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カテゴリ:喫茶店の時代( 40 )

水灌論

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題簽がないが、ちょっと珍しいのではなないかと思う、服陳貞『水灌論』(西村甚介+加賀屋喜兵衛、宝暦三;1753序)巻之二を入手した。タイトルは「みつかけろん」と読み、全四冊らしい。国会図書館の書誌情報は以下のごとし。

タイトル 水灌論 4巻
著 者  服陳貞
出版地(国名コード)JP
出版地  東都
出版社  加賀屋喜兵衛
出版年月日等 宝暦3序
大きさ、容量等 4冊 (合2冊) ; 22cm
注記装丁 : 和装

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この巻之二には「茶人の論」と「遊里の論」の二篇が収められている。ここでは「茶人の論」だけやや詳しい目に紹介しておこう。

まずは茶道の起こりからざっと説いて、利休の侘茶がいつしか道具に金銀を費やす奢りとなったと続け、一人の茶人を登場させる。本来、侘茶と大名茶は表裏一体のはずなのだが、このあたりは江戸中期の茶道流行を皮肉ったものだろう。

《淵瀬杼折とや聞えし茶人。京都にて富裕なる町人なりしが。大徳寺の朴長老より茶道をつたへられしに。其身此道にかしこく。誰々とかずへらるゝ程になりぬれば。家業があつてハおもふ処へ手か届かぬと。弟の四郎三郎に家をゆづり十徳と身を転じて。明ても昏ても茶事をのみ楽しみけるが。つら〜〜思ふに京にばかり居て名をうづみはたさんもほゐなしと。名利につられて江戸へ下り。面白い所に居さいものと詮議せしが。》

淵瀬杼折や大徳寺の朴長老は、モデルはあるのかもしれないが、架空の人物のようだ。ただし、京の茶人が江戸へ下ると待遇が良かったのは本当で、実際に千宗旦の息子・宗左は長らく江戸に出張して居り、宗旦の死に目(明暦四年十二月十九日;1658)に会えなかった。

《きつと思り出し。むかし白河に住ける僧の。一休禅師にむかひて。紫野丹波に近しといひかけられしを。白河黒谷に隣[となる]と和尚の即答ありしを。権者[ごんじや]の頓智当意即妙。有りかたき事につね〜〜感しけるまゝに。是に原[もとつい]て我もまた青山赤坂に近く深川浅草に隣すと。自問自対にへし付花川戸の辺に地をしめて。三畳大目[さんでうだいもく]に籠城し。熱湯をたぎらせ。関東勢をまちうけたる折ふし。》

紫野丹波/白河黒谷という京の地名と色をかけたダジャレが江戸では青山赤坂となり、深川浅草の対句となっている。説明するのも馬鹿馬鹿しいが。まあ、その侘び住居に空呑屋治部右衛門という男が酒樽を引っ提げてやってくる。そして、茶ばっかり飲んで陰気に暮らしてないで、酒でもくらってパーッとご陽気にやりましょうと言い募る。

《空呑屋治部右衛門[うつのみやじぶえもん]といふ男。案内もなくつつと這入て。これはえたり。けふはよもやと存じて参たれは。やつはり相かはらぬ蓼酢[たでず]をめしあげるゝか。それたゝまいらふよりは鮎の石焼にうちかけて。隅田川諸白[もろはく]下されたらむや面々のもの好とはいひながらいかなる過去の悪因にて。さばかり窮屈に生まれつき給ひしものやらん。それでよふは存[なが]らへて居らるゝ事ぞ。其やうにしてくず〜〜と死んでしまうといふも夏の蝉の春秋をしらぬにひとしひものぞや。ひらに酒をのみ習ひたまへかし。今日は否応いはせぬつもりで持参致したと。五升樽とり出してはやせめかゝる。》

淵瀬杼折も負けてはいない。茶の利点を主張する。

《杼折ハ柄杓[ひしやく]をしやにかまへて。焙烙売か両替屋をわらふたやうに。めつたに茶道[さどう]をこなさるれと。茶の徳ある事御存じないからの事。總じて茶の湯ハ礼義を第一として器物をあつかひ。手前のたしなみ身がまへ規矩をはづさず此やうなせまひ所て態[わさ]を鍛錬するゆへに。いかなる貴人の前法礼[はれ]の座鋪[さしき]といへともあはてつまづく事なく。事ゞつゞまやかにしかも其身賎[いや]しけれど高貴の人にもまじはりたり脇目からはきうくつなと見ゆれど。鬱をひらき眠りをさまし娯しきこと俗のしる處にあらず そも〜〜酒を好む輩[ともがら]を見るに。大かたは酔狂して度をわすれ。泣やら笑ふやら礼を乱し義にたがひ。信をうしなう。或は喧嘩ずきすつはぬき。人をそこなひ身を亡し浅ましき事のみ多く》

「すつはぬき=すっぱぬき」は【刀などを出し抜けに抜くこと】だそうだ。英語の「スクープ scoop」に「すくう、えぐる、掘る」という意味があることと似ている。

《文盲至極の底ぬけ上戸いまた宿酔[しゆくしゆ]の熱が醒ずは一ッふくまいりて心みたまへ調へてしん上仕ふかと持たる柄杓を竹輪にかゝれば。》

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・・・そう言われて引き下がる酒飲みではない。漢詩を引用して知識のあるところ見せつつ説得にかかる。

《空呑屋[そらのみや]天窓[あたま]をふつて申候これ〜〜いや哉〜〜醒て物かあらうかい。つがもない事えふて【酔うて】いふのではないが。貴公の茶の湯。礼儀第一ちとのみ込にくひ。一ッふくの茶を五人三人のみかけては人に飲せ。ずんと末座なわろは。惣様[さうふう]のあまりをのむが。あれは呑方が礼義か。》

