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カテゴリ:古書日録( 1063 )

川柳や狂句に見えた外来語

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宮武外骨『川柳や狂句に見えた外来語』(半狂堂、大正十三年九月一日)。こちらも街の草にて。まず蔵書印に注目。扉に二顆。上は「乾坤到處皆吾室」。その下の絵だけのハンコはさてどう読むのか? 花と茸・・・

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「緒言」のところにも縦長の印がある。こちらは「求軟文庫」。検索すると、宮南裕著『漫話樹草譜』(宮南果、一九八〇年)が「求軟文庫」を名乗っている。同一人なのかどうか分からないが「求軟文庫」というのは偶然に重複するネーミングではないだろう。同一人と見るのが妥当かもしれない。キュウナン(求軟=宮南)ですな。

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「例言」がとぼけている。外来語といっても横文字の国にかぎり、しかもエゲレス、ドイチ、フランスなどは省く。カッパ、ジバン、サラサ、ラッパなどは日本語化していて思い白くないから止める。

《○狂句集の本は凡そ三百冊ほど持つて居るが、一々検閲のヒマがなく、又其得る所は費す所を償はない不経済の事であるから、十中の一二を披見したに過ぎない、助手とても編者と同じく、それ〜〜やるべき要件があつて働いて居るのである

○出来上がつて見れば、ツマラナイものゝやうだが、文化頃の『夢之代』に「西洋人は小麦を以て常食とす、いはゆる麦団子[パン]なり」といふ奇文句があるので、パンといふ語の入つた句を探して徒労に帰したなど、読者には知れない苦心と労力はしたものである》

などと妙な弁解に努めている。小泉迂外「古俳書に現はれたる外来語ー未定稿ー」も収録されている。『風俗志林』第二巻第一号(明治四十五年二月)に発表されたものの再録である。そのなかに次のようなくだりがあった。

《○『東潮独吟披露集』(元禄七年版)にある、
   ボウブラや夜分の糸の置心
のボーブラは南瓜の事で、葡語の Abobura が転化したものである。》(p80)

現代ポルトガル語では Abóboraこのくだりを読んで、小生の父がカボチャのことを「ボウフラ」と呼んでいたのを思い出す。それがポルトガル語の「ボウブラ」からきていたことを初めて知った。元禄以前の言葉が昭和時代まで生きていたわけだ。むろん上述のように「パン」をはじめてとして、そんな言葉はかなりあるわけだが、「ボウフラ」がそうだったとは思いも寄らなかった。ソシュールは喋り言葉(ラング)は書き言葉(エクリチュール)よりも流動的だと言っているが、まあこのくらいの変化で生き残ればラングもかなりしぶといと考えていいのではないだろうか。



by sumus2013 | 2020-06-03 19:58 | 古書日録 | Comments(0)

諫早菖蒲日記

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野呂邦暢『諫早菖蒲日記』(文春文庫、1985年8月25日)を読み終わる。いい小説を読んだなあという幸せな感じの残る名篇である。描写だけで言えば、エンタテイメント時代小説とギリギリなのだが、その陥穽へズッポリと堕ちてしまわずにふわりと跳び越える(むろんエンタメだから悪いというものでもないが)。それでいて、読者をひきつける小さな事件が継起して飽きさせない。ある意味面白すぎる(サービスが良すぎる店みたいなものです)。

ここでは内容には立ち入らず「あとがき」を少しばかり引用しておこう。

《私がいま住んでいる家は、本書の主人公藤原作平太の娘志津がくらしていた家である。》

《この家の家主さんA夫人と私は同じ棟に住んでいる。ふとしたことで土蔵に御先祖の古文書がしまわれていることを知り、秘蔵の砲術書や免許皆伝の巻物などを見せていただいた。オランダ語から翻訳された砲術教程もあった。数十冊の古文書のうちには専門家の鑑定によれば、わが国に二、三冊しかない貴重な史料もまざっているとのことである。百二十年前、諫早藩鉄砲組方の侍たちが砲術を学び、その術を口外しないこと、また奉公に懈怠なきことを誓って署名血判した誓紙もあった。血の痕は色褪せ、薄い茶色になっていた。藩士たちの名前は諫早で親しい姓名である。私の親戚知人の先祖と思われる姓も見られた。三年前のことであった。奉書紙にしるされた薄い血の痕に鮮やかさを甦らせることが私の念願であったのだが、それが本書によってかなえられたかどうか。》(p258-259)

