林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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カテゴリ:喫茶店の時代( 35 )

ロンドンのコーヒー・ハウス

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【『喫茶店の時代』正誤・増補 007】

【コーヒー伝播と薬局】
43頁5行目 《オックスフォードにイギリス初のコーヒーハウスが出来たのが一六五〇年。》
この出典を記入していなかった。これは同じページの註5に出ている小林章夫『コーヒー・ハウス』(駸々堂出版、一九八四年)に拠っている。上はその文庫版『ロンドンのコーヒー・ハウス』(PHP文庫、一九九四年)。

43頁11行目 《フランスでもやや遅れて十八世紀初めマルチニーク島で増殖に成功するなど
ここに註を入れる。

《一七二〇年ごろにマルチニーク、グアドル、ギアナに移植され、十八世紀末には西インド諸島が奴隷を使って生産高を上げた。コーヒーは綿花に次いで多くの人手が必要な植物だという。メイエール『奴隷と奴隷商人』猿谷要監修、創元社、一九九五年版、九四〜九五頁。》

【ドラッグ・ストアー】
51頁5行目 註2に以下の項目を追加。昭和八年から十二年にかけて探偵小説雑誌『ぷろふいる』を発行していた熊谷市郎氏へのインタビューに三星堂が出ている。
熊谷・神戸に探偵小説クラブ[表記/倶楽部か]ゆうのありましたやろ。そのとき毎月行ってましたんや。三星堂の二階で。
ー薬屋さんの三星堂。
熊谷・そう薬屋さんの三星堂の、あの二階が喫茶店になってましたやろ。むこうで毎月一遍づつ寄り合いがあったんですな。
『sumus』第六号、二〇〇一年五月三一日、「『ぷろふいる』五十年 熊谷市郎氏インタビュー」、六四頁。

52頁1行目 註4に以下の項目を追加。
《カフェー・ガスの主人は秋元氏で上野精養軒のチーフコックだったという。コーヒー五銭。「ルンペン傾向を帯びたインテリたちが自由に振る舞うので一般の客の足はまばらになった。しかし太っ腹な秋元さんは一向に気にしなかった」と林喜芳は回想している(『神戸文芸雑兵物語』冬鵲房、一九八六年、七一頁)。》


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by sumus2013 | 2018-06-15 20:05 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

FREE TOWN VOL.8

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『FREE TOWN VOL.8』(橋本和義、一九七一年八月二五日)。「特別企画! 古都音盤演奏喫茶店全図」に惹かれてみどり文庫さんにて。24cm角の封筒(上写真)に、両面に記事を印刷したペラ紙が十一枚と二つ折の地図が一枚入っている。十一枚はそれぞれ一枚ずつ独立しており、ノンブルもないので、順番がはっきりしないし、全部そろっているのかどうかも分からない。

奥付を見ると、京都、東京、札幌に事務所があるように書かれている。情報は京都が中心ながら、記事にも東京版があり、大阪の情報も少し載っているから、一応、三都の情報誌という形にはなっている。検索してみると、発行人の橋本和義氏はもう故人らしく、フリータウンの編集者として当時の京都の若者たちの間では知られた存在だったようでもある。
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特集は大学祭、ながら中身はない。映画やコンサートなどの催しのガイドが中心。短いコラムらしきもの、読者投稿なども。目立つのは天井桟敷京都公演の案内。「季節が僕を連れ去ったあとに」と題して三部構成……講演、演劇、映画。9月10日、P.M. 4:30開場、5:30開演。

第1部 講演 青年論 寺山修司
第2部 演劇 捧ぐ!! 永山則夫への70行
第3部 映画 書を捨てよ町へ出よう

会場は京都会館第一ホール。前売600円/当日700円。フリータウン編集部でも前売券を扱っており、割引券(本誌に印刷されている)を切り取って持参すれば550円で入場できるとある。

