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カテゴリ:喫茶店の時代( 45 )

東京新繁昌記初篇

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服部誠一『東京新繁昌記初篇』(山城屋政吉、明治七年四月刻成)。拙著『喫茶店の時代』の「明治のコーヒー店」でこの本を引用している。

《明治二十一年(一八八八)に上野(東京下谷西黒門町)に開店した「可否茶館【カヒーさかん】」を日本最初の珈琲店だとするのが定説である。ただし可否茶館に先だって、珈琲店と呼ぶべきかどうか多少迷うけれども、画家であり写真師として知られる下岡蓮杖が浅草奥山に「油絵茶屋」なるものを開設していた。》

《別の新聞記事は油絵茶屋について
「是等ハ開帳まゐりや花見の序に一寸と御覧になされても随分お為に成りませう茶代が只た一銭五厘で外に何にも入らぬとハ実に看板の通り御安見所だ」[2]
 と値段入で報じている。入場料の代わりにコーヒーを売っていた。「只た一銭五厘」と言っているが、本当に安いのだろうか? 明治五年(一八七二)、浅草奥山の茶店の茶代は五厘だった[3]。また、服部誠一『東京新繁昌記』に「西洋目鏡」という覗きカラクリの店が紹介されており、世界各地の写真を覗いて「値は僅かに一銭也」とある[4]。この一銭に茶代を足せばちょうど一銭五厘。そして油絵茶屋で出していたのが茶ではなくコーヒーだったとすれば決して高価ではなかったであろう。》

という風に書いたのだが、むろん孫引きだった。ところが先月、たまたまこの本を見つけて喜んで買って帰り、該当箇所をチェックした。ありました。あって当然ですが、ホッとしました。厳密にはカタカナ付きの漢文であるが。

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それは良かったのだが、その続きがあった。

《鏡室外開小茶店 娘誰出火盆 娘何観煎花 並妖粧盛飾 売狐媚鬻猫諛
観者於此始拝弁才天真体也 一笑顧客而促二銭茶料》


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ケバいオネエちゃんのいる茶店がとなりにあったのである。こちらは狐のようなしなをつくって猫なで声のオネエちゃんがピッタリと膝を寄せて隣に座ってくれるが、それで二銭なり。しかも二階には個室もありますよ、というような店である。浅草奥山はなかなかスゴイところだったようだ。

by sumus2013 | 2019-08-10 21:26 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

カフェイン大全

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ベネット・アラン・ワインバーグ/ボニー・K・ビーラー[著]別宮定徳[監訳]『カフェイン大全 コーヒー・茶・チョコレートの歴史から、ダイエット・ドーピング・依存症の現状まで』(八坂書房、2006年2月22日)は、副題にある通り、コーヒーや茶だけではなくカフェイン全般について広範に語った本である。『喫茶店の時代』執筆当時にはまだ出版されておらず、参考にすることができなかったのが残念だ。この本を知っていれば、書き方は少し変わったかもしれない。

このなかに一箇所、ランボーが登場するくだりがあった。そうか! そうだった、ランボーはコーヒー商人でもあったのだ。これは『喫茶店の時代』にも取り入れられたはずで、全くうかつだった・・・。

《一八八〇年初頭、フランスを脱出したもと象徴派詩人ジャン・アルテュール・ランボー(一八五四〜九一)は、「ハラルとガラ地方」の地図や版画を含む本を地理学協会のために書こうと、アフリカに行く計画を立てた。今日知られている限りでは、彼は出版社と出版予定日を明記した「東アフリカ探検家、J・アルテュール・ランボーの見たガラ。地図、版画、著者撮影の写真を添えて。H・ウーダン社、パリ、メジェレ通り十番地、一八九一年刊」というタイトルを残しただけである。実際に本を書くことはなかったものの、ランボーはガラを旅行して回り、何度か単独で探検するうち、本人も困惑気味ながら、部族の女性が初めて見る白人となった。部族と一緒のときは、緑のコーヒー豆をバターで調理したものなど、彼らと同じものを食べている。ゼイラの有力な山賊王、ムハンマド・アブ・ベケルと一緒にコーヒーを飲むよう強要されたのには閉口したと手紙に書いているが、この王はヨーロッパの旅行者や貿易商を食い物にし、隊商や奴隷貿易の通路を支配していた。この地域に入るにはアブ・ベケルの許可が必要で、そのためには、コーヒーを共に飲む儀式に参加しなければならなかったのだ。王が手をたたくと、召使が「隣接した藁小屋から走って『エル・ブン』つまりコーヒーを持ってきた」という。この手紙からも、コーヒーがいかに重要だったかがうかがえる。》(62〜64頁)

