林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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カテゴリ:巴里アンフェール( 20 )

パリの並木路をゆく

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高橋豊子『パリの並木路をゆく』(學風書院、昭和二八年二月二五日)を頂戴した。深謝です。著者は女優(明治三十六年生まれ、高橋とよ、高橋豊)、戦前は新築地劇団などで、戦後は松竹の名脇役として活躍、小津安二郎作品の常連だった。

東京物語(1953)

高橋豊子がパリに着いたのは一九五二年十月(と文中にある)、翌春頃まで、途中旅行をはさんで、滞在していたようだから、この本は滞在中に発行された、ということになる。当時パリに暮らしていた人物模様に興味は尽きない。佐野繁次郎、植村鷹千代、関口俊吾、中原淳一、岡本クロード・トヨ、藤田嗣治夫妻、黛敏郎、高峰秀子、高英男、アベ・チエ、マダム・アサダ等。カバー写真は高橋とフランソワーズ・ロゼエ(女優、「外人部隊」などに出演)。

なかでは佐野繁次郎が登場しているのが貴重。マダム・アサダの告別式で佐野に会う。

《「やあ、今日は・……築地小劇場時代に僕の舞台装置で高橋さん出たことあつたね。あゝあの時分の訳者はうまかつたよ。友田はいゝ訳者だつた。秋ちやん(田村秋子)はどうしてるかね。丸山は味のある訳者だつた。あゝ、築地で苦労した者はパリへ来ても大丈夫だよ。何しろ十銭の弁当で暮したんだからナ」と一息に話しかけられたのを見ると、佐野繁次郎氏でした。氏はギリシヤ劇よろしくの身振りで、マダム・アサダの霊に一礼すると、何ともつかないてれたような笑いを浮かべながらさつさと帰つて行きました。》

この後もう一度、ラファイエット(デパート)で出会ってコーヒーを一緒に飲んでいるが、高橋の筆つきが活き活きしており、佐野のせっかちな様子が目に見えるようである。マダム・アサダというのがまた不思議な女性。パリで多くの日本人を世話して「おすまさん」と親しまれたそうだ。

《マダム・アサダは屋根裏に住んでいて、階下の台所を借りて一食五十フランで、日本人に食事を提供したり、時には家政婦に行つたり、洗濯や継ぎ物などの世話をして暮していたので死後皆なで彼女の部屋を探しても何も出てこなかつたそうですが、唯、大阪船場のさる良家に嫁いで息子が一人あること、一九四九年にパリに来たがその目的は何であるか判らない、英語フランス語も達者で相当教養のある婦人だつたこと、旅行も外出も余りしないで殆んど家にばかり居て編物や縫物をして暮していたことなどを人々は語りあつていました。》

本文の紹介はこれだけにして、挟んであった八頁の栞『學風』第十号(一九五三年三月)から、社主である高嶋雄三郎の「小出版社のあけくれ」を少し引用しておく(旧漢字は改めた)。

高嶋は府立五中出身。一年先輩に村上浪六の息子村上信彦がおり、同じ雑誌部員だった。村上信彦には『出版屋庄平の悲劇』(西荻書店、一九五〇年)がある。創業以来三年《道なき道を血みどろになつて茨をかきわけて進んでいる》。日頃の指導を創元社・小林茂に仰いでいる。

《私が今非常に楽しみにしている会がある。それは元中央公論社の飯をくつたもので、今日一社を経営している者だけが毎月十七日に集つて一夕歓談することになつている通称十七日会のことである。集る面々は、会長格の牧野武夫氏(乾元社長)藤田親昌氏(文化評論社長)小森田一記氏(経済新潮社長)野口七之輔氏(再建社長)出口一雄氏(東京都出版物小売業組合理事・第一書店社長)と私。最近仕入捨三氏も加わられた。昨年七月野口さんの肝入りで第一回を乾元社で開いた時は、共に一社を経営する苦労を負うた者同志[ママ]、話は深刻にいつ果てるとも知らず、階上に御病臥中の牧野夫人をおいて遂に夜を徹して語り合い遂に朝帰りとなつてしまつた。》

《この間終始この会合に絶大な魅力となつているのは何といつても牧野さんの永い間に亘る出版界についての体験談である。乾元社は知る人ぞ知る理想出版を行つて居る得難い出版社である。富貴も淫する能わずといつた気魄は牧野さんの眉宇にあふれている。牧野さんの不撓不屈な面魂がわが出版界の堕落を辛じてさゝえているかのように実に頼しく、たまにお会いするだけに何だか死んだ親父に会うような懐しさすら感じられるのである。》

