林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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カテゴリ:巴里アンフェール( 18 )

LOVE書店!

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フリーペーパー『LOVE書店! 24』(本屋大賞実行委員会、二〇一八年三月)というものをもらった。表紙の女子は乃木坂46の齋藤飛鳥さん。題字も。《本屋さんには、よく行きます。私はやっぱり"紙派"ですね。》と頼もしい言葉が。もっぱら「タイトル買い」だとか。

タブロイド判12頁でその12頁目の「LOVE! WINDOWS」に鹿島茂氏が「パリの本屋さん」を連載している。今号第二十三回は「フランスの中古書店の現状」。

近年フランス古書業界でも所得格差が著しくなっているそうだ。

《とくにひどいのが、絶対的に希少なアイテム、つまり、オークションにはせいぜい10年に1度くらいしか登場しないような超レアーなアイテムである。値上がりぶりは、かなり過激になっている。どれくらいかというと、最低で10年前の2倍、ひどいときには3、4倍ということもある。私がしゃかりきになって収集に打ち込んでいた30年前の相場と比べたら、10倍は軽いのではないか?》

そして、その一例としてルドゥテの『バラ図譜』が挙げられる。

《たとえば、これはもう3年前になるが、パリで一番高い古書店で売られていたルドゥテの『バラ図譜』3巻本は、なんと3億円! 30年前に3千万円と言われて仰天した記憶があるから、まさに10倍の値上がりである。もっとも、染みひとつない完璧なアイテムだったので、この値段でもしかたないかもしれないが。》

要するに、持ったもの勝ち、売り手の言い値市場になったわけだ。では何故こんなことになったのか? 鹿島氏によれば、それは不動産価格が激しく値上がりしたからだという。ヨーロッパでは不動産市場と高級古書市場は連動するのだとか。パリでは不動産価格もオークションで決定される。美術品もドゥルオー(オークション会場)での落札価格が基準になる。有価証券や不動産の市場が煮詰まってくると、投資家はまず美術品市場へ、次に高級古書市場へシフトする。昔どこかで聞いたようなバブリーな話ですな。

《現在、アメリカや日本でだぶついたマネーは、ヨーロッパの債券市場や不動産市場を席巻した後、数年前からついに高級古書市場にまで流れこんできている。だが、しかし、いかにも今日的だと思われるのは、それはあくまで"高級古書市場だけ"に限られる現象であるということだ。高級古書を除くと、古書一般は値上がりどころか、むしろ大きく値を下げている。まったく値が付かなくなって、廃棄処分に回される古書も増えてきている。》

ルドゥテ(Redouté, Pierre Joseph, 1759-1840)の『バラ図譜 Les Roses』(Firmin Didot, 1817-1824)がどんな本かというと、以下のようなものである。古書サイトには初版本の画像が見当たらなかったので(目下 AbeBooks.com には EUR 655 204,95:8583万円:US$ 750,000.00 で出品されているのが最高値)米国の議会図書館所蔵本のPDFにリンクしておく。

Les roses,

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by sumus2013 | 2018-05-22 20:16 | 巴里アンフェール | Comments(0)

パリの素顔

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新潟から戻ると届いていた一冊がこちら、『パリの素顔』(岩波写真文庫194、岩波書店、一九五六年七月二五日)。監修は美術史家の柳宗玄(柳宗悦の次男)。一九五〇年代の典型的なパリの姿がとどめられており、すこぶる興味深い。【本書は復刻版が出ており、今でも入手できるそうです。北書店の佐藤氏が教えてくれました】

例えば、少し前に紹介した『対談ジャコメッティについて』(用美社、一九八三年)に語られている矢内原伊作がジャコメッティのモデルになった話は一九五五年のことである。まさに、この写真文庫に写し取られているパリがその背景となっていた。田村泰次郎『人間の街パリ』(大日本雄弁会講談社、一九五七年)も同時代。

