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日曜エロス![]() ついでギャラリーロイユで五人展を見る。幻想系の実力派を集めた展示で見所が多かった。来場者もつぎつぎと。そこそこに引き上げる。少々疲れたので花森書林は今度にして帰途についた。 ▲
by sumus2013
| 2019-05-24 20:54
| 巴里アンフェール
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ノートルダム炎上![]() ノートルダムの火災には驚かされた。パリは火災の少ない都市である。とはいえ、小生もそう長くもない滞在中に二度ほど火災を目撃した(パリの知人によれば、非常に珍しいとのこと)。いずれもビルの上階から黒煙が出ており、ハシゴ車が消火に当たっていた。建物の壁などはレンガや石造なので燃えないにしても内装や天井部分は木材など可燃物でできている。ノートルダムで燃え落ちたのも木造の天井部分である。尖塔(la flèche)も枠組みは木造だそうだ。外面に金属板を張ってある。 曇り日のノートルダム パリでの火災で思い出したのは『フランス革命下の一市民の日記』(河盛好蔵監訳、中央公論社、一九八〇年二月一五日)に出ている記述。一七九四年八月一九日火曜日。 《今夜九時半頃、サン・ジェルマン修道院裏手から出火、凄まじい火炎と巨大な黒煙が立ち上り、火の粉を大量に撒き散らしながら天を焦がした。火元は四ヵ所である。出火原因は未だわからない。午前二時頃ようやく鎮火。図書館がほぼ全焼し、二度と入手できない貴重な原稿の一部が失われた。一五〇万冊が焼失したと見積られている。死傷者多数。》 パリでの災難といえば、つい先日(3月27日)、マン・レイの墓石が破壊されたのもショックだった。 La tombe de Man Ray dégradée au cimetière du Montparnasse La tombe du photographe Man Ray dégradée au cimetière du Montparnasse マン・レイ掃苔 モンパルナス墓地を訪れる。 ▲
by sumus2013
| 2019-04-16 19:48
| 巴里アンフェール
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プルースト・コレクション![]() 最後にサザビーズ・フランスのオークションカタログを。『MARCEL PROUST COLLECTION MARIE-CLAUDE MANTE』(24 MAI 2018)。 マルセル・プルースト(1871-1922)の弟ロベール(1873-1935)の娘(だからマルセルの姪ということになる)アドリエンヌ・シュザンヌ・プルースト(Adrienne-Suzanne Proust, 1903-1986)は父の死後、プルースト家の遺産の管理者となった。アドリエンヌは、失われていたりあるいは破却されていた原稿の主要な部分を救い出し、また書簡集の編纂にも協力した。プルースト作品の刊行にも積極的で、出版人や研究者に門戸を開き、各地での展示にも貸与を惜しまなかった。一九六二年、遺産として受け継いだ素晴らしい原稿をフランス国立図書館へ売却した。その後もアドリエンヌはプルーストの献辞のある書籍、自筆原稿、とくに書簡を買い求め続けた。一九八一年には回顧録を出版している。一九八六年に彼女が亡くなったとき、婿のクロード・モーリャックは「スージイ・プルーストが死んだ。これで"マルセル叔父さん"と呼べる人は誰もいなくなった」と記している。マリー・クロード・マントはアドリエンヌの娘であり、クロード・モーリャックの妻に当る。(本書の解説より) 上のデッサンは、若い頃のマルセルの親友だったレーナルド・アーン(Reynaldo Hahn)を大天使ミカエルになぞらえて描いたもの。レーナルドも作家であった。このコレクションにも二人の間の通信が多数含まれている。下はカタログの表紙。 デッサン(落書き)はもうひとつ掲載されている。フィガロ紙のための記事の草稿(レーナルドの紹介だったようだ)。 絵心を感じさせる校正ではある・・・ ▲
