林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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カテゴリ:雲遅空想美術館( 188 )

茂田井武展

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「童画家・茂田井武展」が練馬区立石神井公園ふるさと文化館で開催中(〜24日)。ちらしと絵葉書を頂戴した。

童画家・茂田井展

茂田井武は「キンダーブック」(フレーベル館)をはじめとした数々の子ども向けの雑誌に絵を寄せたほか、児童文学作品の挿絵も数多く手がけ、たくさんの子どもたちを魅了した童画家です。1946年から晩年まで練馬区中村町(現・中村)に暮らしました。
中学卒業後、画家を志すも美術学校への入学が叶わず、3年間パリへ放浪の旅に出た茂田井は独自の画風を築き、帰国後は当時の代表的探偵小説雑誌「新青年」を中心に挿絵画家として活躍、次第に評価されるようになりました。》(同展ちらしより)

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ここに掲げた絵葉書は茂田井武がパリで描いた画帳『ton paris』(トン・パリ)から選ばれた二点。架蔵の『ton paris』(講談社、二〇一〇年七月七日)の解説「茂田井の巴里と"ton paris"」(広松由希子)によれば、滞欧中の画帳には他に『Parisの破片[かけら]』『續・白い十字架』があるが、『ton paris』は瑞々しい色感と遊び心に富んだ技法の試みが特徴的だ。

《原画は、展示のため本の形では現存しない。復刊に際し、茂田井自身が手にしていた当時のイメージを今に蘇らせるため、判型をほぼ原寸とし、印刷にも最新の配慮をした。全点の新規撮影を快諾してくださった大川美術館と、普及に努められ、茂田井の生誕百年に他界された前美術館長の大川栄二氏に、深く感謝の意を表したい。》

とも。大川美術館、松本竣介だけではない。

下が架蔵本の書影。本文はA5判で、角背のハードカバーに筒函が着いている。一九三〇年頃のパリの雰囲気が暖か味をもって伝わってくる大好きな画集(絵本かな)である。

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by sumus2013 | 2018-12-05 20:14 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

現代画廊の案内状

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いつも新味のある企画展を行なって楽しませてくれる中松商店から案内状と冊子が届いた。題して『現代画廊の案内状 洲之内徹からの便り」。これはいいところに目をつけた! 現代画廊の案内状だけで展覧会を企画し、冊子(中松商店、二〇一八年一二月一日、頒価1,080円、tel.03-3563-1735)を作るというのは名案である。こういう紙モノは(エフェメラという異名の通り)時とともに散逸し、貴重この上ない存在になって行く。

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現代画廊の看板
左:西銀座八丁目時代
右:銀座六丁目時代


案内状は持っていないが、六年ほど前に、年賀状をまとめて入手したことがある。これは嬉しかった、

洲之内徹の現代画廊の年賀状

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by sumus2013 | 2018-12-04 19:57 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

アトリエの時間

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「松本竣介 アトリエの時間」展(大川美術館)の図録を頂戴しました。深謝いたします。「アトリエの時間」は十二月二日までで終了したが、チラシによれば、竣介のアトリエを再現したしつらえとともに「読書の時間」「子どもの時間」「街歩きの時間」と特集展示は続く。詳しくは同美術館サイトにて。

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竣介のアトリエには本棚があった。本図録に掲載されている「松本莞さんに聞く アトリエの「モノ」をめぐって」(松本莞は次男)によれば、

《家具屋に作らせた本棚なんですけれど、手作業でレンガを重ねたり、箱を置き、厚みのある板を渡して台を作って、その上に置いてましたね。
宮沢賢治が何時も定位置なのは印象深く覚えています。》

《確かに書籍は、竣介にとってかけがえのない大切なもの、と言うより、聴覚を失うということは、知識を得るための情報の殆どを、目から獲得するしかない訳ですから。
母から聞いた話ですが、竣介は、自分の本棚を誰かに見られることを大変恥ずかしいと言っていたそうです。

《俊介は、とても本を大切にしていましたからね。本を汚すことを嫌った。線を引いたり、書き込みをしたりすることも殆どしなかった、というよりも、抜き書き、書き写しをよくしてたみたいです。そんなノートも遺ってますね。》

