林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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カテゴリ:雲遅空想美術館( 152 )

村上友晴展

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ART OFFICE OZASA で開催中の「村上友晴展」を見た。油彩画三点、石版画六点、ピリッと締まった展示である。キャンバスに黒い絵具(黒絵具に木炭粉を混入するという)をナイフで塗り重ね塗り重ねして、文字通りずっしりと重い作品に仕上げている。上は図録より「Untitled」(2016-2017)だが、三十年ほど前に制作された「Untitled」(1987-1988)も見かけはほとんど同じである。三十年の時間の経過は黒い画面からはうかがえない(ただしキャンバスそのものは変化している、それは裏面を見ればわかるだろうし、側面を見ても三十年前のキャンバスは釘で張ってあるが、最近のものはガンタックになっている)。これは重要なことで、油絵具の使い方が理にかなっているという証拠であろう。厚塗り、モノトーンの作家は他にもいないわけではないが、この技法へのこだわりにも作家の態度が現われていて清々しい。

ART OFFICE OZASA INC.

村上友晴展 at ozasakyoto

村上友晴 タカ・イシイギャラリー ニューヨーク

村上友晴《無題》──人間実存の黒「山田 諭」

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by sumus2013 | 2018-01-12 20:08 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

フェルメールの地図

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中島俊郎氏より『阪神間から伝えたいー人・まち・文化』(神戸新聞総合出版センター、二〇一七年一二月七日)の抜き刷りを頂戴した。氏は「神戸開港一五〇周年ーー文化の三幅対」と題して、スモール・タニとして英国で有名だった柔術家・谷幸雄(1880-1950)、そのタニの動きを学んであの奇妙なしぐさをあみだした喜劇王チャップリン、そしてチャップリンを神のごとくに崇めた淀川長治、三人の関係をスルスルっとつなげて描きだしておられる。

その枕に使われているのが上の図、フェルメールの「兵士と笑う女」(一六五八〜一六六〇)である。文化交流というテーマを考えるとこの絵が思い浮かぶのだそうだ。

《フェルメールの妻とおぼしき女性の背後に描かれた地図左手にライン川河口、上部に北海を配し、オランダとフリースランド西部を囲んでいるには、オランダ東インド会社の商船隊が詳細に描写されている。一目で世界に飛躍していたオランダの交易が鮮明に浮きあがってくる。そして兵士の被っている大きな帽子がカナダの森林で捕獲したビーバーの毛皮であり、また女性が手にしているワイングラスがヴェネチアのムラノグラスであるとするならば、フェルメールが住んでいたデルフトでは、端倪すべからざる文化交流が生じていたのである。

なるほど、なるほど、とうなづきつつ、フェルメールの小さな画集を取り出してみた。すると地図は他の絵にも描き込まれている。「兵士と笑う女」と同じ地図だと思われるのはこちら「青衣の女」。それ以外はみんなそれぞれ違った地図のようである。三十数点しか作品が知られていないのに、その内の七点に地図が登場する。地図フェチだったか・・・。以下タイトルと制作年は日本語のウィキによる。

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青衣の女 1663〜1664



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リュートを調弦する女 1664?



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水差しを持つ女 1664〜1665



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絵画芸術(絵画の寓意) 1666〜1667



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天文学者 1668
(これは天球儀と天球図です)


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地理学者 1669


織田武雄『地図の歴史』(講談社、一九七三年二月二五日)にはオランダの地図製作について以下のように書かれている。

《十六世紀には、ヨーロッパ人の世界に対する地理的知識は急速に高まって、地図の需要はますます増大し、また一方、銅板彫刻印刷技術の発達によって精密な地図もたやすくできるようになったので、何枚もの地図をつなぎ合わせた壁掛け用の大型の世界図や、或は多数の地図を一定の大きさにまとめて本にした地図帖など、さまざまな地図がつくられた。》

《十六世紀から十七世紀にかけて、メルカトルをはじめ、多数の有名な地図作成者が相次いで輩出したのはオランダであった。オランダは一五七〇年代まではなおスペインの支配下にあったが、すでに毛織物業が発達し、またハンザ同盟にかわって北欧貿易を掌握していたので、八〇年の独立戦争以後は、新興のオランダがポルトガルに代って東洋貿易を独占して世界で最も富裕な国として繁栄し、学問や芸術の面でも最盛期を迎えた。したがって地図作成においても黄金時代をなし、オランダではおびただしい地図や地球儀が作成され、ヨーロッパの諸国に輸出された。》