by sumus2013
| 2018-09-26 20:51
| 巴里アンフェール
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GALERIE PAUL PROUTÉ![]() 古本屋ではなくギャラリーの目録も紹介しておく。ポール・プルーテ画廊(GALERIE PAUL PROUTÉ)『カタログ154号』二〇一八年六月。店はセーヌ通(74, rue de Seine)にある。サンジェルマン・デプレの近く(マルシェ・サンジェルマンの東側)。画廊や古書店が軒を並べる通り。小生もプルーテ画廊のショーウィンドウだけはじっくり眺めさせてもらったのでよく覚えている。素描や版画が専門のようだが、タブローも並んでいた。落ち穂拾いというのか、オールド・マスターから現存画家まで幅広く、小粒で手堅い作品を扱っている。 GALERIE PAUL PROUTÉ おお、と手が止まったのはこのデューラーの版画。『ヨハネ黙示録』シリーズの一枚。「本をむさぼるヨハネ Saint Jean dévorant le Livre」の1511年版。以前、このブログでも取り上げたことがあるが、『本の虫の本』にそれらを整理して「本を食べる」という項目を執筆した。19 000€で手に入るのか……といっても買えないけど。 本の虫の本 ついでに「読む人」のデッサンを。 ![]() ▲
by sumus2013
| 2018-09-25 17:31
| 巴里アンフェール
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MICHAEL SEKSIK![]() MICHAEL SEKSIK ミシャエル(と発音するのでしょうか、フランス語ならミシェルですが)・セクシク書店の目録『IP』2(2012)。これは一枚モノ(およそ60×70cm)で片面がすべて図版、もう片面が文字の目録になっている。かなり凝った造りでポスターとしても使える。これは二号ということなのだろうが、住所はラセペド通(8, rue Lacépéde)になっている。この店舗は小生も二三度訪れたことがある。ドアにポスターが張り巡らされているのでよく目立っていた。 下は別の同店目録『16・18』の表紙(番号の意味がよく分らないが、2018年16号かと思う、発行年等も記載されていない)。ホームページでバックナンバーが見られる。住所はカルディナール・ルモワンヌ通に変わっている。だいたい同じ地域だが少し北へ(歩いて十分くらいか)移動した。この店は知らない。 Librairie Michael Seksik ポスターや版画、書籍でもグラフィックなものが多く、漫画の原画なども出ている。注目したのは「Graphzine」(グラフジン)という分類の手作り本。要するに版画など絵を主体にした「ZINE」(ジン)である。「ZINE」とは何か『本の虫の本』では能邨さんがずばり「ZINE」という項目を執筆しておられる。 《「magazine」のZINE。もとはSFファン等の同人誌の呼称「ファンジン」の略などいろいろ定義があるようです。個人的には、八〇年代に西海岸などで若者が作った少部数の、コピーや手描きの手作り冊子の総称から来たというイメージでしたが、それもおそらくごく一部の話。ともあれ今ではひっくるめて自主制作本を「ZINE」と呼ぶことが多い気がします。》 ![]() 以前、小生が買ったのはこちら。 WOLS ![]() ▲
by sumus2013
| 2018-09-24 21:02
| 巴里アンフェール