《せばい処てばかり仕習ふた態[わざ]は広ひ所へ出したらば。土龍子[むぐらもち]を日向へ出したやうに場うての仕そふなもの。しやそや。酒の徳と申は心ひろく体[てい]ゆたかにして。千畳敷てもひあはいでも飲に二ッなく。上となく下となく酒をいて礼義の第一とし。喜怒哀楽酒をはなるゝ事なし。》

《夜前は大酒ゆへ無礼のだん高免[かうめん]下されたきなどゝ申には。貴人も笑はせられて事済し例[ためし]はあれど。茶が過て申をこなひ致したはいはゞ。人か尤[もつとも]と申さふや鸚鵡返しなれど。貴人に親ふなるも酒の徳李白過采石酒狂入水捉月而死[さいせきをすぎて しゆきようして つきとつて みつにいる  しす]とあるも。太白を称する語とかや。李白はたはけじやといふ者もなし。》

《身代をのみつぶすは酒も茶も同じ事ぞ程を知らぬ茶好がむせうに道具を買集め。参会づき合にいれ上る處は茶にゑふたとやいふへき。醒て驚くには詮もなく。前方買集めたる器物ともを見世にならべ立て。売喰の唐物屋となる人もすくなからず。》

《酒を飲てゑひまぎれに浮世の有さまを見れは。浮萍のごとく赤とんぼうの如しと。酒徳頌にも見えれは。酒ものんたり茶も飲だり。徳もとるたり損もしたり天命にまかせて行着次第にしたまへとすゝめられて。そうもせいといひそうな處を。にかそうな顔してやみぬ》

茶人が「苦そうな顔」をしたとサゲてこの論は終わり。

なるほど、「茶人の論」と題していながらも、これは酒と茶の優劣を論じた、いわゆる「酒茶論」の一種である。「酒茶論」とは、妙心寺五十三世・蘭叔玄秀が天正四年(1576)に著したとされる戯文。青木正児『抱樽酒話』(アテネ文庫、昭和二三年三月二五日)によれば

《やたらに故事を列べたまでで、一向名論奇想も無いものである。》《この書を焼直したものに江戸末期の「酒茶問答」一巻が有る。前の蘭叔の著は漢文で書かれてあつたが、是は其れを和文に翻譯し、更に日本の故事を増益したまでの細工で、著者は平安三五園月麿と有るが、誰か分らない。刊行の年月も未詳で、「寺町通蛸薬師下ル蓍屋幸助梓行」と有り、井上和雄氏の「書賈集覧」によると、此の店は天保頃からの本屋であるから、略ぼ其頃の著らしい。》

江戸時代には、この「酒茶論」と同類のものに「酒飯論」や「酒餅論」などもあり、また安楽庵策伝『醒睡笑』(十七世紀初め)五之巻「上戸」も蘭叔「酒茶論」にならったもの、ということで、人気のあったテーマらしい。馬琴等の編になる『兎園小説』のなかの「大酒大食の會」によれば、実際に、酒組、菓子組、飯連、蕎麦連が互いに大食い自慢を競うイベントまであったそうだ。

青木先生の専門である中国の「酒茶論」はというと、中国では酒は太古からあるが、茶は新参者なので、初めは勝負にならなかった。それが陸羽の『茶経』などが現れ、飲茶が流行しはじめるとようやく「酒茶論」のようなものが戯作されるようになった。敦煌から発見された古写本に郷貢進士王敖撰「茶酒論」一巻が存在する。原本は宋の太祖の時に成った(西暦九七二年頃)そうで中国四千年からすれば、たしかに新参である。

《其の結構は「茶」と「酒」とが出て来て各々其の勲功を誇り、優劣を争うて譲らないところに、「水」が側から仲裁すると云ふ単純なもので、概ね現実に即した談論を討はして故事を博引することなく、俗語まじりの質素な文である。》

この本もまた僧侶の手写だから、この本または類似の本が唐土の寺院に行われているうちに、留学僧が日本へ伝えて、それが蘭叔の著述のヒントになったものか、と青木先生は推測しておられる。

さらに中国では、上戸と下戸の争いは、古く漢の揚雄「酒賦」に現れているとか。降って晋の劉伶「酒徳頌」になると

《まるで下戸を黙殺して取合はぬのである。これこそ上戸の取るべき態度で、所謂「大人先生」は作者自身である。そしてその傍若無人なる態度は下戸を威圧して之に不言の反撃を加へてをり、揚雄の賦の遊戯的なると異り相当真剣である。》

この「酒徳頌」は上記『水灌論』にも言及されているから、我国でもよく知られていたか。また晋末の陶淵明「飲酒」にも上戸下戸の対立を描いた一首がある。和訳は青木先生による。

有客常同止(陶淵明:飲酒其十三)

  有客常同止  
  取舍獏異境  
  一士常獨醉 
  一夫終年醒 
  醒醉還相笑 
  發言各不領 
  規規一何愚  
  兀傲差若穎 
  寄言酣中客 
  日沒燭當秉 

相住みの男同志、趣味はまるきり懸離れて、
一人はいつも酔うてをり、一人は年中醒めてゐる。
醒めたのと酔うたのと笑ひあひ、話しあつてもお互ひに分らない。
諌めてゐる方は馬鹿の骨頂、頑張つてゐる方が少し利口らしい。
酔ぱらひ殿に申上げる、暮れたら火をともして飲[や]るべしだ。

青木先生のこの詩に対する見立ては《下戸と上戸と話し合つても分らない、彼は彼たり我は我たり、道同じからざれば愛相謀らず。是は劉伶より一段進んでゐる。》である。『水灌論』も茶人と酒好きは最後まで融和しないと結論しているところは同じだろう。要するに〈みずかけ論〉である。

by sumus2013 | 2019-03-19 17:17 | 喫茶店の時代 | Comments(8)