牧野武夫(明治二十九1896〜昭和四十1965)は以下のような出版人。

《出生地奈良県田原本町/学歴〔年〕奈良師範卒/経歴婦人新聞、改造社に勤めたが、嶋中雄作に請われて中央公論社に転社。出版部を創設し、E・M・レマルクの「西部戦線異状なし」を刊行、書籍出版の基礎を築いた。昭和14年退社、牧野書店を創立、戦時統合で乾元社と改称。戦後両社を再興し、「南方熊楠全集」などを刊行した。ラジオ技術社専務、電通顧問。著書に「雲か山か―雑誌出版うらばなし」などがある。》(コトバンク)

肝心の高嶋雄三郎についてはよく分らない。一九六〇年代までは活溌に出版を続けていたようだが……。

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by sumus2013 | 2018-06-22 20:43 | 巴里アンフェール | Comments(0)

PARIS REVISITED

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アナイス・ニン『巴里ふたたび』(松本完治訳、エディション・イレーヌ、二〇〇四年一〇月二一日、造本=間美奈子)。読了。

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ヘンリー・ミラーとアナイス・ニン


アナイス・ニンの日記、一九五四年秋、十五年振りにパリを再訪したときの文章である。シェイクスピア・アンド・カンパニイ書店のジョージ・ホイットマンが登場している。

《ここセーヌのほとりには、かつて私が出入りしていた、変わった本屋があった。それはユトリロの絵に出てくるような家で、土台がぐらつき、小さな窓に皺のよったような鎧戸があった。そしてそこにはジョージ・ホイットマン、栄養失調気味で、あごひげをたくわえた彼が、書物に埋もれた聖者の如く、本を熱心に売るわけでもなく、一文無しの友人に本を貸したり、避難所でもある二階に寝泊まりさせたりしていた。店の奥には、物が溢れかえった小部屋があり、机と小さなガスストーブがあった。》

《ジョージはどうしてセーヌのほとりで小さな本屋を始めたのだろう? 彼はその数年前、私の〈ハウスボート〉の物語を読んだことがあったのだ。彼は一隻のハウスボートを探しにパリへやって来た。そしてボートの上で本屋を始めて、彼は幸せだった。しかし、本に黴が生え、ついには移動せざるを得なかった。彼は窓からセーヌが見える、できるだけ川に近い場所に陣取り、あたかもハウスボートで暮らしているかのような幻想に浸るのだった。》

ホイットマンは亡くなり、今は娘が後継者となった。本屋というよりも観光スポットとして繁昌を極めている(daily-sumus でもすでに何度も紹介した)。

シェイクスピア・アンド・カンパニー書店

シルビアビーチのシェイクスピア書店だった場所にできたミストラルについても書いてくれている。

《今そこにあるのは、〈ミストラル〉だ。ジェイムズ・ジョーンズ、ウィリアム・スタイロン、アレン・ギンズバーグ、ウィリアム・バロウーズらビート族や新しい世代のボヘミアンが足を運んでいる店だ。かつてその場所は、心からの手厚いもてなし、なごやかで、愛情表現が露わで、作家と芸術家たちの間には、情けに厚い同胞愛が宿っていたが、今では陰気な沈黙や無関心な態度が時に見受けられる。ソファーに寝そべりながら本を読んでいる若いボヘミアンなどは、他の作家が中に入ってきても読書をやめようとしない。私は彼らの孤立ぶりに驚いてしまうのである。》

そして街じゅうを歩く。

《美術商、本屋、アンティークショップを見歩いたが、すべて変わりなかった。セーヌ沿いの古本屋もそのままだった。セロハン紙に包まれたエロ本。ポルノ写真を載せた葉書類、蒐集家向けの稀覯本があるのも変わりなかった。
 サン・ジェルマン周辺の、とある書店が自叙伝本の催しをやっていた。ウィンドウごしに私はルイーズ・ド・ヴィルモランの姿を目にした。彼女は『ガラスの鐘の下で』の物語のモデルだった。私は中に入り、彼女の新著を購うと、彼女にサインを求める行列に加わった。》