ジャコメッティについて

人間の街パリ


なにはともあれ古本屋を探す。セーヌ河岸のブキニストが二度登場。ただしそれ以外の古書店も新刊書店も無視されているのは少々寂しい。

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鳩爺さんなんて呼ばれる名物男がいたんだ。それにしてもこの古本箱は相当な年代物。革命時代あたりまで遡るのかもしれない。現在はここまで古い箱はないと思う……たぶん。後ろの建物はルーヴルだろう。とすると、ケ・ド・コンティ(Quai de Conti)あたりか。最初の写真はノートルダム・ド・パリがシルエットになっている。


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新聞雑誌の販売店。今もいたるところにあるが、多少おもむきは異なる。路上のアーティストも禁止されているのか、最近は見た記憶がない(ポンピドゥーの前で誰か描いていたかも……)。落書きは今も昔もいたるところにある。


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一九五〇年代のモナ・リザの展示。小生が一九七六年に初めて見たときには、すでにガラス張りのケースに入っていた、と思う(多少あいまいな記憶ですが、八〇年には間違いなく入ってました)。

ウィキペディアの「モナ・リザ」を見ると、一九五六年に観客によって酸が浴びせられるという事件があったらしい。とすると、この写真はその事件の直前に撮られたのかもしれない。額縁にガラスは入っていなかったということになる。しかも見やすいように踏台まである。

現在でもたいていの作品はガラスのないままむき出しで展示されているから(観賞するには有り難い措置ですが、無数の来場者による被害も少なくないでしょうね)、専用ルームで防弾ガラスによって守られているモナ・リザの場合は異例中の異例だろう。

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by sumus2013 | 2018-04-25 21:17 | 巴里アンフェール | Comments(0)

WOLS

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『WOLS』(GALERIE EUROPE, 1959)。ギャルリ・ウーロップ(セーヌ通り22番地、パリ)で一九五九年十二月から一九六〇年二月まで開催されたヴォルス展の図録。

巻末の出品リストによれば、デッサン二点、ガッシュ四十五点、絵画(PEINTURES)が十二点出品されていた。これはおそらくこの時点ではヴォルス(1913-1951)の最も規模の大きな回顧展だっただろう。パリにおける過去の展覧会歴も掲載されており、一九三九年から五一年まで十七箇所で展示された作品のなかから集めたものだったことが分る。ヴォルスはベルリン生れだが、一九三二年にパリに来てパリで歿した。活動はほとんどパリで行い、実存主義のパリで認められて行ったことになる。

この図録だけだと買わなかったかもしれないが、中ほどに下のような二つ折りのパピヨンが挟んであった。タテ12cmというまさに掌サイズ。デッサンとヴォルスの詩?らしきものが印刷されている。

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ブラッサンス公園の古本市にて。画集やカタログなど美術系の雑書をたんまり並べていた店。主人の顔に見覚えがなかった。これだけ数があれば何かあるだろうと、じっくり掘り返したのだが、これ以外にはそそられるものを見つけられなかったので、また、この本にもたまたま値段が書かれていなかっため、買おうかどうしようか、かなり迷った。

中国人カップルの執拗なディスカウント攻撃に防戦一方だった初老の主人が一息ついたところを見計らって値段を尋ねてみた。中国人のこともあってか、最初から「10ユーロ」という意外な値段で答えたので即決もらうことにした。エフェメラ付きだから高くはないだろうと思う。

一九七六年、パリの土地を初めて踏んだときだったが、工事中だったポンピドゥのすぐ南側(だったと思う)にあった小さな画廊でヴォルス写真展を見た。ヴォルスは写真も撮っていたのだ!という驚きがあった。今もって忘れられないくらいいい展示だった。彼の写真も素晴らしい。

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by sumus2013 | 2017-10-05 20:52 | 巴里アンフェール | Comments(0)

