたかも知れない。時々彼はビツクリするほどうまく商業主義にあてはまつた行動をすることがあつたけれど、しかし、それは意識せずしてさうなつたのかも知れない。
 出版者の方で、いくらほどの定價にしたいと思つても、彼にかかると、培[ママ]近い定價をつけるべく餘義なくされるといふ場合が少くなかつた。さういふ意味で彼は傍若無人であつた。》

《「自己陶酔」が船川君の装幀の基調となつてゐた樣である 書物は大型のうすいのが好きであつた。もし許されるならすぐこの大型の薄いものを作りたがつた。背も丸よりフラツトを好いて居た。またサイズも、菊とか、四六とかいふものより、どこか違つたものを作るのが好きであつた。この書は自費出版であつたため、丸善に發賣を依頼したが發行は園君の家であつた。その頃園君の家の表に「表現社」といふ自製の看板がかかつてゐたのを憶えてゐる。
 発行日附は大正八年七月一日、私はまだ學生で、休暇明けに訪問して一册を贈られた。》

《「蒼空」はサイズも氏名印刷の工合も前の本と同じだつたけれども、背を丸くしたり、表紙に茶のうすい色の紙を見返しに燃えるやうな赤の日本紙を、本文にノートペーパーを用ひ、本文の活字を舊五號から九ポイントルビつきに變へて見てゐる。
 しかしこれは決して成功した作品ではなかつた。園君さへ承諾するなら、全部を焼きすてたいといひいひしてゐた。》

《船川君がスケツチを版にしたのはそれより前、「太陽」に毎號のやうに京都附近のスケツチが出てゐた。野長瀬晩花氏のスケツチがよく出てゐた事から、恐らく同氏の紹介によつたものであらうと思はれる。》

《雜誌の装幀もしてゐた。私達がやつてゐた同人雜誌、「銀皿」の裏繪をよく描いてくれた。また雜誌の表紙では、京都から出てゐた「民衆文化」の表紙を描いてゐた。毎號續けてゐるうちには煩さくなつたと見えて、最後に稲荷さんの繪馬みたいな表紙を描いて、それでおしまひだつた。
 ことはるつもりで、わざとひどいものを描いて渡したのだと自分では言つてゐた。》

装幀本としては、松原寛『現代人の芸術』(民衆文化協会)、高倉輝『心の劇場』(内外出版)、川田順『山海経』『技芸天』、尾関岩二『お話のなる樹』、園頼三『怪奇美の誕生』、竹内勝太郎『室内』、関口次郎『からす』。

《園君は表現社以来の親友、関口君は朝日新聞記者をしてゐた頃からの友情、竹内君は南禅寺時代から好きな詩人として、いつも愛してゐた。竹内君の方からも船川君に作品を先ず見てもらふといふ風に相尊敬する間柄なればこそであつた。》

伊藤長蔵が「ぐろりやそさえて[ママ]」を始めたときに伊藤熊三の紀行文『感興處々』、小田秀人の詩集『本能の聲』の装幀を手がけている。小田秀人は京大を退学し軍人になったりしてニーチェを勉強していたという。小田は船川を《無二の畏友》と書いている。

尾関とともにエッチングによるイソップ画集を出版する予定で作業を進めていたが、五十枚のうちの二十三枚が未完のまま、船川は肺患で倒れたのだった。

船川未乾の装幀本を掲げておられるブログは下記。

日用帳
竹内勝太郎『詩集 室内』

モダン周遊
『怪奇美の誕生』 園頼三


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by sumus2013 | 2018-02-26 20:11 | 古書日録 | Comments(2)

戦争

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『雲遊天下』128(ビレッジプレス、二〇一八年三月一五日、表紙イラスト=山川直人、デザイン・誌名&特集ロゴ=小沼宏之)。毎度ながら頑張った誌面作りになっている。大川渉さんの詰将棋小説「詰むや詰まざるや(七)」をまず読む。つづいて中川五郎「ジャック・プレヴェールの「戦争」」が目にとまる。

