林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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カテゴリ:雲遅空想美術館( 152 )

木村伊兵衛パリ残像

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美術館「えき」で「木村伊兵衛パリ残像」を見た。思わず「木村伊兵衛って写真上手だなあ」と口走って近くにいた人にへんな顔で見られた。パリ写真なんて誰でも撮っている。かくいう小生も含め。しかし誰が撮っても同じようで同じじゃないところに写真の奥深さがあるだ。

木村は一九五四年から五五年にかけてパリに滞在し、アンリ=カルチェ・ブレッソンやロベール・ドアノーらとともにパリの街景やパリで暮らす人々を撮影をした。富士フィルムが開発したカラーフィルムを使ったという。それがむちゃくちゃ渋い色合いで昭和三十年のパリを映し出す。

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玩具のような自動車やスクーターが走り抜けるエトワル広場。これだけでシビレた!


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佐伯祐三のパリが色濃く残っていた時代である。小生が初めてパリの地を踏んだ一九七六年にもまだまだ残っていたように思うが、現在のパリからはきれいさっぱりこういう匂いは払拭されてしまっている。歎いてもはじまらないけれど。

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by sumus2013 | 2016-04-15 20:39 | 雲遅空想美術館 | Comments(2)

けられとてちん

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こんな戯画を買った。「來山戯記」と落款がある。小西来山ということであったが、さてどうだろう。印はふたつ、「窓者?」「來山」。


  堂らち袮ハ
   可ゝれとて
      ちん
  三味線のわか
   はち飛九を
  なてすや
    ありけん 


酒席のナンセスを即興で描いたとも思われるからあまり文言を穿鑿しても意味はないのかもとは思ったが、念のため検索してみると、これには本歌があった。花山僧正遍昭の一首(後撰集1240)

 たらちめはかかれとてしもむばたまの我が黒髪をなでずやありけむ

 【通釈】母は、まさかこのようなことになると思って、幼い私の黒髪を撫でたのではなかったろう。(千人万首「遍昭」

来山は三味線が頭にコツンと当ったのをとらえて当即妙に遍昭の歌をパロッた。なかなかよくできている。これがもし小西来山(承応三1654〜享保元1716)なら伴嵩蹊『近世畸人伝』にも取り上げられている奇行の俳人。以下全文(岩波文庫、一九八七年版、旧漢字は改めた)。

来山は小西氏、十万堂といふ。俳諧師にて、浪華の南今宮村に幽栖す。為人曠達不拘、ひとへに酒を好む。ある夜酔いてあやしきさま にて道を行けるを、邏卒[めつけ]みとがめて捉へ獄にこめけれども、自名所をいはず。二三日を経て帰らざれば、門人等こゝかしこたづねもとめて、官も訴しにより、故なく出されたり。さて人々いかに苦しかりけむ、とどぶらへば、いな自炊の煩らひなくてのどかなりし、といへり。又あるとしの大つごもりに、門人よりあすの雑煮の具を調じて贈りたれば、此比は酒をのみ呑て食に乏し。是よきものなり、とて、やがて煮て喰て、

   我春は宵にしまふてのけにけり。

と口号たり。妻もなかりし旨は、女人形の記といふ文章にてしらる。其中、湯を呑ぬは心うけれど、さかしげにもの喰ぬはよしといひ、また舅は何処[いづこ]の土工ぞや。あら、うつゝなのいもせ物語や、と筆をとゞめて、

   折ことも高ねのはなやみた計

といへるもをかし。すべて文章は上手にて、数篇書きあつめたるを、昔ある人より得たるが、ほどなく貸うしなひて惜くおぼゆ。発句どもは人口に膾炙するが多き中、箏の絵賛を、禿[ちぎれ]筆してかけるを見しと人のかたれるに、その物を育んとて、其物を損ふ、と詞書して、

   竹の子を竹にせんとて竹の垣

といへるなど、行状にくらべておもへば、老荘者にして、俳諧に息する人にはあらざりけらし。さればこそ、其辞世も、

   来山はうまれた咎で死ぬる也それでうらみも何もかもなし

といへりとなん。

レアリストでありニヒリスト。《俳諧に息する人にはあらざりけらしと嵩蹊は評するが、それはどうなのだろう。俳諧にはこのタケノコ弁証法が欠かせないのではないだろうか。


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by sumus2013 | 2016-04-08 21:36 | 雲遅空想美術館 | Comments(3)

桜伐る馬鹿?

