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カテゴリ:おととこゑ( 43 )

PEOPLE HAVE THE POWER

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PATTI SMITH「PEOPLE HAVE THE POWER」(Arista Recods, 1988)。パティ・スミスの12インチシングル。ジャケット写真はロバート・メープルソープ。パティの最初のアルバム「HORSES」(1975)もメープルソープの写真で飾られている。二人は一時期カップルだった。







近年、パティ・スミスと言えば、ボブ・ディランの代役で出席したノーベル賞の授賞式で「A Hard Rain’s A-Gonna Fall」歌ったのが印象に残っている。歌詞を忘れて、ごめんなさい、と言っていたところが良かった。






メープルソープと言えば、アートシーンへのメープルソープの登場はショッキングだった。彼の存在は、ギャラリー・ワタリでの展示(1983)を見て図録を買った記憶があるので、それまでには知っていたはず。『美術手帖』の追悼号(一九八九年六月)はよくできていたと思う。その少し後に買ったのが下の図録『ROBERT MAPPLETHORPE』(Bulfinch Press・Little, Brown and Company in association with Whitney Museum of American Art, 1990, 5th printing)。ホイットニー美術館での回顧展(1988)のために製作されたものでハードカバー版もあるようだ。この本は神戸に住んでいたとき、元町の丸善で買ったのではないかと思う(新刊で!)。当時は、よく丸善の洋書コーナーをぶらついては立ち読みしていたのである。

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「Horses」のジャケットに使われた写真(右)


本書によれば、ロバートとパティが出会ったのはまったくの偶然だった。Ingrid Sischy「A SOCIETY ARTIST」より拙訳。訳しにくいところは適当にごまかしておいた、お許しを。

《詩人でミュージシャンだったパティとの初めての出会いについてメープルソープの回想は共鳴できるものである。それは魔法のようなつながりをもたらす魔法のような始まり、夢、神話そして歴史となる関係、である。その物語が具体的にどのようにして始まったかについてメープルソープはこんなふうに話してくれた。「地下のアパートメントにいたときだった。彼女は道路から僕の家にふらりと迷い込んできた。ちょうど僕は眠っていて、目を開けると、そこにいままで会ったことのない人がいたんだよ。彼女は誰か他の人を探していて、僕のところに来たんだ、ドアが開いてたから。知ってるでしょ、60年代だったんだよ、ヒッピーたちは誰も鍵なんかかけなかったんだ。》

《少し前に、私はメープルソープと、自信をもたせてくれた人間について話していたとき、彼はスミスについてこう言った。「僕たちは一晩中起きていた。彼女は彼女のことをし、僕は僕のことをして、そして一休みとなったとき、タバコを一服して、互いの作品を眺めたのさ。これがめっちゃ良かったよ。彼女は僕がやったことを認めてくれる一人の人間だった。》

《その頃「彼らのやっていたこと」というのはドローイング、落書き、宝石、絵やオブジェによるコラージュで、スミスは陶芸もやっていた。アイデアを生み出し、二人が通過するべき道にパンくずの印をつけ、それを見つけること。それは、アーティストとしての表現に特別な空間を作り出そうとしているとき、自分のまわりで探し出そうとしている種類のものだった。スミスとメープルソープは精神的な同志であり、アウトロー仲間だった。その後すぐに、彼らは町の新参者[new kids in town]仲間になって、インサイダーになった、アウトサイダーとしてのアイデンティティを持ちつづけながら、二人はいっしょにジョン・マッケンドリィ(John McKendry)やサム・ワグスタッフ(Sam Wagstaff)のような、彼らの人生に重要な役割を担う人々と知り合いになったのだ。》

マッケンドリィは写真家でメトロポリタン美術館の写真部門のキュレーター。ワグスタッフはキュレーターでありコレクターでメープルソープと出会ってから、それまでの絵画コレクションを処分し、写真、とくに無名写真家に注目するようになったそうだ(wiki)。出会いが全てを決めて行く。

by sumus2013 | 2019-03-22 20:32 | おととこゑ | Comments(0)