《彼女は私を認めた。そのとき私は、皮肉っぽくきらめく瞳、勝ち誇ったような笑み、貴族と誇りを描いたフランス歴史上の絵画のひとつを思い起こさせる容貌を再発見した。》

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有名な青い書斎のルイーズ・ド・ヴィルモラン


《私はオシップ・ザッキンに会いに行った。彼が住んでいるのはアサス街に面した古い家で、庭を挟んで小さなふたつの棟があり、そのひとつは彼の住居用に使われ、もうひとつは彫像類がぎっしり置かれたアトリエだった。彼の顔は今もなお血色がよく、目つきも鋭かったが、手足がかすかに震えていた。
 彼のアトリエの玄関前には、木製の女性の彫像がふたつ立っている。
 占領下のパリでドイツ兵が彫像を持ち去らなかったのだ。》

ザッキンの住居は現在美術館として公開されている。

ザッキン美術館
https://sumus2013.exblog.jp/22419998/

《乳白色の空、そして彫刻品のように陰影深い建物。その石組みには歴史があり、それぞれの家には、人生を楽しみ、深く愛し合う人々の暮らしでいっぱいになっている。すべての人々が愉快に愛し合うお祭りのような空気。高度で明晰な文学的表現を通して、それぞれの人生を分かち合う古く良き趣[おもむき]。パリは今もなお知性と創造の都であり、世界のあらゆる芸術家が移り住むことでなおも豊饒である。》

アナイス・ニンのパリ讃歌。一九五〇年代、パリは昔の穏やかさを取り戻していたようでだが、ビート族や実存主義の都になってもいた。

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by sumus2013 | 2018-06-07 16:56 | 巴里アンフェール | Comments(0)

LOVE書店!

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フリーペーパー『LOVE書店! 24』(本屋大賞実行委員会、二〇一八年三月)というものをもらった。表紙の女子は乃木坂46の齋藤飛鳥さん。題字も。《本屋さんには、よく行きます。私はやっぱり"紙派"ですね。》と頼もしい言葉が。もっぱら「タイトル買い」だとか。

タブロイド判12頁でその12頁目の「LOVE! WINDOWS」に鹿島茂氏が「パリの本屋さん」を連載している。今号第二十三回は「フランスの中古書店の現状」。

近年フランス古書業界でも所得格差が著しくなっているそうだ。

《とくにひどいのが、絶対的に希少なアイテム、つまり、オークションにはせいぜい10年に1度くらいしか登場しないような超レアーなアイテムである。値上がりぶりは、かなり過激になっている。どれくらいかというと、最低で10年前の2倍、ひどいときには3、4倍ということもある。私がしゃかりきになって収集に打ち込んでいた30年前の相場と比べたら、10倍は軽いのではないか?》

そして、その一例としてルドゥテの『バラ図譜』が挙げられる。

《たとえば、これはもう3年前になるが、パリで一番高い古書店で売られていたルドゥテの『バラ図譜』3巻本は、なんと3億円! 30年前に3千万円と言われて仰天した記憶があるから、まさに10倍の値上がりである。もっとも、染みひとつない完璧なアイテムだったので、この値段でもしかたないかもしれないが。》

要するに、持ったもの勝ち、売り手の言い値市場になったわけだ。では何故こんなことになったのか? 鹿島氏によれば、それは不動産価格が激しく値上がりしたからだという。ヨーロッパでは不動産市場と高級古書市場は連動するのだとか。パリでは不動産価格もオークションで決定される。美術品もドゥルオー(オークション会場)での落札価格が基準になる。有価証券や不動産の市場が煮詰まってくると、投資家はまず美術品市場へ、次に高級古書市場へシフトする。昔どこかで聞いたようなバブリーな話ですな。

《現在、アメリカや日本でだぶついたマネーは、ヨーロッパの債券市場や不動産市場を席巻した後、数年前からついに高級古書市場にまで流れこんできている。だが、しかし、いかにも今日的だと思われるのは、それはあくまで"高級古書市場だけ"に限られる現象であるということだ。高級古書を除くと、古書一般は値上がりどころか、むしろ大きく値を下げている。まったく値が付かなくなって、廃棄処分に回される古書も増えてきている。》

ルドゥテ(Redouté, Pierre Joseph, 1759-1840)の『バラ図譜 Les Roses』(Firmin Didot, 1817-1824)がどんな本かというと、以下のようなものである。古書サイトには初版本の画像が見当たらなかったので(目下 AbeBooks.com には EUR 655 204,95:8583万円:US$ 750,000.00 で出品されているのが最高値)米国の議会図書館所蔵本のPDFにリンクしておく。