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桜もそろそろ開花をはじめている。もう少し早く掲げようと思いつつ今日になってしまった。石川晃山(1821 文政四〜1870 明治二)の短冊。晃山は下野出身、谷文晁に学び備中倉敷に住んだ。宋元の画法を尊重したという。この絵も写生を基にきっちり描かれている。おそらく写生のために枝を折り採ってきたのかもしれない。

ことわざに「桜伐る馬鹿、梅伐らぬ馬鹿」というが、実はソメイヨシノはウィルスによる病気に弱いそうで、罹患した枝は切り落として切口の消毒をしなければならないため(そうすると長持ちする)、ソメイヨシノが全盛の今日では「桜伐る馬鹿」とばかりは言えない、とあるブログに書かれていた。

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by sumus2013 | 2016-03-30 21:13 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

爐邊坐煖

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篠崎三島(応道)の漢詩マクリを入手した。

(印=中聖人)
 爐邊坐煖見蘆灰
 尺簡時迎雲物来
 為是回人供茗酒
 江橋南度訪寒梅

  長屋夜回諸君飲
  濱田詞兄
       応道[印=篠氏応道][印=応道印]


篠崎三島(1737-1813)は先日紹介した篠崎小竹の養父。大阪の人。名は応道、字は安道、通称長兵衛。商家を継ぎながら片山北海、菅甘谷に徂徠学を学び、四十にして家塾梅花社を開いたという。

ところで小竹は《大塩平八郎とも養父・三島に初読を習った弟子である関係で交流があった》とウィキ(篠崎小竹)にあるのだが、幸田成友『大塩平八郎』(中公文庫、一九七七年)を開いてみると中斎(大塩平八郎)の研学についてはこう書かれている。

《中斎の当初の師は何人であるか。越智高洲である、篠崎三島(小竹の父)である、いや鈴木撫泉であるというが、いずれも確証はない。》

このくだりが面白くてもう少し読んで行くと中斎の蔵書について次のようにあった。大塩家は大人数の所帯で決して暮らし向きは楽ではなかったらしい。

《懇意の書林河内屋吉兵衛が持参した石刻の顔真卿の一軸を買いたくありながら金子の才覚がつかず、大小を質物にして得た金二両をまず差し出すにつき、残金は来春まで待ってくれよという吉兵衛宛の手紙は、よくこの間の事情を明らかにするものと思う。》

《それから挙兵前に所有の書籍を鬻[ひさ]いで貧民に壱朱宛を施し、その金額総計六百両に上ったといえば、多数の蔵書があったわけであるが、その大部分は兵庫西出町の家持柴屋長太夫が金を出したものらしく、天保三年同人入門以来同八年正月に至るまでに、書籍代として金二百両銀十二貫六百目余を貢いだとある。》

顔真卿の一軸が単純に高額だったのかなと思わなくもないが奉行組与力の家がそう豊かでなかったとしても不思議ではなかろう。

また小竹は大塩平八郎が乱を起こした後で坂本鉉之助に向かってこう言ったそうだ。

中斎の学問筋は己が心より思ひ付くことを皆良より出ずると思い、次第に驕慢に傾いたは、丁度某富商が茶道に耽り、だんだん高価な茶器を求め、名物の茶碗一箇を抱いてついにその家を滅ぼしたようなものだ

