林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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カテゴリ:古書日録( 817 )

わが町・新宿

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田辺茂一『わが町・新宿』(旺文社文庫、一九八一年一一月二五日、カバー画=辰巳四郎)、産経新聞連載(一九七五〜七六年)の後、サンケイ出版から七六年に刊行された本の文庫化。紀伊國屋書店から二〇一四年に単行本として復刊されている。

本書の扉の裏にはこんなゴム印(?)があった。きっとたくさん謹呈したのだろう。

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この文庫は喫茶店資料(新宿・中村屋が登場)として求めたが、田辺が筆達者なのに驚かされた。テンポよく読ませる文章だ。本書に収められている「紀伊国[ママ]屋書店開店」から一部を引用してみる。

《昭和二年一月二十二日、新宿市電終点に、紀伊国屋書店は開業した。私の数え歳二十二歳の春であった。
 書店の夢は、私の七歳のときからであった。やっと素志を実現したのである。
 父の家業であった薪炭問屋も、盛業中であったので、惣領の私が転業することには、勿論、反対もあった。が、独[ひと]りっ子同様、我儘[わがまま]に育った私には、そんなことは問題ではなかった。》

大正十五年の春、慶應義塾の専門部を終え、尾張町(銀座一丁目)の近藤書店へ勤めた。半日だけ! 朝から出かけて昼飯どきになって「色々有難うございましたが、だいたいわかりましたので……」とあいさつして帰ったのだそうだ。それまでに新宿の本屋で手伝いをしており大体のことは知っていたらしい。それにしても……半日とは。

父親の薪炭問屋は間口九間だった。そのうち塀だった三間分の空き地同様の土地十八坪(奥行き六間)に木造二階造りを建てた。六千円だった。

《本の陳列場は、階下の十五坪だけで、階段下のクボミに事務所一つを置き、これが仕入部、その裏の二畳の部屋が、着替所兼食堂、それに一坪半の主人の部屋兼応接室があった。
 階段を昇[あ]がると、画廊であった。
 この画廊開設については、後述するが、私自身絵心なんて皆目ないほうだが、どうしてこういう思いつきになったのか、今もってわからない。》

問題がひとつあった。店で雑誌が売れないことが分かった。というのは、当時、距離制限というものがあって既存店から三百歩以内の近距離で新規開業した店では雑誌が扱えないという雑誌組合の規則があった。新宿終点の周辺ではすでに池田屋、文華堂、敬昌堂が営業していた。

店員は女学校出の女店員二名、近藤書店の年寄りの古番頭を帳場に、田辺を入れて五人だった。

《開店をすると、雑誌の棚がないから、その代わりに、白揚社、共生閣、叢文閣のプロレタリア思潮風のパンフレットを堆高[うずたか]く積んだ。
 私自身は三田の出身だったが、開店当時の仲間には、東大出身が多かった。
 美学の山際靖、ドイツ文学の伊藤緑良、北條憲政などが集った。》

《客には、竹久夢二、前田河広一郎、生物学の小泉丹、金田一京助など多彩であった。》

画廊は二階の十五坪。天井に曇りガラスをはめた。展示の壁には細い材木の板を何段かに並べ、モスリンの巾[きれ]で蔽った。布上から釘をさしたりした。会場の中央には大きな四角いテーブル、八つばかりの椅子を置いた。卓上には画集を何冊か(しかし画集の一部がはがされて持ち去られた)。

「第一回洋画大家展」は近所の美校出の知人のつてで大家に出品を依頼して回った。牧野虎雄、満谷国四郎、三上知治、南薫造、田辺至、高間惣七、安井曾太郎ら。二回目は持ち込みの「洋画四人展」で木下孝則、木下義謙(二人は兄弟)、林倭衛、野口弥太郎。

二科、一九三〇年協会の人々と親しくなった。里見勝蔵、前田寛治、児島善太郎、野間仁根、中川紀元、東郷青児、阿部金剛らである。パリ帰りの佐伯祐三の初めての個展も開催した。昭和三年春には『アルト』という美術随筆雑誌を発行した(同人は木村荘八、中川紀元、林倭衛、今和次郎、田辺)。赤字ながら二年つづけた。プロレタリア展なども開催した。

