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カテゴリ:関西の出版社( 53 )

古本海ねこ古書目録14号

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毎号すばらしい内容。今回目に付いたのは串田孫一のカット十点、今井田勲編集の青年雑誌『ヒカリ』(大東亜出版、一九四三年二月一五日)・・・これは『FRONT』に共通するテイストである・・・などは速攻注文したいところ。

なかで児童読物研究会(京都市京極尋常小学校内=現在の京極小学校:京都御所の東側、寺町通り今出川下ル)の発行した雑誌『文藝読本』十二冊(昭和十年〜十二年)は刮目に値する。本書の記述によれば、毎号二十頁ながら、沖野岩三郎、川路柳虹、西條八十、濱田廣介、宇野浩二、野口雨情、らの寄稿がある本格的な内容。

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編集兼発行者は大島傳次郎。検索してみると、大島は京都市役所教育課に勤めていたこともあるようだ。また萩原萬壽吉『国破れたれど 非戦災都市京都でいち早く立ち上がった若き教師達』(SHIMIZU、二〇〇一年)の第三部に「私の生涯のうちで大きな指針となった二人の校長先生(大久保通利のような大島伝次郎先生/西郷隆盛のような馬谷憲太郎先生)」という項目があることが分かった。あるいは、曽我井村 (京都府)で発行された藤本薫編『現代何鹿郡人物史』(福知山三丹新報社、一九一五年)にも名前が挙げられている。同一人物だとすれば、当然ながら、同地出身者であろう。


by sumus2013 | 2019-11-20 19:14 | 関西の出版社 | Comments(0)

石をたずねる旅

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足立卷一『詩集 石をたずねる旅』(鉄道弘報社、一九六二年四月一日)。昨日、古書柳の棚より。帯とパラフィンカバーがあるのが完本だが、これは欠けている。安かったのでよしとする。装幀が誰なのか記されていない。足立の趣味だろうか? 気に入った。

《この詩集は、わたしの第二詩集にあたり、一九五九年から六一年までの三年間の作品を集めた。わたしが『夕刊流星号』とよぶ地方新聞社に注いだ情熱と理想をうしない、旅行をおもな仕事にするようになってからの、旅行中に書きとめた作品ばかりだ。だが、ここには固有の地名はいっさいあらわれていない。すべて心象の地誌である。》(あとがき)

写真も二十点ばかり収められている。

《フォトは、仕事でいっしょに旅行した友人の作品を、ずいぶんかってに切り取ったものである。どれも気に入ったわたし自身のオブジェだ。しかし、それ以外に詩作品とは特別な関係はなにも持っていない。》

友人たちとは、有馬茂純、石川忠行、入江宏太郎、川本五一、山内一夫の五人。検索してみると、有馬は宮崎修二郎と『岬 文学と旅情』(保育社カラーブックス、一九六九)を、石川は井上靖と『古塔の大和路』(毎日新聞社、一九七八)を刊行しており、入江は入江泰吉の甥でユーピーフォトスを一九五八年に創業している。

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足立自身の写真「終末」


巻頭の作品「スパイ旅行」前半を引用しておく。

ふかい海のいろをしていた鳥打帽は
すっかり、日焼けしてしまった。
ひどいほこりで吸取り紙のようにふくらんでいる。
黒いリュックサックには
レインコート、下着、がらくたのほか、なにもつまっていない。
朱色の旅行着の十一のポケットには
磁石、分度器、地図、色鉛筆、ノート、催眠薬。
そうして
ぼくは地の突端ばかり歩いてきただけだ。
北海のノサップ、宗谷、知床の岬ども
能登ノロシ崎、経ガ崎
犬吠、潮の岬、佐多、足摺。
だが、ぼくが最終のバスからおりると
のっぺらぼうのズボンがぼくを尾行する。
やつは四角いヒゲをはやし
ときには、ぼくそっくりの受け口のかおをしている。
ぼくが海へ向かうと
やつはきまって先回わりして
繋船のエンジンを引きあげてしまう。
やつは岩かげで携帯無電を打ちはじめる。
それはなんとおろかなしぐさだろう。
ぼくがやつの手帳にスパイ第六十九号と登録されているのは知っているが
この突端に
スパイをゆさぶるなにがあるというのか?