この出典は《Alain Borer, Rimbaud in Abyssinia》となっている。これは『Rimbaud en Abyssinie』(Seuil, 1984)の英訳だろうが、引用部分からだけ判断すると、間違いが多い、というか、ある部分は作者の創作ではないだろうか。まず《本を地理学協会のために書こうと、アフリカに行く計画を立てた。》というところ、これは逆である。アフリカへ行ってから地理学協会のためにレポートを書き、その評判が良かったためか、同協会から資金を得て旅行記を出してもらおうと画策した、というのが実際に近い。

《ムハンマド・アブ・ベケルと一緒にコーヒーを飲むよう強要されたのには閉口したと手紙に書いている》とあるが、巻末に《M. de Gaspary 宛書簡(アデン、1887年11月9日付》とその手紙が特定されているにもかかわらず、当該の手紙のなかにはそんな逸話は出てこない(『ランボー全集』青土社版による)。またモハメド-アブ・ベケールは王ではなく(南アビシニアの王はメネリク)その地域の奴隷貿易など掌握していた部族長のようだ。

一八八五年一月一五日付けのアデンから家族宛に出された手紙によれば、

《ここでのぼくの仕事はコーヒーの購入です。月におよそ二十万フラン分購入します。一八八三年の一年間に三百万フラン以上を購入しました。》

とか、あるいは同年四月一四日には

《主な取引はモカと呼ばれるコーヒーです。モカ〔イエメン北部の紅海岸の港で、十七・十八世紀にはコーヒーの積み換え・輸出の一大拠点。モカ種はこの地名に由来する〕がさびれて以来。モカ種のコーヒーはすべて当地から搬出されます。》

とあるように、コーヒーはランボーにとっては大量に扱う商品に過ぎなかったし、コーヒーを飲まされて閉口するというような時代でもなかったのではないだろうか(ランボーが閉口したのは商売を邪魔されてである)。引用の問題か、アラン・ボレルの原典を見ていないので何とも言えないが・・・。


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『いっぷくの情景ーー「嗜み」からよみとく現代アジア』(千里文化財団、2008年5月15日)より、イエメンのモカコーヒーの豆。

《コーヒーはエチオピア原産だが、アラビア半島につたえられ、イスラーム神秘主義修道者たちに薬として用いられた。13世紀頃には焙煎がおこなわれていたようである。紅海の港町モカはコーヒーの積出港として栄えた。苗木をひろげたのはオランダ人。》

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《アラビアコーヒーにもサモワールがつかわれていた。シバーム2006年2月。》

ランボーとコーヒーの関わりは看過できないということ、これに気付かされたのは収穫だった。


by sumus2013 | 2019-06-24 17:04 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

セイロンの産物

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『セイロンの産物』(セイロン大使館)という冊子に挟まれていたセイロンの地図。もともとはセイロン紅茶のパッキングの中に入っていたもののようだが、裏面の会社名がスミベタで消されていることから、その転用ではないかと思われる。冊子の文中に引用されている統計の数字は一九五五年のもの。おそらくその直後に発行された冊子であろう。

《紅茶はセイロンの最も重要な輸出品であり、セイロン紅茶は、固有の風味と禀質で世界中の名声を博している。世界で最も風光明媚なセイロン島の五五万七千エーカーにわたり紅茶が栽培される。上質茶は、温和な気候が生育を助長し、風味をもたらす海抜七千フィート程度の高地で栽培される。
茶の柔芽を摘み、葉揉み、醗酵し乾燥乃至は焙じ加工を経て、製茶される。紅茶には、数等級あり、それぞれ価格が異なる。一九五五年度は、三億八千万ポンドの紅茶を産出した。
 同年度のセイロン紅茶輸出高は三億六千二百万ポンド価格は十一億九千四百万ルピー即ち同国の総輸出収入の六割四分に達した。茶の大部分は、公設コロンボ市場で取引され、一九五五年度のポンド当り平均価格は、高地産茶(High Grown Tea)は二ルピー三〇セント、中間地産茶(Medium Grown Tea)は二ルピー、平地産茶(Low Grown Tea)は二ルピー三七セントであった。一九五五年度の紅茶の総輸出高の三分の一以上は英国に、次いで濠洲一割一分、米国一割、イラク八分、エジプト七分、南阿六分、カナダ五分、ニュージーランド三分、オランダ二分、アラビア、リビア、パレスチナ、チユニスへ一分の順で輸出された。》(主要輸出品「紅茶」)。

紅茶の他には、ゴム、ココナツト、椰子油、乾燥椰子、椰子の実、コイアフアイバアー(椰子繊維)、コイアヤーン(椰子繊維糸)、椰子の実殻炭、香料「肉桂」、カーデモン、クローヴ、ナトメツグ、檳榔樹の実、精油、シトロネラ油、パパイン、カポツク(絹綿)、ココア、鉱産物、宝石類、家内産業(手工芸品)。

セイロン(Dominion of Ceylon)とは現在のスリランカに存在した英連邦王国。一九四八年に成立し(それまではイギリス領セイロン)、七二年にスリランカ共和国へ移行した。