などなど引用していてはキリがないが、最後にひとつ、「東郷青児美術館」というエッセイは、新宿副都心に安田火災海上新本社ビル(一九七六年六月一八日竣工)四十二階に落成した東郷青児美術館についてと、東郷の叙勲祝賀会について書かれている。出席者には数々の政治家が並んでいた。田辺は東郷青児の政治家ぶりにあきれながら《東郷青児は独力で、芸術を、政治の上に置いてくれたのだ、と思った》と結んでいる。この辺り気配りの人ならではであろうか。

なお東郷青児美術館(東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館)は二〇二〇年に新美術館に生まれ変わるそうだ。損害保険ジャパン日本興亜の本社敷地内(東京都新宿区)に延べ床面積約4000平方メートル(東京・南青山の根津美術館とほぼ同じ規模)でオープンするとか。

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by sumus2013 | 2018-05-25 21:22 | 古書日録 | Comments(0)

現代アメリカ戯曲選集1

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『現代アメリカ戯曲選集1 EIGHT PLAYS FROM OFF-OFF BROADWAY』(竹内書店、一九六九年一二月一五日、デザイン=杉浦康平)。

ジャケ買いしてしまった一冊。黒い時代の杉浦康平が好きだ。

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見返し、グレーの上質紙にベタ写真を配して、アンディ・ウォーホルみたい。以下、扉は灰っぽいベージュ、折り込み口絵は黄色の用紙、そこにベタでハイキーな写真をレイアウトしている。劇作家のポートレートおよびオフ・オフの舞台写真。

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本文紙は手触りのあるラフな風合い。だからか、全体に活字がうまく乗っていない。それもまた新鮮だったのだろうか。目次もケイを使った凝った組み方。本文も戯曲のページは、天の余白を詰めて、下部にメモでもできるくらいマージンをとっている。

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劇作家八人の八作が収録されているが、恥ずかしながら、八人なかで名前を知っているのはサム・シェパードだけだ。「シカゴ」、短い作品なのでちょっと読んでみた。ま、不条理劇ですな(つたない筆ではとうてい説明できません)。他にはポール・フォスター「二つのボール」、こちらも不条理は不条理ながら全体の構図は明瞭で、死者と生者のすれ違いコミック。

オフ・オフ・ブロードウェイというものがどんなものか、マイケル・スミスの概説と鳴海四郎の解説が付されているので、おおよそのところは理解できる。具体的には、鳴海氏の体験談がいちばん分かりやすいので少し引用しておこう。

《番地をたよりにイースト・ヴィレジのとある建物の前に立つ。看板もポスターも表札も何もない。隣り近所の住宅とちっとも変わりがない。ひっそりしている。通行人をつかまえて尋ねると、なんだか知らないがこの中で芝居をやっているようだという返事だ。思い切ってドアを開くと、やっぱりそこだった。紹介してくれた人の名前を言って、ホールのカーテンをくぐると、人なつっこい感じの黒人女性が笑顔で迎えて、折りたたみ椅子の席に案内してくれた。》

《やがて、五、六十個の椅子がほぼ埋まったころ、さっきの黒人女性が来客の前に立って、手に持った小さなベルをチリリンと鳴らしてから、「こんばんは。〈ラ・ママ実験演劇クラブ〉にようこそおいでくださいました。今夜の出し物は……」とあいさつする。〈ラ・ママ〉の主宰者のエレン・スチュアートである。「……ついては、これから会費を集めますから、いつものように二ドルずつお出しください」。》

《集金が終ると、照明が入り、きゃたつ二個に椅子が四個だけの裸舞台で劇が始まった。〈ラ・ママ〉のグループは厳密な会員制度になっていて、会員以外は会員の紹介がなければ入場できない。しばらく前までは、毎週末一本ずつの戯曲を上演していたが、稽古や経費などの都合で、最近は二週間に一本のペースである。新聞に広告も出ないから、事務所の電話番号などもわからず、ほぼ口づてで会員が集ってくる。》