TOSHIKO AT TOP OF THE GATE

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TAKT JAZZ シリーズの秋吉敏子クインテット「"トップ・オブ・ザ・ゲイト"の秋吉敏子」(日本コロムビア、2012. 元盤は1969年発売)を聴く。カバー・イラストは和田誠。

秋吉は一九五三年に来日したオスカー・ピーターソンに認められ、五六年にバークリー音楽院に入学してアメリカでの活躍を開始した。

《秋吉さんのピアノ・スタイルは、日本にいた頃、たまたま駐留軍兵士としてやってきていたハンプトン・ホーズに学び、開眼したものとされていますが、ハンプトン・ホーズという人は、バッド・パウエル、チャーリー・パーカー直系の有能なバップ・ピアニストでした。つまり彼女はホーズを通じて、バッド・パウエルを学び、そこから彼女自身のオリジナルなスタイルを創り出したといえます。大体モダン・ジャズの時代になってから輩出したピアニストの数は決して少なくありませんが、女性ピアニストは皆無に近い状態でした。そこにキモノ姿(ジョージ・ウィーンの演出もあったことであろう)の日本女性が、女性とはおもえないような強じんなタッチで、本格的なバップ・ピアノを披露したものですから、アメリカのミュージシャンもファンもアッといったのは当然でした。》(解説:野口久光)

このアルバムの一曲目、「イントロダクション」がどこかで聞いたようなメロディなんだなあと思って口ずさんでいると「ルパン三世のテーマ」? と思い当たった。そちらの作曲者は大野雄二、バップのジャズ・ピアニストだからテイストが似通っていても不思議ではないと納得。なんとなくなつかしい感じがしたのもそんなところからかも。

***

グラミー賞、ほとんど興味ないが、今回はツッペリンの再来と話題になっていたグレタ・ヴァン・フリート(GRETA VAN FLEET)が受賞するかどうか、ちょっと気になった。四部門ノミネートのうち結局「FROM THE FIRES」で最優秀アルバム賞を受賞したようだ。ツッペリンには程遠いけどね・・・




by sumus2013 | 2019-02-11 19:45 | おととこゑ | Comments(0)

グールドのブラームス

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今年の聴き始めはグレン・グールド「ブラームス:4つのバラード/2つのラプソディ/間奏曲」(2000, Sony Music Entertainment inc.、オリジナルは1983)。インテリ層のファンが多いグールドだが、どうも小生はインテリジェンスが乏しいのか、グールドのバッハなど聴いてもまったくわざとらしくてピンとこなかった。クラシックの枠を超えようとしているのは分かるにしても、そんなにいいと思ったことはなかった。

この一枚はたまたまブの正月50パーセントOFFにつられ、これまたこれまであまり聴いたことのないブラームスの棚を物色していて、このジャケットの生意気そうな写真に魅かれた、というのが購入理由である。

4つのバラード/2つのラプソディ」はどちらも一九八二年の録音、ということは歿年なのだが、どうもパッとしない。枯れすぎ。それに反して「間奏曲」は一九六〇年(二十八歳)の録音、世界ツアーも成功させ、演奏家としての名声を確立した直後のもので、力強いというか、かなり激しくて、ブラームスとしてはどうなのかはさておき、これだけ聴くとなかなかいい感じ。少し見直した。

《1964年3月28日、シカゴにおけるリサイタルを最後に、演奏会からの"ドロップアウト"を宣言、以後、亡くなるまでの20余年をレコーディング・スタジオの中だけで自由奔放に、しかし音楽に対してはじつに誠実に生き続けた。レコーディング・スタジオから次ぎ次ぎと生み出された演奏は、16世紀のギボンズから20世紀作品まで驚くべき広さで、そのどれにもグールドならではの個性が横溢していた。とくにバッハの諸作品における斬新で瑞々しい解釈による演奏は、今日なお、バッハ表現の異色の金字塔と賞賛されている。
 1982年10月4日、生地トロントで急逝。疾走した異端児は、唐突に50年の人生を閉じた。》(本CD解説より)

驚くべき広さ」とあるが、日本語ウィキによれば、グールドの選択はかなり偏っていたようだ。主張のはっきりしているアーティストだから当然といえば当然である。

by sumus2013 | 2019-01-06 17:29 | おととこゑ | Comments(0)