他に祇園会館の割引券も印刷されており、そちらは大人450円・学生350円のところが250円になる。ちなみにこの号に載っている祇園会館のスケジュールは次の通り。8月23〜31日:くちづけ、恋人達の場所、ナタリーの朝/9月1〜9日:アンナ・カレニナ、ロミオとジュリエット、ジェーン・エア/9月19〜28日:十七才、ガラスの部屋、初体験/9月29〜10月9日:いちご白書、ウッドストック、一人ぼっちの青春。

喫茶店地図は表面(裏面?)がカレンダーになっている。写真に「PAUL BAL 2F」と入っているが、BALビルは一九七〇年一一月にオープンしたファッションビル、できたてホヤホヤだった。

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地図に載っている店名だけ参考までに掲げておく。「Tomiya」はBAL五階にあるレコードショップ(?)。

ALL ABOUT MUSIC SPOT IN KYOTO

・Honky Tonk
・JOMON
・パレット
・JOU JOUX
・BIG BEAT
・impulse
・RIZA
・Moku
・Camp Clair
・SAUN'S ROOM
・YAMATOYA
・Carco'20
・The MAN-HALL
・SHIRO HOUSE
・SWING

1 ZABO
2 ぶるぼん
3 down beat(三条)
4 Big Boy
5 London House
6 Blue NOte
7 Cotton Club
8 Popeye
9 みゅ〜ず
10 down beat(四条)
11 琥珀
12 飢餓
13 じぇる

イ ピエロ
ロ DAM HOUSE
ハ MARCHEN
ニ 52番街
ホ SMspot
ヘ 賁
ト ハーモニー
チ McCall's
リ 柳月堂


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『FREE TWON』が入手できるスポット一覧、これを見ているだけで時間旅行できそう(小生は、年齢的に無理だが……)。




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by sumus2013 | 2018-05-11 21:21 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

いっぱいです

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『いっぱいです』(「ぶゐ」二十周年記念誌刊行会、一九八四年一一月六日、限定千部)を頂戴した。これまでも飲み屋の本、を送ってくださった某氏、に深謝。

火の子の宇宙

ささありき

「ぶゐ」は渋谷ののんべい横丁にあった名物店。二〇〇九年七月に店主の平野薫子さんが亡くなられ、閉店してしまったようだが、この本は、それよりも二十五年前、開店二十周年を記念して刊行されたもの。

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巻頭に掲載されている「薫子一代記」が波瀾万丈、むちゃくちゃ面白い。父は広島出身の弁護士だったが、大陸へ渡って軍の御用商人のようなことをやって儲けていた。何不自由なく(しかし産みの母とは生き別れで)育った薫子は朝鮮の大邱高等女学校から青島日本人高等女学校へ通って、その後、医者になるべく上京し予備校生活を送る。しかし敗色が濃厚になり、敗戦時には大邱に居たが、なんとか命からがら漁船に乗って帰国した。戦後の東京でさまざまな職業を転々としながらレストラン、喫茶店勤めから配膳会(パーティなどへの人材派遣会社)で実績を積み、五反田でスタンドバー、そして渋谷で「ぶゐ」を始めるまでを滔々と語っている。まるで映画を見るようなシーンの続出で、ある意味非常に貴重な証言になっているように思った。

喫茶店の時代メモをいくつか引用しておく。

《お小遣いには不自由しないんですけど、東京はもう食料事情が悪くなってて、「白十字」や「むらさき」「ラジオと新聞の店」なんかで、大豆のコーヒーと乾燥バナナを食べてましたね。》(昭和十八年)

《ジャズが急に流行しはじめて、何かこう自分に集中するものが何もない時代でね、しかしジャズ喫茶が出来て、有楽町のパール街ってありましたでしょう。U字型の路地になっていて、あそこへ黒人の生バンドをよく聴きに行きましたよ。
 パール街は知っていますよ。「ママ」っていうモダンジャズ喫茶があったんだ。
 その頃は、モダンはまだ入ってなくて、デキシーでしたけど。「あっ、これだ」っていう感じがジャズにはありましたね。一週間に一度か二度だけどね。黒人にアメリカっていうのを感じましたね。昭和二十五年……。》