なかなか徹底している。これは一九六九年の一月から三月にかけての見聞だというが、その当時が全盛で五十六のグループが名を連ねていたそうだ。ほとんどが週末上演、二ドル程度の寄付金形式でまかなわれていた。

オフ・オフはもともと既成の演劇、体制社会に対する反抗が若い演劇人の発言の意欲をあおり、在来の演劇形式の打破と社会批判とに向かった、そういう由来をもつのだとか。

《ニューヨークの下町には、取りこわし寸前の古いガレージや、古い倉庫がふんだんにある。そのほか、商店の上階の物置や、教会や、図書館など、大広間はどこにでもある。大体はグリニッチ・ヴィレジの周辺、とくにその東側の二番街あたり、そして一四丁目の南側の一帯が、オフ・オフ演劇の根拠地になっている。いつでも演劇青年男女やヒッピー族がその界隈のコーヒー・ハウスやピッツァ店の中とか、その外の街路とかにたむろして芸術談義に花を咲かせている。
 その一画は、劇作家のサム・シェパードに言わせれば「アナキズムのにおいのするカーニバル的雰囲気の社会」であり、「そこは今にアメリカから分離して独立国になるのではないかと思われる」地域なのだ。》

ラ・ママ、シアター・ジェネシス、オープン・シアターなどの老舗グループはロックフェラー財団やフォード財団の補助を受けているが、ほとんどのグループはきわめて貧しく、大半はパトロンなしの自前公演だそうだ。

《それでも彼らは続続と新しいグループを組織して、オフ・オフに名乗りをあげていくのだ。ものすごい活気、ものすごいエネルギーである。》

そういった気分が杉浦康平のデザインにもこめられているのだろう。

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by sumus2013 | 2018-05-24 20:46 | 古書日録 | Comments(0)

レッテル新収

古書店レッテルを定期的に送ってくださる読者の方がおられる。有り難い限りです。むろん小生自身もレッテルには注意しているものの、近頃は滅多に出会わなくなってきた。素敵なデザインのものを見つけると本よりもずっと貴重に思えるのである。

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今回はこの「Seibundo/KAGURAZAKA」がナイス! 大正末の詩集に貼られていたとか。検索してみると、神楽坂では有名な新刊書店であった。拙ブログでも以前引用した文章に登場していた。

てくてく牛込神楽坂
《菓子屋ではまだこの外に二、三有名なのがある、坂上にある銀座木村屋の支店、塩瀬の支店、それからやや二流的の感じだが寺町の船橋屋などがそれである。だが私には甘い物はあまり用がない。ただ家内が、子供用又は来客用としてその時々の気持次第で以上の諸店で用を足しているまでだが、相馬屋と、もう一軒坂下の山田という紙屋では、私は時々原稿紙の厄介になっている。それから私に一番関係の深い本屋では、盛文堂機山閣、寺町の南北社などが大きい方で、なおその外二、三軒あるが、兎に角あの狭い区域内で、新刊書を売る本屋が六、七軒もあって、それ/″\負けず劣らずの繁昌振りを見せているということは、流石さすがに早稲田大学を背景にして、学生や知識階級の人々が多く出る証拠だろう。古本屋は少く、今では岩戸町の電車通りにある竹中一軒位のものだ。以前古本専門で、原書類が多いので神田の堅木屋などと並び称せられていた武田芳進堂は、その後次第に様子が変って今ではすっかり新本屋になってしまった。
 その代り夜の露店に古本屋が大変多くなった。これは近頃の神楽坂の夜店の特色の一つとして繁昌記の中に加えてもよかろう。尤もっともどれもこれも有りふれた棚ざらし物か蔵払い物ばかりで、いい掘り出し物なんかは滅多にないが、でも場所柄よく売れると見えて、私の知っている早稲田の或古本屋の番頭だった男が、夜店を専門にして毎晩ここへ出ていたが、それで大に儲けて、今は戸塚の早大裏に立派な一軒の店を構え、その道の成功者として知られるに至った。
 ついでに夜店全体の感じについて一言するならば、総じて近頃は、その場限りの香具師やし的のものが段々減って、真面目な実用向きの定店が多くなったことは、外ほかでは知らず、神楽坂などでは特に目につく現象である。》(加能作次郎「早稲田神楽坂」、初出『東京日日新聞』一九二七年連載)