LITTLE GIRL BLUE

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ニーナ・シモン「LITTLE GIRL BLUE」(Bethlehem Music Company, 1992)をうっとりと聴いている。ニーナ・シモンのデビューアルバム(一九五八年)。一九三三年生まれなので二十五歳のときだが、そうとは思えない、老成した歌唱、演奏に味わい深いものがある。

おや、と思ったのは「Plain Gold Ring」(作曲はGeorge Stone, aka Earl Burroughs)。美空ひばりの「リンゴ追分」(米山正夫作曲、一九五二年発売)にムードがそっくり。









ただし、一九五二年盤の「リンゴ追分」はもっと明るい感じでニーナ・シモンの雰囲気はない。

by sumus2013 | 2018-10-12 20:27 | おととこゑ | Comments(0)

HEROIN

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THE VELVET UNDERGROUND「HEROIN」をヨゾラ舎にて入手。ジャケ買い。いわゆるブートレグ(bootleg)盤である。海賊盤は大きく三種類に分けられるそうで「ブートレグ」とは

《アーティストの未発表音源やライブ音源(「個人の内密な録音」か「権利者側の正式録音物の無断流用」かは問わない)などを権利者側の未承諾のまま違法にプレス(製作)した物。古い放送用音源や、日本では放送されなかった海外でのTVやラジオ音源の無断製品化も含む。》(ウィキ「ブートレグ」)

とのこと。で、この12インチEP盤は、一九九〇年六月に予告なくパリで行われた再結成ヴェルヴェット・アンダーグラウンドによる「ヘロイン」のライヴを収録したもの。トータル9分42秒、裏表とも同じ録音。


Heroin, Live in Paris



もうひとつ、
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少し前にこんなCDを頂戴した。「The Best & Greatest Hits」シリーズ。発売は ARC Co.,Ltd となっており、プレスは韓国だそうだ。定価五百円の表示があるが、店舗用のシールには税抜き299円となっている!

ボブ・ディランとザ・ベンチャーズ、どっちも永遠のサウンドだ。ベンチャーズは高校一年のころにベスト盤のアルバムを借りて聴いてからすっかりファンになった。今でもときどき無性に聴きたくなる(これとは別のベスト盤CDは持ってます)。

既存の曲のアンソロジーというかコンピレーション(編集)盤になるが、もしこれらが海賊盤だとしたら、こういうものは「パイレート盤」と呼ばれるらしい。


by sumus2013 | 2018-09-18 19:58 | おととこゑ | Comments(0)

聖なる館

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先月の京都レコード祭りにて。レッド・ツェッペリン「聖なる館(Houses of the Holy)」(Atlantic Records, 1973)。ジャケ買いです。危ないデザイン。アメリカでは検閲でストップをかけられ、オビでお尻を隠すことでなんとか収まった、とのこと。

このカヴァー・アートは北アイルランドの北岸にあるジャイアンツ・コーズウェイ(Giant's Causeway)という奇岩で有名な場所で撮影された写真をコラージュしたものだとか。ピンクフロイドらのアルバムを手がけていたデザイン・グループ「ヒプノーシス(Hipgnosis)」のオーブリ・パウエルによって制作された。アーサー・C・クラーク『幼年期の終り Childhood's End』の結末によってインスパイアされたのだそうだ。

モデルはステファンとサマンサ・ゲイツという姉弟ら(サマンサは沢渡朔の写真集『少女アリス』のモデルにもなっている!)。悪天のため思うような写真が撮れずに撮影は十日間以上も続いた。二人の子供の写真はモノクロで撮影され、十一人としてコラージュされる際に彩色された。インナー・スリーブの写真はコーズウェイ近くの中世の城(Dunluce Castle)で撮影された。

じつはこのジャケットは第二作で、第一作は同じくヒプノーシスのソーガスン(Storm Thorgerson)によって制作された。それはテニスコートにラケットが置いてあるという図柄だった。ソーガスンはこのアルバムはラケットのような音がするからだと主張したようだが、バンドは彼をクビにしたので、代りにパウエルが担当することになった。

