林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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カテゴリ:雲遅空想美術館( 181 )

京都、洛中洛外

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二条城畔 明治三十七年十月


黒田重太郎鉛筆素描「京都、洛中洛外」(〜10月31日)展が非常に良かった。

星野画廊
http://hoshinogallery.com/home/index.html


明治二十年生まれの黒田重太郎が、主に明治三十七年から三十九年にかけて、ということは十七歳から十九歳、精力的に京都市内外の景物を鉛筆によって描き留めた。それら百点以上の素描がほぼ無傷のまま残されていたのである(本展図録には図版番号126まで収録されている)。

まずは、描かれた京都の様子があまりにも現代とかけ離れていることに驚きを禁じ得ない。上の「二条城畔」は二条城の北側あたりにあったという京都監獄(明治二年に二条城の南側六角大宮に徒刑場として設置され、三年に二条城の北側の主税町へ移転、京都府監獄署を経て三十六年より京都監獄となる、大正十一年に京都刑務所と改称され、昭和二年に現在地の山科区東野へ移転した;ウィキ「京都刑務所」)の近くらしい。こんもりとした森の向こう側に監獄があり、描かれている店では監獄へ行く人々を相手に代書、写真撮影、菓子販売などを行なっていたのだろうという(本書解説)。この図の描かれていない左側が二条城ということである。おそらく、この絵の突き当たりの右手が現在は二条公園になっている、のかもしれない。

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西院村 明治三十八年三月

西院は、四条通り沿いで壬生の次、西大路通りを越えた西側一帯になる。この風景は言うまでもないが、現在の西院の様子からはとても想像できないものである。


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出町ニ於テ 明治三十九年二月

出町は現在もまだ樹木が立ち並ぶ風景が残っているので、それほど大きなへだたりはないようにも見える。さて、どの辺りだろうか。遠景に見えるのが出町の橋?



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川岸風景(仮題) 明治四十年五月

明治三十九年までに制作された作品がほとんだなのだが、四十年の作品も五点ほど出ている。ここに掲載した絵でも上から順番に、十七歳、十八歳、十九歳、そして二十歳の作ということになる。どうだろう、この進歩! まったく別人のドローイングだと言ってもおかしくはないほどグイグイ上達している。

本展図録の年譜によると、黒田は明治三十七年に鹿子木孟郎に入門した。大阪生まれなので京都の伯父の家に寄寓して、鹿子木塾(室町通り丸太町上ル西側)へ通い、また京都スケッチ行を開始する。宮崎与平もこの年、同塾に入門している。

明治三十八年には浅井忠の聖護院洋画研究所に入所。先輩に梅原龍三郎、安井曾太郎らがいた。明治三十九年には鹿子木が渡欧したため浅井忠の内弟子となった。

本展のスケッチ群はようするに鹿子木塾に在籍していた時代の勉強の記録、というふうに考えていいだろう。上に掲げた明治四十年のコローのようなタッチの素描はもう十分に成熟しているが、それは浅井、あるいは浅井周辺からの影響力の強さを感じさせるものでもある。

要するに、黒田重太郎の青春がまるごとこれらの風景素描に詰め込まれている。描かれた情景もまたそうであるように、まさにタイムカプセル。百十数年前の京都を黒田青年の目になって眺めることのできる稀有な機会である。

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by sumus2013 | 2018-10-15 20:53 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

天の原

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久方ぶりの短冊。このところ紹介したい短冊に出会わなかった。この一枚もそれほどでもないか・・・ただ、読みやすい署名があるところが取り柄だろうと思って求めた。

検索してみると荒木田久守に間違いないようだ。そうだとすれば、かなりいい買い物ではあった。

江戸後期の国学者。伊勢生。荒木田久老の子。姓は度会、通称は求馬、号は瓊鈴舎。国文・和歌に通暁し、父の家学を受け継いだ。伊勢内宮の権禰宜・従四位上に叙せられた。安政5年(1858)歿、71才。》(コトバンク)