《その頃、ダンスが流行ってましたね。小谷楽器でダンスホールをやってて、帰りにダンス習って、お好み焼きを食べてとか、風月堂でコーヒー飲んだり、少し生活にゆとりが出てきてましたね。
 それは何年ですか?
 二十八年ですね。》

《気落ちして、花馬車の前につっ立っていたら、そこにね、「リズ」っていうパフェがあるのね、リズ。
 リズ、知ってますよ。美人のウェイトレスがいたんだ。
 そのリズでお茶を飲んでたのが、河瀬さんていう方でね、花馬車のお客さんで、私のことなんかもよく知ってるんですよ。それで、私に声をかけて下さってね。縁なんですかねぇ、その方が「トワエモア」っていう有名な喫茶店のマスターで、私はこれがきっかけでトワエモアで働くことになるんです。》

《花馬車の並びの西五番街の五丁目のお店でね、トワエモア……。
 このマスターっていう方が変わった方でして、もう、とてもいい人なんです。大学を出てから、すぐフランスへコーヒーの研究に行ってたっていう方でね。銀座では有名な方でした。トワエモアっていうお店も、もう銀座のことを語るのには欠かせないような有名な店でね。》

《トワエモアのお客さんていうのは、まず文春ね。裏にあったから。それから電通の人達。それから、銀座警察っていって、有名だったんだけどU一家ね、そのU一家の根城だったんです。マスターが、人がいいもんだから、結局、つけ込まれたんでしょうね。あとは銀座の商店のオヤジさんたちね。常連の多い店でしたよ。》

昭和三十一年秋頃の話である。U一家は浦上信之の一派のようだ。

《当時、数寄屋橋のあたりは、にぎやかなもんでした。今みたいにキレイじゃなくてね。橋の上でドーナツ売ってたりとか。少し前にね、そこでドーナツ売ってた人画、後に成功して、今の有名な喫茶店を開いた。初代の人がね。これ、「アマンド」です。それで駅前にはヨーヨーとか、大福もちを売ってたオジサンもいてね。これが後のKコーヒー。トワエモアにいつも来てましたからね、よく知ってます。》

しかしマスターは当時流行したパチンコ三昧になり、U一家が店内で日本刀を振りかざすなどするため、一般客が寄り付かなくなり、地下で経営していたクラブが度重なる手入れで営業できなくなるということもあって、昭和三十二年の年末にあえなく閉店したという。……高度成長時代の喫茶店のひとつの盛衰として非常に貴重な証言のように思われる。

トアエモアを辞めてから「ぶゐ」開店までにもいく波乱があるわけだが、あまりに長くなるのでそちらは省略。「いっぱいです]というタイトルはママが気に入れない客を断る(というか一見の客は入れない)ときのセリフだそうだ。席が空いていても「予約です」と断るのだという。「せっかくこの店に来てくれる人が、一見の客のために坐れないようではわるくてね。それも地方から出張できているような人が入れないようでは……」という心遣いがあったのだとのこと。

その常連たちの「ぶゐ」を語るエッセイも、ママの話とはまたひと味違って面白いが、これも長くなるので省略。ひとつだけ、ブローティガンのメッセージが掲載されているので、これはぜひ引用しておかなくては、と思うしだい。

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リチャード・ブローティガン「ダイヤモンドの中で食べる」。日本の姉たか子に連れて行ってもらった渋谷のレストランは、食べ物が素晴らしく美味しかったが、店はとっても狭くて、まるでダイヤモンドの中で食べているようだった。同席した七人の客たちがほとんど同じ皿から同じ口で食べているようだった、というような内容である。

ブローティガンには一九七六年の滞在がモチーフとなった『東京日記』という生前最後の詩集があるが(現在は平凡社ライブラリーで読めるようです)、「ぶゐ」訪問は一九七七年六月ということなので、『東京モンタナ急行』(晶文社、一九八二年;The Tokyo-Montana Express, 1980)の時期ということになろう。


渋谷のんべい横丁「ぶゐ」を突然訪ねる

渋谷の飲み屋「ぶゐ」


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by sumus2013 | 2017-12-25 17:51 | 喫茶店の時代 | Comments(2)