Les roses,

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by sumus2013 | 2018-05-22 20:16 | 巴里アンフェール | Comments(0)

パリの素顔

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新潟から戻ると届いていた一冊がこちら、『パリの素顔』(岩波写真文庫194、岩波書店、一九五六年七月二五日)。監修は美術史家の柳宗玄(柳宗悦の次男)。一九五〇年代の典型的なパリの姿がとどめられており、すこぶる興味深い。【本書は復刻版が出ており、今でも入手できるそうです。北書店の佐藤氏が教えてくれました】

例えば、少し前に紹介した『対談ジャコメッティについて』(用美社、一九八三年)に語られている矢内原伊作がジャコメッティのモデルになった話は一九五五年のことである。まさに、この写真文庫に写し取られているパリがその背景となっていた。田村泰次郎『人間の街パリ』(大日本雄弁会講談社、一九五七年)も同時代。

ジャコメッティについて

人間の街パリ


なにはともあれ古本屋を探す。セーヌ河岸のブキニストが二度登場。ただしそれ以外の古書店も新刊書店も無視されているのは少々寂しい。

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鳩爺さんなんて呼ばれる名物男がいたんだ。それにしてもこの古本箱は相当な年代物。革命時代あたりまで遡るのかもしれない。現在はここまで古い箱はないと思う……たぶん。後ろの建物はルーヴルだろう。とすると、ケ・ド・コンティ(Quai de Conti)あたりか。最初の写真はノートルダム・ド・パリがシルエットになっている。


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新聞雑誌の販売店。今もいたるところにあるが、多少おもむきは異なる。路上のアーティストも禁止されているのか、最近は見た記憶がない(ポンピドゥーの前で誰か描いていたかも……)。落書きは今も昔もいたるところにある。


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一九五〇年代のモナ・リザの展示。小生が一九七六年に初めて見たときには、すでにガラス張りのケースに入っていた、と思う(多少あいまいな記憶ですが、八〇年には間違いなく入ってました)。

ウィキペディアの「モナ・リザ」を見ると、一九五六年に観客によって酸が浴びせられるという事件があったらしい。とすると、この写真はその事件の直前に撮られたのかもしれない。額縁にガラスは入っていなかったということになる。しかも見やすいように踏台まである。

現在でもたいていの作品はガラスのないままむき出しで展示されているから(観賞するには有り難い措置ですが、無数の来場者による被害も少なくないでしょうね)、専用ルームで防弾ガラスによって守られているモナ・リザの場合は異例中の異例だろう。

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by sumus2013 | 2018-04-25 21:17 | 巴里アンフェール | Comments(0)

WOLS

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『WOLS』(GALERIE EUROPE, 1959)。ギャルリ・ウーロップ(セーヌ通り22番地、パリ)で一九五九年十二月から一九六〇年二月まで開催されたヴォルス展の図録。

巻末の出品リストによれば、デッサン二点、ガッシュ四十五点、絵画(PEINTURES)が十二点出品されていた。これはおそらくこの時点ではヴォルス(1913-1951)の最も規模の大きな回顧展だっただろう。パリにおける過去の展覧会歴も掲載されており、一九三九年から五一年まで十七箇所で展示された作品のなかから集めたものだったことが分る。ヴォルスはベルリン生れだが、一九三二年にパリに来てパリで歿した。活動はほとんどパリで行い、実存主義のパリで認められて行ったことになる。

この図録だけだと買わなかったかもしれないが、中ほどに下のような二つ折りのパピヨンが挟んであった。タテ12cmというまさに掌サイズ。デッサンとヴォルスの詩?らしきものが印刷されている。

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ブラッサンス公園の古本市にて。画集やカタログなど美術系の雑書をたんまり並べていた店。主人の顔に見覚えがなかった。これだけ数があれば何かあるだろうと、じっくり掘り返したのだが、これ以外にはそそられるものを見つけられなかったので、また、この本にもたまたま値段が書かれていなかっため、買おうかどうしようか、かなり迷った。

中国人カップルの執拗なディスカウント攻撃に防戦一方だった初老の主人が一息ついたところを見計らって値段を尋ねてみた。中国人のこともあってか、最初から「10ユーロ」という意外な値段で答えたので即決もらうことにした。エフェメラ付きだから高くはないだろうと思う。