プレヴェールの『Spectacles 見世物』に収められた「La guerre 戦争」を取り上げ、Vous(ヴー、二人称単数・複数「あなた/あなたがた」、単数の場合は敬称)の和訳について、冒頭の五行を比較しておられる。

小笠原豊樹訳『プレヴェール詩集』岩波文庫。

 きみら木を伐る
 ばかものどもめ
 きみら木を伐る
 若木をすっかり古斧で
 かすめ盗る


嶋岡晨訳『プレヴェール 愛の詩集』飯塚書店、一九七七年

 おまえたちは木を伐り払う
 ばかな奴ら
 おまえたちは木を伐り払う
 すべての若木を古い斧で伐り倒し
 そいつをごっそり持っていく


大岡信訳『アラゴン エリュアール プレヴェール詩集』新潮社、一九六八年。

 きさまたちは木を伐る
 ばかものめ
 きさまたちは木を伐る
 老いぼれた斧で若木をぜんぶ
 きさまたちはさらっていく


《そんな"Vous"を二人称の言葉の選択肢がいっぱいある日本語でどう訳せばいいのか。ぼくは同じひとつの詩を小笠原豊樹さん、嶋岡晨さん、大岡信さんの三者三様の訳で何度も読み比べ、そういう「古い木」たちを日本語で呼ぶには「きさま」という二人称がいちばんぴったりくるのではないかという結論に達した。》

たまたま『Spectacles』(le point du jour nrf, Librairie Gallimard, 1951)はパリで求めていた。初版と同年発行だが、なんと七十二版である。当時のプレヴェール人気が想像できる。

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中川氏の引用していない平田文也訳(『プレヴェール詩集』彌生書房、一九七二年)はこうなっている。

 きさまらは木を伐り払う
 ばかなやつらめ
 きさまらは木を伐り払う
 若い木をみんな 古い斧で
 きさまらはかっぱらう

けっこう平田訳がいちばんいいのかな、と思ったりもするが、好き好きであろうか。なお小笠原豊樹訳はユリイカ版(一九六〇年)を架蔵するので、参照してみると、岩波文庫と同じ訳のようで、七五調にまとめたのが工夫と言えよう。ただ、ちょっとどうかなというところもある(今回の引用部分では「きみら」とか「かすめ盗る」とか)。

この『雲遊天下』には先日ライブを見させてもらったカニコーセン氏も執筆している。氏が発行しているフリーペーパー「さざなみ」を入手したので第九号(二〇一八年一月一日)を公開しておく。なかなかの文章家だ。イラストは加藤亮太郎。

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by sumus2013 | 2018-02-22 20:25 | 古書日録 | Comments(0)

海雲抄

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平澤一『海雲抄』(龜鳴屋、平成二十三年五月三十一日)。書物航游』を取り上げたところ、こういう本もありますよ、とお教えいただいた一冊。渋い藍染めの布装になっており、いつも触っている本とは手触りが違う。この感覚をしばらく忘れていた。

身辺を見回してみても紙の本ばっかり。本棚になにかあるだろうと、探してみたが、意外に見当たらない。それでも、掘りに掘って(というほどではありません)、七冊ほど取り出した。漢詩の関係が多いのも偶然ではないのかもしれない。むろん、まだまだあるはずだが、すぐには出て来ない。

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一九七〇年代頃までは函入布装はまっとうな本なら当たり前の装幀だった。ただし一口に布装と言っても、布の種類によってさまざま(木綿が多いように思います)。必ずしも味わい深いものばかりではないが、それでも、洋書の布装などとはまた別種の趣味性が感じられる。

『海雲抄』の特装本は奥野信太郎の遺した和服一着から十部作られたそうである。それ以外の二百二十部には六種の布が用いられている(奥付にそう書いてあります)。

内容は、旧稿三篇、新稿四篇から成る。書物に関するエッセイ「徳永先生の手紙」(『リリオム』の翻訳者・徳永康元との往復書簡)、長谷川等伯に関する二篇「等伯の画山水に遊ぶ」「日通上人『龍之図書簡』考」、専門分野の「ダウン症児の笑い」、船舶についての二篇「コンテナ船航海記」「船長は語る」、そして雲の書物史とも言える考察「雲三題」。