アンヂェラス 閉店のお知らせ

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浅草の喫茶店アンヂェラスが三月十七日をもって閉店するというニュースがあちこちに出ていて驚く。ホームページで発表したとのことで、確かめてみると、なるほどそう掲示されている。


上の写真は『ARE』第六号(一九九六年八月二〇日)「洲之内徹という男」特集のために撮影した一枚。洲之内にゆかりのあるアンヂェラスの外観である。これを撮影したのは同じ年の三月八日だった。日記によれば、東京へ着いてすぐにここへ向かった。銀座での個展(イケダヤ画廊)に合わせて上京したのである。

《銀座線にのりかえて浅草まで。アンヂェラスという喫茶店をさがす。すぐに見つかったので写真をとって、スケッチする。店に入ってブレンドとアンヂェラスのチョコ(アンチョコ)を注文する。ホワイトチョコのものもある。森芳雄に少女像がいいかんじ、原精一の à Paris とサインが入った裸婦、猪熊弦一郎の墨デッサン、誰のかわからない静物と、風景。内装はセゼッション風というのか、中世風なかんじもあるアールデコでまとめてある。外装はティンバーもどきである。洲之内徹の趣味というか、彼の青春時代の面影が残っているにちがいない。二人いるボーイさんがなかなか浅草らしくていい。

以上は日記の記述。『ARE』第六号にはこう書いている。

《都営浅草線あさくさ駅で降り、1番出口を出るとすぐ雷門がある。記念撮影に余念がない観光客を後目に雷門から二本目のオレンジ通りを右に少し上ると右手に喫茶店アンヂェラスが見えてくる。黒塗りの壁面に森芳雄作「テラスの女」。他にも鳥海青児、原精一、猪熊弦一郎などの佳作が並んでいる。
アンヂェラスというケーキが売物で、コーティングにチョコレートとホワイトチョコレートの二種がある。いかにも浅草という初老のボーイさんに珈琲とチョコのアンヂェラスを注文する。セゼッション風の洒落た内装にボーイさんのしわがれ声が響く。
「アンチョコ一丁!」
『気まぐれ美術館』に入っている傑作エッセー「絵を洗う」はこの店が舞台。》

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洲之内徹『気まぐれ美術館』(新潮社、昭和五十三年八月二十五日)に収められている「絵を洗う」からアンヂェラスのくだりを引用してみる。

《千束町を通って馬道から公園に入り(公園といってもいまはどこが公園か判らないが)、時間が早くてまだ開いておれば、区役所通りのアンヂェラスという喫茶店でコーヒーを飲む。いつの年だったか、そこで俳優の小沢栄太郎氏を見かけたことがあった。小沢氏は女優さんらしい若い女性を三人連れていたが、三人共、稲穂のついたお守りの小さな熊手を簪のように髪に差していたから、やはりお酉さまの帰りだったのであろう。
 お酉さまの日に限らず、私は浅草へ行くと、いつの間にか、気が付くとその店に入っているという具合で、アンヂェラスでコーヒーを飲むのは、これはもう半ば無意識の、条件反射みたいなものになってしまっているが、いつからそこへ行くようになったかは思い出せない。

洲之内はアンヂェラスに森芳雄の油絵「テラスの女」あるからこの店に入ってしまうのかもしれないと述べて、鎌倉の近代美術館で開かれた森芳雄麻生三郎展に出品されていたその絵を見て、画面がたいそう汚れているのが気になった。そこで森芳雄に頼んで、店に連絡してもらい、その絵を洗いに出かける。

その途中でかなりひどい交通事故の現場を見かけた、その情景を細かに述べた描写を挿んでいるのが、洲之内の芸であろう。

アンヂェラスへ行くと、三階の空いた部屋が仕事場に用意してあって、私は店から絵を外してもらい、まず八号の裸婦の絵から洗いにかかった。用意してきた上等の石鹸でぬるま湯の薄い石鹸水を作り、これまた持参の、洗い晒しの柔らかなガーゼで洗うのだが、水を入れるために借りた容器は、商売柄、サラダボールであった。森さんの絵はマットな絵肌だから、あとからニスをかけて絵肌を調えるわけには行かない。石鹸が絵肌を荒らさぬよう、石鹸水は最初の一回だけで、その石鹸分を残さぬように、あとは真水にとり換えて何回も洗う。初めの二回くらいは、ボールの中の水が醤油みたいな色になった。

《帰り際に、店主の沢田さんが出てきて幾ら払えばいいかと訊いたが、私が要らないと言うと、沢田さんは、ケーキの詰め合わせらしい箱の包みを、私と福島さんとにひとつづくれた。らしいというのは、その私のぶんも、新橋の駅で別れるとき、福島さんにあげてしまったからである。独り暮しの私が詰め合わせのケーキを持って帰ってもしようがない。しかし、考えてみれば福島さんにしても同じで、二つもケーキの箱を貰っては困ったろう。》

この後が本題である。素人が絵を洗うなんていうのはやらない方がいいに決まっているが、専門家にもあてにならないやつがいる。X氏という男で、絵を洗うどころか、勝手に描き変えてしまうのである。ある時、預かったロートレック(という触れ込み)の小品を、風呂敷画商(店をもたないで商売している画商)に渡したところ、その男がX氏にクリーニングを頼んでしまった。もどってきた絵は

《洗っただけではない、人物はもとより、ところどころ板の生地を見せて塗り残しのあったバックまで、ベタ一面に色を塗って、おまけにとろとろにニスがかけてある。これではとても絵は返せない。私は途方に暮れ、Xの非常識に怒っている隙もなかった。》