一九七六年、パリの土地を初めて踏んだときだったが、工事中だったポンピドゥのすぐ南側(だったと思う)にあった小さな画廊でヴォルス写真展を見た。ヴォルスは写真も撮っていたのだ!という驚きがあった。今もって忘れられないくらいいい展示だった。彼の写真も素晴らしい。

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by sumus2013 | 2017-10-05 20:52 | 巴里アンフェール | Comments(0)

Chroniques 78

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BnF(フランス国立図書館)の発行する雑誌『Chroniques クロニック』78号(2017年1月〜3月号)。トポールの展覧会を見たときにもらったもの。無料。トポール展の紹介が載っている。

トポールの世界 パリの国立フランソワ・ミッテラン図書館

この号の特集はリシュリュー館(旧・国立図書館、ルーブル美術館の少し北にある、二区)。現在改修中。二〇二〇年までに全貌を現すそうだから、まだしばらく工事が続くようだ。表紙の写真および下の写真も同館の十九世紀末風な建物の様子を伝えている。下の楕円閲覧室は一八九〇年に計画された。完成は一九三六年。

小生も旧館には一九九八年に一度だけ入ったことがある。館内で開催されていた展覧会を見るため。図書館は予約が必要。ここに新たに国立美術史研究所(ジャック・ドゥーセ Jacques-Doucet のコレクションを持つ)と国立古文書学校図書館が設置されるそうだ。

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それ以外の記事で目に留まったのは「略奪された書物」。ドイツ軍の占領下でフランスからドイツへ運ばれた本、写本、古文書、版画などを調査している研究員へのインタビュー。一九四二年から主に東ヨーロッパからの移民やユダヤ人たちのコレクションが収奪されドイツへ持ち込まれた。それがどのくらいの数になるのかさえはっきり分らない。五百万から一千万冊の間であろうとのこと。戦後、およそ二百万冊は返還されたが、それら以外は行方不明のままであるという。

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それで思い出すのは映画「黄金のアデーレ 名画の帰還」(2015)。オーストリアの富裕なユダヤ人家庭からナチスによって奪われたクリムトの代表作「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像」は戦争が終わった後も返却されず、オーストリアの美術館の所蔵となった。米国に移住した遺族が、それが不法に略奪されたものだと訴えて取り戻すというお話。

被害者にとっての戦争は終わらない・・

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by sumus2013 | 2017-10-02 20:29 | 巴里アンフェール | Comments(0)

FORMES

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福島繁太郎が発行していた『FORMES(フォルム)』の第一号と第十一号。これはもう三十年ほども前に買ったもの。よく覚えていないが、状態が悪いのでそれぞれ五百円くらいだったと思う。造形美術の国際雑誌、年十回発行、英仏二カ国語で出版とうたっている。

第1号 1929年12月発行 英語版

EDITORIAL OFFICE
42, RUE PASQUIER, PARIS

BUSINESS OFFICE
18, RUE GODOT-DE-MAUROY, PARIS

DIRECTOR S. FUKUSHIMA

ART DIRECTOR WALDEMAR GEORGE

SECRETARY MARCEL ZAHAR

EDITIONS DES QUATRE CHEMINS
18, RUE GODOT-DE-MAUROY, PARIS


第11号 1931年1月発行 フランス語版。フランス側のスタッフは第一号と同じだが、アメリカ版の記載が増えている。

AMERICAN STAFF A. HYATT-MAYOR

CIRCULATION MANAGER SHIRLEY O. WOLF

NEW-YORK OFFICE
DEMOTTE, inc. 25 East, 78th Street, NEW-YORK

『戦後洋画と福島繁太郎 昭和美術の一側面』(山口県立美術館、一九九一年)によればこの雑誌は一九二九年一二月に創刊され、一九三三年までの四年にわたって一年十回(夏の二ヶ月は休む)全三十三号が発行された。ルネ・ユイグ、ウーデ、ルイ・ヴォークセル、エリー・フォールらの他多彩な寄稿家が誌面を賑わした。

編集主任のワルドマール・ジョルジュ(Waldemar-George, 1893-1970、本名 Jerzy Waldemar Jarocinski)はポーランド(当時ロシア)生れ。第一次世界大戦でフランス軍に志願したことによりフランスへ帰化した。戦後パリに住み着いて美術評論家、ジャーナリストとして活躍。スラブ系の若き画家たち、シャガールやスーチンの紹介に努めた。『フォルム』の他に『L'Amour de l'art』(1920-1926)という雑誌の編集もしていた。編集長のマルセル・ザール(MARCEL ZAHAR, 1898-1989)は歴史家、美術評論家。