このあとがきには《昭和五十二年、春》としてある。昭和五十一年『文學界』に発表の後、翌年四月に文藝春秋から単行本とした刊行された。初版帯付きならそこそこするが、そう高いというわけではなさそうだ(すくなくとも二度は増し刷りしている)。歿後三十年の二〇一〇年に梓書院から新装版が出ている。

この文庫は梁山泊の階段棚から五十円で求めたもの。読みたかったので見つけたときには嬉しかった。カバーは自分でデザインして付けてみようかと。

by sumus2013 | 2020-06-01 17:24 | 古書日録 | Comments(0)

街の草へ

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再開した武庫川の街の草さんへ。開店直後に到着。まだ店内の本を外へ出していなかったため店の中は本が積み上がって断崖絶壁を作っているような状態だった。コロ休中はネット販売に忙しく、買取もあったそうで、いつにも増して大量の本であふれていた。そんな隙間をぬって、雪崩を引き起こさぬように、そろりそろりと掘り起こし作業を。その収穫についてはまた後日。エッセイ集の話も少し。前向きに。

その後、甲子園のみどり文庫さんへ足を伸ばす。こちらもネット販売が伸びたそうである。これまでネットで買っていなかった新規の購買層が増えたらしい。コロナ・エフェクトだ。阪神電車および阪急電車、いつもの土曜日よりは少な目のような気はしたが、それなりに乗客は乗っていた。

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by sumus2013 | 2020-05-30 19:14 | 古書日録 | Comments(0)

DICTIONNAIRE ABREGE DU SURREALISME

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『DICTIONNAIRE ABRÉGÉ DU SURRÉALISME』(José Corti, 1969)、『シュルレアリスム簡約辞典』(江原順訳、現代思潮社、一九七一年)の元本である。版元はジョゼ・コルティ。これまでも何度か言及しているし、回想録もパリで買ってざっとでも読んだから、なんとなく親しい感じをもっている。

ジョゼ・コルティ回想録『取散らかった思い出 Souvenirs désordonnés』

ジョゼ・コルティの回想におけるクルヴェルの死の前後

ル・ヌーヴォ・コメルスとはジョゼ・コルティの刊行物

実はこの本もパリで何度も見かけた。欲しかったのだが、微妙に高いのだ。買えないわけではないにしても、もうすこし安い値でなんとかならないか・・・などと逡巡しているうちに買わずに帰ってしまった。

それが、ひょんなことで知った京都の某書店目録に出ていた(一度ももらったことのない目録を知人からもらった)。けっこう安いな、ふんふんふん、などと流し見していたら、シュルレアリスム関係の本が何冊が出ているのに気づいた。『シュルレアリスム簡約辞典』もあるじゃないか、この値段なら即注文だ! というわけで目出度く入手できたのであった。表紙は多少焼けているものの、本文はきれいなまま。表3に鉛筆で「¥3,460-」と記されている。輸入されたときの価格だろう。同じく鉛筆で日付あり。こちらは旧蔵者による購入日か。

 le 1 octobre 1972

邦訳が出た次の年か・・・

by sumus2013 | 2020-05-29 20:13 | 古書日録 | Comments(0)

MARCUS BEHMER

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『DEUTSCHE KUNST UND DEKORATION』SEPTEMBER 1912, VERLAG-ANSTALT ALEXANDER KOCH.