洲之内はあわてて自らペトロールを含ませた脱脂綿で表面の油絵の具を落としにかかった。預け主から電話がかかってくる。居留守をつかう。なんとかかんとかほぼ現状にもどったところで電話に出る。預け主が取りに来る。覚悟を決めて、包んだばかりの包みを解こうとすると、預け主は急いでいるからと中身を見ずに帰って行った。土曜日の午後だった。日曜は画廊は休みである。ペトロールの匂いがプンプンしているのだ、すぐにバレる。生きた心地はしない。何しろ四百万円で売るという絵だから。月曜日に電話がかかってきた。意外なことに「お蔭さまで絵が売れました」というものだった。

《私はガックリするほど安心し、しかし、まだ気味が悪かった》

X氏が死んだと聞いとき、洲之内はこう思った。

《うれしいと言っては言葉が過ぎるが、とにかく、なんとなく安心した。これで、本物の絵が偽物になってしまうというようなことも、いくらかは減っただろう。》

ひさびさに読み返して、面白いなあ、と感服した。

by sumus2013 | 2019-02-19 17:37 | 喫茶店の時代 | Comments(2)

奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣

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城陽市へ。近鉄の急行と普通を乗り継いで寺田駅下車。閑静な住宅地。高い建物はほとんど見当たらない。同志社女子大の寮の前を過ぎてもう少し南下すると、文化パルク城陽の威容がドーンと現れる。その西館四階に城陽市歴史民俗資料館があり、そこで神保町のオタどんがコメントしてくれた「奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣 寺田出身の青年が作った大正文化サロン」展が開催されているのだ(十二月十六日まで)。

副題にあるように奥田駒蔵が寺田の出身なのだった。これについてはやはりオタどんのブログに教えてもらって以前紹介したことがあった。

メイゾン鴻之巣

そのときに引用した記事を書いたのが奥田万里女史で、ご主人が奥田駒蔵の孫に当たるという縁から徹底した資料調査を行なっておられる。その目下の決定版が『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』(幻戯書房、二〇一五年五月二五日)であり、その内容に沿って本展も構成されているようだった。

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以前、実物が見たいと書いた『カフェエ夜話』の第一号(日本近代文学館蔵)が展示され、内容の一部がコピーされて張り出されていたのは参考になった。奥田駒蔵が自ら描いた掛軸や色紙、書簡なども多数並んでいた。かなりの趣味人だったことが分かる。奥田女史の著書の他に、本展図録も販売されており、これはたいへん重宝な「メイゾン鴻乃巣」のまとめになっている。

カフェエ夜話

駒蔵と照吉


帰途は近鉄の普通電車にて京都へ向かい、東寺駅で降りてすぐとなりにあるブックオフをのぞく。一度入ってみたかったが、機会を逃していた。文庫本一冊求め、そこからバスで帰宅。秋の午後、気持ちのいい散歩になった。

by sumus2013 | 2018-12-01 19:41 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

名曲喫茶〈らんぶる〉の時代

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『scripta』no.48(紀伊國屋書店、二〇一八年七月一日、デザイン=磯田真市朗)に興味深い記事が載っていた。

稲葉佳子「特別企画 名曲喫茶〈らんぶる〉の時代 『台湾人の歌舞伎町』後日談」。同氏は著書『台湾人の歌舞伎町』(二〇一七年)において戦後の歌舞伎町にあったスカラ座、カチューシャ、でんえん、などの喫茶店の多くが台湾人経営だったことを明らかにしたが、「らんぶる」の創業家への取材がかなわなかった。ところが刊行後の一八年三月に二代目経営者の呂明哲氏に話を聞く事ができたということで、その内容をまとめてある。

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《戦後〈風月堂〉の隣に、新宿で最初の本格的な名曲喫茶〈らんぶる〉を開いたのは台湾・台中出身の呂芳庭である。実家は台中郊外の地主だった。》

昭和十四年頃、呂家は内地へ来て神田三崎町で中華料理屋を始めた。芳庭は中央大学へ進み弁護士を目指していた。戦後、外国人は弁護士になれなかったため、亀戸に石鹸工場を作り成功、数年で工場を売り払って飲食店などを手広く経営したという。新宿三越裏に土地を買ったのが昭和二十三、四年頃、二十五年に〈らんぶる〉が誕生した。最初からLPレコードが売りの名曲喫茶だった。進駐軍からレコードを入手していた。客が殺到し、月二回はオールナイト。昭和三十九年頃までそういう状態がつづいたという。

以下、呂ファミリーについて詳しく語られるが、それは本書をお読みいただくに如くはない。

《昭和五〇年(一九七五年)に現在のビルに立て替えられた。最盛期は〈らんぶる〉と姉妹店〈琥珀〉など都内に一〇あまりあった店は、新宿駅東口と歌舞伎町を残して閉店した。今も喫茶店として残っているのは新宿駅東口の中央通りの店だけだ。》


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世田谷文学館で内堀弘さんの「されどわれらが日々」な本棚という展示が行われているらしい。会場写真を頂戴した。〈古書店主の○○な本棚〉volume2だそうだ。

《古本屋、コレクター、小さな出版社や小さな雑誌、そっと消えた詩人、飄々とした私小説家、夭折の歌人…。こういう古本が大好きで、いつも(今も)身の回りに置いてきました。どのページから読みはじめても面白い本、冊子ばかりです。》

青猫書房古書目録、大塚晴彦追悼集、古本はこんなに面白い彷書月刊総目次、関口良雄さんを憶う・・・・

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by sumus2013 | 2018-08-31 21:28 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