一時左傾の出版社として名をあらはした南宋書院は肴町通り、故有島武郎の親友足助氏の叢文閣、古本屋の竹中、いま盛業をしてゐる盛文堂、武田芳進堂、機山閣、そことは遠くなるが新潮社、盛り場をひかへて知識階級がこの近くにゐることを語る。(「神楽坂」酒井真人『東京盛り場風景』誠文堂十銭文庫、一九三〇年)

機山閣書店(東京牛込肴町十二)のレッテル


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《吉祥寺の「さかえ書房」、金子光晴で有名ですね。閉めてもう、十年近く。》看板はもちろん書皮にも金子光晴の絵があしらわれていたようだ。

☆金子光晴の愛した古書店「さかえ書房」吉祥寺

レッテル新収品(さかえ書房、他)



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《資文堂には全く心当りがありませんので、昭和40年代には、なくなっていたのではと想像します。》


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《「豊田書房」は神保町、店に入ったことはありますが、何か購入したということはないと思います。》


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《「森田書店」は、10年?くらい前まで立寄っていました。今はずっとシャッターがおりています。西荻というと、音羽館と盛林堂が勢いがスゴイですね。特に盛林堂は毎土曜日の開店時に店頭100円棚の入れかえをやっていて、どうかすると10人くらいの古本者が集結することがあります。

盛林堂さん、均一も凄いんだ……。



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by sumus2013 | 2018-05-10 20:29 | 古書日録 | Comments(0)

杖のはしめ

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こちらも均一台にて。双白銅文庫入りの一冊。ざっと見ると、俳句、短歌(歌仙のようなもの)、紀行文から成っているということは分かった。題簽が剥がれているし、前付けも奥付もない。版芯には「ツエノ」とだけしてある。

文中の固有名詞でいろいろ検索していると、早稲田大学が所蔵していることが判明。『杖のはじめ』というタイトルらしい。その説明は以下の通り。中となっているので、他に上巻と下巻があるのだろう。

[杖のはしめ]. 中 / [信杖坊] [編][京都] : [橘屋治兵衛], [宝暦2(1752)]
著者:伏見 許虹, 1699-1774

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ごくおおざっぱに言えば、西国(九州)を訪ねて、その土地土地の人たちと俳句を作った記録。作者とされる伏見許虹の兄(本書中に親兄[実兄]とある)黄鸝園里紅が二十年余り前に同地を行脚したのだが、亡くなってしまい、当時、親切にしてくれた人々を許虹が訪ねて歩くということのようである(詳しく読解したわけではないので、間違っていたら訂正してください)。里紅とは次のような人物。

仙石廬元坊 せんごく-ろげんぼう
1688/91-1747 江戸時代中期の俳人。
元禄(げんろく)元/4年生まれ。各務支考(かがみ-しこう)の門人。美濃(みの)派の基礎をきずく。北陸地方を旅して「桃の首途(かどで)」を,西国を旅して「藤の首途」をあらわす。享保(きょうほう)17年支考の追善集「文星観」を編集,刊行した。延享4年5月10日死去。57/60歳。美濃(岐阜県)出身。別号に里紅,黄鸝園,茶話窟,獅子庵。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

説明文中『藤の首途[ふじのかどで]』というのが里紅による西国紀行集で、本書と共通する俳人たちの名前が見える。

藤の首途. 天,地,人 / 里紅 [編]
仙石 廬元坊, 1692-1747
心斎橋通北久宝寺町(大坂) : 前川文栄堂, [出版年不明]

なかでも竹慶堂の加十子には世話になったようで『藤の首途』にはこう書かれている。

十月はしめ此長崎に頭陀をとゝめ仲冬中頃は肥後のかたへ趣へきを冬の渡海のいかゝなれはと此地の人〜にとゝめられ竹慶堂の酒家に冬籠して行脚漂泊の身を観す
 あるき神も市の杉葉に年暮ぬ》(大礒義雄芭蕉と蕉門俳人』)