神戸とコーヒー

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神戸新聞総合出版センター編『神戸とコーヒー 港からはじまる物語』(神戸新聞総合出版センター、二〇一七年一〇月三〇日)。執筆者の田中慶一氏より頂戴した。深謝です。田中氏は『甘苦一滴』(甘苦社)を発行し、地道に関西のコーヒー文化を掘り起こしている方。本書は神戸とコーヒーが生み出してきた歴史が手際よくまとめられた労作である。目次およびその章に登場する主要な喫茶店および関連商店の名前を挙げておく。

第1章
西洋化〜「ハイカラ文化」から生まれたコーヒータウン
月下亭、外国亭、放香堂、オリエンタル・ホテル、ヒョーゴホテル、明治屋ストアー、藤井パン(ドンク)、二宮盛神堂、神戸凮月堂、いろは商事、

第2章
大衆化〜戦前のコーヒー隆盛期[1908〜1945年]
カフェーパウリスタ、神戸パウリスタ、ユーハイム、フロインドリーブ、藤井パン、神戸凮月堂、三星堂ソーダファウンテン、ビーハイブ、本庄、伊藤グリル、中西コーヒー店、ビクトリヤ、日輪、ミルクホール、オリオン、ホワイト、ビクトリー、珈琲フレンド、石光商事、エキストラ珈琲、サンパウロ、萩原珈琲、カフェブラジル、UCC上島珈琲、カフェーブラジレイロ

第3章
復興と隆盛〜神戸独自のコーヒー文化の進展[1946〜2017年]
ホワイト、サントス、喫茶エデン、茶房歌舞伎、モノタロー、リリック、にしむら珈琲、喫茶マルオー、エビアン、喫茶ロビン、G線、ドンク、ソネ、JAVA、ベラミ、白馬車、トラヤ、スイス、茜屋珈琲店、

***

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『神戸とコーヒー』以外にも喫茶店本をいくつか頂戴したのでまとめて紹介しておく。まずはダ・ヴィンチ編集部編『東京 本好きさんのためのコーヒーのお店』(KADOKAWA、二〇一六年三月二五日)。二十店が紹介されていて、そのインテリアやカップの写真がシブい。目玉は大坊勝次(大坊珈琲店店主)×片岡義男のコーヒー本格派対談。

***

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大竹敏之『名古屋の喫茶店』(リベラル社、二〇一一年九月一九日再版、初版二〇一〇年一〇月二二日)。こちらは単なる店舗紹介にとどまらず、名古屋の喫茶店をとりまく情報がびっしり詰まっている。オールアバウト・ナゴヤ喫茶店という感じで、お得感のある仕上がり。

***


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オオヤミノル『珈琲の建設』(誠光社、二〇一七年一一月一〇日)。「反=珈琲入門」と帯に刷られている通り、珈琲について考えぬいた哲学的な一冊。その哲学は鋭い感覚に支えられている。どういうふうかというと

はんなりした味

オオヤコーヒーの豆っていうのは非常に一粒の豆が持つ個性が弱い。農作物としての個性が豊かじゃない。なんでかっていうと軽くしたいから。それは味じゃなくって口に当ったときの感覚。基本的には軽くってナンノコッチャわからないみたいなところから飲み進めていくとエチオピアの味がする、ってわかるようなのがいいと思ってる。そこからさらに個性を出す時に材料をたくさん使う。お金かかるじゃんって話なんだけど、それがいいと思っているのがオオヤコーヒー。よく個性的って言われるのは俺の人間性と、深焼きだって言うこと。ハゲた鮨屋が光り物切らしてる時に客から注文受けて「今日はコレだけです」ってハゲた頭見せるみたいな感じ?