桐生か・・・一度訪ねてみたい場所である。


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by sumus2013 | 2018-12-04 17:37 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

ひととせも

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筆勢がいいなと思って買ってはみたものの、さて、どう読めばいいのやら。左行末の二文字は「月堂」か。

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by sumus2013 | 2018-11-28 19:37 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

MALLET JAPAN 島田特集

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MALLET JAPAN というオークションハウスのカタログが届いた。知らない会社なのにどうして? と思ったら、ギャラリー島田特集である。三十ページにわたって島田コレクションが放出されている。

MALLET JAPAN SALE 2018.12.7

先日訃報が届いた堀尾貞治からはじまって、蛇目、山内雅夫、奥田善巳、木下佳通代、浮田要三、元永定正、石井一男、津高和一、榎忠、鴨居玲ら、島田さんの総決算という感じである。好きな作家が多いのだが、あえて一点入札するとしたら、浮田要三作品にもひかれるけど、これかな。

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津高和一の初期作品「無題」(キャンバス、6号)。津高はかなり多くの装幀・装画も手がけている。これまでも何度か紹介してきたように思うが、今、机のすぐ近くにあった一冊を掲げておく。

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フランシス・ジャム『夜の歌』
三好達治訳 人文書院 1976



詩=亜騎保、画=津高和一『動物の舌』

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by sumus2013 | 2018-11-26 17:24 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

堀尾貞治さん死去

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堀尾貞治・写真絵葉書より


堀尾貞治さんが亡くなられていたことを知って驚いた。今はなき京都の画廊アートスペース虹で毎年正月に個展を開いておられたが、小生は一九八四年頃からその展示を見せてもらってきた。多作というか、濫作というか、「生き方が形に」という言葉の通り、呼吸するように作品を作っておられた。だから、小生の手元にも何点か堀尾作品が集まっている。

最近は海外の美術館に招かれることも多く、関西圏だけでなく世界的に知られる存在になっていたように思う。それでも熱心に画廊を巡っておられたようで、昨年あたりは、一日に何度も鉢合わせしたものだ。ギャラリー島田で出会って、京都にもどって星野画廊をのぞくと芳名帳に名前があった。こんな展覧会も見ておられるのか、と驚かされた。

長らくサラリーマン作家だった。たしか八〇年代後半頃、神戸のある画廊で雑談するような機会があったが、そのときドイツへ渡って活躍していたある日本人作家の名前を挙げて、自分も外国で活動したかったができなかった、とおっしゃったのが今も印象に残る。「行きたければ、今からでも行けばいいんじゃないですか」などと生意気な返答をしたものだ。ご冥福をお祈りする。

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堀尾貞治の書



堀尾貞治さん(ほりお・さだはる=現代美術家)3日死去、79歳。葬儀は6日午後0時45分から神戸市兵庫区新開地3の2の15の平安祭典神戸会館で。喪主は妻昭子(あきこ)さん。/神戸市生まれ。三菱重工神戸造船所で働きながら絵を描き、66年に前衛美術集団・具体美術協会に参加。72年の解散まで在籍した。》(堀尾貞治さん死去:朝日新聞デジタル)

堀尾貞治さん79歳(ほりお・さだはる=現代美術家)3日死去。通夜は5日午後8時、葬儀は6日午後0時45分、神戸市兵庫区新開地3の2の15の平安祭典神戸会館。喪主は妻昭子(あきこ)さん。/神戸市生まれ。三菱重工業神戸造船所で働き続けながら絵を描き、1966年、関西の前衛美術グループ「具体美術協会」の会員に。解散の72年まで在籍した。80年代半ばから「あたりまえのこと」というテーマのもと、身近なものに色を塗ったり形を与えたりして「作品」を毎日制作。個展やイベントを精力的にこなしてきた。近年は元具体会員として海外の美術館などに招へいされることも多かった。》(訃報:堀尾貞治さん79歳=現代美術家 - 毎日新聞