西洋見聞図解

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瓜生政和『西洋見聞圖解』(須原屋茂兵衛・山城屋佐兵衛他)の「前輯 全」「二編 乾」「二編 坤」三冊。大日本レトロ図版研Q所様より借覧中。すこぶる面白い内容である。

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瓜生政和、別名を梅亭金鵞(ばいていきんが)。文政四年(一八二一)江戸両国生まれ。若き日は剣の道に精進したようだが、瓜生家に入ってから人情本の松亭金水の門弟となって滑稽本の製作に励んだそうだ。明治維新の後は瓜生政和の本名で本書のような啓蒙書を著している。詳しくはウィキ「梅亭 金鵞」を参照。

「前輯 全」巻頭の揮毫「開巻有益」は萩原秋巌、巻菱湖門下の四天王の一人。蔵書印は「水山〓蔵書」…〓のところは? 「二編 乾」の序は吏隠士静巌梅村清(明治六年癸酉二月)、揮毫「掬水在手月」は千束隠士樗翁。

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本書は喫茶店資料である。二編 坤」に次のような記事が出ており「西洋人茶[せいやうじんちや]并 加非かつびい]を嗜[たし]む説」と題されている。以下引用中の水色文字は直前の漢字一〜三文字のルビ。

《英吉利いぎりすの首都やこ倫敦ろんどん仏蘭西ふらんすの首都みやこ巴黎斯ぱりすとうにて夜茶よるちやを煎せんじ親類しんるい朋友ほういうの親したしき者ものを集あつめ是これを飲ましめ往昔むかしの古事ふるごと今日の新聞何しんぶんなににまれ心こゝろの向むかふところを相互あひたがひに話はなして続夜よもすがらの楽たのしみをす是これを呼んで夜茶会やちやくわいといふ斯かくの如ごとくなれば西洋人せいやうじんも専もつぱら茶ちやを嗜たしミ支那しなより英吉利船いぎりすせんにて輸出つみいだす茶ちやの高たか年々一億おく一千三四万斤に下らず其價あたへを平均へいにて五千五百六十万両に過すぐるといふ

はママ。「嗜み」は「たしみ」とも読むようだ。たしむ。

《また珈琲をも茶ちやと同様どうやうに嗜たしむ珈琲かつぴハ亜刺伯あらびや巴西ぶらじるの如ごとき熱国ねつこくに生しやうする草くさの実にて豆まめの如ごときものなり是これを熬いりて搗き摧くだき其煎そのせんじ汁しるに砂糖さとうを和あハせ用もちゆ苦味にがミあるを以もつて胃中いちうを空すかせ食物しよくもつの消化こなれを能よくるといふ西洋せいやう諸方しよはうにて飲料のミものとする珈琲かつぴいの高たか年々としどし六万石ごくに下くだらず英吉利いきりすの首都やこ倫敦ろんどんの中うちばかりに珈琲かつぴいを商あきなふ店ミせハ八百軒けんあり以もつて其盛そのさかんなるを知るべし

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加非(かつびい)、珈琲(かつぴい、かつぴ)など表記に統一がない。現代韓国語の「コッピ」(コッピー)という発音に似ているなと思ったりするが、明治六年以前ということになると、まだ実物を嗜んだ日本人はそう多くはなかっただろう。貴重な資料である。

西洋見聞図解. 前輯,2編 / 瓜生政和 編集

by sumus2013 | 2018-07-31 21:08 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

ロンドンのコーヒー・ハウス

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【『喫茶店の時代』正誤・増補 007】

【コーヒー伝播と薬局】
43頁5行目 《オックスフォードにイギリス初のコーヒーハウスが出来たのが一六五〇年。》
この出典を記入していなかった。これは同じページの註5に出ている小林章夫『コーヒー・ハウス』(駸々堂出版、一九八四年)に拠っている。上はその文庫版『ロンドンのコーヒー・ハウス』(PHP文庫、一九九四年)。

43頁11行目 《フランスでもやや遅れて十八世紀初めマルチニーク島で増殖に成功するなど
ここに註を入れる。

《一七二〇年ごろにマルチニーク、グアドル、ギアナに移植され、十八世紀末には西インド諸島が奴隷を使って生産高を上げた。コーヒーは綿花に次いで多くの人手が必要な植物だという。メイエール『奴隷と奴隷商人』猿谷要監修、創元社、一九九五年版、九四〜九五頁。》

【ドラッグ・ストアー】
51頁5行目 註2に以下の項目を追加。昭和八年から十二年にかけて探偵小説雑誌『ぷろふいる』を発行していた熊谷市郎氏へのインタビューに三星堂が出ている。
熊谷・神戸に探偵小説クラブ[表記/倶楽部か]ゆうのありましたやろ。そのとき毎月行ってましたんや。三星堂の二階で。
ー薬屋さんの三星堂。
熊谷・そう薬屋さんの三星堂の、あの二階が喫茶店になってましたやろ。むこうで毎月一遍づつ寄り合いがあったんですな。
『sumus』第六号、二〇〇一年五月三一日、「『ぷろふいる』五十年 熊谷市郎氏インタビュー」、六四頁。

52頁1行目 註4に以下の項目を追加。
《カフェー・ガスの主人は秋元氏で上野精養軒のチーフコックだったという。コーヒー五銭。「ルンペン傾向を帯びたインテリたちが自由に振る舞うので一般の客の足はまばらになった。しかし太っ腹な秋元さんは一向に気にしなかった」と林喜芳は回想している(『神戸文芸雑兵物語』冬鵲房、一九八六年、七一頁)。》


by sumus2013 | 2018-06-15 20:05 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