というような感じ。コーヒーも喫茶店も奥が深い。



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by sumus2013 | 2017-11-26 21:05 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

美作七朗作品展

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いろいろなチラシ類を頂戴したなかに、オッと思う一枚があった。「名曲喫茶中野「クラシック」店主 画家美作七朗 生誕110年記念作品展」。会期は2017年9月8日2018年3月25日だから開催中ということだ。会場は名曲喫茶「でんえん」(国分寺市)、「ヴィオロン」(阿佐ヶ谷)、「ルネッサンス」(高円寺)。

「美作七朗作品展」のお知らせ

美作七朗(本名みまさかしちろう)は、1907年(明治40年)熊本市に生れ21歳で上京、洋画家・小林萬吾に師事し画家を目指す。1930年高円寺に音楽喫茶「ルネッサンス」を開業。戦災で焼失するも1945年9月終戦の翌月には、地を中野に移し名曲喫茶「クラシック」として再開。
1960年頃から油彩画の個展を精力的に開催。遺作展では小説家・五木寛之から賞賛の文章が寄せられる。

本名は「みまさか」だが画名として「みさく」と名乗ったようである。小林萬吾(1870-1947)は香川県三豊郡詫間町生れ。黒田清輝の天真道場から東京美術学校、白馬会、文展、帝展に出品、東京美術学校教授、帝国芸術院会員と、画家としてはまっすぐな栄達道を歩んだようである。同郷ではないとしたら、いったいどういう縁があったのか、ちょっと気になる。

1950年以降は西荻窪「ダンテ」をはじめ店舗の内装デザインを数多く手がけ1957年国分寺「でんえん」開業の折りは意匠設計の全てをおこなう。
1980年愛弟子寺元健治の阿佐ヶ谷「ヴィオロン」開業に尽力。1989年病没享年82歳。経営は愛娘の良子に、2005年に氏も他界し終戦から60年続いた「クラシック」は遂に閉店し老朽化した店舗は取り壊しとなる。
2007年元スタッフの檜山真紀子・岡部雅子の両氏により中野「クラシック」の内装を移築した高円寺「ルネッサンス」(創業時と同じ店名)が開業。

「クラシック」の血脈が受け継がれているのは慶賀なことである。


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読者の方より美作グッズを頂戴した。深謝申し上げます。美作七朗絵葉書セット、DVD「美作七朗と中野「クラシック」」、クラシックのマッチ(一九七〇年代のもの)。添えられていたコメントも引用させていただく。

中野のクラシックにはもう30年くらい前に一度行きましたが、ミルクがマヨネーズの蓋に入って出てきました。》《DVDでは、マヨネーズの蓋は白かったですが、わたしが行った時はまさしく赤いマヨネーズの蓋で、びっくりしました。店内は薄暗く、歩くと床が少し沈んだ覚えがあります。

DVDなどを買ったのは、阿佐ヶ谷の「ヴィオロン」でしたが、午後2時くらいでお客さんは6人いました。店番の女性がいない時、演奏中のレコードの針飛びがあったら、一番スピーカーの前で本を読んいたお客さんがすかさず針を置き直していました。

東中野の線路際の老婦人がやっていた喫茶店もなくなって随分になります。「モカ」だったと思います。NHKテレビで黒井千次の特集が放送され、インタビューをそこで受けていたので知りました。当時は高円寺に住んでいて、東中野の線路脇は見慣れていたので、すぐに行ったと思います。黒井千次は『珈琲記』*という本を出しているのですね。

黒井千次『珈琲記』紀伊國屋書店 、1997

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美作さんの絵葉書のなかではこの作品が好きだ。一九二九年作。サインが「S. MIMA-」となっている。この時期にはまだ「みさく」ではなく「みまさか」の略だったようである。

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by sumus2013 | 2017-10-28 19:23 | 喫茶店の時代 | Comments(2)

モナミの思い出

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『本の雑誌』41(本の雑誌社、一九八五年四月二〇日、表紙デザイン=亀海昌次、表紙造形=沢野ひとし)。「青木まりこ現象」特集号。「青木まりこ現象」についてはあらためて。今は沢野ひとし「神田川の思い出」に東中野モナミが登場しているので、その部分を引用しておく。