あとがきは次のように締められている。

《詩集を出すことは、にがく、むなしく、やりきれないものだけれど、それも非才が生きるうえには、多少必要な行為だと、わたしは永年思いこんでいる。》

by sumus2013 | 2019-11-18 20:12 | 関西の出版社 | Comments(0)

陳書

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『陳書』第十四輯(神戸陳書会、昭和十七年十二月二十八日)。神戸の古本屋さんで。個展の合間にのぞいて発見。どこかで出会わないかなと探していた雑誌なのでうれしかった。間島一雄書店の間島保夫さんが中心となって同名の古書目録を発行されたことで知ったのだが、本号を見てそのすごさが納得できた。

巻頭は忍頂寺静村の「頼三樹三郎の書翰」である。忍頂寺については下記で少しだけ触れた。

近世風俗文化学の形成―忍頂寺務草稿および旧蔵書とその周辺―

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記事の一例を挙げると、例えば、松井佳一「金魚養玩草の異版に就て」。これによれば、金魚が初めて日本(泉州佐海=堺)に渡来したのは文亀二年(1502)だそうで、江戸時代にも何度か渡来した。延宝年間(1673-81)には金魚屋が出来たが、まだまだ高価なもので、元禄時代(1688-1704)ですら一尾五両、七両したそうだ(50万円くらいか)。贅沢禁止令で金魚が没収されたこともあった。

『金魚養玩草(きんぎよそだてぐさ)』は金魚の飼育について書かれた最初の本。

《著者は泉州堺の安達喜之で同郷奚疑斎が増補したもので著者の序文には寛延元年辰九月と明記してあつて寛延元年戊辰冬摂州浪速津森常政、泉州上石津河重校合とも記されて居る、寛延元年は皇紀二四〇八年で実に百九十四年前の出版である。
 本書は随分流布せられて居て年代を異にし出版元を異にして数次発行せられたものらしい、私が今迄で調べたものだけでも五十冊以上で家蔵のものも二十八冊と其他に写本が数冊あつてこの内に八種の異本がある。》

このあと、その内容についての記述がつづき、こう締めくくられている。

《以上は私が金魚の来歴を調べる文献の一として本書を蒐集しはじめてから二十余年間の探索であるがこれ以上の異本について御気付の諸兄姉から御教示を願い得れば幸甚である、又金魚に関するあらゆる文献を蒐集して居るがまだ名だけ知つて実物を見ることの出来ないものが東山素柳坂物語、後扁金魚記(寛政八年以後の刊行)金鱗解説(明治刊行)である、何かの手がゝりもかなと念じて居る。》

とまあ、こんな執筆者ばかりだから驚くほかない。

by sumus2013 | 2019-09-18 20:15 | 関西の出版社 | Comments(0)

二代の電お光

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下鴨での嬉しい発見はこの二冊だった。榎本法令館の赤本『二代の電お光』上下。ともに明治三十八年二月二十日の発行。だいたい、タイトルが表紙では、見ての通り『二代目電お光』。巻頭内題が『驚くべき近世の女賊/二代の電お光』。そして奥書きのタイトルが『二代の電お光』である。「電お光」は「いなづまおみつ」と読ませる。

法令館/榎本法令館


『いなづまおみつ』は榎本の最初期の出版物だったようだ。本書はその再版か別ヴァージョンであろう。表紙画のサインは「景舟」?と読めるようだが、この号だけでは、誰なのか分からない・・・(ご教示を)。

19050220a 驚くべき近世の女賊 二代の電お光 上編
編輯発行印刷者 榎本松之助 大阪市南区松屋町三十九番邸
法令館本店 大阪市松屋町通末吉橋筋北へ入
法令館支店 東京市下谷区仲徒士町四ノ十二
203mm×145mm 表紙共10pp 

19050220b 驚くべき近世の女賊 二代の電お光 下編
編輯発行印刷者 榎本松之助 大阪市南区松屋町三十九番邸
法令館本店 大阪市松屋町通末吉橋筋北へ入
法令館支店 東京市下谷区仲徒士町四ノ十二
208mm×148mm 表紙共10pp  


by sumus2013 | 2019-08-13 20:37 | 関西の出版社 | Comments(2)

ブルトンへの手紙

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昨日のつづき。狂言屋さんから町家古本はんのきへ。静かに古本に囲まれて落ち着く空間。当番の中村氏とあれこれ。即売会が目白押しで忙しいらしい。そんななかでも、珍品を発掘したという。次の目録に載せるらしい、楽しみだ。

あれこれ物色して、本日の一冊は、アントナン・アルトー『アンドレ・ブルトンへの手紙』(生田耕作訳、奢灞都叢書、奢灞都館、一九七八年九月一日)。タテ16.5cmほどの枡型本。サバトの本としてはシックな方だ。元パラがあったようで、見返し側のカバーにパラピンの糊跡が残っている。下記サイトで見ると一九七四年に初版が出ており、そちらには貼函があったらしい。