Chroniques 78

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BnF(フランス国立図書館)の発行する雑誌『Chroniques クロニック』78号(2017年1月〜3月号)。トポールの展覧会を見たときにもらったもの。無料。トポール展の紹介が載っている。

トポールの世界 パリの国立フランソワ・ミッテラン図書館

この号の特集はリシュリュー館(旧・国立図書館、ルーブル美術館の少し北にある、二区)。現在改修中。二〇二〇年までに全貌を現すそうだから、まだしばらく工事が続くようだ。表紙の写真および下の写真も同館の十九世紀末風な建物の様子を伝えている。下の楕円閲覧室は一八九〇年に計画された。完成は一九三六年。

小生も旧館には一九九八年に一度だけ入ったことがある。館内で開催されていた展覧会を見るため。図書館は予約が必要。ここに新たに国立美術史研究所(ジャック・ドゥーセ Jacques-Doucet のコレクションを持つ)と国立古文書学校図書館が設置されるそうだ。

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それ以外の記事で目に留まったのは「略奪された書物」。ドイツ軍の占領下でフランスからドイツへ運ばれた本、写本、古文書、版画などを調査している研究員へのインタビュー。一九四二年から主に東ヨーロッパからの移民やユダヤ人たちのコレクションが収奪されドイツへ持ち込まれた。それがどのくらいの数になるのかさえはっきり分らない。五百万から一千万冊の間であろうとのこと。戦後、およそ二百万冊は返還されたが、それら以外は行方不明のままであるという。

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それで思い出すのは映画「黄金のアデーレ 名画の帰還」(2015)。オーストリアの富裕なユダヤ人家庭からナチスによって奪われたクリムトの代表作「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像」は戦争が終わった後も返却されず、オーストリアの美術館の所蔵となった。米国に移住した遺族が、それが不法に略奪されたものだと訴えて取り戻すというお話。

被害者にとっての戦争は終わらない・・

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by sumus2013 | 2017-10-02 20:29 | 巴里アンフェール | Comments(0)

FORMES

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福島繁太郎が発行していた『FORMES(フォルム)』の第一号と第十一号。これはもう三十年ほども前に買ったもの。よく覚えていないが、状態が悪いのでそれぞれ五百円くらいだったと思う。造形美術の国際雑誌、年十回発行、英仏二カ国語で出版とうたっている。

第1号 1929年12月発行 英語版

EDITORIAL OFFICE
42, RUE PASQUIER, PARIS

BUSINESS OFFICE
18, RUE GODOT-DE-MAUROY, PARIS

DIRECTOR S. FUKUSHIMA

ART DIRECTOR WALDEMAR GEORGE

SECRETARY MARCEL ZAHAR

EDITIONS DES QUATRE CHEMINS
18, RUE GODOT-DE-MAUROY, PARIS


第11号 1931年1月発行 フランス語版。フランス側のスタッフは第一号と同じだが、アメリカ版の記載が増えている。

AMERICAN STAFF A. HYATT-MAYOR

CIRCULATION MANAGER SHIRLEY O. WOLF

NEW-YORK OFFICE
DEMOTTE, inc. 25 East, 78th Street, NEW-YORK

『戦後洋画と福島繁太郎 昭和美術の一側面』(山口県立美術館、一九九一年)によればこの雑誌は一九二九年一二月に創刊され、一九三三年までの四年にわたって一年十回(夏の二ヶ月は休む)全三十三号が発行された。ルネ・ユイグ、ウーデ、ルイ・ヴォークセル、エリー・フォールらの他多彩な寄稿家が誌面を賑わした。

編集主任のワルドマール・ジョルジュ(Waldemar-George, 1893-1970、本名 Jerzy Waldemar Jarocinski)はポーランド(当時ロシア)生れ。第一次世界大戦でフランス軍に志願したことによりフランスへ帰化した。戦後パリに住み着いて美術評論家、ジャーナリストとして活躍。スラブ系の若き画家たち、シャガールやスーチンの紹介に努めた。『フォルム』の他に『L'Amour de l'art』(1920-1926)という雑誌の編集もしていた。編集長のマルセル・ザール(MARCEL ZAHAR, 1898-1989)は歴史家、美術評論家。