前衛美術「具体」元メンバーで美術家の堀尾貞治氏(ほりお・さだはる)が3日死去した。79歳。通夜は5日午後8時、葬儀・告別式は6日午後0時45分、神戸市兵庫区新開地3の2の15、平安祭典神戸会館で。喪主は妻、昭子(あきこ)さん。/昭和41年、関西で生まれた前衛美術集団「具体美術協会」に入り、47年に解散するまで活動。その後も三菱重工神戸造船所に勤務しながら創作を続けた。「空気」を可視化することにこだわり、即興性の強い絵画やオブジェを発表するなど精力的に活動していた。》(前衛美術「具体」元メンバー、堀尾貞治さん死去 - 産経ニュース






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by sumus2013 | 2018-11-15 17:30 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

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知恩寺での収穫はまだじっくり見ていないため、本日は少し前に入手した短冊を。長元という名前で検索してみると平賀元義の別号のようである。以下ウィキ「平賀元義」より。

平賀 元義(ひらが もとよし、寛政12年7月3日1800年8月22日) - 慶応元年12月28日1866年2月13日))は、幕末期岡山の国学者歌人書家

賀茂真淵に私淑し独学により国学を修め、中国地方の地理歴史、神社史研究に打ち込んだが、本人は余技とした万葉調の和歌により名を知られる。また、その独特の筆跡で能書家としても愛好されている。元の姓は平尾、幼名は猪之介、後に七蔵とした。喜左衛門、丹介とも称す。名は直元、長元、義元とも言う。また、祖母の姓を借り、興津(沖津)姓を名乗ったこともあった。号は源猫彦(ねこのひこ)、吉備雄、備前処士等。友人に同じく国学者、歌人の萩原広道がいる。

元義の業績はその後忘れ去られたが、明治に入って羽生永明が教諭として岡山尋常中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)に勤務していた際、同僚の岡直廬から元義のことを知らされ、以後諸所に散っていた元義直筆の歌が書かれた短冊を蒐集、研究し始めた。羽生は明治33年(1900年)1月より、『山陽新報』(現『山陽新聞』)に「戀の平賀元義」と題した評伝を26回にわたって連載した。これに正岡子規が注目し、また、子規門下に元義の歌を発掘した新免一五坊赤木格堂がいたこともあって、子規が明治34年(1901年)に『日本』に連載していた『墨汁一滴』に、元義を万葉歌人として称賛する文が発表され、元義の名は世に広く知れ渡った。

青空文庫に「墨汁一滴」が上がっているので該当箇所を引用しておく。

徳川時代のありとある歌人を一堂に集め試みにこの歌人に向ひて、昔より伝へられたる数十百の歌集の中にてもっとも善き歌を多く集めたるは何の集ぞ、と問はん時、そは『万葉集』なり、と答へん者賀茂真淵かものまぶちを始め三、四人もあるべきか。その三、四人の中には余り世人に知られぬ平賀元義ひらがもとよしといふ人も必ず加はり居るなり。次にこれら歌人に向ひて、しからば我々の歌を作る手本として学ぶべきは何の集ぞ、と問はん時、そは『万葉集』なり、と躊躇ちゅうちょなく答へん者は平賀元義一人なるべし。万葉以後一千年の久しき間に万葉の真価を認めて万葉を模倣もほうし万葉調の歌を世に残したる者実に備前びぜんの歌人平賀元義一人のみ。真淵の如きはただ万葉の皮相を見たるに過ぎざるなり。世に羲之ぎしを尊敬せざる書家なく、杜甫とほを尊敬せざる詩家なく、芭蕉ばしょうを尊敬せざる俳家なし。しかも羲之に似たる書、杜甫に似たる詩、芭蕉に似たる俳句に至りては幾百千年の間絶無にして稀有けうなり。歌人の万葉におけるはこれに似てこれよりも更にはなはだしき者あり。彼らは万葉を尊敬し人丸ひとまろを歌聖とする事において全く一致しながらもごうも万葉調の歌を作らんとはせざりしなり。この間においてただ一人の平賀元義なる者出でて万葉調の歌を作りしはむしろ不思議にはあらざるか。彼に万葉調の歌を作れと教へし先輩あるに非ず、彼の万葉調の歌を歓迎したる後進あるに非ず、しかも彼は卓然たくぜんとして世俗の外に立ち独り喜んで万葉調の歌を作り少しも他をかえりみざりしはけだし心におおいに信ずる所なくんばあらざるなり。(二月十四日)

さて、この「長元」の樗(あふち;栴檀の古名)が平賀元義作なのかどうかは即断できないが、そうあってほしいとは思う。歌ぶりもまずまず万葉?