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CORNETTE de SAINT CYR![]() 『CORNETTE de SAINT CYR Livres, Affiches & Manuscrites』(Jeudi 5 juillet 2018)。コルネット・ド・サンシール競売場の目録。このオークションハウス(メゾン・ド・ヴァント)の創設者はモロッコ生まれのピエール・コルネット・ド・サンシール。デッサンと写真のコレクターからスタートして一九七三年に二人の息子たちと競売場を設立した。パリのアヴニュー・オシュ(6, Av. Hoche)にある。 巻頭で特集されているのは六〇年代から七〇年代にかけての反体制ポスターである。シンプルで訴える力が強いデザインになっている。 ![]() ![]() ![]() ![]() 他に、シュルレアリスム関係でエルンスト『慈善週間または七大元素』(Jeanne Chuster, 1934)五冊。173のコラージュと9点のデッサン入。限定800部。版元箱入り。2 000-2 500€。 長谷川潔挿絵・本野盛一仏訳『竹取物語』(Société du livre d'Art, 1933)、1 000-1 500€。 個人的にひっかかったのはギー・ドゥボールの「戦争ゲーム LE JEU DE LA GUERRE」(Guy Debord et Gérard Lebovici, 1977)、1 000-1 500€。 目録の表紙が木目調なので、どうしてかな? と思っていたら、Alain Taral, Marc Le Bot, Bernard Dorny『木の歴史 HISTOIRE DU BOIS』(私家版、1999、限定八部)の表紙を採用していたのだった。材はニセアカシア(robinia pseudoacacia)。900-1 200€。 ▲
by sumus2013
| 2018-09-23 20:38
| 巴里アンフェール
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シュルレアリスムとは何か?![]() 『QU'EST-CE QUE LE SURRÉALISME ?』(binoche et giquello, Vendredi 6 avril 2018)。パリのホテル・ドルオー第二室で四月六日に行われたオークション「BIBLIOTHÈQUE SURRÉALISTE, シュルレアリスト文庫」の出品目録。これはちょっとしたものだ。 目玉はアンドレ・ブルトンの書簡や原稿類だろう。ジャン=ルイ・ベドゥアン(JEAN-LOUIS BÉDOUIN, 1929-1996)の旧蔵品である。ベドゥアンは詩人、ラジオ放送に携わり、映画監督でもあった。一九四七年にフランスに帰国したブルトンに初めて会って以来、歿年までブルトンの近くにいた取り巻きの一人。ブルトンに関する資料はこれまでベドゥアン家に大切に保管されてきたものだそうだ。 表紙になっているのはブルトンの著作『シュルレアリスムとは何か?』(René Enriquez, 1934)の表紙。初版本(Edition originale)でオランド紙(かつてオランダで作られたことからその名がある高級手漉き紙)本三十部のうちの一冊、稀本(TRÉS RARE)。25 000/30 000€ 以下、講釈は省いて、気になった図版を引用しておく。まずはハンス・ベルメールとポール・エリュアール『人形遊び LES JEUX DE LA POUPÉE』(1949)よりベルメールの写真。写真十五点貼込みで版画も入っている十五部本の一冊らしい。70 000/80 000€ ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ▲
by sumus2013
| 2018-09-22 21:35
| 巴里アンフェール
