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北溟

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内田百閒『北溟』(小山書店、昭和十二年十二月二十日、装幀=谷中安規)を必要があって取り出してあちらこちら披見していると、本に関する記述が何箇所かあった。まずは「売り喰ひ」(当然ながら、旧漢字であるが、引用では改めた)。月給を貰っていながら暮らしが立たず、伝来の品物を次々と売り払ったというところから始まる。そこには愛読書も含まれていた。

《私が自分で買つた物の中で、後後まで惜しかつたと思つてゐるのは、荻生徂徠の写本「琴学大意抄」ぐらゐのものである。或は著者自身の草稿ではないかと思つたりした事もあつたが、まだよく見ない内に、お金に窮して手離してしまつた。
 自分の愛読した本の初版本を売るのもつらかつたが、初版本ばかりを高く買ひ取る古本屋があつて、いくらでも頂戴すると云ふので、差し迫つたお金に困つた時、大抵みんな売つてしまつた。》(p139)

啄木もそうだが、百閒も結局は浪費家なのである。「書物の顔」というエッセイも収められている。師である漱石が書斎で寝ているといろいろの本に見られているようで誠に煩わしいとどこかに書いていた、と始まる。漱石の書斎は実際本がいっぱい詰まっていた。

《私などは学校を出たばかりの当時で、勿論蔵書と云ふ程のものもなかつたが、それでもその有りつたけの本を自分の部屋に飾り立てて、本箱も下宿屋時代に持ち廻つた小さいのや、その後に買つた少し大きいのや、いろいろ不揃な恰好の儘、適当に部屋の隅隅に配列して、少しでも辺りを書斎らしく見える様にするため、苦心した。》(p183-184)

《本屋の店先の様に自分の蔵書をならべ立てて何になるか。その中から一冊二冊引出して来て読むとしても、読んですんだ本を飾つておくのはどう云ふつもりであるか。》(p184)

《さうして今までと違つた気持で自分の部屋を眺め廻して見ると、ろくでもない本が、馴れ馴れしく私に媚びてゐる傍に、読まうと思つても歯の立たない本は冷やかに私を見下げてゐる様な気がし出した。かう云ふ所に坐つてゐては、落ちつけない筈だと、自分の不勉強をそこいらに列べ立てた本の所為である様に考へた。
 その次に引越した家では、本箱はみんな玄関脇の小さな部屋に押し込んで、私は二階の座敷の真中に、机だけ置いて、その前に坐つてゐた。読みたい本があれば下から持つて来て、すんだらまたすぐに片づけた。》(p185)

本を読むものと考えている人たちに共通の強迫観念である。ここで百閒は郷里のドイツ帰りの医者の書斎に話を転じる。患者や来客が皆そのぎっしりとドイツ語の本が詰まった先生の書斎の偉容をガラス戸越しに診療所から見ることができる仕掛けになっていた。

《本を飾るのも、かう云ふ風にすれば役に立つであらうし、また本と云ふ物は色色の用をなすものだと思つた。》(p186)

そうは思っても、自分の家では飾り立てようという気にはなれない。

《今の家に落ちついてからは、初めの内は机のまはりに本を置かない様に気を配つてゐたが、仕事が仕事なので、さうばかりも行かない。いつの間にか三冊五冊と溜まり、特に寄贈を受けた本が畳の上にぢかに積み重なつて始末がつかなくなつた。家が狭いので外に置く所もないから、その儘にしてあるが、本棚を造つて飾り立てるのも気が進まない。漱石先生の云ふ通り、本当に本は一つづつ違つた顔をしてゐるから、一目に見えるやうな所へ置くと、こちらが気を遣ふので困る。》(p186)

こういうのもビブリオフォビアというのかどうか。

ビブリオフォビア

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by sumus2013 | 2022-08-20 19:40 | 古書日録 | Comments(0)
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