EDITIONS DES QUATRE CHEMINS(四ツ辻出版?)は福島の企画を請け負っただけなのかもしれないが(同名の出版社が現存する)、詳しくは不明。

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第1号のカラー口絵・ルオー


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ポール・ギョームの広告



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フォートリエのサロン・ドートンヌ出品作


記事によれば、この年(1929)のサロン・ドートンヌ(秋の展覧会)には6000作品の応募があり、その内の500点が入選したとのことである。フォートリエ(1898-1964)のこういう作品は珍しいような気がする。


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広告ページで興味を引かれたのは「LE BOEUF SUR LE TOIT(屋根の上の牡牛)」。一九二二年一月一〇日にルイ・モワゼ(Louis Moysès)がオープンしたパリ八区のキャバレーである。ジャン・コクトーの根城として二大戦間(l’entre-deux-guerres)にはよく知られていた。

ブラジルから戻ったダリウス・ミヨーがコクトーにブラジルの流行歌のメロディーを紹介し、彼らのグループ「Les six 六人組」でその曲を使ったバレー・コメディを計画した。それは「屋根の上の牡牛」(ブラジルの歌のタイトルから)と名付けられルイ・モワゼのバーで公演され評判を呼んだ。そこでルイ・モワゼは店を移転して「屋根の上の牡牛」と名付けたというのだ。それは二〇年代のパリのキャバレーを代表する店となった。あらゆるジャンルのアーティストたちを惹き付けた。ピカビアの「L’Œil cacodylate」は長らくここに掛けられていた。とここまでウィキを訳していて前にも紹介していたことを思い出した。

屋根の上の牛

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by sumus2013 | 2017-09-28 21:56 | 巴里アンフェール | Comments(0)

巴里の藝術家たち

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福島慶子『巴里の藝術家たち』(三笠文庫、一九五二年一一月一五日)。面白く読了。とくにルオー、マチスとの親しい交遊は読みどころが多い。

明治三十三年東京に生まる。九段精華高女卒業。大正八年渡欧し、イギリスに二年、つづいてフランスに十数年滞在し昭和八年帰国した。マチス、ルオーはじめ現代フランスの芸術家との交遊深く、美術評論その他エッセイに健筆をふるっている。福島コレクションで著名な福島繁太郎氏夫人。夫君と共に画廊フォルムを銀座に経営している。著書に「巴里と東京」「少年少女のためのフランスの話」「巴里アルバム」「巴里たべある記」等がある。》(著者紹介)

歿したのは昭和五十八年九月七日。兵庫県出身。父は荘清次郎。

荘清次郎 しょう せいじろう
1862-1926 明治-大正時代の実業家。
文久2年1月20日生まれ。荘清彦,福島慶子の父。岩崎久弥の家庭教師となり,渡米に同行。三菱社にはいり,明治26年三菱合資を設立して社長となった久弥の信任を得,大正5年専務理事兼管事となる。三菱製紙所,東京倉庫などの役員も兼務した。昭和元年12月25日死去。65歳。肥前大村(長崎県)出身。東京大学卒。》(コトバンク)

福島繁太郎、ウィキにもその出自が書かれていないが、明治二十八年生れ。大正十年に東京帝大法学部政治学科を卒業して英国留学。大正十二年にパリに移り、一九二九年パリで『FORMES』という美術雑誌を創刊している。福島慶子が初めてマチスに会ったのは一九二五年七月五日。その二、三年後にニースで再会した。