と以上は英文のウィキ「Houses of the Holy」および日本文のウィキ「聖なる館」を適当に参照してアレンジした。ジミー・ペイジは気に入っていなかったようだが、カヴァー・アートとしては目に焼き付く仕上がりではある。

レッド・ツェッペリン/コンプリート・スタジオ・レコーディングス

by sumus2013 | 2018-08-14 20:42 | おととこゑ | Comments(4)

ビートルズの日

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六月二九日はビートルズの日らしい。一九六六年六月二九日に来日したことにちなむ。EMIミュージック・ジャパンが決めたそうだ。むろん日本だけ。

イギリスのビートルズファンクラブのサイトによれば、リバプールとハンブルグでは七月一〇日がビートルズの日(Beatles Day)とされている。一九六四年七月一〇日に映画「A Hard Day's Night」のプレミアのためにリバプールに四人が戻って来た日だとのこと。


一九六六年六月の前後、ビートルズはどういう状態だったか、ざっと拾っておく。

前年十月に女王エリザベス二世よりMBE(Member of the Order of the British Empire)を授けられている。十二月にシングル「We Can Work It Out/Day Tripper」発売。ひきつづき英国ツアー。明けて六六年一月にジョージ・ハリソンはパティ・ボイドと結婚。三月、ジョンが雑誌のインタビューでビートルズは「キリストより人気がある more popular than Jesus」と発言して物議をかもす。四月〜六月は「Revolver」のレコーディング。六月一〇日にシングル「Paperback Wrighter/Rain」がリリースされる。六月二四日〜七月四日、ドイツ〜日本ツアー。八月には最後のアメリカ・ツアー。八月五日、シングル「Eleanor Rigby/Yellow Submarine」とアルバム「Revolver」同日発売。十一月九日、ジョンはロンドンのインディカ画廊(Indica Gallery)でオノ・ヨーコに出会う。十一月から翌年四月にかけて「Srg. Pepper's Lonely Hearts Club Band」のレコーディング。

(Kenneth Womack『The Beatles Encyclopedia: Everything Fab Four』ABC-CLIO, 2016、の年表による)

人気絶頂というか、ジョンがヨーコに出会って、終りの始まり、が感じられる時期だった。

以前はビートルズのCDは廉価版で揃えていたが、目下見当たるのは上の二点のみ。シングル盤「LET IT BE」は高校時代に求めたもので、当時は、毎朝、学校へ出かける前に聞いていた。

CDの方は「LET IT BE… NAKED」(EMI RECORDS LTD, 2003)。フィル・スペクターによって編集されたアルバム「LET IT BE」(1970)が気に入らないポールが主導、リミックスしてリリースされたもの。セッション中の会話も録音されたボーナス・ディスク付き。映画のシーンが印象的な「ゲット・バック」はときどき無性に聞きたくなる。







by sumus2013 | 2018-06-29 21:44 | おととこゑ | Comments(4)

HIGHWAY

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6月9日は「ロックの日」ということでフリー(FREE)の「HIGHWAY ハイウェイ」(Universal Island Records Ltd., 2002)を取り上げてみた。ツェッペリンにつづいて、繰り返し聞いている一枚。

フリーは一九六八年四月にロンドンで結成された。ポール・コゾフ(ギター、1950-76)、サイモン・カーク(ドラムス、1949-)、ポール・ロジャース(ヴォーカル、1949-)、アンディ・フレイザー(ベース、1952-)。アルバム「Tons Of Sobs」「Free」(いずれも一九六九)、そして三枚目「Fire And Water」(一九七〇)に収められたシングル曲「All Right Now」が英米でヒットチャートに入って人気バンドとなった。それにつづく四枚目が「HIGHWAY」だ。

《大ヒットした「All Right Now」のリリースからわずか3ヶ月後の1970年9月に、彼等はベイジング・ストリートにあるアイランドのスタジオに戻っている。「たぶん『Highway』が一番楽に録音できたアルバムだよ」とフレイザーは語る。「僕たちは間違いなく絶好調だった」。》(フィル・サトクリフ、若月眞人訳)