サバト館全データベース

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ブルトンらが計画した一九四七年の国際シュルレアリスム展に参加するように呼びかける回覧状がアルトーの元へも届いた。その返事というか拒絶の手紙である。

《アンドレ・ブルトンよ、しかも劇場に現れたといって私を非難したあとで、展覧会に参加するようきみは私に誘いかけたりするのか、おまけにとびきりハイカラな、えらく繁盛した、世間に鳴りひびいた、資本家の(共産党の銀行から元手をあおいでいようと)、それにたとえどのようなものであれ一切の表現は芸術的試みの、様式化された、限られた、閉鎖的な、固定した性格しかもはや持ちえない画廊を舞台にして。
 画廊は絵を売り買いするところ、インドのイエズス会修道士の商館や、ラリイ-トランダルのとかわりない商館だ。
 陳列される品物はケースに(棺桶に)、或いはウインドーに、
 保温器におさめられる、そんなものはもう生き物ではない。
 スノビズムが総出でそこに集合するのだ、ちょうど嘆かわしくも! オランジュリ美術館でヴァン・ゴッホの前に集まったように。ゴッホにとってはまったくちがった一夜がふさわしかっただろうに。
 だって宇宙形状誌や、水圏学や、人口統計学や、天体蝕や、昼夜平分時や、季節の科学などをたたき伏せるのに、ヴァン・ゴッホの絵にまさるものはないからだ。》

劇場に現れた、とあるのは一九四七年一月にヴュ・コロンビエ座でアルトーが朗読というか、講演というか、聴衆を前に喋ったことを指す。それをブルトンが非難したことに対して怒っている。

これにも自前の函を作ることにしよう。

アントナン・アルトーの自画像デッサン

by sumus2013 | 2019-08-09 20:47 | 関西の出版社 | Comments(0)

怪奇美の誕生

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園頼三『怪奇美の誕生』(創元社、昭和二年十月十五日、装幀=船川未乾)。打ち合わせで市中へ出たついでに立ち寄った某書店にて。かなり状態は悪いが参考書として求めておく。函は欠。

園はエゴン・シーレを取り上げている。よくは知らないが、日本でシーレという画家に注目した最も早い記事ではないだろうか?

《ウヰンの町へ来て、偶然な機会で初めて知つた天才画家。

《クリムトの画集を需めようと思つてケルトナー通りのとある書肆で、私はふと一枚の鉛筆画を見つけた。スケツチ風の簡素のうちに筆致の勁健さ、描写の巧妙さ、と言ふよりも一個の裸婦の図に、よくもこれだけのものを見、これだか描いたものだ。
 Egon Schiele という著名[サイン]が方形の枠のなかに、年号と一緒に納まつてゐるのが日本画の落款に似て、店頭に立つて眺めてゐた私の脳裡へぐいと烙印を押しつけた。》

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シーレを発見した園は、シーレのコレクターであるドクトル・リーゲルを訪ね、シーレを見せてくれと頼んだところ、外国人がシーレを見たがるなんて、と驚かれる。快く見せてもらった園は感激して引き上げたようだが、おそらく、シーレの素描なりとも入手しようと思えば、入手できたかもしれない。エゴン・シーレの友人たちとも語り合っており、その気になれば、どこかの画廊なりとででもオリジナルを買えたのではないだろうか・・・買える時代だったのではないだろうか、そういう話が出てこないのが、ちょっと惜しいような気もする。

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これらの図版を見て、連想したのが、佐野繁次郎の裸婦デッサンである。敗戦後に数多く描かれて、装幀の図案としてもたびたび使っているが、自称マチスの弟子なので、そちら方面ばかりを考えていた。そうか、あの裸婦の線描はエゴン・シーレだったのだ。

その一例は下記で。

新温泉案内 関西


by sumus2013 | 2019-07-26 19:15 | 関西の出版社 | Comments(0)

丘の上の対話

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19480825[重版] 丘の上の對話
著 者 竹内勝太郎
発行者 八木亀次
印刷所 日本写真印刷株式会社 京都市中京区壬生花井町三
発行所 圭文社 京都市中京区六角通高倉東入
176×124mm 191pp ¥60 


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「あとがき」を富士正晴が書いている。

《その書物がいま上梓されることになつたことについて版元の人達の示された御厚意を思ふと共に、海南堂主人扇子安次氏が惜しまれず盡して下すつた友情を一生忘れ得まいと思ふ。》