僕が小学校の頃の遊び場所は、東中野にあったモナミという西洋料理店の裏庭であった。モナミはその当時活躍していた文化人のたまり場で、とりわけ作家、編集者たちが出版パーティーなどで利用していて、人気のあった店である。店の中は落ち着いた油絵が飾られ、窓には白いレースのかかった上品な雰囲気の店であった。そのモナミでコックをしている人の子供の小田切君が僕とクラスが同じであったために、僕は年中モナミの裏庭で遊んでいた。
 ある日その裏庭のとなりにアメリカ軍が使った軍用品が大量に隠されているという噂が耳に入った。厳重な柵が設けられ、中をのぞくこともできなかった。柵には危険と大書された札がかかっていたが、僕と小田切君は庭の木の上に登り、その柵の中をのぞいた。
「アッ、毒ガス用のマスクがたくさんある」
「本当!」僕は小田切君がのぞいている位置まですぐに登りたかった。
「どんなマスク?」「黒いゴムでできたマスクだ。あれは戦争の時にかぶる毒ガス用のマスクだ」

沢野ひとし氏は一九四四年生れなので、これは一九五四年かその前後のことだと考えていいだろう。そのマスクを盗み出して、となり町の中学生たちとのけんかにそれをかぶって参戦し、バツグンの効果をあげたものの、警官がやってきたため、その夜、沢野氏らは神田川へマスク捨ててしまった……というような思い出である。とにかくもモナミのとなりにそんな軍需物資が保管されていたとは。少しだけ検索してみると下記のような説明文を見つけた。なるほどそうだったか。

中野区は都内の西部に位置し武蔵野台地の一角に位置します。江戸時代は畑作農業と味噌・製粉・醤油醸造など食品工業が発達し、江戸町民の食生活を支えました。明治中期以降、都心からの転居者が急増し、関東大震災以降は浅草から寺院が多数移り住み「小京都」の風情と為りました。戦前は陸軍が駐屯し「帝国軍人の街」と言われ、戦後は米軍が駐屯し米軍の物資横流しが有り闇市が形成され、その過程で駅周辺を中心に商店街が確立しました。》(記:田口憲隆)

銀座の「モナミ」/東中野のモナミ

東中野のモナミに関して下記のサイトを御教示いただいた。

軍人とアナキスト―東中野縁起⑦

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by sumus2013 | 2017-10-26 16:52 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

放香堂

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『KOBEの本棚』第86号(神戸市立中央図書館、二〇一七年七月二〇日)を恵投いただいた。その巻頭に載っているのがこの「放香堂」の記事である。

『豪商神兵湊の魁(ごうしょうしんぺいみなとのさきがけ)』より「放香堂」の店頭の様子/「宇治製銘茶」と「印度産珈琲」の看板が掲げられている》(図版キャプション)

「魁」というのは明治初期に各都市がこぞって(だと思う)発行していた商店案内の冊子(持ち歩きできる横長小型サイズが多い)。銅版印刷の細かい絵柄が特徴(新時代の感覚だろう)。「〜の魁」と題するのが通例で、それらをひとまとめに魁本(さきがけぼん)と呼ぶ。『豪商神兵湊の魁』は明治十五年発行。元町・栄町など雑居地(外国人と日本人が共に居住できる地域)の商店を紹介している。

神戸で最初にコーヒーを販売したのは、元町三丁目の茶商「放香堂」です。放香堂は明治七年(一八七四)開業で主に宇治茶の販売をおこなっていましたが、明治十一年(一八七八)よりコーヒーの販売も始めました。同年十二月二十六日付の読売新聞に、広告を出しています。そこには、「焦製[しょうせい]飲料コフィー 弊店にて御飲用或ハ粉にて御求共に御自由」と書かれており、コーヒーを飲用と粉で販売していたことがわかります。》(神戸とコーヒー)

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説明文の筆者(無記名)は明治二十一年開店の「可否茶館」より十年も前に、日本初の喫茶店が神戸に誕生していたということになります》と書いている。店頭で珈琲を飲めたからといって即「喫茶店」と決めつけるわけにはいかないと思うが、外国人向けというだけでなく日本人においても珈琲の需用が生まれていたと推定してもいいだろう(漢字だけの看板に注意)。郵便切手も売っていたようだ。