「徳永先生の手紙」よりブダペストの古書店について。

《先生は昭和十五年から十七年まで、日本とハンガリーの交換留学生として、ブダペストに留学した。留学中よく訪ねた古本屋は二軒あった。その一つは大学のすぐ近くの横町にあるランシュブルグ老人の店であった。店にはハンガリー語の学術雑誌のバックナンバーが揃っていた。今一つはブダペスト中心街にあるラウフェル書店で、大学と学生寮の中間にあるので毎日のように立ち寄った。地下室の大きな書庫にはヨーロッパ諸国の文学・芸術・歴史などの本があった。終いには、ラウフェル家は家族のパーティにも招んでくれるほど親しくなった。》

本の横積みについて。

《「本の横積みのことは私のように狭い部屋に住んでいる人間は、戦後の生活では、はじめから諦めている次第です。」本は天を上にして背の書名が見えるように縦にならべておけば、一目でみつけることができる。横積みにすると、それができない。記憶している表紙の色や、本の厚さで探さねばならず、手間が掛かる。停年退職して、大学の研究室に置いていた本を家に持ち帰らねばならなくなり、その本をいれる書庫を造った。初めは全部の本を縦にならべるつもりであったが、やはりかなり横積みにしなくては収らなくなった。その嘆きを伝えたことに対する返事であった。私はこの便りで先生も横積みと知り、横積みは仕方がないと諦めがついた。》

これらの他に尾崎一雄、大岡龍男、岩本素白、西郷南洲などに関する話題が二人の間で交わされている。

平澤氏は美術もたいへんお好きだったようで、画集や画家(須田国太郎、入江波光)についての言及が『書物航游』にも随所に見られるが、本書では、長谷川等伯についてかなり突っ込んだ鑑賞というか研究を行っておられる。等伯は能登七尾の生まれということから、とりわけ興味をもたれたのでもあろう。医学者という立場から読み解く「日通上人『龍之図書簡』考」は非常に興味深い。

慶長四年(1599)京都の本法寺の本堂が完成した(秀吉に命じられて一条戻橋から小川通寺ノ内上ルに移転)。長谷川等伯はそこに龍の天井画を揮毫したのだが、日通上人の手紙は、その下図を見ました、素晴らしい出来ですな、さっそく足場を作らせますから見に来てください、という内容である。

長谷川等伯に関する資料に曲直瀬玄朔(まなせげんさく、一五四九〜一六三一)の医療記録『医学天正記』と『延寿配剤記』がある。傷寒の項に、等伯(七十余歳)は高いところから墜落して右手が不自由になり、最近、傷寒(インフルエンザ)にかかった、と書かれているそうだ。

医研会通信26号 『医的方』

この玄朔の記す「高きより墜ち」と日通上人の足場を作りましたの記事を関連づけられるかどうかについてこと細かに考察している。平澤氏の結論だけ引用すると、結びあわせることはできない、となる。

「雲三題」も、あまりこれまで注意してこなかった視点に啓発された。ざっと引用されている材料をメモしておこう。このテーマはいくらでも引き延ばせるように思う。

文学の中の雲
・幸田露伴「雲のいろいろ」
・森鷗外「雲中語」における幸田露伴「雲のいろいろ」評
・国木田独歩『武蔵野』
・夏目漱石『三四郎』

絵の中の雲
・仏画の中の雲
 文殊菩薩渡海図(醍醐寺光台院)
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 絵因果経(上品蓮台寺、醍醐寺報恩院)
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 来迎図の雲
  山越阿弥陀図(禅林寺)
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絵巻物の中の雲
  信貴山縁起絵巻(朝護孫子寺)
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水墨画の中の雲
  海北友松「雲龍図」(建仁寺)
日本画の中の雲
  小野竹喬「白雲悠々」他
写真集の中の雲
  飯田陸治郎『雲』山と渓谷社
  山本三郎『カラー雲』山と渓谷社
  湯山生[やどる]『くものてびき』クライム気象図書出版部
  鈴木正一郎『雲 写真集』講談社
  他