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フランス文学風物誌![]() 大塚幸男『フランス文学風物誌』(白水社、一九五八年八月二〇日)。奥付頁の著者略歴は以下の通り。 《一九〇九年生 一九三三年九大卒 仏文学専攻 福岡大教授 主要著書 「仏文学入門」「フランス文学随攷」「知性と感性」 主要訳書 コンスタン「アドルフ」 ロチ「死と憐れみの書」 ボナール「友情論」 ヴァグネル「簡素な生活」》 一九九二年歿(ウィキによる)。一九五七年の滞仏の思い出などをつづっている。巻頭口絵にはセーヌ河岸の古本屋、蚤の市の古本屋などの写真が出ている。このセーヌ河岸の古本屋はよく知られた絵葉書の一枚。左下の写真は《シャ-キ-ペーシュ街(パリで最も狭く、小さな町の一つ)》とあるが、この通りはサン・ミッシェル橋の南詰すぐにあって、たしかに狭くて短い。 古本屋についてかなりのページが割かれている。河岸の古本屋についてもいろいろ観察があるが、今は省略。セギという古書店について書かれた部分を抜き書きしておく。 《国立劇場サル・リュクサンブールの裏手、リュクサンブール公園のメディシスの泉のはす向かい、プラタナスの並木がいつも蔭を落としているメディシス町の一番地に、セギという本屋がある。この本屋こそはパリに遊んた日本人の忘れることのできない本屋であろう。それほど主人は日本人びいきで、数々の日本の学者に親しい本屋なのである。 主人のマルセル・セギさんは一八八七年三月、ヴェルダンに生まれた。ことし七十歳である。父はイスパニア系のフランス領カタロニア人、母もロレーヌ人。》 《初めて日本人を知ったのは、今から三十一年前である。その日本人というのは台湾[二文字傍点]大学の矢野教授といった。峰人博士のことであろう。矢野教授はフランス語が話せないので、フランス語で筆談をした。そしてロマン派の本をしきりに買った、といってセギさんはいかにもなつかしげであった。》 《セギ老は三十一年来の日本人の客の名刺を小さな箱に入れて保存している。一日、私は特に乞うてそられの名刺を見せてもらった。次のような人々の名が見えた。ーー目黒三郎、須川弥作、成瀬正一、渡辺一夫、岩田豊雄、永田清、太宰施門、井汲清治、林原耕三、小島亮一、桶谷繁雄、岡田真吉、宮本正清、吉川逸治、等々。》 《三十年以上も前からの異国の客の名刺を大切に保存している本屋さんはそうざらにあるものではない。書物の都、パリの本屋気質の手がたさがうかがえるではないか。いいおくれたが、セギは新本屋を兼ねた古本屋で、頼めば大ていどんな古本でも、どこからか探して来てくれる。》 セギは現存しないと思われるが、これ以外の回想記がないものだろうか。他にジョセフ・ジベールとジベール・ジューヌ、そしてニゼルについても書かれている。ジョセフ・ジベールは《新本は少ないが、古本は圧倒的に多く》とあって現在と全く違った店作りだったことが分る。 《すべての本のカードが出来ていて、われわれがある本を抜いて店員にさし出すと、店員は係りのところへ行く。すると係りは一々カードを抜き出して、そのカードと照合してから、売ることである。》 《第二に感心するのは、あらゆる大きさの包装紙を用意していて、本の判型にしたがって、ぴったり合う包装紙でカバーしてくれることである。そしてその包装紙も実に強靭なものを使っている。》 こういうことが目新しい時代だった。 ![]() Puf Que sais-je ?
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by sumus2013
| 2018-09-17 20:47
| 巴里アンフェール
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パリの並木路をゆく![]() 高橋豊子『パリの並木路をゆく』(學風書院、昭和二八年二月二五日)を頂戴した。深謝です。著者は女優(明治三十六年生まれ、高橋とよ、高橋豊)、戦前は新築地劇団などで、戦後は松竹の名脇役として活躍、小津安二郎作品の常連だった。 東京物語(1953) 高橋豊子がパリに着いたのは一九五二年十月(と文中にある)、翌春頃まで、途中旅行をはさんで、滞在していたようだから、この本は滞在中に発行された、ということになる。当時パリに暮らしていた人物模様に興味は尽きない。佐野繁次郎、植村鷹千代、関口俊吾、中原淳一、岡本クロード・トヨ、藤田嗣治夫妻、黛敏郎、高峰秀子、高英男、アベ・チエ、マダム・アサダ等。カバー写真は高橋とフランソワーズ・ロゼエ(女優、「外人部隊」などに出演)。 なかでは佐野繁次郎が登場しているのが貴重。