均一棚で見つけたダルムシュタットで発行されていた美術雑誌。タイトル通り、ファインアートとともに建築や工芸の記事も盛り込んでいる。第一次世界大戦直前のドイツ美術界の様子を垣間見ることができるようだ。

この号ではドイツのデザイナーでありイラストレーターだったマルクス・ベイマー(MARCUS BEHMER 1879-1958)のページが素晴らしい。

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ドイツ語はよく読めないので英語のウィキによれば、ベイマーはワイマールに生まれた。父も画家で親戚にも詩人やアーティストが多かったらしい。一九〇三年にインゼル出版から刊行されたワイルドの『サロメ』に挿絵を描いたのが出世作となった。オーブリー・ビアズレーに強く影響された仕事だった。その後は、印象派やウィーン分離派の流れのなかで書物関係の仕事を続けた。私生活ではホモセクシュアルの罪で収監されたりもしたのだという。


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SALOME, INSEL-VERLAG


本書のエクスリブリスや書物のボーダーのデザインを見ると、ウィリアム・モリスの影響が明らかだが、描写はモリスよりも繊細で、それなりのオリジナリティを打ち出している。ところがなぜか日本ではほとんど知られていないようだ(検索しても日本語ではほとんどヒットしない)

例えば『ビアズリーと世紀末展』図録(同展実行委員会、一九九八年)にはめぼしいビアズリーの追従者たちが集められているが、マルクス・ベイマーの名前は見えない。今、「MARCUS BEHMER」で画像検索すると多数のイラストレーションが現れるので、ご興味のある方は是非どうぞ。これからもっと注目されていい作家ではないだろうか。

by sumus2013 | 2020-05-27 20:38 | 古書日録 | Comments(0)

三体詩

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ひさしぶりの双白銅文庫。貞享五年(一六八八、元禄元年)に出た『三体詩』二冊を求めた。架蔵の和本では古い方になる。虫損がはなはだしいが、双白銅どころか一冊100円、二冊で双白銅(200円)なのでいたしかたない。

きれいな版面をご覧になりたい方はこちらをどうぞ。

三体詩法. 巻之1-3 / 周弼 選 ; 円至 註 ; 裴庾 増註
高麗橋筋上人町(摂陽) : 塩屋七郎兵衛, 貞享5[1688]

本当は三冊で揃い。なにしろ三百三十二年前に刊行された本だ、二冊あるということで満足しておこう。『三体詩』(さんたいし、さんていし)は唐詩のアンソロジー。

《中国,南宋の唐詩選集。「さんていし」とも読む。周弼 (しゅうひつ) の編。3巻。淳祐 10 (1250) 年頃成立。原名『唐賢三体詩法』。唐詩のうち七言絶句,七言律詩,五言律詩の3つの詩体の作品から選び,書名もそれによる。各体ごとに構成や表現方法により6~7に小分類され,唐詩を学ぶ基準とされる。 167人の詩 494首を収めるが,李白,杜甫は1首もなく,中唐,晩唐,特に晩唐に重点がおかれ,初唐,盛唐を中心にした明の李攀龍 (りはんりょう) の『唐詩選』と好対照をみせている。日本では室町時代に翻刻され,特に禅僧の間で愛好されて,江戸時代を通じて多くの注釈書類も出された。》(コトバンク)

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下巻の奥付


『三体詩』とは直接関係ないが、先日取り上げた井伏鱒二の「サヨナラダケガ人生」という言葉も唐代の詩人于武陵(うぶりょう)の詩「勧酒」(かんしゅ)に付した「人生足別離」を《「サヨナラ」ダケガ人生ダ》と和訳したものだった。それらの軽妙な訳詩が収められたのが『厄除け詩集』で、それには先例があったということは三年ほど前に触れている。

井伏鱒二の『厄除け詩集』

ただし漢詩(とくに広く巷間に流布した唐詩)を平明に訳するということは江戸時代にも盛んに行われていた。林望『書薮巡歴』(新潮社、一九九五年)に次のように書かれているのを見つけたのでメモしておく。『唐詩選』の魏徴「述懐」を服部南郭が平明に講説した一節《さてさて、なげかわしいことぢや、まだ世がしづまらぬ》云々を引用してこう続けている。

《かくのごとく、漢文漢詩を対象とする講説を筆記するという営為から生まれた抄物というジャンルが、一種独特の口語を交えた文体を産み、それが、かかる注釈講釈のスタイルとなって、ずっと江戸時代を通過していったのである。》(p199)