FREE TOWN VOL.8

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『FREE TOWN VOL.8』(橋本和義、一九七一年八月二五日)。「特別企画! 古都音盤演奏喫茶店全図」に惹かれてみどり文庫さんにて。24cm角の封筒(上写真)に、両面に記事を印刷したペラ紙が十一枚と二つ折の地図が一枚入っている。十一枚はそれぞれ一枚ずつ独立しており、ノンブルもないので、順番がはっきりしないし、全部そろっているのかどうかも分からない。

奥付を見ると、京都、東京、札幌に事務所があるように書かれている。情報は京都が中心ながら、記事にも東京版があり、大阪の情報も少し載っているから、一応、三都の情報誌という形にはなっている。検索してみると、発行人の橋本和義氏はもう故人らしく、フリータウンの編集者として当時の京都の若者たちの間では知られた存在だったようでもある。
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特集は大学祭、ながら中身はない。映画やコンサートなどの催しのガイドが中心。短いコラムらしきもの、読者投稿なども。目立つのは天井桟敷京都公演の案内。「季節が僕を連れ去ったあとに」と題して三部構成……講演、演劇、映画。9月10日、P.M. 4:30開場、5:30開演。

第1部 講演 青年論 寺山修司
第2部 演劇 捧ぐ!! 永山則夫への70行
第3部 映画 書を捨てよ町へ出よう

会場は京都会館第一ホール。前売600円/当日700円。フリータウン編集部でも前売券を扱っており、割引券(本誌に印刷されている)を切り取って持参すれば550円で入場できるとある。

他に祇園会館の割引券も印刷されており、そちらは大人450円・学生350円のところが250円になる。ちなみにこの号に載っている祇園会館のスケジュールは次の通り。8月23〜31日:くちづけ、恋人達の場所、ナタリーの朝/9月1〜9日:アンナ・カレニナ、ロミオとジュリエット、ジェーン・エア/9月19〜28日:十七才、ガラスの部屋、初体験/9月29〜10月9日:いちご白書、ウッドストック、一人ぼっちの青春。

喫茶店地図は表面(裏面?)がカレンダーになっている。写真に「PAUL BAL 2F」と入っているが、BALビルは一九七〇年一一月にオープンしたファッションビル、できたてホヤホヤだった。

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地図に載っている店名だけ参考までに掲げておく。「Tomiya」はBAL五階にあるレコードショップ(?)。

ALL ABOUT MUSIC SPOT IN KYOTO

・Honky Tonk
・JOMON
・パレット
・JOU JOUX
・BIG BEAT
・impulse
・RIZA
・Moku
・Camp Clair
・SAUN'S ROOM
・YAMATOYA
・Carco'20
・The MAN-HALL
・SHIRO HOUSE
・SWING

1 ZABO
2 ぶるぼん
3 down beat(三条)
4 Big Boy
5 London House
6 Blue NOte
7 Cotton Club
8 Popeye
9 みゅ〜ず
10 down beat(四条)
11 琥珀
12 飢餓
13 じぇる

イ ピエロ
ロ DAM HOUSE
ハ MARCHEN
ニ 52番街
ホ SMspot
ヘ 賁
ト ハーモニー
チ McCall's
リ 柳月堂


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『FREE TWON』が入手できるスポット一覧、これを見ているだけで時間旅行できそう(小生は、年齢的に無理だが……)。




by sumus2013 | 2018-05-11 21:21 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

いっぱいです

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『いっぱいです』(「ぶゐ」二十周年記念誌刊行会、一九八四年一一月六日、限定千部)を頂戴した。これまでも飲み屋の本、を送ってくださった某氏、に深謝。

火の子の宇宙

ささありき

「ぶゐ」は渋谷ののんべい横丁にあった名物店。二〇〇九年七月に店主の平野薫子さんが亡くなられ、閉店してしまったようだが、この本は、それよりも二十五年前、開店二十周年を記念して刊行されたもの。

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巻頭に掲載されている「薫子一代記」が波瀾万丈、むちゃくちゃ面白い。父は広島出身の弁護士だったが、大陸へ渡って軍の御用商人のようなことをやって儲けていた。何不自由なく(しかし産みの母とは生き別れで)育った薫子は朝鮮の大邱高等女学校から青島日本人高等女学校へ通って、その後、医者になるべく上京し予備校生活を送る。しかし敗色が濃厚になり、敗戦時には大邱に居たが、なんとか命からがら漁船に乗って帰国した。戦後の東京でさまざまな職業を転々としながらレストラン、喫茶店勤めから配膳会(パーティなどへの人材派遣会社)で実績を積み、五反田でスタンドバー、そして渋谷で「ぶゐ」を始めるまでを滔々と語っている。まるで映画を見るようなシーンの続出で、ある意味非常に貴重な証言になっているように思った。

喫茶店の時代メモをいくつか引用しておく。

《お小遣いには不自由しないんですけど、東京はもう食料事情が悪くなってて、「白十字」や「むらさき」「ラジオと新聞の店」なんかで、大豆のコーヒーと乾燥バナナを食べてましたね。》(昭和十八年)

《ジャズが急に流行しはじめて、何かこう自分に集中するものが何もない時代でね、しかしジャズ喫茶が出来て、有楽町のパール街ってありましたでしょう。U字型の路地になっていて、あそこへ黒人の生バンドをよく聴きに行きましたよ。
 パール街は知っていますよ。「ママ」っていうモダンジャズ喫茶があったんだ。
 その頃は、モダンはまだ入ってなくて、デキシーでしたけど。「あっ、これだ」っていう感じがジャズにはありましたね。一週間に一度か二度だけどね。黒人にアメリカっていうのを感じましたね。昭和二十五年……。》

《その頃、ダンスが流行ってましたね。小谷楽器でダンスホールをやってて、帰りにダンス習って、お好み焼きを食べてとか、風月堂でコーヒー飲んだり、少し生活にゆとりが出てきてましたね。
 それは何年ですか?
 二十八年ですね。》