内宮権禰宜、国学者。荒木田久老の次男として生まれる。/父の遺風を受け継いで、国文学や和歌に長じ、特に詠歌は堪能であった。著書は『倭姫命世記古文解』をはじめ、『記紀歌解』『万葉集同字部類』『吉野歌集』といった歌学・詠歌の類、また『万葉集鳥獣草木考』等の考証を主としたものまで多岐に亘る。(参照:国学者伝記集成. 第2巻. 続編、 神道人名辞典、 国書人名辞典. 第1巻)

さて、どう読むのでしょうか・・・


天乃(の)原おなし空行月影濃(の)
な堂(ど)嘉(か)く秋ハ照満(ま)さるらん 久守

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by sumus2013 | 2018-10-10 19:59 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

小松砂丘

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牧野伊三夫『俳画家小松砂丘さんのこと』(福光屋、二〇一八年九月一四日)を頂戴した。牧野氏が金沢で出会った俳画家小松砂丘についてそのあらましを述べておられる。

小松砂丘とは何者か。金沢では知られた存在のようだが、小生は初めて聞く名前だった。

《砂丘は、石川県珠洲郡(現珠洲市)、能登半島の先端で生まれた。そして、一九七五年(昭和五十年)に亡くなるまで石川県に住み、金沢の街を拠点に俳句を詠み、絵を描き、器に絵付けをして過ごした。父は仏師で、仏像を彫ったり描いたりする仕事をしていたが、この父と十一歳のときに別れ(この別れが、死別、離別等どういうものであったか判明しない)、十三歳のときに市内の松井というところへ木地挽き物師の弟子入りをする。》

《ここで砂丘は、ノミやカンナの刃の研ぎ方を教わり、炊事や子守の手伝いもしながら、十年かけて一人前の木地師となった。昔ながらの丁稚としての職人修業である。俳句もこの頃から詠みはじめたらしい。絵の方は大正時代になってから、野村満花城という俳画家について学んだというから、十五歳頃、やはり木地挽き物の修業中である。二十三歳で母親と暮らしはじめ、以後没するまで金沢市内に住んだ。二十四歳で富山に近い倶利伽羅村(石川県河北郡に存在した)の女性と結婚、一男四女をもうけた。

牧野氏は福光屋で売られていた砂丘の徳利を見たのが砂丘の仕事にひきつけられるきっかけだったという。砂丘は、その徳利を、昭和四十三年に福光屋の社屋新築記念の配り物として数万個、すべて手書きで絵付けしたそうだから、これは驚きである。

牧野伊三夫展 小松砂丘へのオマージュ 九谷焼 徳利、盃など

小松砂丘 心ひかれるモノ

ずいぶん いいもの みつけたね 金沢#13 福光屋

砂丘の仕事は牧野氏にストレートに通じるところがある。もうすぐ牧野氏の個展がメリーゴーランド京都で開催されるので楽しみにしている。

牧野伊三夫 展
​「京都に、美術同人誌 『四月と十月』の扉野良人君と青木隼人君に会いに行く。そして、ゆにさんとげんさんの歌を聴く。」​


俳画ということで、下のような色紙を紹介しておきたい。其中と署名があるが、誰なのかわからない。そう古いものではないと思う。読みにくいなあ・・・

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 [文友]
  名月や
   心下ヤか
        海と山
          其中[其中]


「心下」は「みぞおち」か。下の句は「海登山」と読んだが、どうでしょう。



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by sumus2013 | 2018-10-03 21:06 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

フランスから古書目録

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パリから古書目録があれこれと届いた。だいたいが今年かここ数年内のもの。せっかくなので、しばらくこのなかからいくつか紹介したい。

まず、あっと思ったのは先日のミシェル・ウエルベック。『ITINERAIRE 1597/2016』(ACTUALITES Daniel Azoulay)に載っていた。