マダム・アサダの告別式で佐野に会う。 《「やあ、今日は・……築地小劇場時代に僕の舞台装置で高橋さん出たことあつたね。あゝあの時分の訳者はうまかつたよ。友田はいゝ訳者だつた。秋ちやん(田村秋子)はどうしてるかね。丸山は味のある訳者だつた。あゝ、築地で苦労した者はパリへ来ても大丈夫だよ。何しろ十銭の弁当で暮したんだからナ」と一息に話しかけられたのを見ると、佐野繁次郎氏でした。氏はギリシヤ劇よろしくの身振りで、マダム・アサダの霊に一礼すると、何ともつかないてれたような笑いを浮かべながらさつさと帰つて行きました。》 この後もう一度、ラファイエット(デパート)で出会ってコーヒーを一緒に飲んでいるが、高橋の筆つきが活き活きしており、佐野のせっかちな様子が目に見えるようである。マダム・アサダというのがまた不思議な女性。パリで多くの日本人を世話して「おすまさん」と親しまれたそうだ。 《マダム・アサダは屋根裏に住んでいて、階下の台所を借りて一食五十フランで、日本人に食事を提供したり、時には家政婦に行つたり、洗濯や継ぎ物などの世話をして暮していたので死後皆なで彼女の部屋を探しても何も出てこなかつたそうですが、唯、大阪船場のさる良家に嫁いで息子が一人あること、一九四九年にパリに来たがその目的は何であるか判らない、英語フランス語も達者で相当教養のある婦人だつたこと、旅行も外出も余りしないで殆んど家にばかり居て編物や縫物をして暮していたことなどを人々は語りあつていました。》 本文の紹介はこれだけにして、挟んであった八頁の栞『學風』第十号(一九五三年三月)から、社主である高嶋雄三郎の「小出版社のあけくれ」を少し引用しておく(旧漢字は改めた)。 高嶋は府立五中出身。一年先輩に村上浪六の息子村上信彦がおり、同じ雑誌部員だった。村上信彦には『出版屋庄平の悲劇』(西荻書店、一九五〇年)がある。創業以来三年《道なき道を血みどろになつて茨をかきわけて進んでいる》。日頃の指導を創元社・小林茂に仰いでいる。 《私が今非常に楽しみにしている会がある。それは元中央公論社の飯をくつたもので、今日一社を経営している者だけが毎月十七日に集つて一夕歓談することになつている通称十七日会のことである。集る面々は、会長格の牧野武夫氏(乾元社長)藤田親昌氏(文化評論社長)小森田一記氏(経済新潮社長)野口七之輔氏(再建社長)出口一雄氏(東京都出版物小売業組合理事・第一書店社長)と私。最近仕入捨三氏も加わられた。昨年七月野口さんの肝入りで第一回を乾元社で開いた時は、共に一社を経営する苦労を負うた者同志[ママ]、話は深刻にいつ果てるとも知らず、階上に御病臥中の牧野夫人をおいて遂に夜を徹して語り合い遂に朝帰りとなつてしまつた。》 《この間終始この会合に絶大な魅力となつているのは何といつても牧野さんの永い間に亘る出版界についての体験談である。乾元社は知る人ぞ知る理想出版を行つて居る得難い出版社である。富貴も淫する能わずといつた気魄は牧野さんの眉宇にあふれている。牧野さんの不撓不屈な面魂がわが出版界の堕落を辛じてさゝえているかのように実に頼しく、たまにお会いするだけに何だか死んだ親父に会うような懐しさすら感じられるのである。》 牧野武夫(明治二十九1896〜昭和四十1965)は以下のような出版人。 《出生地奈良県田原本町/学歴〔年〕奈良師範卒/経歴婦人新聞、改造社に勤めたが、嶋中雄作に請われて中央公論社に転社。出版部を創設し、E・M・レマルクの「西部戦線異状なし」を刊行、書籍出版の基礎を築いた。昭和14年退社、牧野書店を創立、戦時統合で乾元社と改称。戦後両社を再興し、「南方熊楠全集」などを刊行した。ラジオ技術社専務、電通顧問。著書に「雲か山か―雑誌出版うらばなし」などがある。》(コトバンク) 肝心の高嶋雄三郎についてはよく分らない。一九六〇年代までは活溌に出版を続けていたようだが……。
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by sumus2013
| 2018-06-22 20:43
| 巴里アンフェール
