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カテゴリ:喫茶店の時代( 57 )

随筆 柚の木

随筆 柚の木_f0307792_19570915.jpg


川瀬一馬『随筆 柚の木』(中公文庫、一九八九年八月一〇日)。しばらく前に読み了っていたのだが、ちょっと自慢話めいたアクがあるのが気になった。まあ、そこがいいとも言えるし、たいていの書き物は自慢話だから別にそれで悪いと言う訳ではない。

《私が、全国各地の公私の図書館・古社寺の書庫・個人の文庫等を廻訪して、したしく手にした古書は、詳しく数えることも出来ないが、恐らくは百万を遥かに越える数字に達すると思う。

その中で、特に各種の史的研究の対象となるべき善本類は、約一割くらいなものであろうが、精査してノートに書き留めてあるものだけでも、数万に上がっており、参考のために写真に撮影したものも数千に及んでいる。》(p49-50)

とまあこんなぐあいである。《国文学界・書誌学界の最高権威である著者》(カバー表紙4側)だからこのくらいは当たり前かも知れない。ここでは書物ではなく『喫茶店の時代』に関連するところを二点ほど引いておく。まずは新宿中村屋。

《私は先年、新宿中村屋の相馬家の仏教講話の月例会を聴講させて貰ったことがある。その席は催主の家族の他に各種の人が交じっている十数名の老若男女の顔ぶれで、講師は矢吹慶輝博士であったが、最初の晩に、講話が終ると、一番上席の方に坐していた老人が、矢吹博士に向かって、極めて率直な態度で質問を発した。それは私共が聞きたいと思っていることを代りに尋ねてくれるような質問で、有難いわけではあったが、矢吹博士との応答を聞いていると、その老人は、思想家か、ジャーナリストらしく察せられ、何事にも一見識を以て、鋭い頭で応対を組織的にグングンと押し進めて行くところは、いかにも異常な人と思われた。しかしながら、物の考え方が今まで私の接した老人階級とは全く違っていて、極端な社会主義を信奉する人のようにも見えるが、結論を聞いていると、そういう思想に賛成していないことも確かである。定めし名の有る人であろうとは思ったが、一向に見当がつかないままに、帰途を待ちかねるようにして、同行者にその名を問うと、「あれが有名な木下尚江翁ですよ。」とのことに、なるほどと直ちに合点がいったのである。

若い頃には幸徳秋水等と行動を共にし、後に転向した木下氏であるが、その主義は棄て去っても、もとの思索体系まで根底から改めることは出来にくいものと見える。》(p121)

《矢吹 慶輝(やぶき けいき、1879年(明治12年)2月13日 - 1939年(昭和14年)6月10日)は、日本の宗教学者、社会事業家。福島県出身。旧姓は佐藤。号は隈渓。東京帝国大学卒。宗教大学(現大正大学)教授となり、欧米に留学。敦煌出土の仏典を研究、1925年「三階教之研究」で学士院恩賜賞受賞。勤労児童のための三輪学院を創設、東京市社会局長。1939年、狭心症のため死去。》(ウィキペディア「矢吹慶輝」)

先年とあるが、木下尚江の歿年が昭和十二年なので、それ以前の話だということになる。中村屋のサロンとしての熱気が伝わる証言だと思う。もう一カ所中村屋は登場している。「饅頭合」のなかに次のようにある。

《新宿の中村屋で売り出して一般に人気のあった支那饅頭は肉入りと小豆餡入と二種類あったが、餡入の方は餡に何か工夫があったと見えてねばり気のある漉し餡でおいしかった。》(p262)

もうひとつは茶粥である(茶粥は『喫茶店の時代』28頁に登場)。「大和の茶粥」。京・大阪・大和は粥食が多いが、それは古風が残っているからで、一般に米を白く搗いてふうわりとした飯をたくようになったのは江戸時代からのことで、それ以前は、粥か、蒸した強飯[こわいい]だった。固粥[かたかゆ]が現在の飯に近いものだったが、やはり粥の類であった。「いい」というのは必ず蒸したものを指した。