ところがちょっとした事件が起った。ジミ・ヘンドリックスの死亡(1970年9月18日)が伝えられたのである。

《報せを受けるや、彼[コゾフ]は無二の親友だったカークに電話をかけている。「彼は今にも泣き出しそうだった」。ドラマーは回想する。「あれ以来、コス(コゾフの愛称)はもぬけの殻になった。僕は今でもそう思ってるよ。彼の中で何らかの変化があったのが判ったんだ。ジミとコスの心は通じ合っていた。少なくともコスにとって、ふたりはそんな関係だった。ジミと一緒に演奏したいとさえ考えていたんだからね。彼にはえらく堪えたんだ。食事を取ろうともしなかった。そして酷い状態になっていったのさ」。
 葬儀のためのシアトル行きを諦めて、英国でアルバムを完成させるよう、カークはコゾフを説得しなくてはならなかった。結局コゾフはこれに応じ、参列に加わる替わりに花を送った》(同前)

こうしたことはあったが、レコーディングは順調に進んで、先行シングル「The Stealer」が十月にリリースされ、十二月にアルバム「Highway」が発売になった。ところが「All Right Now」のヒットでフリーの人気は最高潮だったはず、にもかかわらず、販売はまったく不振だった。

ジャケット・カバーには「HIGHWAY」とだけしか印刷されていない(このため人気絶頂のフリーのアルバムだと気付かない批評家もいたとか)。それと同じで曲調も全体に地味な印象だ。一度目に聞いたときは「で?」という感じだった。二度目、おや、けっこういいかも。三度目、いや、かなりいいぞ、これは。そして今では愛聴盤と言ってもいいくらい。






なお1月8日ももうひとつの「ロックの日」だそうだ。1935年にエルヴィス・プレスリーが、1947年にデビッド・ボウイが生まれた日、だからという理由らしいが、さて・・・。

by sumus2013 | 2018-06-09 20:58 | おととこゑ | Comments(2)

レッド・ツェッペリン

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新潟から戻って以来、ずっと聞き返していている「レッド・ツェッペリン/コンプリート・スタジオ・レコーディングス」(WEA International Inc. 1993)。北陸自動車道、金沢を出て、福井を通り、ずんずんと南下して米原を過ぎた頃、FMラジオをオンにすると(FM COCOLO にチューニングしっぱなしだったので北陸道では聞こえなくなっていた)、たまたま、流れてきたのが、ホラホラララヴ・・・「胸いっぱいの愛を WHOLE LOTTA LOVE」。これが良かった、何だかグッときた。

このボックスは「LED ZEPPELIN」(1969)から「CODA」(1982)までの十枚入り。最近に入手したもの。それまで、これだけまとめてツェッペリンを聞いたことがなかったので、その凄さにちょっと驚いた(U2かと思うような曲もある)。

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若い頃(二十代)ある友人から「LED ZEPPELIN II」(1969)のアルバムを預かった(この経緯は複雑なのでここでは略す)。ツェッペリンのなかでも最高のアルバム。預かったまま、今も持っている。その友人は若くして亡くなった。当時、聞いてみたのだが、かなりショッキングな音作りで、印象は強烈だったものの、ちょっとついていけないなあという思いの方が強かった。だからツェッペリンについては「II」のイメージで理解していたのだ。

今、びっくりしたのだが、「LED ZEPPELIN」が一九六九年一月のリリース、「II」が十月である。バンド結成が一九六八年だから、グループとしては、結成の時点ですでにほぼ完成していた。イギリスでレコーディングし、大学ツアーを行った後、ピーター・グラントから声をかけられ、同年クリスマス・イヴにサンフランシスコへ到着、アンダーグラウンド・シーンで急速に名前を知られるようになった。そしてニューヨークへ。

《ニューヨークに着くと、ツェッペリンは既にヘッドライナーになっていた。ファースト・アルバムはトップ10入りを果たし、そのまま1年以上もチャートに留まった。1969年だけで、3度に及ぶ全米ツアーが行われた。
 「レッド・ツェッペリンII」の曲作りとレコーディングは、そのほとんどがツアー中に行われた。彼らの苛酷なツアー・スケジュールからして、決して容易なことではなかったはずだ。前作よりもバンドの個性が浮き彫りになり ー メンバー同士がより親しくなっていったことも一因だろう ー ロバートのヴォーカルにも磨きがかかっていた。アルバムからのファースト・シングル「胸いっぱいの愛を」は爆発的な売れ行きを見せ、彼らにとって初の大ヒットとなった。》(キャメロン・クロウ、大屋尚子訳)