十六世紀に先頭を切っていたのはメルカトルであり、アブラハム=オルテリウスだった。そして

《十七世紀のオランダにおける最大の地図出版者はアムステルダムのブラウ一族である。ブラウ家の初代を築いたウィレム=ヤンスゾーン=ブラウはデンマークの天文学者ティコ=ブラーエに師事し、はじめは天文学や航海用の観測器具や天球儀・地球儀の作成に従事していたが、新しい印刷方法の発明によって、アムステルダムに大きな印刷工場を開設し、地図の出版に着手した。》

《一六三八年にはウィレムが没して、ヨハンネスが事業を継承し、弟のコルネリスと協力して、一六六二年には「大地図帖」(Atlas Major)が完成した。》

一六四八年には「新世界全図」(Nova Totius Terrarum Orbis Tabula)と題する206×298センチメートルの大型の世界地図を刊行している(これは江戸幕府にも献上された)。

フェルメールはまさに「地図の黄金時代」を生きた画家だった。

文化交流と言えば聞こえはいいけれども、世界中からかきあつめた贅沢品をこれ見よがしに描いている超バブリーな絵画だと、いう見方もできる。フェルメールその人がそんなに抜きん出た金持ちだったとも思われないが、それでもこのくらいの衣裳や調度は当たり前だったのかもしれない。

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by sumus2013 | 2018-01-09 20:55 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

春過て

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昨日のつづきというわけでもないが、こちらは百人一首かるたの一枚。もうずいぶん昔、三十年くらい前に何枚かまとめて(揃ってはいなかったが)手に入れて、残ったのがこの一枚。縦73ミリほど。言うまでもなく持統天皇である。あまりに能筆で、しかも傷んでいるため、歌は知っていてもどういうふうに書いてあるのか読み難いが、たぶんこんなところだろうと思う。

 春過て
 夏来に
 けらし
 白妙の


昨年末に日本大学分文理学部資料館で開催された『百人一首展』図録(日本大学分文理学部資料館、二〇一六年一〇月二四日)を某氏より頂戴していた。さっそく参照してみると、似たようなかるたが出品されていたようだ。持統天皇の描き方は95番のかるたに類似するか。
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かるたの縁の緑色が似ているのが101番。
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ただし、これらはどちらも絵柄は木版摺(色は手塗りだろう)。対して架蔵の一枚はすべて手書きだから、木版よりは古いのかも知れない。ただ、手描きと木版とがそうはっきりと時代的に区別されるとも考えにくいし、この手描きの簡略化具合からすれば、それなりに数モノだったのだろうと想像できる(そんなに古くはないかも)。

本書より百人一首かるたの解説を少し引用しておく。

《かるた遊びは、日本古来の「貝おおい」と、ポルトガル人の渡来とともに伝わった「ウンスンかるた」とが折衷されて生じたものとされる。『百人一首』のかるたとして、古いものに、元和(一六一五〜一六二四)頃の絵入り歌かるたが現存している。上句札と下句札よりなり、上句札には歌仙絵が描かれている。『古今集』や『伊勢物語』などのかるたも伝存するが、歌かるたといえば、『百人一首』となるのは、元禄(一六八八〜一七〇四)頃と推定されている。当初は、肉筆で豪華なものが製作されていたが、比較的安価な木版刷りのかるたが作られることにより、大衆化していくこととなる。

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by sumus2013 | 2018-01-08 21:03 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

ひとふしに

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昨年入手した歌仙絵、軸に仕立てられている。下の方の絵具がかなり剥がれているため安価に入手。いつ頃のものか、ちょっと見当がつかないが、まずまず古そうかな、というくらいのところでお茶を濁しておこう。

 右 大中臣頼基朝臣

 ひとふしに
 ちよをこめ
 たるつえ
 なれはつくとも
 つきし
  きみがよハひは


ひとふしに千世をこめたる杖なればつくともつきじ君がよはひは
 一節に千年の長寿を込めた杖なので、突いても尽きますまい貴女のご寿命は。

詞書から醍醐天皇の中宮であった皇太后藤原穏子の五十賀で竹の杖にことよせて祝った歌だとのこと。

大中臣 頼基(おおなかとみ の よりもと、仁和2年(886年)頃?[1] - 天徳2年(958年)?)は、平安時代中期の歌人・貴族。備後掾・大中臣輔道の子。官位は従四位下・神祇大副。三十六歌仙の一人。》(ウィキ)