「あとがき」の日付は昭和二十一年十月。この書き振りからすると富士はまだ圭文社には勤めていなかった。初版発行日は昭和二十二年八月五日、この重版は二十三年八月二十五日。この年、昭和二十三年以降、圭文社の出版物は見つからない。閉店まで勤めていたそうだから、この本は富士自らが手がけたのであろう。

by sumus2013 | 2019-07-14 20:18 | 関西の出版社 | Comments(0)

水晶幻想

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川端康成『水晶幻想』の恵投にあずかった。深謝です。この表紙絵には覚えがある。かなり前に持っていたような気もする。むろん目下の書棚には見当たらない。装幀は三岸節子とある。なるほど、魅きつけられるものがあるはずだ。 

19470530 水晶幻想
著作者 川端康成
発行者 清水正光
    京都市押小路柳馬場東 株式会社京都印書館
株式会社京都印書館 京都市中京区押小路柳馬場東入
印刷者 橋下岩太郎
    京都市上椹木町千本東入 眞美印刷所
松尾製本
装 幀 三岸節子 
185mm 126mm 236pp 角背上製 ¥50 

短編集。なかで「百日堂先生」という作品に本の描写があるのでつい読んでしまう。軽井沢へ行く列車の中で見かけ、ホテルで会話するようになった五十四歳の独身男性が百日堂先生である。語り手は川端自身と考えていいようだ。先生と呼ばれる通り、元は女学校で歴史を教えていたらしい。初めて軽井沢へ来るにあたって昔の文士がどんなことを書いているか調べ上げたノートを持ってきている。

《その表紙の新しいノオトには、諸家の軽井沢や浅間山の紀行の抜粋が、すつかり筆記してあるのだ。ーー私は実に驚いた。
 軽井沢を歌つた、漢詩や、和歌や、俳句が、古今に亙つて、二十頁近くも書き並べてあるのはいいとして、散文の紀行まで書き写してあるのだ。例へば、紅葉の文章の抜書きの終りには、「烟霞療養より」、また蘆花の紀行の後には、「青蘆集より」といふ風に、書物の名まで入れてある。》

抜書きに引用した書物の名を入れるのは当然のことである。

《「信濃地名考」、「太平記」、「甲陽軍鑑」、貝原益軒の「東山道記」、大田南畝の「壬戌紀行」、橘南谿の「東遊記」その他昔の軽井沢の文章は、無論明治以後のそれよりも多く筆記してある。》

《昔の文士がどんなことを書いてるか、調べてみようと思つてね。調べ出すと、あんた、七月の半頃に来る筈のが、八月の十五日まで動けやせんのさ。肝心の夏が大方過ぎちやつてから避暑だよ。助手二人使つたよ」》

いっしょに散歩するくらい親しくなった語り手は同じ鎌倉に住む百日堂先生の本を借りるため書庫の鍵を預かった。

《先生の家は扇ケ谷の或る寺院の境内の一番奥にあつた。樹木の茂り古い山が、両側から庭に蔽ひかぶさるやるだつた。雇ひ婆さんは帰つてゐるらしく、戸締りしてあつた。
 百日堂と先生自身で書いたらしい扁額が、門口の上にかかつてゐた。
 泉水の水が澱み、水藻の真青に蔓つてゐるのが、なにか冷たいなまなましさで、無住の廃屋じみた感じだつた。
 書庫は裏手の竹林の傍にあつた。書庫と呼ぶ程のことはない、百姓の納屋のやうな藁屋根だつた。》

このあと語り手はちょっとした怪談じみた出会いをする。それは読んでのお楽しみ。以上。

by sumus2013 | 2019-06-13 20:41 | 関西の出版社 | Comments(0)

端午人形考

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『風俗研究』八十五(風俗研究所、昭和二年六月一日)。編輯兼発行者は江馬務(京都市富小路松原上ル)。風俗研究所は、主幹が江馬務、名誉幹事が吉川観方と小早川好古、幹事は正玄文平、若原史明、川那部澄、喜多川禎治郎、濱口左川、神田勇治郎、竹島信一、嘱託として石原雄峯と磯野眞太郎、助手が出口忍、である。

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木版画口絵:小早川好古「江戸中期美人の図」


本号の巻頭文は江馬務「端午人形考」で、端午の節句について博く捜して考察を加えた論考である。ごく手短にその論旨だけをメモしておく。

起源は諸説ある
 一、楚の屈原の死を悼む船の競争
 二、東呉の呉子胥を迎える船の競争
 三、越王勾賤の伝説
 四、曹娥父子の伝説
いずれにせよ五月五日に競争をするという古俗で、陸上と水上と二種類あった。水上は競渡、陸上は雑草薬草を競い採る風習である。