《気落ちして、花馬車の前につっ立っていたら、そこにね、「リズ」っていうパフェがあるのね、リズ。
 リズ、知ってますよ。美人のウェイトレスがいたんだ。
 そのリズでお茶を飲んでたのが、河瀬さんていう方でね、花馬車のお客さんで、私のことなんかもよく知ってるんですよ。それで、私に声をかけて下さってね。縁なんですかねぇ、その方が「トワエモア」っていう有名な喫茶店のマスターで、私はこれがきっかけでトワエモアで働くことになるんです。》

《花馬車の並びの西五番街の五丁目のお店でね、トワエモア……。
 このマスターっていう方が変わった方でして、もう、とてもいい人なんです。大学を出てから、すぐフランスへコーヒーの研究に行ってたっていう方でね。銀座では有名な方でした。トワエモアっていうお店も、もう銀座のことを語るのには欠かせないような有名な店でね。》

《トワエモアのお客さんていうのは、まず文春ね。裏にあったから。それから電通の人達。それから、銀座警察っていって、有名だったんだけどU一家ね、そのU一家の根城だったんです。マスターが、人がいいもんだから、結局、つけ込まれたんでしょうね。あとは銀座の商店のオヤジさんたちね。常連の多い店でしたよ。》

昭和三十一年秋頃の話である。U一家は浦上信之の一派のようだ。

《当時、数寄屋橋のあたりは、にぎやかなもんでした。今みたいにキレイじゃなくてね。橋の上でドーナツ売ってたりとか。少し前にね、そこでドーナツ売ってた人画、後に成功して、今の有名な喫茶店を開いた。初代の人がね。これ、「アマンド」です。それで駅前にはヨーヨーとか、大福もちを売ってたオジサンもいてね。これが後のKコーヒー。トワエモアにいつも来てましたからね、よく知ってます。》

しかしマスターは当時流行したパチンコ三昧になり、U一家が店内で日本刀を振りかざすなどするため、一般客が寄り付かなくなり、地下で経営していたクラブが度重なる手入れで営業できなくなるということもあって、昭和三十二年の年末にあえなく閉店したという。……高度成長時代の喫茶店のひとつの盛衰として非常に貴重な証言のように思われる。

トアエモアを辞めてから「ぶゐ」開店までにもいく波乱があるわけだが、あまりに長くなるのでそちらは省略。「いっぱいです]というタイトルはママが気に入れない客を断る(というか一見の客は入れない)ときのセリフだそうだ。席が空いていても「予約です」と断るのだという。「せっかくこの店に来てくれる人が、一見の客のために坐れないようではわるくてね。それも地方から出張できているような人が入れないようでは……」という心遣いがあったのだとのこと。

その常連たちの「ぶゐ」を語るエッセイも、ママの話とはまたひと味違って面白いが、これも長くなるので省略。ひとつだけ、ブローティガンのメッセージが掲載されているので、これはぜひ引用しておかなくては、と思うしだい。

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リチャード・ブローティガン「ダイヤモンドの中で食べる」。日本の姉たか子に連れて行ってもらった渋谷のレストランは、食べ物が素晴らしく美味しかったが、店はとっても狭くて、まるでダイヤモンドの中で食べているようだった。同席した七人の客たちがほとんど同じ皿から同じ口で食べているようだった、というような内容である。

ブローティガンには一九七六年の滞在がモチーフとなった『東京日記』という生前最後の詩集があるが(現在は平凡社ライブラリーで読めるようです)、「ぶゐ」訪問は一九七七年六月ということなので、『東京モンタナ急行』(晶文社、一九八二年;The Tokyo-Montana Express, 1980)の時期ということになろう。


渋谷のんべい横丁「ぶゐ」を突然訪ねる

渋谷の飲み屋「ぶゐ」


by sumus2013 | 2017-12-25 17:51 | 喫茶店の時代 | Comments(2)

神戸とコーヒー

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神戸新聞総合出版センター編『神戸とコーヒー 港からはじまる物語』(神戸新聞総合出版センター、二〇一七年一〇月三〇日)。執筆者の田中慶一氏より頂戴した。深謝です。田中氏は『甘苦一滴』(甘苦社)を発行し、地道に関西のコーヒー文化を掘り起こしている方。本書は神戸とコーヒーが生み出してきた歴史が手際よくまとめられた労作である。目次およびその章に登場する主要な喫茶店および関連商店の名前を挙げておく。

第1章
西洋化〜「ハイカラ文化」から生まれたコーヒータウン
月下亭、外国亭、放香堂、オリエンタル・ホテル、ヒョーゴホテル、明治屋ストアー、藤井パン(ドンク)、二宮盛神堂、神戸凮月堂、いろは商事、

第2章
大衆化〜戦前のコーヒー隆盛期[1908〜1945年]
カフェーパウリスタ、神戸パウリスタ、ユーハイム、フロインドリーブ、藤井パン、神戸凮月堂、三星堂ソーダファウンテン、ビーハイブ、本庄、伊藤グリル、中西コーヒー店、ビクトリヤ、日輪、ミルクホール、オリオン、ホワイト、ビクトリー、珈琲フレンド、石光商事、エキストラ珈琲、サンパウロ、萩原珈琲、カフェブラジル、UCC上島珈琲、カフェーブラジレイロ

第3章
復興と隆盛〜神戸独自のコーヒー文化の進展[1946〜2017年]
ホワイト、サントス、喫茶エデン、茶房歌舞伎、モノタロー、リリック、にしむら珈琲、喫茶マルオー、エビアン、喫茶ロビン、G線、ドンク、ソネ、JAVA、ベラミ、白馬車、トラヤ、スイス、茜屋珈琲店、