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by sumus2013 | 2018-01-07 19:37 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

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本日、京都市内も雪もよい、ということでこちらの短冊を取り出して見た。状態は悪いが(その分、安いです)、手はそこそこ、時代は…料紙からみて幕末までくらいは遡るのでは? よく分かりませんが。

    雪

  白ゆきを花とめてしハかく斗(はかり)
  つもらぬ程の心なりけり 晟流

一応、このように読んでおく。晟流が誰なのかは分からない。綺麗な花みたいだなと思ったのは、こんなに雪が積もらないうちだよ、くらいの訳でどうだろう。花は梅花だろう。「つもる」は「見積もる、見くびる」の意で、ふつう雪は「積む」のようにも思うが、本居宣長に「山家雪」と題して次のような歌もある。

  人待ちし心も消えて山里は道もなきほどつもるしら雪

  都にもけふは積もらむ山里は軒端をかけて埋む白雪

似たところもあるのでは……、ならば国学者だろうか。御教示を。



*****



淀野隆三の著作権保護期間が過ぎた。ということで、早速「青空文庫」に「思ひ出づるまゝに」がアップロードされている。

青空文庫 思ひ出づるまゝに

淀野に目をつけたとは、なかなかの趣味だ。じつは親本(筑摩版梶井全集別巻)の底本『嶽水会雑誌』については以前ブログに書いておいたのだが、それを見て、一月ほど前、今回入力された方より問い合せがあった。底本のデータを確かめたいと。淀野の資料は郷里なので、すぐにどうこうできず、全く申し訳なかったのではあるが、調べてみると日本近代文学館に所蔵されていることが分かって、その旨をお伝えした。直接そちらで確認を取られたようだ。

嶽水会雑誌/coto19

もう一件、今年は高校野球大会100回目(第一回は一九一五年だから中止3回ということか)だそうだ。そこで淀野隆三と高校野球の関係を調べたい、という新聞記者氏から、昨年末に連絡をもらった。これもまた大したお手伝いはできなかったのだが(淀野資料は手許に置かないとだめですねえ)、かなり熱心に取材をされて、本日掲載された筈である。まだ、見ていないが。

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by sumus2013 | 2018-01-03 20:42 | 雲遅空想美術館 | Comments(4)

本を読む聖母

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クリスマス・イヴ、ということで本を読む聖母の図を探し出してみた。オックスフォード・アシュモリアン美術館に所蔵されている「聖母子像 Virgin and Child (The Tallard Madonna);Madonna leggente(読書する聖母)」(1505年頃)。ジョルジョーネの作とされているが、確実ではないようだ。背景に見えているのはヴェネチアのサン・マルコ広場の鐘楼と宮殿だとのこと。この鐘楼は一四八九年から一五一一年に現存したものという。

この図は『ファブリ世界名画集75 ジョルジョーネ』(平凡社、一九七三年)から取った。解説は今泉篤男。

《1949年にこの絵は発見され、以来、最も初期の作品と認められるに至った。ジョヴァンニ・ベリーニ風の鮮麗な明るい色調で描いてはいるが、聖母や幼児キリストの顔付にはベリーニにはない一種の精神的な深さがすでに表われている。窓外はヴェネツィアの風景で、サン・マルコ寺院の鐘楼が眺められる。こういう風景の柔らかい描き方も、ジョルジョーネの画風を示している。》

ジョルジョーネはベリーニの弟子であった。この書によれば一四七八年に生まれ、一五一〇年に歿している(これは現在も訂正されていないようだ)。本書では最初期と書かれているが、制作年についての記載はない。一五〇五年というのはアシュモリアン美術館の推定であろう。とすれば二十七歳頃の作。

《戦後、20年余り以前のことになるが、私はイタリアで2人の著名なジョルジョーネ研究の学者に会った。1人はフィレンツェ郊外の広壮なヴィラ風な邸宅に晩年を過ごしていたバーナード・ベレンソンであり、他の1人は、当時ローマ大学で美術史を講じていた、これも晩年のリオネロ・ヴェントゥーリである。矢代幸雄先生の紹介で訪ねたのである。2人ともすでに亡いが、それぞれ若い時期にジョルジョーネに傾倒して、有名な著書を書いている。》