ついでに、これはずいぶん前に求めた戦前の日本で作られたと思われる絵葉書「臺湾の茶園分布圖」も掲げておく。イラストの描き方がほぼ同じである。

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by sumus2013 | 2019-04-17 19:49 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

KYOTO COFFEE STANDARDS

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『KYOTO COFFEE STANDARDS』(田中慶一監修、淡交社、2019年4月13日、デザイン=瀧澤弘樹)。『神戸とコーヒー』を上梓した田中氏がこの度は京都の喫茶店の総まとめを行なった。歴史から名店までまさにスタンダードと呼ぶべき内容だ(小生もほんの少しだけ資料提供しました)。内容もいいが、写真やレイアウトもなかなかシブい。大阪編も近々刊行されるとか。

『神戸とコーヒー 港からはじまる物語』(神戸新聞総合出版センター、二〇一七年)

by sumus2013 | 2019-04-11 20:43 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

水灌論

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題簽がないが、ちょっと珍しいのではなないかと思う、服陳貞『水灌論』(西村甚介+加賀屋喜兵衛、宝暦三;1753序)巻之二を入手した。タイトルは「みつかけろん」と読み、全四冊らしい。国会図書館の書誌情報は以下のごとし。

タイトル 水灌論 4巻
著 者  服陳貞
出版地(国名コード)JP
出版地  東都
出版社  加賀屋喜兵衛
出版年月日等 宝暦3序
大きさ、容量等 4冊 (合2冊) ; 22cm
注記装丁 : 和装

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この巻之二には「茶人の論」と「遊里の論」の二篇が収められている。ここでは「茶人の論」だけやや詳しい目に紹介しておこう。

まずは茶道の起こりからざっと説いて、利休の侘茶がいつしか道具に金銀を費やす奢りとなったと続け、一人の茶人を登場させる。本来、侘茶と大名茶は表裏一体のはずなのだが、このあたりは江戸中期の茶道流行を皮肉ったものだろう。

《淵瀬杼折とや聞えし茶人。京都にて富裕なる町人なりしが。大徳寺の朴長老より茶道をつたへられしに。其身此道にかしこく。誰々とかずへらるゝ程になりぬれば。家業があつてハおもふ処へ手か届かぬと。弟の四郎三郎に家をゆづり十徳と身を転じて。明ても昏ても茶事をのみ楽しみけるが。つら〜〜思ふに京にばかり居て名をうづみはたさんもほゐなしと。名利につられて江戸へ下り。面白い所に居さいものと詮議せしが。》

淵瀬杼折や大徳寺の朴長老は、モデルはあるのかもしれないが、架空の人物のようだ。ただし、京の茶人が江戸へ下ると待遇が良かったのは本当で、実際に千宗旦の息子・宗左は長らく江戸に出張して居り、宗旦の死に目(明暦四年十二月十九日;1658)に会えなかった。

《きつと思り出し。むかし白河に住ける僧の。一休禅師にむかひて。紫野丹波に近しといひかけられしを。白河黒谷に隣[となる]と和尚の即答ありしを。権者[ごんじや]の頓智当意即妙。有りかたき事につね〜〜感しけるまゝに。是に原[もとつい]て我もまた青山赤坂に近く深川浅草に隣すと。自問自対にへし付花川戸の辺に地をしめて。三畳大目[さんでうだいもく]に籠城し。熱湯をたぎらせ。関東勢をまちうけたる折ふし。》

紫野丹波/白河黒谷という京の地名と色をかけたダジャレが江戸では青山赤坂となり、深川浅草の対句となっている。説明するのも馬鹿馬鹿しいが。まあ、その侘び住居に空呑屋治部右衛門という男が酒樽を引っ提げてやってくる。そして、茶ばっかり飲んで陰気に暮らしてないで、酒でもくらってパーッとご陽気にやりましょうと言い募る。

《空呑屋治部右衛門[うつのみやじぶえもん]といふ男。案内もなくつつと這入て。これはえたり。けふはよもやと存じて参たれは。やつはり相かはらぬ蓼酢[たでず]をめしあげるゝか。それたゝまいらふよりは鮎の石焼にうちかけて。隅田川諸白[もろはく]下されたらむや面々のもの好とはいひながらいかなる過去の悪因にて。さばかり窮屈に生まれつき給ひしものやらん。それでよふは存[なが]らへて居らるゝ事ぞ。其やうにしてくず〜〜と死んでしまうといふも夏の蝉の春秋をしらぬにひとしひものぞや。ひらに酒をのみ習ひたまへかし。今日は否応いはせぬつもりで持参致したと。五升樽とり出してはやせめかゝる。》