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サイン入り著作、自筆葉書、メモ、写真、CD、DVD、雑誌など。一九九三〜二〇〇〇年にわたる写真は二十点、友人や協力者・出版人などといっしょに写っているものも多い。全アイテムまとめて「20 000」ユーロ。これはちょっとした値段だと思うが、売れたのだろうか。

「アクチュアリテ」の住所はパリ五区サン・マルセル大通り。この店は全く知らなかった。店舗はオープンにしていないようだ。シャンペレ古本市には出品しているようなのでそのときに出会っていたかもしれない。古典籍から日本の和本や浮世絵まで幅広く扱っている。

目録の表紙はこんな感じ。シャン・リーブル出版(LES EDITIONS CHAMP LIBRE)のChute libre(自由落下)叢書、マイケル・ムアコック『LA DEFONCE GLOGAUER』(原題:Breakfast in the Ruins)一九七五年の表紙があしらわれている。そしてそのシャン・リーブルの書籍や雑誌も多数出品されていた。下の二番目の写真で並んでいる表紙はどれも自由落下シリーズ、横尾忠則かというような……!(いずれも一九七〇年代)。各20ユーロだから目下のレートなら2,650円。

シャン・リーブルは一九六九年にパリで創設された出版社。コミュニスト左派の影響下、数多くのアナーキズムの古典文献、文学、軍事、アヴァンギャルド芸術などについての本を刊行した。一九八四年に創立者の一人ジェラール・ルボヴィッチ(Gérard Lebovici、ルーマニア出身のユダヤ人)が暗殺されて妻のフロリアーナが後を継いだが、一九九一年にはギー・ドゥボールとのもめごとで解散し、九二年にイヴレア(Ivrea)出版として再出発した(以上フランス語のウィキより)。

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他にはパリのホテルで撮影されたブローティガンの写真も出ている。一九八四年、亡くなる少し前。撮影は Maya Sachweh。230ユーロ。

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by sumus2013 | 2018-09-21 21:35 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

海僊

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この山水画はキャンバスの木枠のようなものに貼られている。タテ30センチ、ヨコ20センチくらいの大きさ。厚さは1センチほど。どういう目的だったのか、どこかにはめ込まれていたのかもしれない。このままの姿で均一台にポイと放り込まれていたので有り難く頂戴した。

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画面はかなり傷んでおり、落款もよく読めない。

 丁未 春月
 ・・ 於
 ・ 柿居
 海僊[?][?]

海僊が小田海僊(天明五1785〜文久二1862)だとすれば、この丁未(ひのとひつじ)は弘化四年(一八四七)になる。海僊は周防国富海(防府市)に生まれ、京へ出て初め松村呉春に入門している。四条派である。頼山陽からの感化で南画に転じた。文政七(一八二四)年に萩藩の御用絵師となり、一時江戸に滞在。嘉永から安政にかけて京に戻って画室を設け富岡鉄斎に南画の手ほどきをしたとされる(以上ウィキによる)。

この絵はまずまずだと思う。上下はそうでもないが、画面に向かって右側は絵がつづいている雰囲気があるので、何点か連作だったのか、または横長のものを切ってこの一枚にしたのかもしれない。

面白いのは裏面。紺色の紙が剥がれそうになっているので半分くらい剥がしてみると、何かの反故紙で下張りをしてあった。

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よく読めないが、御役所とか町奉行などと書かれている。酒井君の名前も散見される。事務的な書類だろうか。読める方読んでください。

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by sumus2013 | 2018-09-16 20:44 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

教行信証

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親鸞自筆の「行信証(板東本)」(東本願寺蔵)から「信巻」の序(『蓮如と本願寺 その美術と歴史』展図録、京都国立博物館、一九九八年、より)。