EDITIONS DES QUATRE CHEMINS(四ツ辻出版?)は福島の企画を請け負っただけなのかもしれないが(同名の出版社が現存する)、詳しくは不明。

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第1号のカラー口絵・ルオー


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ポール・ギョームの広告



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フォートリエのサロン・ドートンヌ出品作


記事によれば、この年(1929)のサロン・ドートンヌ(秋の展覧会)には6000作品の応募があり、その内の500点が入選したとのことである。フォートリエ(1898-1964)のこういう作品は珍しいような気がする。


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広告ページで興味を引かれたのは「LE BOEUF SUR LE TOIT(屋根の上の牡牛)」。一九二二年一月一〇日にルイ・モワゼ(Louis Moysès)がオープンしたパリ八区のキャバレーである。ジャン・コクトーの根城として二大戦間(l’entre-deux-guerres)にはよく知られていた。

ブラジルから戻ったダリウス・ミヨーがコクトーにブラジルの流行歌のメロディーを紹介し、彼らのグループ「Les six 六人組」でその曲を使ったバレー・コメディを計画した。それは「屋根の上の牡牛」(ブラジルの歌のタイトルから)と名付けられルイ・モワゼのバーで公演され評判を呼んだ。そこでルイ・モワゼは店を移転して「屋根の上の牡牛」と名付けたというのだ。それは二〇年代のパリのキャバレーを代表する店となった。あらゆるジャンルのアーティストたちを惹き付けた。ピカビアの「L’Œil cacodylate」は長らくここに掛けられていた。とここまでウィキを訳していて前にも紹介していたことを思い出した。

屋根の上の牛

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by sumus2013 | 2017-09-28 21:56 | 巴里アンフェール | Comments(0)

巴里の藝術家たち

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福島慶子『巴里の藝術家たち』(三笠文庫、一九五二年一一月一五日)。面白く読了。とくにルオー、マチスとの親しい交遊は読みどころが多い。

明治三十三年東京に生まる。九段精華高女卒業。大正八年渡欧し、イギリスに二年、つづいてフランスに十数年滞在し昭和八年帰国した。マチス、ルオーはじめ現代フランスの芸術家との交遊深く、美術評論その他エッセイに健筆をふるっている。福島コレクションで著名な福島繁太郎氏夫人。夫君と共に画廊フォルムを銀座に経営している。著書に「巴里と東京」「少年少女のためのフランスの話」「巴里アルバム」「巴里たべある記」等がある。》(著者紹介)

歿したのは昭和五十八年九月七日。兵庫県出身。父は荘清次郎。

荘清次郎 しょう せいじろう
1862-1926 明治-大正時代の実業家。
文久2年1月20日生まれ。荘清彦,福島慶子の父。岩崎久弥の家庭教師となり,渡米に同行。三菱社にはいり,明治26年三菱合資を設立して社長となった久弥の信任を得,大正5年専務理事兼管事となる。三菱製紙所,東京倉庫などの役員も兼務した。昭和元年12月25日死去。65歳。肥前大村(長崎県)出身。東京大学卒。》(コトバンク)

福島繁太郎、ウィキにもその出自が書かれていないが、明治二十八年生れ。大正十年に東京帝大法学部政治学科を卒業して英国留学。大正十二年にパリに移り、一九二九年パリで『FORMES』という美術雑誌を創刊している。福島慶子が初めてマチスに会ったのは一九二五年七月五日。その二、三年後にニースで再会した。

マチスは私たちが何時何處で彼のこの様な作品を見たとか、あの作品を見たとかいうと一々それに使用した衣裳や道具、椅子や布などを見せ、さらに家中の部屋々に私たちを案内して彼の持つているクールベーやセザンヌ、その他の美術品、参考品を見せてくれた。モデルに使う衣裳や首飾りは彼自身でニースのギャラリー・ラファイエットに行つて、小布を見立てて來て自分で縫い、髪や、手足につける飾物も安物を買つて來て自分で糸で繋ぐのだということである。

部屋々の壁には自作の畫、ドイツ製四色版のマチスのオダリスク、カルナバルのマスク、雜誌の切抜きの寫真、色紙、ボナールのパレット、貝殻、東洋製の腕環、木炭や鉛筆で描かれた下畫、サラサの切つ端、等々、思い思いの場所に、或は釘に掛けられ、或はピンで止められ、こんなものが何の参考になるのかと不思議に思える物等もあつて、私たちは非常に興味深く眺められた。