***

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『神戸とコーヒー』以外にも喫茶店本をいくつか頂戴したのでまとめて紹介しておく。まずはダ・ヴィンチ編集部編『東京 本好きさんのためのコーヒーのお店』(KADOKAWA、二〇一六年三月二五日)。二十店が紹介されていて、そのインテリアやカップの写真がシブい。目玉は大坊勝次(大坊珈琲店店主)×片岡義男のコーヒー本格派対談。

***

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大竹敏之『名古屋の喫茶店』(リベラル社、二〇一一年九月一九日再版、初版二〇一〇年一〇月二二日)。こちらは単なる店舗紹介にとどまらず、名古屋の喫茶店をとりまく情報がびっしり詰まっている。オールアバウト・ナゴヤ喫茶店という感じで、お得感のある仕上がり。

***


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オオヤミノル『珈琲の建設』(誠光社、二〇一七年一一月一〇日)。「反=珈琲入門」と帯に刷られている通り、珈琲について考えぬいた哲学的な一冊。その哲学は鋭い感覚に支えられている。どういうふうかというと

はんなりした味

オオヤコーヒーの豆っていうのは非常に一粒の豆が持つ個性が弱い。農作物としての個性が豊かじゃない。なんでかっていうと軽くしたいから。それは味じゃなくって口に当ったときの感覚。基本的には軽くってナンノコッチャわからないみたいなところから飲み進めていくとエチオピアの味がする、ってわかるようなのがいいと思ってる。そこからさらに個性を出す時に材料をたくさん使う。お金かかるじゃんって話なんだけど、それがいいと思っているのがオオヤコーヒー。よく個性的って言われるのは俺の人間性と、深焼きだって言うこと。ハゲた鮨屋が光り物切らしてる時に客から注文受けて「今日はコレだけです」ってハゲた頭見せるみたいな感じ?

というような感じ。コーヒーも喫茶店も奥が深い。



by sumus2013 | 2017-11-26 21:05 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

美作七朗作品展

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いろいろなチラシ類を頂戴したなかに、オッと思う一枚があった。「名曲喫茶中野「クラシック」店主 画家美作七朗 生誕110年記念作品展」。会期は2017年9月8日2018年3月25日だから開催中ということだ。会場は名曲喫茶「でんえん」(国分寺市)、「ヴィオロン」(阿佐ヶ谷)、「ルネッサンス」(高円寺)。

「美作七朗作品展」のお知らせ

美作七朗(本名みまさかしちろう)は、1907年(明治40年)熊本市に生れ21歳で上京、洋画家・小林萬吾に師事し画家を目指す。1930年高円寺に音楽喫茶「ルネッサンス」を開業。戦災で焼失するも1945年9月終戦の翌月には、地を中野に移し名曲喫茶「クラシック」として再開。
1960年頃から油彩画の個展を精力的に開催。遺作展では小説家・五木寛之から賞賛の文章が寄せられる。

本名は「みまさか」だが画名として「みさく」と名乗ったようである。小林萬吾(1870-1947)は香川県三豊郡詫間町生れ。黒田清輝の天真道場から東京美術学校、白馬会、文展、帝展に出品、東京美術学校教授、帝国芸術院会員と、画家としてはまっすぐな栄達道を歩んだようである。同郷ではないとしたら、いったいどういう縁があったのか、ちょっと気になる。

1950年以降は西荻窪「ダンテ」をはじめ店舗の内装デザインを数多く手がけ1957年国分寺「でんえん」開業の折りは意匠設計の全てをおこなう。
1980年愛弟子寺元健治の阿佐ヶ谷「ヴィオロン」開業に尽力。1989年病没享年82歳。経営は愛娘の良子に、2005年に氏も他界し終戦から60年続いた「クラシック」は遂に閉店し老朽化した店舗は取り壊しとなる。
2007年元スタッフの檜山真紀子・岡部雅子の両氏により中野「クラシック」の内装を移築した高円寺「ルネッサンス」(創業時と同じ店名)が開業。

「クラシック」の血脈が受け継がれているのは慶賀なことである。


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読者の方より美作グッズを頂戴した。深謝申し上げます。美作七朗絵葉書セット、DVD「美作七朗と中野「クラシック」」、クラシックのマッチ(一九七〇年代のもの)。添えられていたコメントも引用させていただく。

中野のクラシックにはもう30年くらい前に一度行きましたが、ミルクがマヨネーズの蓋に入って出てきました。》《DVDでは、マヨネーズの蓋は白かったですが、わたしが行った時はまさしく赤いマヨネーズの蓋で、びっくりしました。店内は薄暗く、歩くと床が少し沈んだ覚えがあります。

DVDなどを買ったのは、阿佐ヶ谷の「ヴィオロン」でしたが、午後2時くらいでお客さんは6人いました。店番の女性がいない時、演奏中のレコードの針飛びがあったら、一番スピーカーの前で本を読んいたお客さんがすかさず針を置き直していました。

東中野の線路際の老婦人がやっていた喫茶店もなくなって随分になります。「モカ」だったと思います。NHKテレビで黒井千次の特集が放送され、インタビューをそこで受けていたので知りました。当時は高円寺に住んでいて、東中野の線路脇は見慣れていたので、すぐに行ったと思います。黒井千次は『珈琲記』*という本を出しているのですね。

黒井千次『珈琲記』紀伊國屋書店 、1997

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美作さんの絵葉書のなかではこの作品が好きだ。一九二九年作。サインが「S. MIMA-」となっている。この時期にはまだ「みさく」ではなく「みまさか」の略だったようである。

by sumus2013 | 2017-10-28 19:23 | 喫茶店の時代 | Comments(2)