雲って、乗り物だったんだなあ……なるほど、觔斗雲もそうだった。

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by sumus2013 | 2018-02-20 20:12 | 古書日録 | Comments(0)

金嬉老とその周辺・莢

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金沢文圃閣より『年ふりた……』22号が届いた。あれ、先日21号が出たばかり、と思ったら、この号は全8ページながら、なんと、緊急「金嬉老特集」ではないか。目録番号2起訴状、から始まっているのも、ちょっとすごい。一見に値する。

金沢文圃閣

キトラ文庫『莢』11号(二〇一八年一月)もいつも以上に充実の内容。

《店を閉め、無店舗の営業形態に移る準備を始めた。倉庫の手配、棚の移動と本の整理……。店の売り上げが家賃に届かない状態が何年も続いていたから当然といえば当然、むしろ決心が遅すぎたというべきか。
 店を始めて二五年、一代限りの古本屋である。》

店舗は、まだ、今すぐに閉めるというわけではないようだ。ただ、時間の問題のようである(何年か前から店の売り上げ不振は直接聞かされていた)。


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by sumus2013 | 2018-02-12 15:08 | 古書日録 | Comments(2)

書物航游

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平澤一『書物航游』(新泉社、一九九〇年四月二〇日)。これは思いの外面白かった。著者「ひらさわはじめ」は一九二五年京都生まれ、五一年京都大学医学部卒業、大学講師、病院部長を経て一九七三年より金沢大学教育学部教授、専攻は障害児病理学。本書は中公文庫に入っている。

いろいろ検索してもこれ以上の情報がない。ただ父親も医師だったようだ。平澤興(一九〇〇〜七二)、新潟県西蒲原郡味方村生まれ。京都帝国大学医学部卒。同学助教授を経て、新潟医科大学助教授、スイス・ドイツへ留学後、新潟医科大学教授。一九四六年京都帝国大学教授。医学部長から総長(一九五七)になっている。

著者は理系ながら哲学書、仏教書、美術書など幅広く書物を買い求め、しかも多くは読破しているもの驚きだ。専門分野に近い「わが国最初の西洋精神医学書ーー『精神病約説』と神戸文哉」なども興味深く参考になるし、書物譚も悪くないながら、最も面白いのは、やはり京都の古書店人について書かれた「古本屋列伝」である。若林春和堂らについては、伝記のように詳しく描かれているが、今は略して、白州堂についてのくだりを引用しておきたい。

《私の多くもない漢籍の殆んどが和刻本であり、その大部分は北川白州堂で求めたものである。白州堂の店は、京都の姉小路寺町東入ル、朝日会館の電車通を挟んで向いの小路の公衆便所の前にあった。一軒の家ではなく、家の前の防火用具を入れて置く物置に、トタン屋根をかぶせた空間を店にあてていた。店主の北川光蔵は、毎日、昼前に来て店をあけたが、昼食前には一本をつけるらしく。よく赤い顔をしていた。一見、人を人とも思わぬような入道面であったが、悪い気はない男で、近くの老舗の主人のように、有名な学者や金持には愛想がよいのに、無名の研究者や金のない学生には剣もほろろと、相手によって態度が変わることはなかった。酔うと、商売の道は薄利多売と言い言いした。一度、私の郷里は三重県、いつまで田舎に居ても芽はでない。そう思って郷里をとび出して京都に来ました。頼る人もなく、初めは、車引き(人力車の車夫)をしていたが、後に古本売買の道に入り、細川開益堂の番頭を長く勤めた、白州堂の白州は尺八を習った時の号であると、身の上を語ったことがある。

《ある時、こんな話をした。向いの公衆便所には、よく財布が捨ててある。近くの盛り場の新京極で、修学旅行の生徒や、お上りさんをねらったスリが、中身を抜きとって捨てたものです。悪い奴等です、彼等の末路によいことはない、と。》