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by sumus2013 | 2017-09-06 20:36 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

珈琲文献

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珈琲文献を二点、相次いで頂戴した。御礼申し上げます。まず『珈琲の歴史 日本における珈琲文献』(喫茶萬里、一九七四年八月一日)。編集は「宝塚・清荒神駅前/喫茶萬里内/世界の珈琲を飲む会」。序文は横山純二。これは刊行された時期を考えるとかなり本格的な内容である。徳川時代以降の珈琲文献を引用で列挙した資料集。「はじめに」に文献の系統が分類されていて、それも参考になる。

一、仏蘭対訳『フランソワ・ハルマ』の辞書の流れをくむ、「江戸ハルマ」「ドゥハルマ」の系統。
二、同じく仏蘭対訳『ノエル・ショーメル』辞典から出た「紅毛本草」、「厚生新篇」の系統。
三、長崎蘭通詞等が、オランダ人からの見聞或は蘭書からの翻訳等の日本文献。
四、日本人漂流者の外国における見聞記。
五、幕末から明治へかけての遣外使節、留学生、旅行者の見聞記。
六、在留外国人の日記等

ただ、ここに引用されている文章をどこまで信用(誤植等も含め)できるか、少々こころもとない。出典について大雑把にしか記されていない、もしくは明記されていないというのも、残念なところである。テキストが何であるか正確に記してもらえれば、その引用についても信頼度が増すわけである。要するにこの編集では「孫引き」はできないということだ。参考程度にしかならないが、ただガイドとしてはかなり有益なものと思う。検索してみると「喫茶萬里」は現在も営業しているようである。

もう一冊は星田宏司『黎明期における 日本珈琲店史』(いなほ書房、二〇〇三年九月二〇日)。拙著『喫茶店の時代』では星田氏が『日本古書通信』七〇三号に執筆された「日本最初の珈琲店(可否茶館)ーーその記述をめぐる問題点」を引用させてもらっている。本書もその可否茶館の他、ダイヤモンド珈琲店、メイゾン鴻の巣、カフェー・ライオン、カフェー・プランタン、カフェー・パウリスタについて書かれている。よくまとまっているが、ただやはり引用出典がほとんど記載されておらず、とくにかなり詳しく叙述されている可否茶館の鄭永慶の伝についてはいったいどこからそういう話が出たのかまったく分らない。これは非常に残念である。

喫茶店やカフェについては二十一世紀に入って次々に重要な論考が発表され資料が発掘され研究が進んでいるようだ。要するにそういうテーマが大学での研究対象になる時代になったということである。ここに挙げた二冊のような(拙著もむろんそうだ)個人の趣味でアマチュアが集めた(そういう人たちしか興味をもたなかった)時代の文献はもう時代遅れになってしまったようだ。なお拙著では出典はすべて明記してある、掲載ページまで。

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by sumus2013 | 2017-08-23 21:19 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

カフェータワー

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生誕130年記念 秦テルヲの生涯
2017年6月3日〜7月8日

星野画廊
http://hoshinogallery.com


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最初の写真は《第1回個展(京都裏寺町妙心寺)でのテルヲ 1912(明治45)年》、二番目の写真は《カフェータワー開店記念スナップ 1913(大正2)年10月30日》、ともに『星野画廊蒐集作品目録/画家たちが遺した美の遺産 その4 生誕130年記念 秦テルヲの生涯 異端といわれ、無頼と呼ばれた孤独画家の生涯と魂、その求道の軌跡』(星野画廊、二〇一七年五月二〇日)より。

1913(大正2)年秋には、テルヲと晩花が文展会場前の移動式展覧会場、カフェータワーで「バンカ・テルヲ展」を開催した。》という説明も見られる。下はバンカ・テルヲ展(1913年11月23日〜12月5日)の会場スナップ(要するにテント内部)。中央に野長瀬晩花、その後ろ向って左の白い被り物がテルヲ。