これを聞いて坂本鉉之助は中斎の頭を押さえようとしなかったあなたにも責任があるんじゃないですかと返したということである。これは現在のわれわれもよくよく心しておかなければならないことではないか。




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by sumus2013 | 2016-03-26 21:37 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

カサットの読む人

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『MARY CASSATT』(Flammarion, 1989)。これはフランス語の本だが日本で買った(ブです)。メアリー・カサットは一八四四年生まれ。日本の年号で言えば弘化元年。「あさがきた」のモデル広岡浅子が生まれたのが嘉永二年(一八四九)だから五つ年上ということになる。浅子と同様に株取引や銀行を業とするアッパーミドル・クラスの家に育っているが、進取の気性の女性としてそれ相当な苦労をしたようだ。

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「音楽の催し」1874


カサットの仕事をざっと眺めるとその画風には印象派前夜から印象派そしてより装飾的なナビ派へと移っていく時代の流れがそのまま反映しているように思われる。

版画の仕事は一八九〇年に始めたようだが、そのきっかけは同年エコール・デ・ボザールで開催された浮世絵展(exposition d'estamps japonaise)をドガと連れ立って見に行ったことだったらしい。カサットはドガの友人であり弟子であった。

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「本を読む女性」1878


それはゴッホが浮世絵を買ったことでも知られる「ビングの店 La Maison Bing」のサミュエル・ビングが企画した展覧会だった。

《ビングが1890年に開催したエコール・デ・ボザールでの展覧会で浮世絵を見た美術愛好家のレイモン・ケクランは、その衝撃を「何という驚きだったろう。2時間にわたって私は、その鮮やかな色彩に熱狂していた。花魁、母親の姿、風景、役者、すべてに見とれた。展覧会で売られているカタログと参考書を鞄の中に詰めこみ、その夜私はむさぼるように読んだ」と記した。また、同展覧会の組織委員の一人だったエドモン・ド・ゴンクールの友人ジェルベール夫人のもとで働いていたマドレーヌ・ヴィオネも浮世絵に衝撃を受け、浮世絵の収集を始めた。ヴィオネは後に、“バイアス・カット”という画期的な裁断法を発見するが、このアイデアを組み立てていく際の土台になった一つが着物の直線的な裁断であった》(ウィキ「サミュエル・ビング」)

カサットも同じように昂奮して刺戟を受けたに違いない。油彩画やパステルで親子像や家庭の情景を数多く描いているわけだが、穏やかなそれらの作品も悪くはないにしても、独自性という意味では浮世絵にインスパイアされた版画作品群がもっとも輝いているように思う。

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「物思わしげに本を読む女性」1894


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by sumus2013 | 2016-03-03 21:19 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

梅さくと

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 梅さく登(と)
   見れ盤(は)  みらるゝ
            山可(か)つら
                   花朝女


生田花朝女の短冊。白い地模様も自筆であろう。山桂とはこんな感じらしい。


伊丹市の柿衞文庫で「俳画のたのしみ 明治・大正・昭和編」展を見た。二階展示室の現代俳句協会のショーケースに花朝女の短冊が飾ってあったので、うれしくなって小生所蔵の作品を取り上げてみた。花朝女は明治二十二年(一八八九)大阪生まれ。父は生田南水。俳句は父から学んだそうだ。絵は菅楯彦と北野恒富に師事し帝展において女性で初の特選をとったことで注目を集めた(一九二六年)。一九七八年歿。

井上木蛇(它)が三点出ていた。「寒山図」が気に入った。もっと作品を見てみたい作家である。

月斗・木它「杜若雨中の落日」

他には小川芋銭が字も絵もよかった。欲しいが、芋銭は人気が高いので残念ながら無理そうだ。高いと言えば、夏目漱石の句自画賛(朝顔に)、山に松図の短冊(びっしり描き込んである)、そしてきわめつけ、愚陀仏と署名した松山時代の句短冊(見つゝ行け)は高そうだった。