《大和でする茶粥は、かしいだ白米と一緒に少量の番茶を袋に入れて前夜から仕掛けておいて、翌朝たくのであるが、茶が入ると米がしまってどろつかず、さらりとした粥になるのが特徴である。それ故に茶の分量が多過ぎると米がしまりすぎていけないし、また上茶では苦味が強くなるから番茶に限る。無論少量の塩を加える。

夏の朝などはこれを嘗[こころ]みると、食欲をそそってよいものである。そして、餅を焼いて茶碗に入れ、上からかけて喰べるか、かき餅を焼いて同じようにすると一層よく、それならばわざわざ客に饗しても、大いに喜ばれるにきまっている。》(p277-278)

これらはぜひとも補足しておきたい描写である。

by sumus2013 | 2020-05-28 20:05 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

喫茶店の時代:書評

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サンデー毎日 2020年5月31日号


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京都新聞 2020年5月17日号



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堀部篤が薦める文庫この新刊!
朝日新聞 2020年5月9日号


by sumus2013 | 2020-05-22 10:30 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

風月堂 グリル 喫茶

風月堂 グリル 喫茶_f0307792_19142405.jpg

こんな手製カバーのかかった文庫本を発見。梅田と心斎橋にあったらしいグリル・喫茶「風月堂」。上野や神戸の凮月堂とは似ているようで違う。上野凮月堂のロゴは市河米庵の揮毫になるそうで、凮は風の古字らしい。『正字通』(明代)に出ているとか。新宿風月堂も凮月堂とは関係がなかったようだから、全国に風月堂を名乗る店は少なくなかったのかもしれない。

風月堂 グリル 喫茶_f0307792_19141993.jpg

カバーをそっと剥がしてみるとヘルマン・ヘッセ『車輪の下に』秋山安三郎訳(角川文庫、昭和二十八年十一月三十日初版)であった。初版は珍しいと思う。帯とグラシンも風月堂カバーのお陰でそこそこきれいに残っている。

by sumus2013 | 2020-05-16 19:56 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

「『喫茶店の時代』の時代」ZOOMトーク開催

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ZOOMトークのために準備中。上の写真で左下の開いたノートが、そもそもの「喫茶店の時代」のスタートになった「喫茶店抜き書き帳」です。はっきり覚えていませんが、一九八〇年代の終わり頃から喫茶店の記述コレクションを始めたようです。一番最初の抜き書きが寺山修司の短歌です。『青春歌集・麦藁帽子』より。

 ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし

次が内田百閒「可否茶館」、高見順「昭和文学盛衰史」からモナミ、ヘーゲル「精神現象学序説」の菊萵苣のコーヒー、ディドロ「ラモーの甥」のカフェ・ド・ラ・レジャンス、モラヴィア「夫婦の愛」、織田作之助「船場の娘」のコロンバン、カフカ「ルガノ=パリ=エルレンバッハの旅」の列車のコーヒー、マキナニー「ブライト・ライツ、ビッグ・シティ」のコーヒーショップはギリシャ人経営のくだり、藤沢桓夫「大阪自叙伝」のライオンその他・・・・と続いています。

まったく行き当たりばったりに喫茶店記述をコレクションしていたわけです。それを本にするため、多少のまとまりをつけたものが『喫茶店の時代』になりました。線的な流れではなく、まったく点描派もいいところなのです。

**

いま流行りのリモート・トークをみつづみ書房さんの企画でやらせてもらうことになりました。

本書の成り立ちや、本書に使用した珍しい資料、あるいは使用しなかった資料なども紹介したいと思っております。喫茶店というよりも、古本の話になりそうです(笑)。

はじめての試みなので、どうなりますやら。参加者募集中です。当日まで申し込みしていただけます。ただしZOOMはじめての場合はアプリのダウンロードが必要ですので、お早めに、お問い合わせください。


林哲夫トークイベント「喫茶店の時代」の時代

ビデオ会議アプリ”zoom”開催


○日時 5月6日(水・祝)

 14時30分開場/15時スタート


○申し込み締め切り

 5月6日当日までオーケーです!