マチスは私たちが何時何處で彼のこの様な作品を見たとか、あの作品を見たとかいうと一々それに使用した衣裳や道具、椅子や布などを見せ、さらに家中の部屋々に私たちを案内して彼の持つているクールベーやセザンヌ、その他の美術品、参考品を見せてくれた。モデルに使う衣裳や首飾りは彼自身でニースのギャラリー・ラファイエットに行つて、小布を見立てて來て自分で縫い、髪や、手足につける飾物も安物を買つて來て自分で糸で繋ぐのだということである。

部屋々の壁には自作の畫、ドイツ製四色版のマチスのオダリスク、カルナバルのマスク、雜誌の切抜きの寫真、色紙、ボナールのパレット、貝殻、東洋製の腕環、木炭や鉛筆で描かれた下畫、サラサの切つ端、等々、思い思いの場所に、或は釘に掛けられ、或はピンで止められ、こんなものが何の参考になるのかと不思議に思える物等もあつて、私たちは非常に興味深く眺められた。

ドランの家も訪問している。パリのモンスリ公園の近くにジョルジュ・ブラックと並んで住んでいたそうだ。

応接間の入口の両側の壁にコローの小品が二點掛けてあるのも彼らしく、なるほどとおもつた。又ホールの處々に置かれたネグロ、オセアニアの彫刻も、彼のフォーヴ時代の記念品のような氣がして親しく眺められたが、これ等の観賞すべき物も決して必要以上に並べ立ててはおらず、至極簡素に充實されて氣持よかつた。

肝心の福島コレクションについても簡単な言及が見える。

私は何時もお客にするように家中を案内し壁一ぱいに掛けられた現代畫のコレクシォンを一々見せて廻つたのである。それ等はピカソ、マチス、ドラン、ルオー、ユトリロ、モディリアニ、パスキン、フリエッフ、ブラマンク、シャガール、アンリ・ルッソー、ド・ラ・フレネイ、テレスコヴィッチ、ベラール、エルンストといつた案排で凡そ官展派の敵のような群りだつたのでシモン氏はガゼン沈黙してしまつた。僅かにルノアールとコローの前だけでは立ち止つて暫くじつと眺めていたが何も云わない。

文中「フリエッフ」とあるのは「フリエス Friesz」の誤植か。また益田義信は本書の解説に以下のように書いている。宮田重雄に連れられて十六区ヴィオン・ウィコンブ街のアパルトマンに福島夫妻を初めて訪ねた。昭和二年か三年らしい。

はいつて直ぐの廊下から、サロン、食堂、書齋、寝室の壁に到るまでぎつしりと掛けられたエコール・ド・パリの巨匠達の作品に壓倒されて、當時廿四歳の青年は亢奮してしまつた。ピカソの青の時代の母子像、新古典時代の女の顔、ブラックの女と静物、數えきれぬマチス、落ちつきはらつたドランの数々、更に壓倒的なルオーを一時に見せられたのだから、亢奮しない方がどうかしている。

當時はフランが安く、對日本の爲替も安定していたので巴里は日本人の洪水だつた。だが福島一家の様に、フランスで本當の家庭を持ち、運轉手や女中を雇つて生活した人は極めて稀である。又、彼等程直接に現代フランス畫壇の巨匠達と直接交遊を持つた一家は他に無い。

朝日新聞一九六六年四月二八日号によれば福島が帰国時に持ち帰った作品は八十五点だったそうだ。それもすべて散逸し(画商を始めるとコレクションは保持できない道理である)、同年ブリヂストン美術館で開催された「旧福島コレクション展」では四十九点が展示されたらしい(ウィキより)。

『日仏文化協定発効記念 ルオー展』(東京国立博物館、一九五三年)図録

宮田重雄『竹頭帖』(文藝春秋新社、一九五九年)


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by sumus2013 | 2017-09-26 21:15 | 巴里アンフェール | Comments(0)