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by sumus2013 | 2016-02-28 20:28 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

晩秋飛鴉図屏風

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先日、叭々鳥についてもう少し書きたいと書いたが、それはこの絵について。与謝蕪村「晩秋飛鴉図屏風」(上は部分図、下が全図)。『与謝蕪村 翔けめぐる創意』展図録(MIHO MUSEUM、二〇〇八年)より。これは本当に「鴉」なのだろうか? 図録解説を読んでもこの画題がどこからきているのかは記されておらず、むろん画中にも書き込まれていない。裏書きとか文献とか伝承とか何か根拠があるはずだろうが、さて。

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この黒い鳥は「叭々鳥」ではないのか? カラスにしてはくちばしが貧弱すぎるように思うのが第一の理由。冠毛もある(ただし蕪村はカラスにもこの冠毛を描く癖があるが)羽根全体が黒いところはカラスである。しかし古画で真黒に描かれた叭々鳥図を見たことがある。真黒だから叭々鳥ではない、とも言えない。

例えば狩野尚信「叭々鳥猿猴図屏風」(出光美術館蔵)のような先行作品からヒントを得た構図なのではないか、と考えてもさほど的外れではないかもしれない。

蕪村は「枯木叭々鳥図」という作品も描いている(下図、部分)。時代がへだたっているため「晩秋飛鴉図屏風」とはタッチがまったく違うが、こちらはちゃんと白あるいはグレーの羽根を描いている。しかし全体の描き方の感じからすると、ひょっとして蕪村は叭々鳥を実際に目にしたことがなかったのではないかと思えてしまう(江戸時代には日本でも叭々鳥を飼育することが流行したとも言うが?)。まさかカラスを見たことがないとは考えられないけれども。どちらにしても蕪村が描くのはたいていイマジネールな風景や人物ばかりである。現実のモデルがないと描けないというような性格の絵師ではない。他にも蕪村には「棕櫚ニ叭叭鳥図」(慈照寺)もある。


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そして蕪村のカラスと言えば「鴉図」(北村美術館蔵、下図、部分)にきわまる。なんとも人間臭い二羽のカラス。

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このカラスをじっくり見ておきたい。そして「晩秋飛鴉図屏風」に目を戻してみよう。……やっぱりカラスじゃないでしょう。


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by sumus2013 | 2016-02-24 20:27 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

雪中叭々鳥図

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詩人・評論家の竹内勝太郎(1894-1935)が富士正晴の師匠だったわけだが、竹内の親しい友人(彼らは「心友」と呼んでいた、親友よりももっと深いつながりがある関係だとか)に昨日の船川未乾と未乾の葬儀委員長を務めた榊原紫峰がいた。

二十歳の富士は昭和八年の十一月から榊原家の家庭教師になり、頻繁に紫峰宅に出入りするようになった。当時の紫峰宅は京都市左京区岡崎町宮の脇にあったそうだが、それは現在の東天王町交差点(丸太町通りと白川通の交わるところ)東南角にある「つる家」の真向かいだったそうだ(真向かいというのは北側?)。

この「左京区岡崎町宮の脇」という住所は島田康寛編年譜によるもの。ただこの地名にはやや疑問が残る。というのは明治二十一年にその辺りは上京区岡崎町となっており(旧・愛宕郡岡崎村)、榊原紫峰がその地へ転居した大正七年に「岡崎」という冠称が廃止された。そして左京区に編入されるのは昭和四年である(以上ウィキ「京都市左京区の町名」参照)。

上の絵は昭和七年作の榊原紫峰「雪中叭々鳥図」。紫峰は動物とくに鳥類を好んで描いた。富士正晴が絵を描くことの基本的な態度を学んだのはその紫峰からであったと思われる。富士の親友だった野間宏は当時の富士を回想してこのように書いている。