《16世紀はヴェネツィア文化の最高潮に達した時期である。この地は、ヨーロッパ中でも、ルネサンス期の最も大きな知的出版物の中心地になっていた。ルネサンスの有力な文学者、哲学者たち、つまりユマニストたちが集っている土地でもあったのである。》

《この時期のヴェネツィアにおける真に優れた学者や文人のグループというのも、決してそう広汎なものでなかったに違いない。が、田舎から出てきたばかりのジョルジョーネは、まっ直ぐに、この地における最も優れた文化的グループのその狭い門に入っていったのである。この事実は、若いジョルジョーネにとって機縁といえばいえることかもしれないが、何よりも彼自身の性格の求めるところに拠ったことには違いない。
当時の資料の伝えるところによれば、ジョルジョーネが参加していたグループの中心になっていたのは、その頃、ヴェネツィアにおける最も偉大な文人といわれたピエトロ・ベンボである。》

《ピエトロ・ベンボは、当時の新プラトン哲学の感化を強く受けた文人で、彼は、美しいギリシアの山地に淳朴は人々が清福のうちに暮していたというアルカディアの田園の夢を詩に歌ったといわれているが、ジョルジョーネはそのベンボの詩から影響を受け、その絵画作品の中にその理想の田園風景を描いたのではないかと想像されたりしている。》

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そういうことなら、このマドンナ(そもそもマドンナなのだろうか?)が読んでいる本も普通の聖書などではない? と邪推していいかもしれない。近代出版の祖とも見なされるアルドゥス・マヌティウス(1450-1515)がヴェネツィアに住み着いて印刷業に乗り出したのが一四九〇年、アルドゥスの新機軸はオクターヴォ(八つ折版、6インチ×9インチ)という読書や携帯に便利な小型本であったから、この絵の若い母が手にもって本を読んでいるという意味は決して小さくないように思われる。

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by sumus2013 | 2017-12-24 20:49 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

臘八の禅堂

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子規とのつながり、というほどのことでもないが、年末なので何か俳句の短冊を紹介したいな、と思いながら数点取り出した。そのなかに、この一枚があった。

 臘八の禅堂雪に沈みけり 一杉

臘八は月(十二月)八日ということで、釈尊の成道の日だそうだ。とくに禅宗では臘八接心と称する坐禅会を行うという。しかし小生にとって十二月八日と言えば、ジョン・レノンがダコタハウスの前で射殺された日。ただ、ここでは昭和十六年、真珠湾攻撃の日ではないだろうか……?

署名をどう読んでいいのかさっぱり分からなかった。ダメモトと思って、この俳句で検索をかけたところ、イッパツで本田一杉の作品だと判明。サインもよくよく見れば「一杉」と読めるようだ。「一」は「沈」のサンズイとひっついている「フ」みたいな形。最下段の三つの記号の左が「木」で中が「彡」、右が「り」。かなりの達筆である。

本田一杉(1894-1949 ほんだいっさん)、本名喜良。医師、昭和九年「ホトトギス」同人となる。ハンセン病療養所を巡り療養者の俳句を指導したという。

「子規居士と女性・本田一杉」について



* * * * * *


えびな書店古書目録『書架』121号「特集 画家になる時」が届いてビックリ。宮崎与平の絵葉書が九点も掲載されている!

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《ある書画屋さんから割愛を受けた中に渡辺(宮崎)与平の葉書が九枚も含まれていたのに驚いた。明治45年に亡くなった万24年足らずの生涯で、新資料の発見は難しいと思うのに、その動向を後[ママ]付ける資料の発見は嬉しいものだった。諸家の封筒コレクションを少し前に目録に載せたことがあるが、漱石や鏡花よりも与平が入っているのが実はうれしかった。この人の奥さんの渡辺ふみ子は会津八一と恋仲だったという噂もあり、余計気になる存在だった。夭逝の画家はとかく悲劇的な様相を帯びることが多いが、与平には暗さがないのが好ましい。》(編集後記より)

売価もやはり……かなりのもの。

渡辺与平『ヨヘイ画集』

さらに亀高文子



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by sumus2013 | 2017-12-18 20:32 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