大礒氏によれば『藤の首途』は享保十六年(1731)刊。『杖のはじめ』(宝暦二年 1752)から省みれば二十年余前、計算は合っている。案外と珍しい本だった。巻尾の一句。

 明てたつ京は涼ミの名残かな

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by sumus2013 | 2018-05-06 20:55 | 古書日録 | Comments(0)

JONES READERS

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L. H. JONES『THE JONES READERS BY GRADES BOOK THREE』(GINN AND COMPANY, 1904)。みやこめっせの帰りに某書店均一にて。英語のリーダー。

記名がある。

 京都第二商業学校
  豫科二年甲組
     井川仁三郎

 Kyoto Second Commercial School
     Nisaburo, Ikawa

京都第二商業学校は一九一〇年から四八年まで存在したとのこと。京都二商、京二商などと略称された。京都一商(現・京都市立西京高等学校)の生徒増加を受けて西陣(大宮五辻)に開校、後(大正九年頃)、西ノ京へ移転(現在、京都市立北野中学校のある場所、西大路通の北野白梅町と円町のちょうど中間あたり西側)。

挿絵がたくさん入っており、木口木版もかなり多い。これがなかなか精妙な出来である。

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日本人の邸宅を訪問するというシチュエーションもある(ここの挿絵はペン画)。日本の家は、木と紙でできており、タタミ(white straw mat)が敷いてある。靴を脱いで上がる。椅子がない。昼間は二部屋しかないが、夜になると唐紙(sliding paper)で仕切って四部屋になる。日本女性は髪を弓(bow)のように結い上げ、首(におしろい)を塗り(paint their necks)、お歯黒をつける。袖のゆったりした着物(loose gowns)をまとっている。女の子も母親(成人女性)と同じかっこうをしている。日本人の少女の名前は「Haru」、西洋人の少女は「Nanny」、ハルは金髪の巻き毛や青い目の少女を初めて見た。


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明治末から大正だから、木口木版の挿絵は、もう時代遅れになっていたのではないかと思うのだが、この迫力には捨て難いものがある。

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by sumus2013 | 2018-05-05 20:00 | 古書日録 | Comments(0)

春の古書大即売会2018

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京都勧業館みやこめっせへ。午前十時ちょうどに到着。長蛇の列。ただし、並んでいた人によれば、昨年よりは少し短めの長さだったとか。みなさんが無事入場するまで、ロビー脇で待機。最後尾からゆるゆる入場。あちらこちらひいきの店をのぞきつつ、顔見知りの誰彼と立ち話。

ちょっといいな、と思うもの多し。されど決め切れず、ぐずぐず手ぶらで会場を周回。紙物の箱をあさっていると、新宿・武蔵野館のパンフが数点あった。なかで気に入ったデザインの一点を購入して、本日は終了。『MUSASHINO WEEKLY』(武蔵野館、一九二八年十二月三一日)。二つ折二枚八頁ながらモダン・テイストに参った。

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来週はいよいよ村山知義作「勇ましき主婦」(新劇協会出演)が上演されるという宣伝。
勇ましき主婦役は花柳はるみ(日本映画女優第一号)。

I氏、H氏とみやこめっせを出てある蕎麦屋にて昼食、あれこれ雑談。その後、I氏と平安神宮東側の岡崎通りに面したブックス・ヘリングへ。島岡海豹写真展が二階で開催中。女性のスナップばかりを集めたいい展示である。


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by sumus2013 | 2018-05-01 20:48 | 古書日録 | Comments(0)

『戀愛譚』出版記念展

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アトリエ箱庭さんで開催された「『戀愛譚 東郷青児文筆選集』出版記念展」(本日まで)を見る。編者の野崎さんと箱庭の幸田さんの東郷青児コレクション。書籍を中心に包装紙、紙袋、絵皿、マッチ箱などざまざまなグッズが展示されており、東郷の活躍した時代が甦るようであった。