招待状

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パリ中心部の某古書店にて。店名は不明。屋号が出ていないのだ。ここの表の均一台が凄い。0.5〜2ユーロくらいの雑本ばかりを放出しているなかに馬鹿にならない掘り出しものがまじっている。ラテン区なので学生も多いのかもしれないが、皆、それを知っているんだねえ、通りすがりに眺めて買って行く。だから入れ替えも頻繁(さすがに神保町の田村書店ほどではないけど)。絵葉書も常時何百枚と出ているが、一昨年と較べると、今年は見劣りした。「チェッ」という感じ。ただ、それでもかろうじてこの二点の招待状を確保した。

手前の白いのが第五回サロン・デュ・リーヴルの招待状。一九八五年五月二二日から二七日までグラン・パレで開催された。二一日の内覧会への招待である。サロン・デュ・リーヴルは現在も継続されており、フランスでは最も格式の高い古書市となっている(現在の会場はポルト・ド・ヴェルサイユ、毎年五月なので、まだ訪れたことはない)。

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招待の文面。M. ___のところに名前が入るはずなので、これは未使用ということ。一番上のジャック・リゴー(Jacques Rigaud)は文化畑の高級官僚。パリ、サロン・デュ・リーヴル創設のときの幹事の一人で(当時の大統領はミッテラン、文化相はジャック・ラング)、「書物読書協会 l’Association pour le livre et la lecture」の会長も務めていた。二人目のジャン・マニュエル・ブールゴワ(Jean-Manuel Bourgois)は出版人、兄のクリスチャン・ブルゴア(Christian Bourgois)の方がよく知られているだろう(というか小生でも知っている)。自分の名前の版元を一九六六年に設立して「10/18」のポケットブックを刊行した。またファッション・ブランドであるアニェス・ベーの「b」は元夫のクリスチャンの姓 Bourgois からきている。アニェスの本名はトゥルーブレ(Troublé)。

奧のもう一枚は一九九三年九月から九四年一月までオランジュリー美術館で開催された「Les Arts à Paris chez Paul Guillaume 1918-1935」。ポール・ギョームはモディリアニの画商としてあまりにも有名。映画に登場していたのも印象深い。しかし彼はフランスにアフリカ美術を初めて紹介したディーラーの一人としても高く評価されている(一九一九年に最初の黒人美術とオセアニア美術の展覧会を組織した)。彼がたまたま飾っていたアフリカ彫刻がアポリネールの目に留まり、アポリネールを通じて当時の若き作家たちと知合いになったという。そのなかにモディリアニ、マティス、ピカソなどがいたわけである。ギョームの持っていた二十世紀絵画の一部は現在オランジュリ美術館に所蔵されているが、この展覧会は『Les Arts à Paris』というギョームの発行していた雑誌の紹介のようである。招待状にその何冊かが印刷されている。こういうのをブラッサンス公園で見つけたいもの……。

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モディリアニ「ポール・ギュヨーム」1915


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by sumus2013 | 2017-08-30 21:29 | 巴里アンフェール | Comments(0)

そら豆の宝

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すでに報告したシャロンヌ教会の古本市での一冊、CHARLES NODIER『TRÉSOR DES FÈVES FLEUR DES POIS』(BIBLIOTHÈQUE BLANCHE, HACHETTE, 1925)。シャルル・ノディエ(1780-1844)の『そら豆の宝と豆の花』と題されたおとぎ話集。挿絵は Tony Johannot(1803-1852)。オリジナルは一八三三年に刊行されている。ノデェエはブザンソンの生れ。おもにパリで活動したが、図書館の司書や雑誌の編集などをしながら数多くの記事を執筆した。

一八三三年というのはノディエがアカデミー・フランセーズの会員に選ばれた年でもあり、波乱の多かった彼の人生のなかではもっとも平安な時期だった。一八三四年、ノディエはテシュネ書店(Le librairie Techenet)とともに『愛書家公報 Bulletin du bibliophile』を刊行し一八四三年にいたるまで定期的にそこへ寄稿した。その当時彼はアルスナル図書館に勤めていたため数多くの稀覯本や珍書に接する機会があったのでそれらが様々な主題について研究するための糧となっていた。