「II」から「III」そして四枚目の「〓〓〓〓」(絵文字で記されており、それがタイトルと見なされるが、仮に「IV」と呼ばれている)へとつづく流れは、ひとつの必然のように思えるくらい、よどみのないものだ。

その後はゆるやかな解体へ向う。歌唱も演奏も並みはずれてはいるのだが、いずれのアルバムでも曲がピンとこない。熱狂から冷却へ、ひとつのサイクルが閉じる感じである。


by sumus2013 | 2018-05-07 20:53 | おととこゑ | Comments(4)

ふくしま人 伊藤久男

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あがた森魚「赤色エレジー」(ベルウッドレコード、一九七二年、COVER ART=林静一)。この歌を初めて聞いたとき(高校生の頃だった)、昔の曲のカヴァーだな、と思った記憶がある。

《愛は愛とて何になる
 男一郎 まこととて

異色のフォークシンガー、あがた森魚(もりお)の代表作〈赤色エレジー〉である。この歌の作曲者が、なんと八洲秀章になっているのだ。》

《この歌は最初、あがた森魚作詞作曲としてレコーディングされた。後年、メロディーが〈あざみの歌〉に酷似しているとの指摘を受け八洲秀章作曲と変更されたらしい。》

と、これは先日、恵投いただいた菅野俊之氏の「ふくしま人 歌手 伊藤久男」(福島民報、二〇一八年二月一七日〜三月一七日)の連載記事、第一回からの引用である。〈あざみの歌〉、最初は作曲者である北海道出身の八洲(やしま)秀章自身の歌唱によってNHKの「ラジオ歌謡」で放送された。そして伊藤久男のリリックな歌唱で、一九五一年(昭和二十六)年夏、リリースされる。ちょっと聴き較べていただきたい。



菅野氏はこう述べておられる。

《確かに前半の旋律はよく似ているが、全体としてはまったく別な曲と言ってもよいのではないかという気がするけれど、いかがなものか。
 いずれにしても「♪くれない燃ゆる」〈あざみの歌〉は、意外なことに〈赤色エレジー〉として装いを変え、転生しているのである。》

伊藤久男の略歴を菅野氏の記事からかいつまんで紹介しておこう。

明治四十三年七月七日、福島県安達郡本宮町(現本宮市)に生まれる。本名、四三男(しさお)。伊藤家は大地主で裕福な家庭だった。小学校の頃からピアノを習い、独唱が得意だった。旧制安達中を一年で中退し岩瀬農学校へ。東京農業大に進学するも、音楽家への夢を捨て切れず、実家に無断で帝国音楽学校へ転じた。

昭和七年、コロムビアのオーディションに合格。翌年、プロ歌手としてデビュー。伊藤久男の芸名を使う。昭和十五年、「曉に祈る」がヒット。敗戦によって一時酒に溺れる日々を過ごすが、再起し、昭和二十五年に「イヨマンテの夜」が大ヒット。昭和二十八年、映画「君の名は」の主題歌「君愛しき人よ」がヒット。作曲は福島市出身の古関裕而。昭和三十八年、コロムビア入社三十年を記念するリサイタルが本宮高校体育館で開催され故郷に錦を飾る。昭和五十八年四月二十五日死去。

《二〇一〇(平成二十二)年秋、本宮市において「伊藤久男生誕一〇〇年記念事業」が市を挙げて開催された。久男の遺品や写真などの展示会、記念講演会、カラオケ大会など多彩な内容であった。そのときに刊行された記念誌「その歌声は時代を越えて」はとても充実した内容で、彼に関する基本的な研究文献となっている。
 昭和歌謡史に大きな足跡を残した伊藤久男の数々の名曲と歌声は今もなお、多くの人々の胸にあざみの花のように咲き、香り続けているのである。》

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by sumus2013 | 2018-03-28 17:41 | おととこゑ | Comments(0)