いつ頃だったかはっきり覚えていないが、もう三十年くらい前になるだろうか、京博の展示室で親鸞自筆の『教行信証』(『顕浄土真実教行証文類」が正式な名称)を目前に見た。むろん国宝(昭和二十七年指定)なのでガラスケースの中である。京博のサイトでは過去の展覧会は一九九七年までしか遡れず、そのなかには思い当たるものがない。大きな展覧会ではなく小特集のような展示だったのかもしれない(読者の方よりご教示いただいた京博の図録のバックイシューで見ると一九八三年の古写経展であろう)。とにかく、その筆致にビックリしてしまった。なんだこりゃという感じだった。

見ての通り、例えば能筆として有名な空海のような、中国から学んで帰った王道の書という風では全くない。どちらかと言えば、学者のノート、草稿だ、と思った。『教行信証』だけでなく他にも親鸞自筆の書き物が展示してあったような気もする。『蓮如と本願寺』図録に載っている図版では、親鸞自筆の「阿弥陀経註」(西本願寺蔵、下図)に類するものだったかもしれない。下図は親鸞が法然(源空)と出会ってから越後へ配流になるまでの間に筆記したノートである。すなわち二十九歳〜三十五歳の間に成ったと推定されている。物凄い勉強ぶりだ。

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四方田犬彦『親鸞への接近』によれば

《親鸞は生前、『教行信証』を執筆していることを、ほとんど誰にも告げなかった。ひとたび完成し、弟子の尊蓮や専信に書写を許したことはあったが、彼の死の直前にいたるまで加筆と改訂を続けていた形跡がある。彼の死後、この大部の理論書の存在は秘密のままに置かれ、それに言及する者はいなかった。記録を信じる限り、最初に『教行信証』を講述したのは存覚である。》(『歎異抄』のスタイル)

とのこと。存覚の講述は一三一一年のことだというから親鸞歿(一二六二)後四十九年を経ていた。

ただし板東本には親鸞自筆で「釈蓮位」と書かれており、秘書のような存在だった弟子の蓮位に付与したらしいことが分るので、誰にも見せなかったわけではないようだ。そして七十五歳のときに尊蓮が校合した一本があったことが知られており(伝存せず)、八十三歳のときに専信が書写したものは現存最古の写本とされる(岩波文庫版『教行信証』金子大栄の解説による)。

漢文を和文に書き改めた延書本は覚如、存覚の時代からあるものの、南北朝時代の写本は一本しか現存せず、室町時代に至ってようやく数多くの写本が作られるようになり現在まで伝えられている。徳川時代には四回刊行された。寛永、正保、明暦、寛文(いずれも十七世紀中)。これらの開版によって広く普及した。

『教行信証』がどうして部外秘だったのか。真宗教団連合は『教行信証』が一応の完成を見た元仁元年(一二二四)四月十五日をもって真宗立教開宗記念日と定めている。真宗がこのとき誕生したというのである。ところがその拠り所となるテクストはごく近い者以外誰にも見せられない秘密の存在だった。

『歎異抄』も長らく外見をはばかられたそうだ。蓮如が『歎異抄』を「発見」しふたたび封印したことについて四方田氏はこう書いておられる。

《彼は聡明にも、この書物に深く足を踏み入れてしまうならば、教団の存続に関わる事態が起きかねないことを察知したのだった。それはわたしに、砂浜に転がっている壺のなかに閉じ込められた魔物が、ソロモンの封印を破って地上に顕現しようとするのを、慌てて押し留め、もう一度封印を施すという、著名な『千夜一夜物語』の小話を思い出させる。》(『歎異抄』のスタイル)

『教行信証』については、配流になった経験が親鸞を必要以上に慎重にさせていた、と単純に考えてもいいような気もするが、それもまた魔物の仕業であったのかもしれない。

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by sumus2013 | 2018-09-09 21:17 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