我国へ輸入されて最初は推古天皇十九年五月五日、菟田野における薬狩り。万葉集の大伴家持の歌にも出ている。

 かきつばた衣にすりつけますらをの
      きそひ狩する月はきにけり

聖武天皇は天平十九年五月に騎射走馬を観覧した。桓武天皇延暦年間からは毎年の行事となったらしい。宮中では毎年五月五日に騎射・走馬・楽奏が行われた。

平安朝末には宮中の尚武の儀式にならって民間で印地(石投げ合戦)の風俗が起った。このとき戦士が艾(よもぎ)を手に持つ例がある。これは薬草である艾で人形を作り、野外に捨てる風俗と関係があるのではないか。

以下江戸時代の例をいろいろ引いているが省略。結論だけ引用しておく。

《之を要するに、端午の人形飾といふものは競争の変化したものに外ならない。即ち競渡から薬狩、薬狩から競馬、競馬から騎射、騎射から薬草の兜、薬草の兜から木兜、木兜の人形から武者人形、武者人形から具足、武器と変転し来たつたので事が物となり、抽象から具体に、武技から祝福へと進転したのであつた。》

ということは、端午の節句の意味というのは、男の子は、薬草をもって、競争しろ(戦え)ということになるわけだ。

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挿絵:師宣「月次のあそび」より



by sumus2013 | 2019-05-07 20:51 | 関西の出版社 | Comments(0)

京都文学

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『京都文学』創刊号(昭和二十八年三月一日)。発行人は田中美佐雄(京都市左京区浄土寺西田町百)。「後記」には《予定してから既に三ヶ月が経つている》《「京都文学」という誌名は、たまたま京都に於て発行したということにすぎない。狭い地域性を持つことは警戒している》《事情で作品の揃わなかつた人もある》などと出ているが、それ以上の具体的な発刊の経緯については書かれていない。

目次は以下の通り。カットはゴッホ、クレー、ピカソの他に「ス」というサインのある挿絵が二点。

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検索してみると発行人の田中美佐雄は邦光史郎の本名だった。

《邦光 史郎(くにみつ しろう、1922年2月14日 - 1996年8月11日)は、日本の作家。本名・田中美佐雄。父・力之助は時事新報の記者。妻は作家の田中阿里子。娘は作家・エッセイストの久我なつみ。
東京生まれ。高輪学園卒。京都で五味康祐らと『文学地帯』を創刊。のち放送作家。1962年『社外極秘』で直木賞候補。以後企業小説、推理小説、歴史推理小説、伝記小説を多数執筆。
戦前に保高徳蔵主宰の「文芸首都」懸賞に入選。戦時中は「新作家」同人となり、戦後は五味康祐とともに「文学地帯」を主宰し、十五日会に属する。「文学者」「京都文学」同人。関西のテレビ、ラジオに台本を執筆。》(ウィキ「邦光史郎」)

鈴村恒雄も『文学地帯』に参加していたようだ。名前がすぐにピンときたのは駒敏郎だけ。

《京都市西陣生まれ[1]。京都三中卒業。京都府立医科大学を芝居に凝って中退[2]。
児童劇団の台本・演出の傍ら、1952年よりドラマの脚本を書きはじめる[3]。NHKテレビ「日本の歴史」を担当し、本格的に歴史の勉強を開始[4]。1962年より著述を業とし[5]、地誌、歴史、文学などについて執筆する。》(ウィキ「駒敏郎」)

桜井砂夫について以下のように書いているサイトがあった。

《私の旧友に桜井砂夫という詩人がいる。昭和二十七年夏だったか、『新潮』九月号に、彼は「東京の印象」と題するいい詩を発表した。それきり姿を消してしまった。》

本誌は二十八年三月発行だから「それきり」ではなかったわけである。『児童文学界』創刊号の広告が出ている。鴫原一穂、港野喜代子、上野瞭らの名前が見える。上野瞭HPの年譜に以下のような記事があった。

《●1952年(昭和27年)二十四歳
平安高校で教鞭を執り、国語を担当する。佐藤一男のポケットマネーで始まった『児童文学界』(同人誌)に作品を書く。
この学校をやめるまでに、日本脳炎、胃潰瘍、十二指腸潰瘍と、さまざまな病気を体験する。
●1954年(昭和29年)二十六歳
鴨原一穂、片山悠、岩本敏男らと”馬車の会”を結成し、児童文学誌「馬車」を創刊、”新しい児童文学”を模索する。
乙骨淑子と雑誌「こだま」を通じて知り合い、交流をはじめる。 》

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by sumus2013 | 2019-04-19 20:32 | 関西の出版社 | Comments(0)