淵瀬杼折も負けてはいない。茶の利点を主張する。

《杼折ハ柄杓[ひしやく]をしやにかまへて。焙烙売か両替屋をわらふたやうに。めつたに茶道[さどう]をこなさるれと。茶の徳ある事御存じないからの事。總じて茶の湯ハ礼義を第一として器物をあつかひ。手前のたしなみ身がまへ規矩をはづさず此やうなせまひ所て態[わさ]を鍛錬するゆへに。いかなる貴人の前法礼[はれ]の座鋪[さしき]といへともあはてつまづく事なく。事ゞつゞまやかにしかも其身賎[いや]しけれど高貴の人にもまじはりたり脇目からはきうくつなと見ゆれど。鬱をひらき眠りをさまし娯しきこと俗のしる處にあらず そも〜〜酒を好む輩[ともがら]を見るに。大かたは酔狂して度をわすれ。泣やら笑ふやら礼を乱し義にたがひ。信をうしなう。或は喧嘩ずきすつはぬき。人をそこなひ身を亡し浅ましき事のみ多く》

「すつはぬき=すっぱぬき」は【刀などを出し抜けに抜くこと】だそうだ。英語の「スクープ scoop」に「すくう、えぐる、掘る」という意味があることと似ている。

《文盲至極の底ぬけ上戸いまた宿酔[しゆくしゆ]の熱が醒ずは一ッふくまいりて心みたまへ調へてしん上仕ふかと持たる柄杓を竹輪にかゝれば。》

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・・・そう言われて引き下がる酒飲みではない。漢詩を引用して知識のあるところ見せつつ説得にかかる。

《空呑屋[そらのみや]天窓[あたま]をふつて申候これ〜〜いや哉〜〜醒て物かあらうかい。つがもない事えふて【酔うて】いふのではないが。貴公の茶の湯。礼儀第一ちとのみ込にくひ。一ッふくの茶を五人三人のみかけては人に飲せ。ずんと末座なわろは。惣様[さうふう]のあまりをのむが。あれは呑方が礼義か。》

《せばい処てばかり仕習ふた態[わざ]は広ひ所へ出したらば。土龍子[むぐらもち]を日向へ出したやうに場うての仕そふなもの。しやそや。酒の徳と申は心ひろく体[てい]ゆたかにして。千畳敷てもひあはいでも飲に二ッなく。上となく下となく酒をいて礼義の第一とし。喜怒哀楽酒をはなるゝ事なし。》

《夜前は大酒ゆへ無礼のだん高免[かうめん]下されたきなどゝ申には。貴人も笑はせられて事済し例[ためし]はあれど。茶が過て申をこなひ致したはいはゞ。人か尤[もつとも]と申さふや鸚鵡返しなれど。貴人に親ふなるも酒の徳李白過采石酒狂入水捉月而死[さいせきをすぎて しゆきようして つきとつて みつにいる  しす]とあるも。太白を称する語とかや。李白はたはけじやといふ者もなし。》

《身代をのみつぶすは酒も茶も同じ事ぞ程を知らぬ茶好がむせうに道具を買集め。参会づき合にいれ上る處は茶にゑふたとやいふへき。醒て驚くには詮もなく。前方買集めたる器物ともを見世にならべ立て。売喰の唐物屋となる人もすくなからず。》

《酒を飲てゑひまぎれに浮世の有さまを見れは。浮萍のごとく赤とんぼうの如しと。酒徳頌にも見えれは。酒ものんたり茶も飲だり。徳もとるたり損もしたり天命にまかせて行着次第にしたまへとすゝめられて。そうもせいといひそうな處を。にかそうな顔してやみぬ》

茶人が「苦そうな顔」をしたとサゲてこの論は終わり。

なるほど、「茶人の論」と題していながらも、これは酒と茶の優劣を論じた、いわゆる「酒茶論」の一種である。「酒茶論」とは、妙心寺五十三世・蘭叔玄秀が天正四年(1576)に著したとされる戯文。青木正児『抱樽酒話』(アテネ文庫、昭和二三年三月二五日)によれば

《やたらに故事を列べたまでで、一向名論奇想も無いものである。》《この書を焼直したものに江戸末期の「酒茶問答」一巻が有る。前の蘭叔の著は漢文で書かれてあつたが、是は其れを和文に翻譯し、更に日本の故事を増益したまでの細工で、著者は平安三五園月麿と有るが、誰か分らない。刊行の年月も未詳で、「寺町通蛸薬師下ル蓍屋幸助梓行」と有り、井上和雄氏の「書賈集覧」によると、此の店は天保頃からの本屋であるから、略ぼ其頃の著らしい。》

江戸時代には、この「酒茶論」と同類のものに「酒飯論」や「酒餅論」などもあり、また安楽庵策伝『醒睡笑』(十七世紀初め)五之巻「上戸」も蘭叔「酒茶論」にならったもの、ということで、人気のあったテーマらしい。馬琴等の編になる『兎園小説』のなかの「大酒大食の會」によれば、実際に、酒組、菓子組、飯連、蕎麦連が互いに大食い自慢を競うイベントまであったそうだ。