ドランの家も訪問している。パリのモンスリ公園の近くにジョルジュ・ブラックと並んで住んでいたそうだ。

応接間の入口の両側の壁にコローの小品が二點掛けてあるのも彼らしく、なるほどとおもつた。又ホールの處々に置かれたネグロ、オセアニアの彫刻も、彼のフォーヴ時代の記念品のような氣がして親しく眺められたが、これ等の観賞すべき物も決して必要以上に並べ立ててはおらず、至極簡素に充實されて氣持よかつた。

肝心の福島コレクションについても簡単な言及が見える。

私は何時もお客にするように家中を案内し壁一ぱいに掛けられた現代畫のコレクシォンを一々見せて廻つたのである。それ等はピカソ、マチス、ドラン、ルオー、ユトリロ、モディリアニ、パスキン、フリエッフ、ブラマンク、シャガール、アンリ・ルッソー、ド・ラ・フレネイ、テレスコヴィッチ、ベラール、エルンストといつた案排で凡そ官展派の敵のような群りだつたのでシモン氏はガゼン沈黙してしまつた。僅かにルノアールとコローの前だけでは立ち止つて暫くじつと眺めていたが何も云わない。

文中「フリエッフ」とあるのは「フリエス Friesz」の誤植か。また益田義信は本書の解説に以下のように書いている。宮田重雄に連れられて十六区ヴィオン・ウィコンブ街のアパルトマンに福島夫妻を初めて訪ねた。昭和二年か三年らしい。

はいつて直ぐの廊下から、サロン、食堂、書齋、寝室の壁に到るまでぎつしりと掛けられたエコール・ド・パリの巨匠達の作品に壓倒されて、當時廿四歳の青年は亢奮してしまつた。ピカソの青の時代の母子像、新古典時代の女の顔、ブラックの女と静物、數えきれぬマチス、落ちつきはらつたドランの数々、更に壓倒的なルオーを一時に見せられたのだから、亢奮しない方がどうかしている。

當時はフランが安く、對日本の爲替も安定していたので巴里は日本人の洪水だつた。だが福島一家の様に、フランスで本當の家庭を持ち、運轉手や女中を雇つて生活した人は極めて稀である。又、彼等程直接に現代フランス畫壇の巨匠達と直接交遊を持つた一家は他に無い。

朝日新聞一九六六年四月二八日号によれば福島が帰国時に持ち帰った作品は八十五点だったそうだ。それもすべて散逸し(画商を始めるとコレクションは保持できない道理である)、同年ブリヂストン美術館で開催された「旧福島コレクション展」では四十九点が展示されたらしい(ウィキより)。

『日仏文化協定発効記念 ルオー展』(東京国立博物館、一九五三年)図録

宮田重雄『竹頭帖』(文藝春秋新社、一九五九年)


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by sumus2013 | 2017-09-26 21:15 | 巴里アンフェール | Comments(0)

招待状

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パリ中心部の某古書店にて。店名は不明。屋号が出ていないのだ。ここの表の均一台が凄い。0.5〜2ユーロくらいの雑本ばかりを放出しているなかに馬鹿にならない掘り出しものがまじっている。ラテン区なので学生も多いのかもしれないが、皆、それを知っているんだねえ、通りすがりに眺めて買って行く。だから入れ替えも頻繁(さすがに神保町の田村書店ほどではないけど)。絵葉書も常時何百枚と出ているが、一昨年と較べると、今年は見劣りした。「チェッ」という感じ。ただ、それでもかろうじてこの二点の招待状を確保した。

手前の白いのが第五回サロン・デュ・リーヴルの招待状。一九八五年五月二二日から二七日までグラン・パレで開催された。二一日の内覧会への招待である。サロン・デュ・リーヴルは現在も継続されており、フランスでは最も格式の高い古書市となっている(現在の会場はポルト・ド・ヴェルサイユ、毎年五月なので、まだ訪れたことはない)。