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装幀作品のなかでも珍品は、スウヴェストル・アラン『幻賊』(田中早苗訳、白水社、一九三一年)だそうだ。『幻賊』とは要するに「ファントマ」のこと。

野崎さんにいろいろなお話をうかがっていると、久し振りに会う顔がつぎつぎと来場、書物談にしばし花を咲かせた。窓から見る緑がまぶしく、さわやかな陽気、そして何十年かの時間の濾過作用を経た東郷作品からも、独特の気品と稚気が漂ってくるようで、気持のいい半日を過ごせた。



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by sumus2013 | 2018-04-30 20:11 | 古書日録 | Comments(2)

上海ラヂオ

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ART OFFICE OZASAさんの吉増剛造展を見て(銅板文字と写真作品、5日に御本人のパフォーマンスあり。展示の様子はマン・レイ石原さんのブログにて→http://d.hatena.ne.jp/manrayist/20180428)、その後、北の方で急用があったのでそちらへ向う。その用事を済ました帰途、出町枡形商店街の上海ラヂオをちらりとのぞいた。店の内外に活気があふれ、お客さんもひっきりなし。ゆっくり滞在したら山ほど買いそうだった。本日は一冊だけ。

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フランソワ・カラデック『レーモン・ルーセルの生涯』(北山研二訳、リブロポート、一九八九年六月二六日)。

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by sumus2013 | 2018-04-28 21:46 | 古書日録 | Comments(0)

錯乱の論理 初版

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いずれ入手したい、と書いた花田清輝『錯乱の論理』初版(眞善美社、一九二七年九月二五日、装幀=高橋錦吉)、意外と早く手に入った。傷みが見だつため安かった。とりあえず、これで十分だ。再版の奥付には

昭和22年11月10日發行
昭和23年2月15日再版

と記されているが(横書き)、初版の奥付には《昭和二十二年九月二十五日発行》(縦書き)と印刷されている。装幀、扉、目次および奥付は初版とは明らかに異なる。本文は同じ(同じ紙型かもしれない)。ただし再版の方が鮮明に印字されている。初版はかなりかすれて読みにくい。

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カバーの絵についても、扉の挿絵についても何も記載がない。カバーはデ・キリコだとして、扉は高橋の筆になるのだろうか?

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自「跋」にこう書かれている。

《前半の「自明の理」は戦争中に書いたものです。戦争中に戦後の錯亂について考へることは、少々、さきくぐりの觀がないではありませんが、いつの日か、戦争といふものは必ず終るものであると思つてゐたので、構はず書きつづけました。》

《「復興期の精神」の讀者は、そこではレトリックを大いにふりまはしてゐる私が、ここではレトリックを排撃し、ばかにロジックに執著してゐるのをみて、不思議に思はれるかもしれません。》

「自明の理」を戦争中に書いたとすれば、「自明の理」とは、花田にとって、イコール「敗北」という意味だったに違いない。本書に収められた諸作は、論理もレトリックも『復興期の精神』よりも荒削りでヴァラエティがある。評論よりも創作を(評論とか創作という垣根を取り払うことを)目指していた気配が濃厚だ。エルンストのコラージュにいたく執心で何度も言及されているが、文章において、そういう作品を目指していたようである。小林秀雄が意識されていることも端々から伝わるように思う。

表紙になったデ・キリコも登場する。

《薄曇つた冬の午後、ーーさうだ。あの日もやつぱり曇つてゐた。僕が氣をくさらせてゐたせいか、それとも街自身のもつ中世紀的雰圍氣のためであらうか。或ひはまた僕に強い印象をのこした事件當時の季節の結果にすぎないのか、僕の追憶にうかんでくるあの土地の風景の大部分は、いつも重くるしく雲の垂れた空の下で、すべてが澱んだもののやうに、ぢつと静止してゐる。それはまるで突然あらゆる存在が化石してしまつたやうな状態を描く、キリコの形而上學的な作品をみるやうだ。いふまでもなく、その明るい色彩はうかがふべくもないが。さういへば、その頃の僕は、エルンストほどではなかつたにせよ、このギリシア生れの畫家を大へん好きだつた。かれの作品に、なんの變てつもないソフア戸棚の背後に、壁に立てかけられ、巍然として聳えたつてゐる岩山の繪がある。あれはかれの傑作のひとつであらうが、ーー僕は今、薄曇つた冬の午後、僕がメエ・オンを山に誘ひ出した話をしやうとして、ふとキリコのその繪をあざやかに思ひうかべた。》(悲劇について)