青木先生の専門である中国の「酒茶論」はというと、中国では酒は太古からあるが、茶は新参者なので、初めは勝負にならなかった。それが陸羽の『茶経』などが現れ、飲茶が流行しはじめるとようやく「酒茶論」のようなものが戯作されるようになった。敦煌から発見された古写本に郷貢進士王敖撰「茶酒論」一巻が存在する。原本は宋の太祖の時に成った(西暦九七二年頃)そうで中国四千年からすれば、たしかに新参である。

《其の結構は「茶」と「酒」とが出て来て各々其の勲功を誇り、優劣を争うて譲らないところに、「水」が側から仲裁すると云ふ単純なもので、概ね現実に即した談論を討はして故事を博引することなく、俗語まじりの質素な文である。》

この本もまた僧侶の手写だから、この本または類似の本が唐土の寺院に行われているうちに、留学僧が日本へ伝えて、それが蘭叔の著述のヒントになったものか、と青木先生は推測しておられる。

さらに中国では、上戸と下戸の争いは、古く漢の揚雄「酒賦」に現れているとか。降って晋の劉伶「酒徳頌」になると

《まるで下戸を黙殺して取合はぬのである。これこそ上戸の取るべき態度で、所謂「大人先生」は作者自身である。そしてその傍若無人なる態度は下戸を威圧して之に不言の反撃を加へてをり、揚雄の賦の遊戯的なると異り相当真剣である。》

この「酒徳頌」は上記『水灌論』にも言及されているから、我国でもよく知られていたか。また晋末の陶淵明「飲酒」にも上戸下戸の対立を描いた一首がある。和訳は青木先生による。

有客常同止(陶淵明:飲酒其十三)

  有客常同止  
  取舍獏異境  
  一士常獨醉 
  一夫終年醒 
  醒醉還相笑 
  發言各不領 
  規規一何愚  
  兀傲差若穎 
  寄言酣中客 
  日沒燭當秉 

相住みの男同志、趣味はまるきり懸離れて、
一人はいつも酔うてをり、一人は年中醒めてゐる。
醒めたのと酔うたのと笑ひあひ、話しあつてもお互ひに分らない。
諌めてゐる方は馬鹿の骨頂、頑張つてゐる方が少し利口らしい。
酔ぱらひ殿に申上げる、暮れたら火をともして飲[や]るべしだ。

青木先生のこの詩に対する見立ては《下戸と上戸と話し合つても分らない、彼は彼たり我は我たり、道同じからざれば愛相謀らず。是は劉伶より一段進んでゐる。》である。『水灌論』も茶人と酒好きは最後まで融和しないと結論しているところは同じだろう。要するに〈みずかけ論〉である。

by sumus2013 | 2019-03-19 17:17 | 喫茶店の時代 | Comments(16)

アンヂェラス 閉店のお知らせ

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浅草の喫茶店アンヂェラスが三月十七日をもって閉店するというニュースがあちこちに出ていて驚く。ホームページで発表したとのことで、確かめてみると、なるほどそう掲示されている。


上の写真は『ARE』第六号(一九九六年八月二〇日)「洲之内徹という男」特集のために撮影した一枚。洲之内にゆかりのあるアンヂェラスの外観である。これを撮影したのは同じ年の三月八日だった。日記によれば、東京へ着いてすぐにここへ向かった。銀座での個展(イケダヤ画廊)に合わせて上京したのである。

《銀座線にのりかえて浅草まで。アンヂェラスという喫茶店をさがす。すぐに見つかったので写真をとって、スケッチする。店に入ってブレンドとアンヂェラスのチョコ(アンチョコ)を注文する。ホワイトチョコのものもある。森芳雄に少女像がいいかんじ、原精一の à Paris とサインが入った裸婦、猪熊弦一郎の墨デッサン、誰のかわからない静物と、風景。内装はセゼッション風というのか、中世風なかんじもあるアールデコでまとめてある。外装はティンバーもどきである。洲之内徹の趣味というか、彼の青春時代の面影が残っているにちがいない。二人いるボーイさんがなかなか浅草らしくていい。

以上は日記の記述。『ARE』第六号にはこう書いている。

《都営浅草線あさくさ駅で降り、1番出口を出るとすぐ雷門がある。記念撮影に余念がない観光客を後目に雷門から二本目のオレンジ通りを右に少し上ると右手に喫茶店アンヂェラスが見えてくる。黒塗りの壁面に森芳雄作「テラスの女」。他にも鳥海青児、原精一、猪熊弦一郎などの佳作が並んでいる。
アンヂェラスというケーキが売物で、コーティングにチョコレートとホワイトチョコレートの二種がある。いかにも浅草という初老のボーイさんに珈琲とチョコのアンヂェラスを注文する。セゼッション風の洒落た内装にボーイさんのしわがれ声が響く。
「アンチョコ一丁!」
『気まぐれ美術館』に入っている傑作エッセー「絵を洗う」はこの店が舞台。》