LES MARIONNETTES DU JOUR

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つい最近「LES MARIONNETTES DU JOUR 今日のマリオネット」と題された銅版画、手彩色の一枚を入手した。画面サイズが16cm×25cmほど。普通は版元や制作者の名前が刻まれているのだが、諷刺画だけに、お上の取締を慮ってか、それらの情報はどこにも見当たらない。

赤い制服は、見た通り、革命後の太鼓兵のものだというのは分かったが、それ以外はよく分からない。右端は聖職者なのだろうか? 何か特定の出来事をテーマに諷しているようにも思うが、知識に乏しく想像すらできない。顔などもひょっとしたら当時の主要人物の似顔絵になっているかもしれない。

と書いたところ、読者の方から御教示いただきました。フランス国立図書館に同じ版画が所蔵されており、その解説を読むことができます。

革命期より後の一八一五年の出版でした。

《Titre(s) : Les Marionnettes Du Jour [Image fixe] : [estampe]
Dénomination :
Publication : [S.l.] : [s.n.], [s.d.]
Description matérielle : 1 est. : gravure à l'eau-forte, coloriée ; 16,1 x 24,7 cm
Note(s) : Dépôt par Louis le 1.er juin 1815. Autres épr. dans les rec. Qb. 1 (mars 1815) et Tf. 23
Ce sont la Prusse, l'Autriche et la Russie, liées par une ficelle que meut le montreur Wellington. «Voilà notre ressource», s'écrie en les montrant la duchesse d'Angoulême, casquée à la Minerve, qui tient une sébille et une longue perche à laquelle sont suspendues des décorations du Lis et de la Légion d'honneur et une banderole prometteuse : «Venez vous en aurez». Louis XVIII complète ce trio de foire en jouant la contrebasse 》

取り急ぎ拙訳しておくと以下のような説明内容である。登録(Dépôt)のところに「Louis le 1.er」とあるのは「ルイ・フィリップ一世 Louis-Philippe 1er (1773 - 1850)」。

紐で繋がれているのはプロシア、オーストリア、ロシア。ウェリントンが紐を操っている。「これがわれらの糧である」は、ミネルヴァの兜をかぶったアングレーム公爵夫人で、彼女は手に木のお椀と、百合とレジョン・ドヌール、そして幸先のよい吹き流しで飾られた長い竿を持っている。「Venez vous en aurez」、ルイ十八世がコントラバスを演奏しながら、騒いでいるそのトリオを申し分のないものにしている。

なるほど、やはり当時のややこしい政治状況が反映していたわけである。アングレーム公爵夫人はルイ十六世とマリー・アントワネットの第一王女でヴェルサイユ宮殿で生まれた。革命後はオーストリアからロシア、イギリスへ亡命、一八一四年、ナポレオンの敗北とともにフランスに帰国。男勝りの王女と見なされていたようである。ルイ十八世は一八一四年から一五年にかけてフランス王に就いていた。「Venez vous en aurez」はどう訳せばいいのか分からないが……文字通りなら「ここに来て、それをとりなさい(食べなさい)」くらいだろうか。画中の言葉ではない。

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ベースのおじさんの頭の上にはこう書かれている。

  ……Donnez-nous notre pain quotidien, et
  pardonnez-nous nos offenses……

  ……日々のパンをわれらに与え給え、そして
  われらが罪を許し給え……

これらはマタイ伝の記述に近い。「pardonne-nous nos offenses」はそのままで「Donnez-nous aujourd'hui le pain nécessaire à notre subsistance」。祈禱の常用句「Notre Père われらが父」では「Donnez-nous aujourd'hui notre pain quotidien」というらしい。

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  Voilà notre ressource.
  これがわれらの糧である

こちらも聖書(イザヤ書など)では「Toute ressource de pain Et toute ressource d'eau」(凡てその頼むところの糧、すべてその頼むところの水)などと使われている句のもじりだろう。

カリカチュールという言葉は、誇張するという意味のラテン語カリカーレ(caricare)からきている。フランス革命前後の十八世紀には多数のカリカチュールが出版された。特権階級に基づいたアンシャン・レジームの社会を批判したものもある。たいていは僧侶と貴族によって支配され抑圧され搾取されていた平民階級を描いたものである。
Les caricatures de la société d'ancien régime

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紙も古い。

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by sumus2013 | 2017-12-14 16:25 | 雲遅空想美術館 | Comments(2)