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招待の文面。M. ___のところに名前が入るはずなので、これは未使用ということ。一番上のジャック・リゴー(Jacques Rigaud)は文化畑の高級官僚。パリ、サロン・デュ・リーヴル創設のときの幹事の一人で(当時の大統領はミッテラン、文化相はジャック・ラング)、「書物読書協会 l’Association pour le livre et la lecture」の会長も務めていた。二人目のジャン・マニュエル・ブールゴワ(Jean-Manuel Bourgois)は出版人、兄のクリスチャン・ブルゴア(Christian Bourgois)の方がよく知られているだろう(というか小生でも知っている)。自分の名前の版元を一九六六年に設立して「10/18」のポケットブックを刊行した。またファッション・ブランドであるアニェス・ベーの「b」は元夫のクリスチャンの姓 Bourgois からきている。アニェスの本名はトゥルーブレ(Troublé)。

奧のもう一枚は一九九三年九月から九四年一月までオランジュリー美術館で開催された「Les Arts à Paris chez Paul Guillaume 1918-1935」。ポール・ギョームはモディリアニの画商としてあまりにも有名。映画に登場していたのも印象深い。しかし彼はフランスにアフリカ美術を初めて紹介したディーラーの一人としても高く評価されている(一九一九年に最初の黒人美術とオセアニア美術の展覧会を組織した)。彼がたまたま飾っていたアフリカ彫刻がアポリネールの目に留まり、アポリネールを通じて当時の若き作家たちと知合いになったという。そのなかにモディリアニ、マティス、ピカソなどがいたわけである。ギョームの持っていた二十世紀絵画の一部は現在オランジュリ美術館に所蔵されているが、この展覧会は『Les Arts à Paris』というギョームの発行していた雑誌の紹介のようである。招待状にその何冊かが印刷されている。こういうのをブラッサンス公園で見つけたいもの……。

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モディリアニ「ポール・ギュヨーム」1915


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by sumus2013 | 2017-08-30 21:29 | 巴里アンフェール | Comments(0)

そら豆の宝

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すでに報告したシャロンヌ教会の古本市での一冊、CHARLES NODIER『TRÉSOR DES FÈVES FLEUR DES POIS』(BIBLIOTHÈQUE BLANCHE, HACHETTE, 1925)。シャルル・ノディエ(1780-1844)の『そら豆の宝と豆の花』と題されたおとぎ話集。挿絵は Tony Johannot(1803-1852)。オリジナルは一八三三年に刊行されている。ノデェエはブザンソンの生れ。おもにパリで活動したが、図書館の司書や雑誌の編集などをしながら数多くの記事を執筆した。

一八三三年というのはノディエがアカデミー・フランセーズの会員に選ばれた年でもあり、波乱の多かった彼の人生のなかではもっとも平安な時期だった。一八三四年、ノディエはテシュネ書店(Le librairie Techenet)とともに『愛書家公報 Bulletin du bibliophile』を刊行し一八四三年にいたるまで定期的にそこへ寄稿した。その当時彼はアルスナル図書館に勤めていたため数多くの稀覯本や珍書に接する機会があったのでそれらが様々な主題について研究するための糧となっていた。

ということで、このおとぎ話も豆から生まれた小さな少年が子供のいない老夫婦に育てられ、旅に出ていろいろな出来事をのりこえながら成長し(文字通り)、「豆の花」という王女と結ばれる、という日本人ならあららと思うようなストーリーなのである。

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そら豆の宝を育てる老夫婦
「子供がほしいのお…」


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そら豆から生まれた宝物
「あれま、こんなところに男の子が!」


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そら豆エキスを街でお金に換えるため旅に出る、と……
いろいろな獣と出会う。


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豆の花の宮殿に泊まる。
そこには
美術ギャラリーもあれば
アンティーク・ギャラリーもあれば
昆虫、貝、鳥などの博物室もある。
(ノディエの趣味らしい)
そして

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なんといっても素晴らしい書斎(sa bibliothèque)があった。ドンキホーテ、ウドー夫人の著名な青色文庫(la Bibliothèque bleue 十七世紀の初めにフランスで出版された大衆向け読み物)、あらゆる種類のおとぎ話、銅版画の美しい挿絵が入っている、最良のロビンソンやガリヴァーを含む奇妙で面白い旅行書コレクション、素晴らしい年鑑類、農業や庭園について書かれた無数の論文……人間にとって必要なもの、読みたいと思うものが全て揃っていた。しかしそれ以外の不要不急の学者、哲学者、詩人のものは一切置かれていない。

ヴィクトール・ユゴー、アフルレッド・ド・ミュッセ、サント・ブーヴらもノディエの影響を蒙っているという、その文学観がこのくだりによく現れているように思われる。

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めでたし、めでたし


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by sumus2013 | 2017-08-26 21:33 | 巴里アンフェール | Comments(0)