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by sumus2013 | 2018-11-01 17:53 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

ザボンとブンタン

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フランシスコ・デ・スルバラン


このところ「大日本レトロ図版研Q所」の所長氏がザボンとブンタンの定義を巡って文献調査を重ねておられる。これら柑橘類の名辞には、なんとも不可解な混線があるようだ。辞書類の記述のいい加減さに、驚かされるというか、呆れるを通り越して、感心すらしてしまう。

三続・「ざぼん」と「ぶんたん」改メ「ザボン」と「ブンタン」第四回
https://muuseo.com/lab-4-retroimage.jp/diaries/14

リンゴを描いた絵画は数え切れない、というか、描いたことのない画家を探す方が難しいだろう。だが、柑橘類となると、すぐに思い出す作品はそれほど多くない。とっさに浮かんだのは上図、フランシスコ・デ・スルバラン「PIATTO DI CEDRI, CESTO DI ARANCE E TEZZA CON ROSA」(リッツォーリ版『スルバラン』画集によるタイトル「皿のレモン、篭のオレンジ、薔薇とカップ」)。

レモンの絵はけっこうあるかもしれない。しかし、ザボン、ブンタンとなると、ボンタンアメの箱絵くらい(?)。他には、モチーフとしての柑橘類なら「仏手柑」が思い出される。日本画にはしばしば見られるようだ。例えば小倉遊亀(柑橘類をしばしばモチーフにしている)。下に引用した野島康三の「仏手柑」は写真、安藤緑山は象牙彫刻(戦前のスーパーリアリズム)。


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野島康三の「仏手柑」



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たしか、以前紹介した『遠西名物考』に柑橘類の記述があったと思って頁をめくってみた。まず「香椽[木偏ニ縁]」の項目に《即チ仏手柑ナリ》とあり、以下その薬用についておよそ二ページにわたって記されている。

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また「橙皮」のところには《此レ綱目ニ所謂ル臭橙皮ヲ用ユベシ》とある。臭橙はカボスのことだが、文中にはラテン語で「マリュスアウランチア」、オランダ語で「オランエボーム」と呼び、その果実をそれぞれ「マーラヤウランチヤ」「オランエアッペル」と云うとし、

《形圓ニシテ球ノ如ク黄金色ニシテ甚タ濃美ナリ其皮味苦ク然レドモ瓢ハ即チ甘シテ酸ヲ帯ヒタル汁液コレニ満ツ》

などとある。これはオレンジのことであろう。

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《「オランエ」ノ最モ甘キ者ヲ羅甸ニ「ポマ・アウランチヤ・シ子ンシア」ト云ヒ和蘭ニコレヲ「アッペルシナーブ」ト呼フ、然トモ未必シモ支那ニ産セス波ル杜尾ル人コレヲ印亜 印度ノ地ニシテ波ル杜尾ルニ属ス 及ヒ其近傍諸島ヨリ得来ル又同シ種類ニシテ大小爰ニ別ナル者アリ其最大ナル者ハ東方印度ノ地方「パターヒヤ」 瓜哇国中ニシテ和蘭府域ノ在ルトコロナリ ノ辺ヨリ出ス人コレヲ「テイチルリムー子ン」ト云其皮ノ主治「オランエアッヘル」ノ皮ト相同シ其肉ハ微利ヲ主リ自然ヲ強クシ元気ヲ壮ニシ腐敗ヲ療シ青腿下疳ヲ治ス》

オレンジの類が食品(薬品)としてさまざまな効用のあることを説いている。

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by sumus2013 | 2018-10-29 20:38 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

京都、洛中洛外

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二条城畔 明治三十七年十月


黒田重太郎鉛筆素描「京都、洛中洛外」(〜10月31日)展が非常に良かった。

星野画廊
http://hoshinogallery.com/home/index.html


明治二十年生まれの黒田重太郎が、主に明治三十七年から三十九年にかけて、ということは十七歳から十九歳、精力的に京都市内外の景物を鉛筆によって描き留めた。それら百点以上の素描がほぼ無傷のまま残されていたのである(本展図録には図版番号126まで収録されている)。