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洲之内徹『気まぐれ美術館』(新潮社、昭和五十三年八月二十五日)に収められている「絵を洗う」からアンヂェラスのくだりを引用してみる。

《千束町を通って馬道から公園に入り(公園といってもいまはどこが公園か判らないが)、時間が早くてまだ開いておれば、区役所通りのアンヂェラスという喫茶店でコーヒーを飲む。いつの年だったか、そこで俳優の小沢栄太郎氏を見かけたことがあった。小沢氏は女優さんらしい若い女性を三人連れていたが、三人共、稲穂のついたお守りの小さな熊手を簪のように髪に差していたから、やはりお酉さまの帰りだったのであろう。
 お酉さまの日に限らず、私は浅草へ行くと、いつの間にか、気が付くとその店に入っているという具合で、アンヂェラスでコーヒーを飲むのは、これはもう半ば無意識の、条件反射みたいなものになってしまっているが、いつからそこへ行くようになったかは思い出せない。

洲之内はアンヂェラスに森芳雄の油絵「テラスの女」あるからこの店に入ってしまうのかもしれないと述べて、鎌倉の近代美術館で開かれた森芳雄麻生三郎展に出品されていたその絵を見て、画面がたいそう汚れているのが気になった。そこで森芳雄に頼んで、店に連絡してもらい、その絵を洗いに出かける。

その途中でかなりひどい交通事故の現場を見かけた、その情景を細かに述べた描写を挿んでいるのが、洲之内の芸であろう。

アンヂェラスへ行くと、三階の空いた部屋が仕事場に用意してあって、私は店から絵を外してもらい、まず八号の裸婦の絵から洗いにかかった。用意してきた上等の石鹸でぬるま湯の薄い石鹸水を作り、これまた持参の、洗い晒しの柔らかなガーゼで洗うのだが、水を入れるために借りた容器は、商売柄、サラダボールであった。森さんの絵はマットな絵肌だから、あとからニスをかけて絵肌を調えるわけには行かない。石鹸が絵肌を荒らさぬよう、石鹸水は最初の一回だけで、その石鹸分を残さぬように、あとは真水にとり換えて何回も洗う。初めの二回くらいは、ボールの中の水が醤油みたいな色になった。

《帰り際に、店主の沢田さんが出てきて幾ら払えばいいかと訊いたが、私が要らないと言うと、沢田さんは、ケーキの詰め合わせらしい箱の包みを、私と福島さんとにひとつづくれた。らしいというのは、その私のぶんも、新橋の駅で別れるとき、福島さんにあげてしまったからである。独り暮しの私が詰め合わせのケーキを持って帰ってもしようがない。しかし、考えてみれば福島さんにしても同じで、二つもケーキの箱を貰っては困ったろう。》

この後が本題である。素人が絵を洗うなんていうのはやらない方がいいに決まっているが、専門家にもあてにならないやつがいる。X氏という男で、絵を洗うどころか、勝手に描き変えてしまうのである。ある時、預かったロートレック(という触れ込み)の小品を、風呂敷画商(店をもたないで商売している画商)に渡したところ、その男がX氏にクリーニングを頼んでしまった。もどってきた絵は

《洗っただけではない、人物はもとより、ところどころ板の生地を見せて塗り残しのあったバックまで、ベタ一面に色を塗って、おまけにとろとろにニスがかけてある。これではとても絵は返せない。私は途方に暮れ、Xの非常識に怒っている隙もなかった。》

洲之内はあわてて自らペトロールを含ませた脱脂綿で表面の油絵の具を落としにかかった。預け主から電話がかかってくる。居留守をつかう。なんとかかんとかほぼ現状にもどったところで電話に出る。預け主が取りに来る。覚悟を決めて、包んだばかりの包みを解こうとすると、預け主は急いでいるからと中身を見ずに帰って行った。土曜日の午後だった。日曜は画廊は休みである。ペトロールの匂いがプンプンしているのだ、すぐにバレる。生きた心地はしない。何しろ四百万円で売るという絵だから。月曜日に電話がかかってきた。意外なことに「お蔭さまで絵が売れました」というものだった。

《私はガックリするほど安心し、しかし、まだ気味が悪かった》

X氏が死んだと聞いとき、洲之内はこう思った。

《うれしいと言っては言葉が過ぎるが、とにかく、なんとなく安心した。これで、本物の絵が偽物になってしまうというようなことも、いくらかは減っただろう。》

ひさびさに読み返して、面白いなあ、と感服した。

by sumus2013 | 2019-02-19 17:37 | 喫茶店の時代 | Comments(2)

奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣

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城陽市へ。近鉄の急行と普通を乗り継いで寺田駅下車。閑静な住宅地。高い建物はほとんど見当たらない。同志社女子大の寮の前を過ぎてもう少し南下すると、文化パルク城陽の威容がドーンと現れる。その西館四階に城陽市歴史民俗資料館があり、そこで神保町のオタどんがコメントしてくれた「奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣 寺田出身の青年が作った大正文化サロン」展が開催されているのだ(十二月十六日まで)。