レオ・レオーニと鳴く虫

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みんなのレオ・レオーニ展」を伊丹市立美術館にて。

レオ・レオニ Leo Lionni『はまべには いしが いっぱい』

『はまべにはいしがいっぱい』は再刊されたようでMショップで販売されていた。ただこの絵本の原画は一点しか展示されておらず、ちょっと残念だった。レオは子供の頃から絵が好きで、油彩画から入っている。ピカソ風からシュルレアリスム風、初期から後年までかなりの数の作品が展示されていた。オランダ生まれのユダヤ人。アメリカでデザイナー、アートディレクターとして成功。絵本は孫のために『あおくんときいろちゃん』を制作したのが最初。コラージュやデカルコマニイを用いて、基本はシュルレアリスムの作家である。

レオーニの孫の女性と『はらぺこあおむし』の作者エリック・カールがトークショーをやっているヴィデオが流されていた。エリックはドイツ移民としてアメリカに生まれ幼少時にドイツに帰国、二十歳過ぎてからアメリカへやってきて仕事を探していた。そのときアートディレクターズクラブの展覧会でレオ・レオーニの作品(『フォーチューン』誌の表紙だかポスターだか)を見て気に入ってフォーチューン社に電話したらたまたまレオ本人が出た。「あなたの作品が気に入りました。だからあなたもわたしの作品を気に入ると思います」と説いて面接のアポをとった。会って作品を見せたらすぐにNYタイムスの仕事を回してくれた、恩人だと話していた。

伊丹は小雨だったが「鳴く虫と一箱古本市」をのぞく。商店の軒先でやっているので見て回る分にはさほど問題はなかった。みつづみ書房で二冊、読酌文庫で一冊。各店舗に配置されている鈴虫(これこそ本の虫?)などの音に耳を傾けながら。

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そのあと南森町のサロンモザイクで開催中の浅野真一氏の個展を見て天神橋筋をぶらついて帰宅。


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by sumus2013 | 2018-09-08 17:25 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

梨と葡萄

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木版画の多色摺り、一枚。まったく素性が分らない。学生かな、アマチュアか。しかしそれなりに作風としては仕上がっている。右上隅にエンピツで書き込みあり。「優?原」。名前?

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by sumus2013 | 2018-09-06 20:47 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

エドワード・ゴーリー

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『エドワード・ゴーリーの優雅な秘密』(河出書房新社、二〇一八年二月二八日二刷)。オビに《日本初、展覧会公式図録》とある。明日まで八王子夢美術館で開催中、その後は新潟市新津美術館へ。二〇一六年には伊丹でも開催されていたらしい、見逃した、残念。だから本書の初版は二〇一六年。

《本展は、ゴーリーの没後、エドワード・ゴーリー公益信託とブランディーワイン・リバー美術館によって準備され、各国を巡回した原画展を初めて日本で展示するものです。さらに、本展では、ゴーリーの愛好家として多くの作品を収集されている濱中利信氏のコレクションを加え、貴重な原画・書籍・資料など焼く350点を展示し、ゴーリーの多彩な制作活動にみる、謎に満ちた優雅な秘密に迫ります。》(ごあいさつ)

ブランディーワイン・リバー美術館というとワイエスのファミリー美術館だったはずだが、パリッシュだとかハワード・パイルのようなアメリカの画家やイラストレーターたちの作品も収集しているようだ。

Brandywine River Museum of Art

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「ごあいさつ」で言及されている濱中利信氏がゴーリーのコレクションについて語った「ゴーリー・コレクションの愉しみ」から少し引用しよう。

《ゴーリーとの最初の出会いは、早川書房から刊行されている雑誌『ミステリ・マガジン』1976年12号に掲載された『オードリー・ゴアの遺産(1972)』でした。》《評論家・植草甚一氏の紹介というかたちで採られたものでした。植草氏がこの本を推す、という幸運がなかったら、もしかしたら、私はエドワード・ゴーリーという存在を知らずにいたかもしれません。》