ということで、このおとぎ話も豆から生まれた小さな少年が子供のいない老夫婦に育てられ、旅に出ていろいろな出来事をのりこえながら成長し(文字通り)、「豆の花」という王女と結ばれる、という日本人ならあららと思うようなストーリーなのである。

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そら豆の宝を育てる老夫婦
「子供がほしいのお…」


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そら豆から生まれた宝物
「あれま、こんなところに男の子が!」


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そら豆エキスを街でお金に換えるため旅に出る、と……
いろいろな獣と出会う。


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豆の花の宮殿に泊まる。
そこには
美術ギャラリーもあれば
アンティーク・ギャラリーもあれば
昆虫、貝、鳥などの博物室もある。
(ノディエの趣味らしい)
そして

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なんといっても素晴らしい書斎(sa bibliothèque)があった。ドンキホーテ、ウドー夫人の著名な青色文庫(la Bibliothèque bleue 十七世紀の初めにフランスで出版された大衆向け読み物)、あらゆる種類のおとぎ話、銅版画の美しい挿絵が入っている、最良のロビンソンやガリヴァーを含む奇妙で面白い旅行書コレクション、素晴らしい年鑑類、農業や庭園について書かれた無数の論文……人間にとって必要なもの、読みたいと思うものが全て揃っていた。しかしそれ以外の不要不急の学者、哲学者、詩人のものは一切置かれていない。

ヴィクトール・ユゴー、アフルレッド・ド・ミュッセ、サント・ブーヴらもノディエの影響を蒙っているという、その文学観がこのくだりによく現れているように思われる。

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めでたし、めでたし


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by sumus2013 | 2017-08-26 21:33 | 巴里アンフェール | Comments(0)

メグレと老外交官の死

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夏場のパリは昼が長い(夜十時になってようやく黄昏れてくる)。古本としては読めそうもない本ばかりに目が行くのだが、長い夕暮れまでの時間をふさぐためもあって、毎回とにかく何か一冊は読むために買って、実際に読むことにしている。これまではトポールの評伝、ジャン・ジャック・ポヴェールの自伝、マン・レイの自伝(仏訳)、ジョゼ・コルティの自伝など伝記ものばかり読んでいた。今回はトポール展を見ることがメインで他に何も予定も目的もなかったため、サン・シュルピス古本市もぶらぶらしてばかりでほとんど何も買わなかったが、ある古本屋さんが、メグレ・シリーズが好きだということで、ポケット版を1ユーロ均一で平台に数十冊並べていたのが目に付いて、雑談しながら眺めていると、初期の表紙が「買ってちょうだい」と訴えかけてくるような気がしてきて、つい買ってしまった。「メグレはいいよ、すらすら読めるよ」とのオススメだ。

とにかくこのシンプルなデザインがいい。後の版では写真を使う表紙が主流になるが、今となってはこのモダンデザインの時代の古臭さがかえって新しい。以前にも一冊、神田の田村書店で買ったものを紹介したことがある。

『Maigret Chez le Coroner』(PRESSES POCKET, 1957)

『Maigret et les vieillads』(PRESSES DE LA CITE, 1960)、直訳は「メグレと老人たち」、邦訳は『メグレと老外交官の死』(長島良三訳、河出書房新社、一九八四年)。たしかにフランス語としてはそう難しくはない。ただ、平生、探偵小説など読まないものだから単語に馴染みがないのがやっかい。例えば「P.J.」(ペー・ジィ)これは司法警察、ようするに警視庁というようなものだろう。これすら分らないのだから初めはなかなか進まなかったが、指紋(empreintes digitales)とか薬莢(douille)とか手がかり(piste)などもそうだが、何度も出てくるのでなんとか覚えて後半はわりとつっかからず読めた。