副題にあるように奥田駒蔵が寺田の出身なのだった。これについてはやはりオタどんのブログに教えてもらって以前紹介したことがあった。

メイゾン鴻之巣

そのときに引用した記事を書いたのが奥田万里女史で、ご主人が奥田駒蔵の孫に当たるという縁から徹底した資料調査を行なっておられる。その目下の決定版が『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』(幻戯書房、二〇一五年五月二五日)であり、その内容に沿って本展も構成されているようだった。

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以前、実物が見たいと書いた『カフェエ夜話』の第一号(日本近代文学館蔵)が展示され、内容の一部がコピーされて張り出されていたのは参考になった。奥田駒蔵が自ら描いた掛軸や色紙、書簡なども多数並んでいた。かなりの趣味人だったことが分かる。奥田女史の著書の他に、本展図録も販売されており、これはたいへん重宝な「メイゾン鴻乃巣」のまとめになっている。

カフェエ夜話

駒蔵と照吉


帰途は近鉄の普通電車にて京都へ向かい、東寺駅で降りてすぐとなりにあるブックオフをのぞく。一度入ってみたかったが、機会を逃していた。文庫本一冊求め、そこからバスで帰宅。秋の午後、気持ちのいい散歩になった。

by sumus2013 | 2018-12-01 19:41 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

名曲喫茶〈らんぶる〉の時代

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『scripta』no.48(紀伊國屋書店、二〇一八年七月一日、デザイン=磯田真市朗)に興味深い記事が載っていた。

稲葉佳子「特別企画 名曲喫茶〈らんぶる〉の時代 『台湾人の歌舞伎町』後日談」。同氏は著書『台湾人の歌舞伎町』(二〇一七年)において戦後の歌舞伎町にあったスカラ座、カチューシャ、でんえん、などの喫茶店の多くが台湾人経営だったことを明らかにしたが、「らんぶる」の創業家への取材がかなわなかった。ところが刊行後の一八年三月に二代目経営者の呂明哲氏に話を聞く事ができたということで、その内容をまとめてある。

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《戦後〈風月堂〉の隣に、新宿で最初の本格的な名曲喫茶〈らんぶる〉を開いたのは台湾・台中出身の呂芳庭である。実家は台中郊外の地主だった。》

昭和十四年頃、呂家は内地へ来て神田三崎町で中華料理屋を始めた。芳庭は中央大学へ進み弁護士を目指していた。戦後、外国人は弁護士になれなかったため、亀戸に石鹸工場を作り成功、数年で工場を売り払って飲食店などを手広く経営したという。新宿三越裏に土地を買ったのが昭和二十三、四年頃、二十五年に〈らんぶる〉が誕生した。最初からLPレコードが売りの名曲喫茶だった。進駐軍からレコードを入手していた。客が殺到し、月二回はオールナイト。昭和三十九年頃までそういう状態がつづいたという。

以下、呂ファミリーについて詳しく語られるが、それは本書をお読みいただくに如くはない。

《昭和五〇年(一九七五年)に現在のビルに立て替えられた。最盛期は〈らんぶる〉と姉妹店〈琥珀〉など都内に一〇あまりあった店は、新宿駅東口と歌舞伎町を残して閉店した。今も喫茶店として残っているのは新宿駅東口の中央通りの店だけだ。》


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世田谷文学館で内堀弘さんの「されどわれらが日々」な本棚という展示が行われているらしい。会場写真を頂戴した。〈古書店主の○○な本棚〉volume2だそうだ。

《古本屋、コレクター、小さな出版社や小さな雑誌、そっと消えた詩人、飄々とした私小説家、夭折の歌人…。こういう古本が大好きで、いつも(今も)身の回りに置いてきました。どのページから読みはじめても面白い本、冊子ばかりです。》

青猫書房古書目録、大塚晴彦追悼集、古本はこんなに面白い彷書月刊総目次、関口良雄さんを憶う・・・・

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by sumus2013 | 2018-08-31 21:28 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

西洋見聞図解

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瓜生政和『西洋見聞圖解』(須原屋茂兵衛・山城屋佐兵衛他)の「前輯 全」「二編 乾」「二編 坤」三冊。大日本レトロ図版研Q所様より借覧中。すこぶる面白い内容である。

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瓜生政和、別名を梅亭金鵞(ばいていきんが)。文政四年(一八二一)江戸両国生まれ。若き日は剣の道に精進したようだが、瓜生家に入ってから人情本の松亭金水の門弟となって滑稽本の製作に励んだそうだ。明治維新の後は瓜生政和の本名で本書のような啓蒙書を著している。詳しくはウィキ「梅亭 金鵞」を参照。