井伏鱒二がパクったとかどうとかではなく、そういういかにも日本らしい外国文学の取り入れ方の伝統があり、その延長上に『厄除け詩集』もあるということである。

by sumus2013 | 2020-05-26 20:30 | 古書日録 | Comments(0)

明治おもちゃ絵

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これは「おもちゃ絵」でいいのだと思うが、粗悪で毒毒しい摺物がなんとも魅力的。夜店のカーバイトか何かテラテラした灯火の下で見たらなおさら輝いただろう。

《「おもちゃ絵」は子どもの観賞用の木版画で、文化・文政頃から明治期にかけて大量に出版され、絵本に取って代わっていった。「かつら付け」や「着せ替え」は歌舞伎の衣装替えや舞の演目を主題にしたものが残っている。》(『肥田せんせいのなにわ学』INAX、二〇〇五年、p31)

この絵も舞台の様子である。歌舞音曲のほかに相撲や曲芸も描かれている。発行元が記されているのが貴重。

明治廿七年四月十六日印刷 同年同月廿四日発行 著作兼印刷発行
大阪市東区住吉丁八十番屋敷 三木伊作

三木伊作を検索すると『昭和公論』創刊拾周年記念号(一九三五)に掲載されている記事(p48~49)が現れた。それによれば播州三木城主に出た名門で大阪玩具商組合長とのこと。

昭和公論創刊拾周年記念号 三木伊作


by sumus2013 | 2020-05-25 20:08 | 古書日録 | Comments(0)

チーズとうじ虫

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カルロ・ギンズブルグ『チーズとうじ虫』杉山信光訳(みすず書房、1995年7月21日新装第1刷)、名著として名高い一冊。邦訳の初版が出たのが一九八四年で、その頃から書評など見て読みたいなと思ってはいた。ところが、本そのものがけっこうな高価なのである。むろん古書価もそれ相当だ。

いつか百円均一でと思っていたが、そんなことはあるわけもない。つい先月、自粛していなかった古書ヘリングの棚の上の方をふと見ると、この新版が無雑作に差してあった。値段も微妙に安い(かるい鉛筆による傍線が少々あったためか、これは消しゴムで簡単に消えた)。このへんが(どのへん?)が手の打ちどころかなと思いつつ買ってみた。ヘリング氏いわく「本文は非常に面白いが、註が多くて困る」(『喫茶店の時代』もそうなんですけど・・・)。氏は、註までキッチリ読まないと気分が悪いという生真面目な読者だったのだ。

ということで本文テキストをざっと読んだ。註はほとんど目を通さず。たしかに面白い。一五三二年にイタリアのフリウリ地方のモンテレアレで生まれたドメニコ・スカンデッラ(通称メノッキオ)が主人公である。彼は粉屋、木樵、大工、壁屋であり、楽士でもあった。

この片田舎の粉挽屋が一五八三年に教皇庁に告訴された。異端的でありきわめて不信心な言葉を口にしたとして告発されたのだ。キリストは人間だったとか、聖母マリアはヨセフと結婚する前に二人子供を生んでいただとか、福音書は司祭や修道士が書いたし、天国はないし、そして何より、

《審問官 「お前によるとこの世界を構成するにあたっての神の召使いであるこれらの天使たちは、直接に神の手でつくられたのであるか。あるいはだれか他のものの手になるのであるか」。
 メノッキオ 「天使たちは、ちょうどチーズからうじ虫があらわれてくるように、この世のうち最も完全な物質から自然に生じたのです。》(p131)

などと主張していたのである。

《このメノッキオの返答ではっきりしているのはこのことだ。かびが生じかけてきたチーズのなかでうじ虫が生まれという日常的にもつ経験は、メノッキオが生命ある存在の誕生を説明するのに、神の介入を求めることなしに、カオスから、「生の未分化の」物質から、最初の最も完全なものである天使が誕生することの説明として、役立っている。》(p131)

メノッキオがどうしてこんな考えをもつにいたったのかについてギンズブルグはこう書いている。

《印刷術の発明と宗教改革という二つの偉大な歴史的事実が、メノッキオにみられるような事例を可能にした。印刷術はメノッキオにそのなかでかれが育った口頭伝承と書物とをつきあわせさせる可能性をあたえ、メノッキオ自身のもとで生れたさまざまの思想や想像的なことなどからなる錯綜を解きほぐさせてくれる言葉をあたえた。》(p20-21)