《この紫峰の日本画、中国画、洋画、彫刻、装飾、一切を自分のものとして、全生命をあげて画に向かう姿は、その時、彼の眼中に住みついたにちがいない》(「富士正晴の出発」)

野間のいう《彼の眼中に住みついた》はなかなか含蓄のある言い回しだ。

竹内勝太郎は昭和十年に黒部峡谷から転落して死亡、まだ四十一歳だった。富士は竹内の仕事を残すことに生涯をかける。遺稿集を何冊かの単行本にまとめたなかに『詩論』(石書房、一九四三年)があるが、その装幀は富士正晴が手がけている。その表紙がこれ。

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彼の眼中に住みついた》榊原紫峰の「雪中叭々鳥図」が富士流に表現されたものと小生は見たい。「雪中叭々鳥図」を紫峰は何点も描いているのでアトリエで目にした可能性は大いにある。この換骨奪胎こそが富士正晴の真骨頂だろう。そういう観点からすると、ここに描かれている黒い鳥はカラスではなくハッカチョウ(八哥鳥)なのではないだろうか? ま、仮にそうでないとしても紫峰の絵との関連は否定できないように思う。

八哥鳥あるいは叭々鳥(ははちょう)はムクドリ科ハッカチョウ属に分類される鳥で中国大陸南部から台湾、ベトナム、ミャンマー辺りに分布する。西日本、南日本へも飛来し、繁殖した例もあるそうだ。南国の鳥である。そういう意味からすると紫峰の雪中に叭々鳥という設定はどうかなと思わないでもない。

ただ中国では古くから画題として取り上げられているし、中国絵画への追従に終始した江戸絵画にも少なくない作例があるようだ。紫峰はそういう古典に倣ったのだろうかとも思う。叭々鳥についてはもう少し書きたいことがあるが、本日はここまで。

以上の話題も含め、明日のレクチャーでは富士正晴の絵画をあれこれと読み解こうと思っております。ご来場お待ち致しております。



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by sumus2013 | 2016-02-19 20:55 | 雲遅空想美術館 | Comments(2)

未乾の一生

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富士正晴の絵について話をするために榊原紫峰を調べていると船川未乾が登場した。富士正晴『榊原紫峰』(朝日新聞社、一九八五年)に竹内勝太郎と親友だった船川未乾の履歴が載っていたのである。船川については他にあまり情報がないのでここでその要点だけを引用しておく。

上の絵は『PANTHÉON VI』(第一書房、一九二八年四月三日)、船川未乾の特集号より。いずれの図版にも題名はない。

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船川未乾は本名貞之輔〔貞之助〕、明治十九年、京都市宇治に旧宮侍の家〔堂上公卿日野家の家老船川仲(なかつかさ)〕に生まれる。生まれて間もなく一家をあげて東上。東京太平洋画会に学び、大正三年、京都に帰ってからは南禅寺北ノ坊町に居を構えた。

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・大正四年五月、寺町竹屋町の佐々木文具店楼上で小さな個展を開く(船川貞之輔展覧会)。大正四年、京都大学学生会館にて個展。

・すしやのいづうの娘咲子と結婚。知恩院山内樹昌庵に住む。

・大正五年七月の大阪毎日新聞の「画堂の人」に談話が載る。

・大正六年、ロシヤ行きのために「船川未乾油絵会」を計画したが旅費は調達できなかった。

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・第二回個人展を京都帝大学生集会所で開く。深田康算、朝永三十郎らが後援。このころ同志社大学教授園頼三との交友が始まった。詩画集『自己陶酔』(大正八年)、『蒼空』(大正九年)出る。尾関岩二と知り合う。

・大正十一年、京都商業会議所にて個展。

・大正十一年咲子夫人と渡仏。アンドレ・ロートに学び、ピカソ、ブラック、ブラマンク、ビッシェール、ジムミー等と交遊。ブラックの影響を強く受けて大正十二年に帰国。以後静物画に専念した。鹿ヶ谷法然院の西にアトリエを建てる。