○URLのお知らせ 

 5月5日(火)17時以降順次


詳しくはこちらまでー!

by sumus2013 | 2020-05-05 17:14 | 喫茶店の時代 | Comments(4)

ラ・パボーニ

ラ・パボーニ_f0307792_19554528.jpg


兵庫県西宮市に「ラ・パボーニ」という喫茶店があった。主人は洋画家・大石輝一(一八九四〜一九七二)。一九三四年、阪急夙川駅近くの西宮市千歳町の住宅街に開店した。

《白壁のモダンな建物の内部は壁、天井などがすべてキャンバスで、大石のアートだった。野坂昭如の「火蛍の墓」にも登場し、放浪画家山下清が暮らしたこともあった。
 大石の死後も妻の邦子さんが店を守っていたが、震災で建物は壊れて解体。》

作品や資料類は常連や親戚の人たちが運びだし、北新地のパブ「カーサ・ラ・パボーニ」に飾られたり、絵葉書にして伝えられてきたという。邦子さんは一九九七年に八十八歳で死去。九九年に資料集が発行され、大石が一九五〇年代に発行していた冊子『PAVONI』を復刻して収録した。以上は『朝日新聞』(夕刊)一九九九年一二月九日号より。

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その『PAVONI』の現物を二冊(3、4号)と創刊号、2号のコピーを街の草さんでわけてもらった。『喫茶店の時代』の初版に使えればと思ったのだが、使わずにそのままになっていた。ちくま文庫でも増補できなかったので、ここにわずかだが紹介しておきたい。

創刊号は一九五四年四月、大石の発刊の言葉にはつぎのようにある。

《地球上の出来ごとは、次から次へと、結論を目的としない諧謔的な問題を発明することに忙殺して居り、これをお互に何日までも戦争の罪だとして、等閑して居れない時が参つたように想うのであります。さらばで御座います、サテどうしましょしよう。
 そこでパボーニ倶楽部でパボーニ会が誕生致しました。お互い集つて、放談自在のうちに肯定・否定を自づと定め、"良き感覚と良識"を高め、生活に理想の光明を求め築き、恵愛に満ちた全き自由な日々の暮しを念願とするものであります。》

《パボーニ会に並行してパボーニ倶楽部の仕事と致しまして、パンフレツト・PAVONIの発刊はパボーニ会々員の方々から寄稿下さいましたものを主体と致しまして、倶楽部でお目にかゝらない未知の皆様へ、友愛をこめての握手で御座います。》

二号に見える大石の「僕のサンチマン」によれば《東京を根城に洋画研究に精進していた私は、関東大震災を蹶起として、今を去る三十年前『大社村石刎』現在の西宮市に、六甲のスカイラインを友として移住したのであります。》とのこと。その直後、美術館建設を計ったが、挫折し、今ふたたび、今度は、複製美術館を建てようと、自らの作品頒布して資金を調達しようとしている。一部の複製はフランスに註文したとも書かれている。

各号の執筆者の名前だけざっと拾っておく。

1号 一九五四年三月
大石輝一、故字寛(洋画家)、朝倉斯道(神戸新聞会長)、小林よしを(会社員)、伊田清之助、南波辰夫(極東航空)、清水保雄(市会議員)、松木南海、加藤忠松(演出家)、国友俊子、沢田国子、谷林義雄

2号 一九五四年四月
増野正衛(ギル衣裳論翻訳)、小林よしを、新井完(洋画家)、亀井勝治郎、山崎三郎(歯科医)、仲郷三郎(増田製粉勤務)、山口雅生(白鶴美術館)、故字寛、梅乃屋主人(與本末次郎)、大石輝一、朝倉斯道

3号 一九五四年五月
大石輝一、小林よしを、橋本正一(神戸市図書館長)、原田譲二(日本観光バス社長)、清水保雄、新井完、中村伸郎(文学座)、山木康子、山口雅生、延原句沙弥(神戸新聞社専務)、高木定夫(歯科医)、西本珠夫(尼崎高校教諭)、故字寛、谷林義雄(洗濯業)、野村三千代(野村卓二夫人)、南波松太郎(元東大教授・古地図蒐集家)、金田豊(食品業)

4号 一九五四年六月
大石輝一、南波辰夫、加藤忠松、三津田健、賀原夏子、故字寛、池永孟(池永美術館)