要するに、キリスト教以前の存在論的な考え方が、書物の刺激によって吹き出してきた。メノッキオが持っていた本のリストも出ている(異端裁判の記録に残っているのだ)。

・俗語訳『聖書』
・『聖書の略述記』
・『聖母の錬磨』あるいは『聖母のロザリオ』
・『諸聖人伝』(『黄金の伝記』の翻訳)
・『ジュディチオの物語』詩集
・『マンドヴィルのツァンネの騎士』架空の旅行記
・『ザンポロ』(『カラヴィアの夢想』)
・『年代記補遺』
・『ペサロの都市の有名な博士マリノ・カミロ・レオナルディがイタリア式の計算にもとづき編んだ暦』
・無削除版『デカメロン』
・『コーラン』だと思われる書物

《十一の書物のうちの六冊、つまり半分以上にあたる残りの書物はかれが借りたものであった。この数字は重要なもので、この小さな農村において、相互に書物を貸借しあうことによって、かれらの財政的な資力の狭隘さという障害をのりこえさせる読者たちのネットワークがあったことを垣間見させる。》(p83)

コーランまで読んでいた。そして田舎にも識字層がかなりいたということも分かる。

《ウディネでは、十六世紀の初め以来、ジロラモ・アマセオの指導のもとで、「ブルジョワの息子たちにたいすると同じように職人の息子たちや下層民衆の息子たちにたいして、金持にも貧乏人にも、なんら月謝のたぐいは受取ることなく、例外なくすべてのものに、なんらの差別もなく読み方を教えるため」にひとつの学校が開かれていたことが知られている。ラテン語も少しだけは教えられていた。》(p84-85)

しかし書物がすべてではなかった。書物から読み取った(誤解、誤読も含む)ことと「口頭伝承」(キリスト教以前の伝統的な考え方)にもとづき《自分の脳味噌からひき出した見解》(p89)を、結局は、ローマ教会への不満(宗教改革にも直結する)がつのるとともに、言いふらさずにはいられなかった、ということである。

裁判の後、メノッキオは二年間牢獄に閉じ込められ、一五八六年に赦免されて日常生活に戻った。ところが一五九九年にふたたび異端審問にかけられる。メノッキオの考えは二年間の独房生活くらいでは変わってしまうようなものではなかった。この頑固さ。これこそが思想の凄いところでもあり恐いところでもある。さすがに今度は極刑が待っていた。その処刑は

《一六〇一年七月六日にフリウリの異端審問所の調査人に、「スカンデッラが処刑された」少しあとポルドネに居たと言っているドナト・セロティなる男の証言によって、確実であることを知っている。》(p256)

フリウリといえば、パゾリーニである。メノッキオは郷里の大先達だったということになるかも。

ジョヴェントゥ ピエル・パオロ・パゾリーニの青春


by sumus2013 | 2020-05-24 21:03 | 古書日録 | Comments(0)

井伏鱒二 サヨナラダケガ人生

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川島勝『井伏鱒二 サヨナラダケガ人生』(文春文庫、1997年8月10日、カバー写真撮影=田沼武能)読了。著者略歴を引き写しておく。

《大正12(1923)年、静岡県に生れる。昭和21(1946)年1月、青島回文航空隊より復員、講談社に復帰。「少年クラブ」(「少年倶楽部」より改名)編集部を経て、「群像」創刊に参加し、編集部員となる。井伏鱒二氏の『漂民宇三郎』などを担当する。昭和31年、文芸出版部員となり、井伏氏の作品のほかに三島由紀夫氏の『永すぎた春』『美徳のよろめき』『午後の曳航』『太陽と鉄』などを世に送る。また庄野潤三、安岡章太郎、吉行淳之介各氏の作品も担当した。昭和38年、講談社インターナショナル創業に参加し、日本文学の海外への翻訳出版につとめた。井伏氏の命名による「川島羊三」として装幀も手がけ定評がある。著書に『井伏鱒二 サヨナラダケガ人生』、『三島由紀夫』(いずれも文藝春秋)がある。》