・昭和二年、東京丸善にて個展。第一書房主・長谷川巳之吉の知遇を得る。

・昭和三年、大阪丸善にて個展。

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・装幀では、尾関岩二『お話しのなる樹』(創元社、一九二七年)、園頼三『怪奇美の誕生』(創元社、一九二七年)、関口次郎『からす』(創元社、一九二七年)、竹内勝太郎『室内』(創元社、一九二八年)など。

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・フランスから将来したエッチング機械による創作版画に新機軸を生み、尾関岩二との協同による『イソップ画集』百枚を企画したが、数枚を制作しただけで宿病のために斃れた。

・昭和五年四月九日午後七時死亡。十二日、自宅画室にて告別式、花山火葬場にて火葬。葬儀は榊原紫峰を葬儀委員長として盛大に営まれ戒名「龍光院未乾昭道居士」として百万遍墓地の一角に納められた。

・船川の作品は矢部良策。伊藤長造、伊藤熊三、薄田泣菫らが所蔵。北白川宮家に大作が買い上げられた。

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以上は昭和四十一年、未乾の墓を京都市左京区百万遍養源院に建立するための趣意書および竹内勝太郎の書いた未乾論「静物讃」などから富士がまとめたものをさらに短く引用した。

竹内勝太郎は未乾の歿後、その遺言に従って回顧展の開催と画集の発行を企てたが、いずれも実現しなかった。それについて富士はこのように書いている。

《ここまで読んでくれば、未乾には彼の画業を大いに認めている学者、文学者、出版者、その他の本気の知人友人が多く、その画集出版や画展が行われることも時日の問題にすぎぬと思われて当然である。しかし、これらの好条件と思われることが揃っているにもかかわらず、彼の死後現在まで(一九三〇〜一九八四)五十四年たつというのに、遂に画集は出ず、回顧展も一回も行われずにきた。》

《どうも未乾を知っている人で今生きている人は第一書房の長谷川巳之吉、英文学者寿岳文章の二方ぐらいしかわたしには思い当たらない。関口次郎[戯曲家、朝日新聞記者]もすでにいないわけで、未乾の画集、回顧展が不発に終っている理由が疑問であるという外ない。》

《未乾未亡人が友人らを疑って、作品をかくしてしまい、行方をくらましたのだという噂、未乾の家を売ってしまうためにうろうろしていたという港井清七朗[未乾の甥]の手紙、実は獅子文六と同棲していたのだが、まだ公にするわけにはゆかぬがねという関口次郎よりの手紙。とにかく、墓の除幕式の時の未亡人は坂崎咲子であったという。芸術まで葬ったか。》

もうこうなったら後は星野画廊さんのような人を待つしかないか……

船川未乾「南仏風景」


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by sumus2013 | 2016-02-18 20:24 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

おたふくの豆まき

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久しぶりで覗いた尚学堂書店で求めた豆まきの色紙。状態は良くないが、絵は手慣れた筆致だ。「昭和庚午(かのえうま)春」というのは昭和五年。署名は「環山写之」、印は「環山」。ざっと検索した限りでは村瀬環山か。明治十五年生、森寛斎に師事、円山派の絵師。京に住んでいた。

緋色の着物に松の模様の打ち掛け、めでためでたというところ。顔立ちからして「おたふく」であろう。お多福というのは「おかめ」の面のことだそうだ。狂言では「乙御前(おとごぜ)」「乙(おと)」と呼ぶ。「おと」は弟あるいは妹のこと、または末子。「おたふく」の「おた」は「おと」の訛とも。

なお尚学堂書店のご主人は今年の初めに亡くなられたそうだ。ご冥福をお祈りしたい。夫人とお嬢さんが営業を続けて行かれるという。ひと安心である。

交遊録

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by sumus2013 | 2016-02-03 20:52 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)