ラ・パボーニ_f0307792_19575922.jpg
3号より


パボーニについて詳しいことが下記の「KOBECCO」サイトに出ていました。

夙川に文化の薫香を放った幻のカフェ パボーニ物語


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発売中です!


by sumus2013 | 2020-04-19 20:06 | 喫茶店の時代 | Comments(8)

神戸元町本庄


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「本庄」は『喫茶店の時代』には登場しない店だが、季村敏夫氏が情報を提供してくださったので、ここに掲出しておく。神戸元町三丁目山側にあった。本庄は映画も製作しており、例えば、鈴木重吉[しげよし]監督の「闇[くらやみ]の手品」(一九二七)は本庄映画研究所の作品だった。本庄商会は一九二三年一月設立、代表は本庄種治郎。映画部はカメラ五台を所有し外国映画の配給も手がけた。

《大正時代、長兄種治郎、次兄憲三郎らカメラ好きの兄弟が生家の呉服店を写真商に変えた。鈴木重吉は大学在学中から芸術写真家として知られ接点があったとも考えられる。
 広告をたどると、事業の拡大ぶりが分かる。神戸新聞フィルム・ニュースを担当し、24年には日本アルプスを撮影。26年に電気部を新設。照明器具、花、漢方薬の販売やファウンテンルーム(喫茶室)に加えて、27年にはグリルを開業。39年からは「本庄映画場」を元町4丁目高架下で経営した。》(「キネマコウベ 日本映画史余話7」『神戸新聞』2016年4月23日号)

神戸元町三丁目山側は現オカダ洋傘店だそうだ。三星堂ソーダファウンテンは元町六丁目だったから元町通りがまさに「元ブラ」のモボモガで賑わった時代だったのだろう。


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by sumus2013 | 2020-04-14 17:15 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

うたごえ喫茶 歌集

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うたごえ喫茶の歌集。いずれも文庫本の半分サイズ(75mm × 105mm)。まだまだいくらでもあると思うのだが、古本屋ではあまり見かけないように思う。これらの一部はちくま文庫版にも掲載しました(p346)。

『山小屋歌集5』(コーラスホール山小屋:豊島区西池袋東武デパート前富士銀行地下)
『カチューシャ愛唱歌集第4集』(カチューシャ:新宿区歌舞伎町、昭和34年9月30日)
『カチューシャ愛唱歌集第5集』(カチューシャ:新宿区歌舞伎町、昭和43年2月1日)
『白十字歌集 No.3』(うたごえコーナー白十字:豊島区巣鴨)
『白十字歌集4』(歌ごえコーナー白十字:豊島区巣鴨)
『白十字歌集5』(歌ごえコーナー白十字:豊島区巣鴨)
『牧場4』(歌声の店「牧場」:渋谷区宇田川町)
『牧場2』(歌声の店「牧場」:渋谷区宇田川町)
『炎歌集1・2合本』(歌ごえホール炎:京都四条寺町、昭和三十三年二月一日)

by sumus2013 | 2020-04-13 19:34 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

東中野モナミ

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『文学者』第一巻第二号(「文学者」発行所、昭和三十三年五月十日、表紙=宮田重雄)。この表紙裏(表2)に東中野モナミの広告が出ている。ノア版でも同じ『文学者』五十二号の広告写真を使用したのだが、この第二号には別の角度から撮った写真が掲載されていた。少し迷ったのだが、ちくま文庫版にはやはり元本と同じ写真を入れることにした。そこには「モナミ」の看板がはっきり写っているためである。

モナミ

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【『喫茶店の時代』立ち読みコーナー】

 丹羽文雄が主宰していた同人雑誌『文学者』は発行所が「十五日会」となっていた時期がしばらくある。毎月一五日に合評会を開くところにその名は由来しており、会場は東中野のモナミであった。昭和三〇年(一九五五)に例会費は二〇〇円。出席者はおよそ二〇〇名でビールまたは紅茶とケーキが出された。丹羽の他、火野葦平、石川達三、八木義徳らがメインテーブルを占め、ときには井伏鱒二、尾崎一雄などが姿を見せたこともあったという。その頃、芥川賞作家や候補を次々輩出し、新人の登竜門として『文学者』は最も有力な存在だった。モナミにおける合評会の熱気が想像される。

by sumus2013 | 2020-04-12 16:57 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