装幀家としての「川島羊三」はすでに紹介していた。

井伏鱒二『焼物雑記』

長く井伏番として(井伏は担当編集者が変わることを嫌ったという)親しく接してきた人でなければ書けない観察がとくに興味深いが、ここではやはり書斎や本について抜き書きしておこう。井伏鱒二の書斎。(一行アキは引用者による)

《井伏家の応接間兼書斎の床の間には、いつも掛軸がかけてあった。三好達治さんの、

  太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
  次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。

ともう一つ飯田龍太さんの、

  紺絣春月重く出しかな

 この軸はよくみかけたが、そのときの気分でときどき取り換えていたようであった。このほか尾道在住の画家小林和作さんの海景や、硲伊之助さんのニースの風景のデッサンなどもかけてあった。床の間の脇に大ぶりの備前の壷があって、その中に釣竿が二、三本無雑作に投げ入れてあるのをみて私は、床の間近くに釣竿を置くことは、釣師井伏鱒二のひさかな自負にちがいないと思った。》(p113-114)

「川島羊三」の装幀についても書かれている。

《絵は見ることも、描くことも好きであった。そんな趣味が昂じて本の装幀を手がけることもあった。

 いまでも忘れないのは、佐藤春夫さんの書庫に案内された時のことである。書庫の中には内外の稀覯本が所せましと並んでいた。なかでも大理石を表紙にした本の冷たい石の感触と、見返しの目もあやな真紅のマーブル紙の色の対比の見事なこと、私はしばらくそこに立ちつくして、佐藤家の蔵書の中に埋没したい気持であった。佐藤さんの『わんぱく時代』や『極楽から来た』などの出版の際は、自ら手に取って装幀・造本のノウハウを教えていただいた。貴重な体験であった。

 その後、牧羊社ではわがままがきいたので三島由紀夫さんの『岬にての物語』や『橋づくし』、『黒蜥蜴』、井上靖さんの『敦煌』、『桜蘭』、安岡章太郎さんの『ガラスの靴』などの豪華な限定本を作った。また庄野潤三さんの『プールサイド小景』をはじめ、庄野さんの多くの著作を装幀させてもらっている。

 井伏さんの『屋根の上のサワン』や『厄除け詩集』や『山椒魚』、また最近では『焼物雑記』、『岳麓点描』などもあった。

 井伏さんには本の装幀について一家言があった。

「君、いい本というのはピアノの上に置いても不自然でないものだ。それと、題字はぜったい活字がいい」
 と言われた。》(p165-166)

牧羊社は川島の夫人が経営している出版社でその名付け親は三島由紀夫。装幀用のペンネーム「川島羊三」は井伏鱒二の命名であるという。

他にも、吉田健一の高笑い(p96)だとか式場病院の薔薇園(p103)、藤田嗣治の浪曲(p163)なども面白いが、きわめつけは小林秀雄だろう。昭和二十五年の春頃。今日出海に連れられて鎌倉雪ノ下の八幡宮の裏手の急な坂を上がったてっぺんにあった小林邸を訪れた。今日出海持参のジョニ黒で盛り上がり、気づいたら横須賀線の終電がなくなっていた。

《私は止むなくすすめられるままに、小林家で一泊することになった。

 次の朝、熱い味噌汁で朝食をご馳走になっている時、小林夫人から昨夜はよく眠れましたかと尋ねられた。私はぐっすり寝[やす]ませていただきましたと答えたが、そのあと夫人が、

「小林は近ごろ歯ぎしりがひどくて困るんです。ものを書いたり、考えごとをしている時がとくにひどいようです」
 と言われた。

 私は襖ごしにうつつにそんな歯ぎしりの音を聞いたような気もした。》(p151-152)