「前輯 全」巻頭の揮毫「開巻有益」は萩原秋巌、巻菱湖門下の四天王の一人。蔵書印は「水山〓蔵書」…〓のところは? 「二編 乾」の序は吏隠士静巌梅村清(明治六年癸酉二月)、揮毫「掬水在手月」は千束隠士樗翁。

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本書は喫茶店資料である。二編 坤」に次のような記事が出ており「西洋人茶[せいやうじんちや]并 加非かつびい]を嗜[たし]む説」と題されている。以下引用中の水色文字は直前の漢字一〜三文字のルビ。

《英吉利いぎりすの首都やこ倫敦ろんどん仏蘭西ふらんすの首都みやこ巴黎斯ぱりすとうにて夜茶よるちやを煎せんじ親類しんるい朋友ほういうの親したしき者ものを集あつめ是これを飲ましめ往昔むかしの古事ふるごと今日の新聞何しんぶんなににまれ心こゝろの向むかふところを相互あひたがひに話はなして続夜よもすがらの楽たのしみをす是これを呼んで夜茶会やちやくわいといふ斯かくの如ごとくなれば西洋人せいやうじんも専もつぱら茶ちやを嗜たしミ支那しなより英吉利船いぎりすせんにて輸出つみいだす茶ちやの高たか年々一億おく一千三四万斤に下らず其價あたへを平均へいにて五千五百六十万両に過すぐるといふ

はママ。「嗜み」は「たしみ」とも読むようだ。たしむ。

《また珈琲をも茶ちやと同様どうやうに嗜たしむ珈琲かつぴハ亜刺伯あらびや巴西ぶらじるの如ごとき熱国ねつこくに生しやうする草くさの実にて豆まめの如ごときものなり是これを熬いりて搗き摧くだき其煎そのせんじ汁しるに砂糖さとうを和あハせ用もちゆ苦味にがミあるを以もつて胃中いちうを空すかせ食物しよくもつの消化こなれを能よくるといふ西洋せいやう諸方しよはうにて飲料のミものとする珈琲かつぴいの高たか年々としどし六万石ごくに下くだらず英吉利いきりすの首都やこ倫敦ろんどんの中うちばかりに珈琲かつぴいを商あきなふ店ミせハ八百軒けんあり以もつて其盛そのさかんなるを知るべし

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加非(かつびい)、珈琲(かつぴい、かつぴ)など表記に統一がない。現代韓国語の「コッピ」(コッピー)という発音に似ているなと思ったりするが、明治六年以前ということになると、まだ実物を嗜んだ日本人はそう多くはなかっただろう。貴重な資料である。

西洋見聞図解. 前輯,2編 / 瓜生政和 編集

by sumus2013 | 2018-07-31 21:08 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

ロンドンのコーヒー・ハウス

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【『喫茶店の時代』正誤・増補 007】

【コーヒー伝播と薬局】
43頁5行目 《オックスフォードにイギリス初のコーヒーハウスが出来たのが一六五〇年。》
この出典を記入していなかった。これは同じページの註5に出ている小林章夫『コーヒー・ハウス』(駸々堂出版、一九八四年)に拠っている。上はその文庫版『ロンドンのコーヒー・ハウス』(PHP文庫、一九九四年)。

43頁11行目 《フランスでもやや遅れて十八世紀初めマルチニーク島で増殖に成功するなど
ここに註を入れる。

《一七二〇年ごろにマルチニーク、グアドル、ギアナに移植され、十八世紀末には西インド諸島が奴隷を使って生産高を上げた。コーヒーは綿花に次いで多くの人手が必要な植物だという。メイエール『奴隷と奴隷商人』猿谷要監修、創元社、一九九五年版、九四〜九五頁。》

【ドラッグ・ストアー】
51頁5行目 註2に以下の項目を追加。昭和八年から十二年にかけて探偵小説雑誌『ぷろふいる』を発行していた熊谷市郎氏へのインタビューに三星堂が出ている。
熊谷・神戸に探偵小説クラブ[表記/倶楽部か]ゆうのありましたやろ。そのとき毎月行ってましたんや。三星堂の二階で。
ー薬屋さんの三星堂。
熊谷・そう薬屋さんの三星堂の、あの二階が喫茶店になってましたやろ。むこうで毎月一遍づつ寄り合いがあったんですな。
『sumus』第六号、二〇〇一年五月三一日、「『ぷろふいる』五十年 熊谷市郎氏インタビュー」、六四頁。

52頁1行目 註4に以下の項目を追加。
《カフェー・ガスの主人は秋元氏で上野精養軒のチーフコックだったという。コーヒー五銭。「ルンペン傾向を帯びたインテリたちが自由に振る舞うので一般の客の足はまばらになった。しかし太っ腹な秋元さんは一向に気にしなかった」と林喜芳は回想している(『神戸文芸雑兵物語』冬鵲房、一九八六年、七一頁)。》


by sumus2013 | 2018-06-15 20:05 | 喫茶店の時代 | Comments(0)