Ouroboros

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『Ouroboros 東京大学総合研究博物館ニュース』Volume 22, Number 1(東京大学総合研究博物館、二〇一七年九月八日)およびチラシなど何種類か頂戴した。本号の巻頭記事は寺田鮎美「『植物画の黄金時代英国キュー王立植物園の精華から』によせて」。インターメディアテク館長は『装釘考』の西野嘉章氏)で、残念ながらもう終了してしまったが、十二月三日まで開催されていた。

the Royal Botanic Gardens, Kew

キューの所蔵する歴史的な植物画と東京大学所蔵の植物標本を組み合わせた展示だったそうだ。近場ならぜひ見ておきたかった。

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《キューの歴史は、1759年、当時の皇太子妃で後のジョージ三世の母親にあたるオーガスタ妃が王宮の周りに造った小さな庭園に始まる。今日では、キューは庭園として人々の憩いや楽しみの場であるだけでなく、世界中の植物や菌類について、最大でかつ極めて多様性に富むコレクションを有する世界有数の研究機関として知られる。
 そのキューの図書館には20万枚以上の植物画が保管されている。この植物画コレクションは、世界的に著名な植物画家であるゲオルグ・ディオニシウス・エーレト(1708-1770)やフランツ・アンドレアス・バウアー(1758-1840)の作品に加え、イギリス東インド会社による植民地支配を歴史的背景にした「カンバニー画」と呼ばれるインド人画家らの手がけた一群の植物画、キュー公式初代園長で世界に通用する植物園兼研究機関へとキューを発展させたウィリアム・ジャクソン・フッカー(1785-1865)やその息子で同じく園長を務めたジョセフ・ダルトン・フッカー(1817-1911)といった植物学者自らが手がけた作品を含む。》

20万点のなから、優品28点が西野館長によって選ばれたそうだ……。チラシのチューリップはエーレト作。

《これに対応する植物標本として展示するのは、総合研究博物館資料部植物部門所蔵のTulipa gesneriana L.(Liliaceae)である。》《チューリップは19世紀後半になって日本に渡来したと言われており、「鬱金香」の名で呼ばれた。本標本は、東京大学大学院理学系研究科附属植物園(小石川植物園)で植栽されていたもので、ラベルに採集年として1877年4月10日の記載があり、日本におけるチューリップ栽培初期のものであると考えられる。》

カーティスの植物図


もうひとつ、植物図ということで注目すべき展覧会がある。こちらはまだ開催中。「開館二〇周年記念没後一一一年 五百城文哉[いおきぶんさい]「高山植物写生図」の世界」(小杉放菴記念日光美術館、2017年11月11日〜12月24日)。

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《なかでも五百城の評価を高めているのは、高山植物を中心とする、植物学的な知識に基づきながら精細に描かれた植物画の数々でしょう。五百城文哉は、農商務省山林局で標本の仕事にたずさわった後、日光に住まいを移してからは、本格的に植物の研究に取り組むようになります。現在残されている植物画の多くは、植物研究の同好者たちからの依頼によるものと推測されていますが、標本としての役割を果たすだけに留まらない、高い芸術性を持っており、描かれてから100年以上経った今でも、その色鮮やかな色彩は私たちを魅了してやみません。》(ちらしより)

五百城については下記の記事で少し触れたことがある。

小杉放庵『故郷』

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by sumus2013 | 2017-12-11 20:36 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

岡崎和郎 - HISASHI

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『岡崎和郎 - HISASHI』(ART OFFICE OZASA、二〇一七年)図録。瀟洒な出来映え。図版十四点、磯崎新、巖谷國士、南條史生、加冶屋健司、執筆。本日展示を拝見した。小さな金属の「ひさし」なのだが、空間の質を一瞬にして変えてしまうような力がある。ブランクーシを連想してしまった。展示は明日(十二月二日)まで。

OZASA氏としばし雑談。『現代思想』のバックナンバーが事務所の方に展示されていたが、それらの表紙は岡崎和郎作品によって飾られいている。なかなかいい感じ。一年間で十三冊あるそうだ。三冊がまだ見つかっていないと。昔コツコツ古本屋で集めたのだという。OZASA氏もかなりの古本者である。

ART OFFICE OZASA

十二月四日から十七日までは岡部昌生フロッタージュプロジェクト「伝える」。こちらも滅多に見られない空間になりそうだ。


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by sumus2013 | 2017-12-01 20:38 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)