公衆便所というと、現在は寺町通りと姉小路通りの角、山本額縁店の脇にある(ここは、ちょいちょい使わせてもらう)。

白州堂の目録は、半紙二枚のガリ版で、二段組であった。零本でも傷み本でも「漢書評林、一冊欠、惜(おしむと読むらしい)」と目録にのせていた。》《目録にも、本のいたみについて記述がなく、全く気にしていないようであった。しかし、玉石混淆とはこのことか、たまには、良い本の出ることもあった。》

半紙二枚の目録と言えば尚学堂さんの目録を思い出す(小生が知っているのはガリ版ではなかったですが)。ちょっと似ているかもしれない。

白州堂の北川は、パリのセーヌ川のほとりの露店の古本屋のように、一生、露店で通すのかと思っていたのに、最晩年になって、一軒の店を借りた。自慢の息子が国立大学の助教授になったので、世間体を気にしたのか、その理由はよく分らない。

この頃から書物より書画に力を入れるようになったそうだ。

北川白州堂は、昭和五十四年二月十四日に、なくなった。七十五歳であった。


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『精神病約説』と神戸文哉


「古本屋列伝」に登場する古本屋を名前だけ数えておく。

創造社 藤原富長
進文堂書店
八木書店 八木敏夫
北川白州堂 北川光蔵
若林春和堂 若林正治
竹岡書店
九如堂
きくや屋書房(菊屋) 斎藤広守


創造社(丸太町新道)藤原富長の未亡人が語る丸太町通りの古本屋。

《「鴨川の丸太町橋から、熊野神社前までに、二十七・八軒ありました。停留所の短い市電の区間で、川端丸太町・丸太町新町・熊野神社前まで、三つしか停留所はないのですが。小学校の遠足で、平安神宮から御所まで歩く生徒が、「また古本屋や、またや」と話していったことがありました。三高の学生も、京大の学生も、その頃は、河原町丸太町で電車をおり、歩いて熊野を通って学校にかよいました。バスが通るようになり、岡崎天王町まで電車がいくようになって、学生さんが丸太町通りを歩かなくなりました。それにつれて、古本屋がへりました。今は、うちをいれて四軒しかありません。今出川通りの方が古本屋は多くなっています。」》

文中の「その頃」は戦前かと思われる。「今」は一九八〇年代だろう。丸太町通りの古本屋ということで、別の本からだが、河盛好蔵の回想も引用しておく。

《私と本の最初の本格的な出会いは大正の末期、京都大学に学んでいたころです。当時の丸太町通りにはいまよりも古本屋が多くて、軒並みに並んでいました。娯楽の少ないころですから、散歩に出て本屋をひやかすのが大きな楽しみのひとつでした。私は丸太町通りの古本屋の棚には、どこの店にどんな本があるかすっかり覚え込んでしまったほどでした。》(「気に入った本を楽しむために」より。地産出版編『私の書斎』地産出版、一九七八年、所収)

『京古本や往来』の創刊号 丸太町通りの古本屋

もうひとつ、若林春和堂伝のなかにスチール本棚が登場している。昭和五十年に、店の隣に建ったビル(甥の医院)の一室を書庫として使うことになった。著者宛葉書にこう書かれていた。

《「建物は三月末にできました。棚もスチール二十五本、丸善より仕入れたのですが、八畳か十畳の大きさですので、とても入りきらないと思います。取り敢えず、幕末の活字本・洋学書・書籍目録位は、納めたいと思います。月末位にはめどがつくと思います」(昭和五十年四月四日)》

丸善も本棚を売っていた、当たり前か。他に石炭箱に本(書籍目録)をいっぱいに詰めて送ったという記述もある(戦前、たぶん昭和十年代)。林檎箱を本箱に転用した話はよく聞くが、リンゴ箱だけでなく石炭箱も使えたし、素麺の箱なども木製だった(小生の子供時代までそうだった)。


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by sumus2013 | 2018-02-08 21:02 | 古書日録 | Comments(0)