まずは、描かれた京都の様子があまりにも現代とかけ離れていることに驚きを禁じ得ない。上の「二条城畔」は二条城の北側あたりにあったという京都監獄(明治二年に二条城の南側六角大宮に徒刑場として設置され、三年に二条城の北側の主税町へ移転、京都府監獄署を経て三十六年より京都監獄となる、大正十一年に京都刑務所と改称され、昭和二年に現在地の山科区東野へ移転した;ウィキ「京都刑務所」)の近くらしい。こんもりとした森の向こう側に監獄があり、描かれている店では監獄へ行く人々を相手に代書、写真撮影、菓子販売などを行なっていたのだろうという(本書解説)。この図の描かれていない左側が二条城ということである。おそらく、この絵の突き当たりの右手が現在は二条公園になっている、のかもしれない。

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西院村 明治三十八年三月

西院は、四条通り沿いで壬生の次、西大路通りを越えた西側一帯になる。この風景は言うまでもないが、現在の西院の様子からはとても想像できないものである。


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出町ニ於テ 明治三十九年二月

出町は現在もまだ樹木が立ち並ぶ風景が残っているので、それほど大きなへだたりはないようにも見える。さて、どの辺りだろうか。遠景に見えるのが出町の橋?



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川岸風景(仮題) 明治四十年五月

明治三十九年までに制作された作品がほとんだなのだが、四十年の作品も五点ほど出ている。ここに掲載した絵でも上から順番に、十七歳、十八歳、十九歳、そして二十歳の作ということになる。どうだろう、この進歩! まったく別人のドローイングだと言ってもおかしくはないほどグイグイ上達している。

本展図録の年譜によると、黒田は明治三十七年に鹿子木孟郎に入門した。大阪生まれなので京都の伯父の家に寄寓して、鹿子木塾(室町通り丸太町上ル西側)へ通い、また京都スケッチ行を開始する。宮崎与平もこの年、同塾に入門している。

明治三十八年には浅井忠の聖護院洋画研究所に入所。先輩に梅原龍三郎、安井曾太郎らがいた。明治三十九年には鹿子木が渡欧したため浅井忠の内弟子となった。

本展のスケッチ群はようするに鹿子木塾に在籍していた時代の勉強の記録、というふうに考えていいだろう。上に掲げた明治四十年のコローのようなタッチの素描はもう十分に成熟しているが、それは浅井、あるいは浅井周辺からの影響力の強さを感じさせるものでもある。

要するに、黒田重太郎の青春がまるごとこれらの風景素描に詰め込まれている。描かれた情景もまたそうであるように、まさにタイムカプセル。百十数年前の京都を黒田青年の目になって眺めることのできる稀有な機会である。

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by sumus2013 | 2018-10-15 20:53 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

天の原

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久方ぶりの短冊。このところ紹介したい短冊に出会わなかった。この一枚もそれほどでもないか・・・ただ、読みやすい署名があるところが取り柄だろうと思って求めた。

検索してみると荒木田久守に間違いないようだ。そうだとすれば、かなりいい買い物ではあった。

江戸後期の国学者。伊勢生。荒木田久老の子。姓は度会、通称は求馬、号は瓊鈴舎。国文・和歌に通暁し、父の家学を受け継いだ。伊勢内宮の権禰宜・従四位上に叙せられた。安政5年(1858)歿、71才。》(コトバンク)

内宮権禰宜、国学者。荒木田久老の次男として生まれる。/父の遺風を受け継いで、国文学や和歌に長じ、特に詠歌は堪能であった。著書は『倭姫命世記古文解』をはじめ、『記紀歌解』『万葉集同字部類』『吉野歌集』といった歌学・詠歌の類、また『万葉集鳥獣草木考』等の考証を主としたものまで多岐に亘る。(参照:国学者伝記集成. 第2巻. 続編、 神道人名辞典、 国書人名辞典. 第1巻)

さて、どう読むのでしょうか・・・


天乃(の)原おなし空行月影濃(の)
な堂(ど)嘉(か)く秋ハ照満(ま)さるらん 久守

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by sumus2013 | 2018-10-10 19:59 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)