シムノンの文章は平易だが、おっとりとした気品があってただ読みやすいだけというのとは少し違うような気がする。俗に言えば、文学の香がするとでも。例えば、ヘミングウェイ「移動祝祭日」には次のような評価が書きとめられている。彼はガートルード・スタインに勧められてマリー・ベロック・ラウンズを読み漁った。

登場人物はいかにも本当らしいし、行動や恐怖も常に真にせまっていた。仕事をしたあとで読むのに申し分がなく、私はある限りのベロック・ラウンズ夫人の作品を読んだ。けれど、それだけのことで、最初の二つに匹敵するものはあとにはなかった。昼や晩の空虚な時間を埋めるのに、シムノンの最初の良い書物が出るまでは、これほど面白いものはなかった。
 ミス・スタインはシムノンの良い作品ーー私がはじめて読んだのは、『第一号水門』か『運河の家』だったーーを好んだだろう、と私は思う。でも、確信はもてない。私がミス・スタインと知り合ったとき、彼女はフランス語を話すのは好きだったが、それを読むのを好まなかったからだ。私が初めて読んだシムノンの本二冊をくれたのは、ジャネット・フラナー(アメリカのジャーナリスト)だった。彼女はフランス語を読むのが好きで、警察廻りの記者をしていたころ、シムノンを読んでいた。》(『老人と海・移動祝祭日』福田恆存+福岡陸太郎訳、三笠書房、一九六六年二月一〇日)

もちろんヘミングウェイがパリに新聞社の特派員として滞在していたのは一九二一年から一九二八年五月までである。その頃シムノンはまだ有名になっていなかった。処女作は一九二一年に出版され、数多くの作品を発表してはいたが、それらはペンネームを使っていた。出世作はやはりメグレ警視シリーズであり、その第一作は一九二九年からスタートしているからパリで読んだわけではない。ヘミングウェイのいう『第一号水門』は『水門』(Le Charretier de la Providence、1930)だろう。『運河の家』は?

とは言え、本作はあまりにも動きの少ない密室殺人もので、推理小説としてはかなり退屈である。ただ、色々な仕掛けというか、装飾的な逸話が物語の味わいになっていると思ってもらえればいい。また、たまたまではあるが、本書の事件の舞台がヴァレンヌ通りだったり、サンジェルマン大通りだったり、ジャコブ通りの骨董屋だったり、と今回小生が滞在したアパルトマンの界隈だったのは読書の別の意味での楽しさを味わうことができた。例えばこんな

C'était un soulagement de retrouver la lumière du jour, les taches de soleil sous les arbres du boulevard Saint-Gérmain. L'air était tiède, les femmes vêtues de clair et une arroseuse municipale mouillait lentement la moitié de la chaussée.
 Il trouva sans peine, rue Jacob, la boutique d'antiquités dont une des vitrines ne contenait que des armes anciennes, surtout des sabres. Il poussa la porte, faisant ainsi tinter une sonnette, et il se passa deux ou trois minutes avant qu'un homme sorte de l'ombre.

どうということのない描写がなつかしく感じられるのはサンジェルマン大通りの太陽がほんとうに眩しかったためであろう。



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by sumus2013 | 2017-08-17 22:10 | 巴里アンフェール | Comments(0)

働く人

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先年、日本でも展覧会のあったカイユボット作「建物のペンキ塗り」(一八七七年)。パリだろうと思うが、このだだっ広い通りはどこだろう? さて、この絵から百四十年を経て現在のパリで働く人たちは……と思うと、ほとんど変ってないかも。

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サン・メリ通り Rue Saint-Merri


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ボーヌ通り Rue de Beaune


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BHV(べアッシュヴェ=百貨店)のハンバーガーショップ



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by sumus2013 | 2017-07-26 19:58 | 巴里アンフェール | Comments(0)