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ぜひ見ておきたい展覧会である。図録も力作。

秦テルヲ「カフェー風景」

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by sumus2013 | 2017-05-29 20:46 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

東中野

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『机』第九巻第二号(紀伊國屋書店、一九五八年二月一日、表紙題字=伊藤憲治、表紙デザイン並カット=北園克衛)。編集人も北園克衛である。

少し前に以下のような問い合わせを頂戴していた。

《『喫茶店の時代』 183頁、「女たちの東中野」の見出しで、――

  震災後の中央線開発はまず新宿周辺から始まり、その延長として東中野にはいち早く喫茶店が誕生した。東口に 「ミモザ」「ユーカリ」(「ゆうかり」とも)。中央口に「暫」、線路の右手裏には「夜」があった。

と記述しておられます。これにつき、3件、ご示教をお願い申し上げます。

① 「夜」という店が存在したことは何を典拠とされたものでしょうか。「夜」に言及した文献を探しております。

② 「線路の右手裏」はどちらの方向に向かってのことでしょうか。現在の東京駅(東)、高尾駅(西)方面の、いずれでしょうか。

③ 「中央口」とはどこを指しているのでしょうか。東中野の「中央口」という呼称は珍しいもので、管見では、往時の資料に未確認です。現在の東口、西口の位置関係で具体的に知りたく思います。》

この質問メールをいただいたとき手許に喫茶資料を置いていなかった。なにしろ喫茶店を調べていたのは十五年以上前のことなので、多くの関連書籍は処分し、めぼしい資料も郷里の押入に片付けてしまっていた。つい先日の帰郷で、この質問については失念していたにもかかわらず、たまたま整理中にこの『机』を見つけたのはラッキーだった。

①は上記『机』第九巻第二号「特集喫茶店」の巻頭、井上誠「喫茶店の変遷」である(第二〜五頁)。該当する記述は第四頁に出ている。

②と③については原文をそのまま引用する。『喫茶店の時代』では要約しつつ言い換えてある。関東大震災後から昭和に移る時期。

中央線の入口になる東中野には逸早く喫茶店が出来ていた。駅の東口にはミモザとユーカリ。中央には暫[しばらく]。また線路の右手の裏には夜があった。まだ見すぼらしい林芙美子が、同じような連れと一緒にその夜に来ていたが、間もなくつぶれた。ユーカリのヨッペは東京不良少女の名流で、そこには銀座の老雄雨雀や、北原白秋や大木惇夫が来ていた。また直ぐ卓をひっくり返すので怕がられた畑山という中央線の顔や、ピストン堀口などもいた。

「中央口」と書いたのは誤りで「中央」としてあるだけだった。訂正しておく。「線路の右手」はどちらなのか? これは井上の記述だけでは判断しかねる。内容が面白いのでもう少し引用しておこう。

小滝橋に少し入るとグローリーには戦旗の上野壮夫達、ナップがいた。第百銀行の頭取の養子の野々村恒夫と壮夫とは、友達でそのこ幸ちゃんを張り合っていたが、飲むといよいよ上機嫌になったり泣き出したりする幸ちゃんは、上手に二人を手玉に取っていた。
 やがて東中野にはざくろやノンシャランが出来た。詩王の余波に乗じた詩洋の同人達が次々に開いた店で、ざくろには阿佐谷から井伏鱒二や久野豊彦が来るかと思うと、辻潤の一派がいたりした。まだ東大の学生であった中村地平は酔うと冬でも裸になって防腐剤を塗った屋内の柱を攀じ登り、忍術使のように逆様になって天井の梁を伝わったりした。ルネには小林秀雄の別れた妻君がよく来ていたた[ママ]。「たかりや姫」と言われていたが、誰でも悦んで飲ませた。哀れな者を慰わる気持を、誰しも持っていたのであった。

小林秀雄の別れた妻君」というのは長谷川泰子のことか。結婚はしていなかったはずだ。

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by sumus2013 | 2017-04-24 20:56 | 喫茶店の時代 | Comments(0)