台湾喫茶店

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「大典記念京都博覧会場内/䑓湾/喫茶店」というスタンプのある絵葉書の封筒、「FORMOSA TEA」と印刷されている。封筒(袋)というのが珍しいのではないかと思う。および絵葉書一枚(富士山の図柄)。スタンプが同じなので、大正四年に京都の岡崎で開催された博覧会で販売されたものに違いない。これらはちくま文庫版『喫茶店の時代』では使用していないが、台湾喫茶店の建物の写真は掲載したので直接ご覧いただければと思います。

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【『喫茶店の時代』立ち読みコーナー】

 台湾喫茶店は明治三八年(一九〇五)に竹川町(銀座七丁目)に開店し、後に尾張町二丁目(現銀座六丁目)へ移転した[1]。ウーロン茶を売る目的で作られ、お茶にお菓子が付いて一〇銭。ウーロンと通称され、七、八人の女給がサービスをしていた。初めは女給といわず「女ボーイ」という矛盾した呼称を使っていた。
《明治三十九年からの老舗であって、後藤、祝、大島、下村と台湾の民政長官が替る前から、台湾茶の普及に努めたもので、或る意味では日本最初のカフェーといって宜かろう。中沢安五郎老人がこのウーロン茶に注目したは、たしかに時代の先駆者で、今は東洋協会評議員、鉄道協会評議員、京成電車遊園地顧問、総房協会常務理事などに納まっている。初めてこの喫茶店が出来た頃には、後藤新平氏も遣って来たし、竹越三叉漁郎の如きは、事務所のようにして出入りしたものだった。その頃からウーロン茶の他に、四五種の洋酒もあったし、美味い洋食も食べさせたもので、お鈴、お幸などいう美人の女給がいたことは、前にも縷説した通りであります。》[2]
 台湾のウーロン茶が良質であることはよく知られており、三井合名会社も明治三一年(一八九八)に商品化を試みた。しかし結局、英国輸出をにらんだ紅茶製造へ転換し、昭和二年(一九二七)に「三井紅茶」として市場へ出すことに成功する。
 水上勉は次のように書いている。
《台湾喫茶店は、もと新橋の芸者だった人が明治三十九年に始めた店だという。銀座通りに面した六丁目、現在の小松ストアーとマヤ片岡美容室のある建物との間で、「タカゲン」のあるあたりかと思われる。》[3]

[1]安藤更生『銀座細見』(春陽堂、一九三一年)その他、明治三九年開店としている書物が多いが、『大阪朝日新聞』一九二二年一二月六日〜八日号に掲載された「銀座の烏龍茶」によれば開業は明治三八年(一九〇五)一二月である。セントルイス博覧会で農商務省が烏龍茶を宣伝するために喫茶店を出したのが発端となり、それを担当した中沢安五郎が銀座に店舗を構えることとなった。ウーロン茶にはミルクが入っており、最初は「変な茶を飲ます家」だと敬遠された。明治三九年(一九〇六)に上野公園で開催された共進会に出店、それが話題となって経営が軌道に乗ったという。以上は神戸大学経済研究所「新聞記事文庫」より。
[2]松崎天民『銀座』中公文庫、一九九二年。
[3]水上勉『宇野浩二伝』上巻、中公文庫、一九七九年。『日本珈琲史』(珈琲会館文化部、一九五九年)には《経営者は後藤新平の民政党時代にその秘書をしていた人で、この人に金を出してやつて初めさせたということだが》とある。それが中沢安五郎であろう。

by sumus2013 | 2020-04-11 19:58 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

神戸パウリスタ

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この小冊子は外国人旅行者のための日本ガイドである。『Book on Travel in Japan / A guide to Shops, Hotels and Resorts』(1937)、編集人は B. Andrew。

古書店の店頭で手に取った瞬間、この冊子には何かあるな、と思った。案の定、神戸パウリスタの珍しい図版が出ていた。見つけたときには狂喜したものだ(しかも右側のページには大阪道頓堀のキャバレー・マルタマの写真もある)。「KOBE PAULISTA/Very Popular and Hight Class/RESTAURANT & TEA ROOM/Tor Road(Sannomiya Shrine)/TEL. : SANNOMIYA 943-3098 」。これは図版として使いたかったが今回は見送った。パウリスタは情報量がかなり増えてしまったためである。というわけでここで公開しておきます。