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エルンストのコラージュについて書かれた「赤づきん」のあるページに挟まれていたマッチの軸。さまざまなものを本は飲込んでいるにしても、マッチ一本は初めて出会った(ような気がする)。

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by sumus2013 | 2018-04-27 20:59 | 古書日録 | Comments(0)

荒海や

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北陸自動車道のSAやPAには芭蕉の句碑が建っている。上の写真は米山サービスエリア(新潟県柏崎市)の下り線。あまりに有名なこの句が、日本海を背景に設置されていると、やはり写真を撮りたくなる。

 荒海や佐渡に横たふ天の川

元禄二年(1689)六月から七月にかけて芭蕉は

《象潟から酒田に帰つて、又こゝに数日の泊を重ね、二十五日に越後路をさして出発した。羽前と越後との境である鼠の関を二十七日に越え、七月二日に新潟着、三日は弥彦泊、四日は寺泊を経て出雲崎泊。五日は鉢崎泊、六日・七日は今町(直江津)泊、八日・九日・十日は高田泊、十一日は能生[のふ]泊、十二日は市振[いちぶり]泊と宿を重ねた。》(「芭蕉講話」『潁原退蔵全集』第九巻、中央公論社、一九七九年

新潟は素通りしていたのか。それにしても昔の人はよく歩く。

《この間に出雲崎で、
  荒海や佐渡に横たふ天の川
の吟があった。紀行には句だけしか記していないが、別に次のやうな詞書のついたものもある。

 越後の国出雲崎といふ処より沖の方十八里に佐渡が島見ゆ。東西三十余里に横折りふしたり。昔よりこの島は黄金多く湧き出でて世にめでたき島に侍るを、重罪朝敵の人々を遠流[おんる]の地にて、いと恐しき名に立てり。折節初秋七日の夜、宵月入果てて波の音とう〓[繰返し記号]と物凄かりければ、

 句は眼前に日本海の荒波を望み、空には銀河が遠く佐渡が島まで横たはつて居る雄大な景色をのべたのであるが、右の詞書によつても分る通り、この荒海の果に幾多の哀史を秘めた佐渡が島に対して、悲愁の情を籠めて居る事を見のがしてはならない。》(同前)

詞書の文中に七日とあるのは(実際は四日)天の川にひっかけたかという(潁原説)。悲愁の情かどうか……。当然ながら佐渡は見えない、見えないのを見えるかのように詠んだところがポイントだろう。

とりあえずこの日は曇天にて佐渡島は見えず。句碑の説明文にこうあった。

《当時、芭蕉は、北陸路において、新潟、富山、石川、福井と日本海沿岸を行脚し、岐阜、大垣を「奥の細道」の結びの地とした訳ですが、この行程は、北陸自動車道とほぼ同じ道をたどっているところから、これを記念し、芭蕉、北陸路ゆかりの地の近くの当米山サービスエリアに碑を建立いたしました。
(句碑の建立には、柏崎市の御協力を得又碑の書体は書道家、白倉南寉先生による)
   東日本高速道路株式会社》

句碑めぐりなど考えも及ばなかったのだが、休むところどころに芭蕉の句碑があったので写真だけは撮っておいた(芭蕉以外は略す)。

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ふるき名の角鹿[つぬが]や恋し秋の月
(杉津PA下り線)



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むざんやな兜の下のきりぎりす
(尼御前SA下り線)



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早稲の香やわけ入る右は有磯海
(有磯海SA上り線)



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庭掃いて出ばや寺に散る柳
(賤ヶ岳SA上り線)


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by sumus2013 | 2018-04-23 21:16 | 古書日録 | Comments(0)