《大学生になってから原書を取り寄せようと試みたのですが、インターネットのない時代にはそれなりにたいへんな作業と時間を要しました。しかもその結果、入手できたのは、舞台劇のセットを「書き割り」のように配したのみでテキストが一切ない『ドラキュラ(1979)』の一冊のみ。》

一九九六年頃、Amazon.com の存在を知り、本格的な「gorey」収集がスタートする。人と人とのつながりができる。最初に初版本を購入したアメリカの古書店主にいろいろなことを教わる。

《「コレクションを始めるなら、ヘンリー・トゥリダーノの『ゴリオグラフィー』(1996)を買いなさい。書誌はほとんど網羅されているが、書かれている『基準価格』は今ではかなり低いので注意。古書店が付ける本の状態を示す『VG(Very Good)』は『ボロボロ』から『かなり綺麗』まで幅が広いので気をつけろ」等々。そして購入した本には、書籍コレクターの為の雑誌「Biblio」をオマケとして付けてくれました。それは、イラスト掲載本の特集号で、ゴーリーについてもコレクションのイロハが紹介されており、たいへん参考になりました。》

世界中のゴーリー・コレクター仲間たちともやりとりをする。情報提供やコレクションの譲渡もあった。そうしてプライマリー・ブック(ゴーリーの主著)を中心とした原画・版画・ポスターなどの収集が形成されたのだそうだ。

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「弦のないハープ または、イアブラス氏小説を書く」より


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「忠告詩」より


帯に「世界一残酷な絵本作家?」と惹句が踊るが、世界一残酷なのはローラン・トポールです、あしからず。しかしながらトポールに通じる線描への執着が心地いい。そう言えば、トポールも早くから植草甚一が取り上げた漫画家の一人だった。さすがJ・J氏。




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by sumus2013 | 2018-09-01 21:22 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

ドローイング

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武蔵野美術大学美術館で開催されていた「ドローイング 内なる水脈の開放」展の図録。タテ42cmというタブロイド判より少し大きいサイズ。綴じなし、24頁(六枚重ねの二つ折)。先日のバウハウスへの応答」や一昨年のダダ新聞『DADA100』もそうだったが、ひとつの図録スタイルとして定着しているようだ。


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麻生三郎「窓」と「裸婦」。独特なタッチ(少しだけジャコメッティを連想させるが)、学生時代に教えを受けた教授の一人。以前も書いたが、ムサビの油は複数の教授が毎週交替で巡回指導する形だった(そう、たしか第一学年のときは一人の担任教授だけの指導だった)。指導といっても先生によってそれぞれで、学生のイーゼルの前に座り込んで筆を執ってグイグイ直していくような先生もいたし、ぐるっと歩くだけでたまに声をかけるだけの先生もいた。麻生先生には「どうしてそんな絵を描くのか?」と問いつめられた記憶がある。そのときたしかに突拍子もない絵を描いていたので黙っているほかなかった(どんな絵かは書きませんけど、今思うと気が変?というような絵でした、もう処分してしまいました)。



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若林奮「BLUE and TWO LEAVES」。若林先生にも教わった(というほどでもないが、共通彫塑というクラスで巡回してきた三人の彫刻家のひとりだった)。やっぱり「どうしてこうなったの?」と問われた記憶がある。コンクリートの塊から足を掘り出すという課題だった。足がパッカリ二つに割れてしまったので、そう問われたのである。しかし、若林先生はカッコいいなと思った。作品も好きだった(図書館のロビーに展示してあった)。



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中西夏之「8/18-2」。中西はムサビでは教えていない。本書の略歴によれば東京藝大(出身校)、倉敷芸術科学大、女子美で教えていた。

他に加納光於、吉田克朗、保田春彦、葦原義信の作品が収録されている。中西と加納以外は武蔵美教授経験者。これらはいずれも武蔵野美術大学美術館・図書館の所蔵作品である。なお葦原作品を含む建築資料は二〇一三年に遺贈されたものでその数20万点にのぼるとか。


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by sumus2013 | 2018-08-30 16:09 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)