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PARIS REVISITED![]() アナイス・ニン『巴里ふたたび』(松本完治訳、エディション・イレーヌ、二〇〇四年一〇月二一日、造本=間美奈子)。読了。 アナイス・ニンの日記、一九五四年秋、十五年振りにパリを再訪したときの文章である。シェイクスピア・アンド・カンパニイ書店のジョージ・ホイットマンが登場している。 《ここセーヌのほとりには、かつて私が出入りしていた、変わった本屋があった。それはユトリロの絵に出てくるような家で、土台がぐらつき、小さな窓に皺のよったような鎧戸があった。そしてそこにはジョージ・ホイットマン、栄養失調気味で、あごひげをたくわえた彼が、書物に埋もれた聖者の如く、本を熱心に売るわけでもなく、一文無しの友人に本を貸したり、避難所でもある二階に寝泊まりさせたりしていた。店の奥には、物が溢れかえった小部屋があり、机と小さなガスストーブがあった。》 《ジョージはどうしてセーヌのほとりで小さな本屋を始めたのだろう? 彼はその数年前、私の〈ハウスボート〉の物語を読んだことがあったのだ。彼は一隻のハウスボートを探しにパリへやって来た。そしてボートの上で本屋を始めて、彼は幸せだった。しかし、本に黴が生え、ついには移動せざるを得なかった。彼は窓からセーヌが見える、できるだけ川に近い場所に陣取り、あたかもハウスボートで暮らしているかのような幻想に浸るのだった。》 ホイットマンは亡くなり、今は娘が後継者となった。本屋というよりも観光スポットとして繁昌を極めている(daily-sumus でもすでに何度も紹介した)。 シェイクスピア・アンド・カンパニー書店 シルビアビーチのシェイクスピア書店だった場所にできたミストラルについても書いてくれている。 《今そこにあるのは、〈ミストラル〉だ。ジェイムズ・ジョーンズ、ウィリアム・スタイロン、アレン・ギンズバーグ、ウィリアム・バロウーズらビート族や新しい世代のボヘミアンが足を運んでいる店だ。かつてその場所は、心からの手厚いもてなし、なごやかで、愛情表現が露わで、作家と芸術家たちの間には、情けに厚い同胞愛が宿っていたが、今では陰気な沈黙や無関心な態度が時に見受けられる。ソファーに寝そべりながら本を読んでいる若いボヘミアンなどは、他の作家が中に入ってきても読書をやめようとしない。私は彼らの孤立ぶりに驚いてしまうのである。》 そして街じゅうを歩く。 《美術商、本屋、アンティークショップを見歩いたが、すべて変わりなかった。セーヌ沿いの古本屋もそのままだった。セロハン紙に包まれたエロ本。ポルノ写真を載せた葉書類、蒐集家向けの稀覯本があるのも変わりなかった。 サン・ジェルマン周辺の、とある書店が自叙伝本の催しをやっていた。ウィンドウごしに私はルイーズ・ド・ヴィルモランの姿を目にした。彼女は『ガラスの鐘の下で』の物語のモデルだった。私は中に入り、彼女の新著を購うと、彼女にサインを求める行列に加わった。》 《彼女は私を認めた。そのとき私は、皮肉っぽくきらめく瞳、勝ち誇ったような笑み、貴族と誇りを描いたフランス歴史上の絵画のひとつを思い起こさせる容貌を再発見した。》 ![]() 《乳白色の空、そして彫刻品のように陰影深い建物。その石組みには歴史があり、それぞれの家には、人生を楽しみ、深く愛し合う人々の暮らしでいっぱいになっている。すべての人々が愉快に愛し合うお祭りのような空気。高度で明晰な文学的表現を通して、それぞれの人生を分かち合う古く良き趣[おもむき]。パリは今もなお知性と創造の都であり、世界のあらゆる芸術家が移り住むことでなおも豊饒である。》 アナイス・ニンのパリ讃歌。一九五〇年代、パリは昔の穏やかさを取り戻していたようでだが、ビート族や実存主義の都になってもいた。
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by sumus2013
| 2018-06-07 16:56
| 巴里アンフェール
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