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【『喫茶店の時代』立ち読みコーナー】

 神戸三ノ宮にパウリスタができたのは道頓堀店より早い大正元年(一九一二)である。
《三ノ宮喫店は二回の焼失に遭っており、初めは鉄道路に面した角地の小さな木造洋館であったが、一九二〇年(大正九年)に一度目の火災に遭い、翌年、三宮神社北のトアロード沿いに再建された。二代目の店舗は地下一階、地上三階の近代的なビルディングで、正面上部の白壁には「カフェーパウリスタ」の屋号と、商標である「星と女王」。カウンターはタイル張り、ボイラーも備え、大理石をふんだんに使ったモダンな建物に生まれ変わり、新たに併設したレストランは三ノ宮喫店の名物となった。》[30]
 パウリスタ三ノ宮喫店に勤務していた畔柳松太郎は開店当初をこう振り返る。
《三ノ宮の繁華街に開店してパウリスタの店は、非常に人目を惹きました。ただし、当時の日本人にはコーヒーはまだ余り馴染めなかったので、日本人の客はほとんど入って参りません。客の大部分は外人で、殊に第一次大戦がはじまる前でしたから神戸にはドイツ人がたくさん住んでいて、よくコーヒーを飲みに来ていました。》[30]
 神戸出身で早稲田の学生だった浅見淵の小説「漆絵の扇」に初期のパウリスタが登場している。主人公は小説を書こうとしている大学生。作者自身であろう。大学に入った当座は夏休みに神戸へ帰省するのが楽しみだったが、だんだん億劫になってきたというところから始まる。
《じつさい、私は神戸へ帰つて二三日もすると、すつかり退屈してしまふのだつた。顔馴染のカフエや小料理屋は無いし、中学時代の友達もたいてい疎遠になつて、ひとりか二人しかゆききしてなかつた。それで、一週間に一度金曜か土曜かの晩にヒリツピン人のバンド付きで映す、オリエンタル・ホテルの活動写真を見に行くとか、海岸通のエム・シー薬舗で二円五十銭で買つて来たアツシユのステツキを振回しながら、汗みどろになつて裏山を歩き回るなどといつた気紛れを除くと、大方昼寝をして暮した。そして、昼寝に倦きると毎日のやうに、トーア路をとほつて三ノ宮のステイシヨンへ出掛け、そこで二三種類の東京の新聞を買求めて、トーア路が鉄道の踏切を越えたところにあるカフエ・パウリスタに引返し、一二杯の珈琲と一二本の安葉巻をたのしみながら、隅から隅までその二三種類の東京の新聞にゆつくり目を曝した。》[31]
 浅見の年齢からして大正七〜八年頃のことであろう。その他、一〇歳から神戸で育った今東光が自らの青春時代を描いた『悪童』にもパウリスタは登場しているし、新開地本通りの扇港薬局を営んでいた二二歳の横溝正史は元町にあったブルーパゴタの紅茶とカフェーパウリスタの少し泡立った珈琲を愛飲したという。また、昭和一四年(一九三九)、神戸市観光課の委嘱を受けてパウリスタのビルディングを写真家中山岩太が連作『神戸風景』の一枚として撮影している[32]。三ノ宮喫店は、オーナーが代った後、二度目の焼失によって三代目の店舗となり、屋号も神戸パウリスタに変更された。そこは第二次大戦後の占領下でダンスホールとなり、非常に賑わった時期もあった。現在もその場所(神戸市中央区三宮町二)にパウリスタビルとして名前が残っている[30]。

[30]『神戸とコーヒー 港からはじまる物語』神戸新聞総合出版センター、二〇一七年。
[31]『辻馬車』一八号、波屋書房、一九二六年八月。
[32]西秋生『ハイカラ神戸幻視行 紀行篇 夢の名残り』神戸新聞総合出版センター、二〇一六年。

by sumus2013 | 2020-04-10 20:27 | 喫茶店の時代 | Comments(0)