小林秀雄が原稿用紙に向かってギリギリギリとやっているのは凄みがある(?)。考えるヒントならぬリズムだったのだろうか。ハギシリといえば辻征夫もそうだった。

余白の時間 辻征夫さんの思い出

井伏鱒二が編集した『現代の随想5 小林秀雄集』(昭和五十六年、弥生書房)ができたあと、井伏、小林、川島は銀座の宮うちで同席した。

《その時、小林さんは私の方をみて、
「うちへ来て酔っぱらって泊っていったのは、君と高見沢(田河水泡)だけだよ」
 と言ったので、井伏さんは、
「きみはそんなに飲むの」
 と言って笑った。》(p227-228)

うまいオチになっている。


by sumus2013 | 2020-05-22 19:47 | 古書日録 | Comments(0)

詩人三人が尿する雪の中

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Facebook "Allen Ginsberg"より


ドナルド・キーン『日本との出会い』篠田一士訳(中公文庫、昭和五十年六月十日)読了。学生時代から第二次世界大戦で通訳として従軍した話が面白い。が、ここでは、例によって、古本屋の話を抜き出しておく。キーンは、一九五三年から二年間、京都大学大学院に留学していた。

《ところで京都の二年間に、私は少なくとも千冊の本を買っていた。その一つ一つが、たんに売り買いの結果得られたものではなくて、追憶の焦点を結ぶものなのだ。

 本を買う時は、まず第一に、私の将来の研究の性質を考えて、主に中世と近世文学の作品をえらんだ。次に、できるかぎり安く買おうとして、いくつかの古本屋の値段を比べて歩いた。五軒か六軒の店で一巻一巻別々に買って、全集を安くそろえてはしごく悦に入った。私はまた谷崎作品の初版本を、ほとんど一冊百円以下で買っていた。寺町の古本屋で、戦時中に私家版で出された『細雪』の珍しい第一巻さえみつけたこともある。こういう本を荷造りするにはとても時間がかかった。一つ一つが思い出を呼びおこしたし、旅立ちの支度はなんとも気のすすまないものだ。》(p94)

昭和二十年代末の百円は、おそらくざっと今日の百円の十倍ほどだろう。百円以下というのは千円以下ということか。それでも安い。

一九五五年、帰国したキーンはニューヨークのコロンビア大学で教え始める。ちょうど日本ブームが始まるところだった。とりわけ禅が流行し、鈴木大拙がもてはやされた。

《当時は、キリスト教の「常套句」といえども、禅の大哲から発せられる限りは、ニューヨークのインテリたちに歓迎されていたのだ。ビート族がことに禅に興味を抱いていた。

 あるパーティでは主賓が棟方志功氏で、大方の出席者はビート族であり、その運動の指導者のアラン[ママ]・ギンズバーグとジャック・ケルアックもまじっていた。私が部屋にはいって行くと、ギンズバーグが若い日本人に、今俳句を作ったからそれを棟方さんのために翻訳してほしいと頼んでいるところだった。その俳句というのはこうである。

  詩人三人が尿[いばり]する雪の中

 その通訳は英語の「放尿する」という言葉がわからなかった。そこでギンズバーグは身ぶりをし、音をまね、あげくのはてに、カーペットの上にあわや放尿しようとした。私はあわてて割ってはいり、その日本語をいった。ギンズバーグが私にだれかときいたので名前をいうと、私の「方丈記」の翻訳をほめた。私たちが話している時、突然ギンズバーグが棟方さんのところへ行き、その手を取ったと思うと噛みついた。私は恐縮して、これはアメリカの伝統的な友情のしるしだと説明した。その間、ケルアックは、部屋の向う側から私の名を大声でよび続けていて、彼がサンスクリット(梵語)で発音するさまざまな仏教の専門語を日本語に翻訳しろと言った。》(p101)

ギンズバーグたちの無軌道ぶりがよく分かる逸話である。キーンによれば、この禅ブームは子供の絵本にまで及び、アルファベット絵本で「Z」のところ、ふつうは動物園(ZOO)かシマウマ(ZEBRA)の「Z」となるはずが、「Zは禅」で終る本もできたという。現在でもふつうに使われている「ZEN」という言葉はビート・ジェネレーションの産物だったようだ。

by sumus2013 | 2020-05-18 20:10 | 古書日録 | Comments(0)