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『海の聖母』のこと

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吉田一穂『随想桃花村』(彌生書房、一九七二年一一月二〇日)読了。第一詩集『海の聖母』の出版経緯について書かれている「『海の聖母』のこと」が面白い。

《『海の聖母』は始め「鷲」といふ表題であつた。それが金星堂主・福岡益雄氏の商売意識から改題を希望され、春山行夫君と相談し、詩句の一節をとつて之に代へた。従つて表題による装幀が亀山巌君の画筆に影響して、可成りの「商品性」をおび、寧ろ私の心の象徴としては優美にすぎる本となつた。愚かにもこの外観的な表題及び装幀の一瞥的印象をもつて、作品の本質にまで彼等の執拗な誤謬を強ひられる不快さを、私はその後しばしば経験した。然しながら殆ど自費出版の時代に於て一無名の私の詩集を、最も売行きの悪い種類の書物を、出版し印税まで払つた福岡氏の交誼に対する感謝が、それと相殺するだらう。いづれ「鷲」と改題し、装幀、印刷紙、誤植、及び一部内容を変更して改訂版を出す希望である。》(p14-15)

「鷲」という詩集は出ていないようだ。また『海の聖母』についてはこうも書いている。

《あとで思ひ出したが、私の第一詩集の題名は『海の聖母』だつた。これは上磯の修道院ノートルダム・ド・ファールとの別称から聯想した白い燈台の影像だ。》(p22「海に降る雪」)

また金星堂の前に岩波書店を訪ねていた。

《私は島木赤彦先生の紹介で、その頃まだ古本屋構への岩波書店で禿げ頭に前垂れがけの岩波茂雄氏に会ひ、態よく断わられて憤然と敷居を蹴つた記憶がある。
 金星堂は前に童話集を出してゐたので[『海の人形』大正十三年]福岡益雄氏と話をつけて、やつと私の詩集が梓に上つた。組み版や字格の助言を春山行夫氏に、装幀はエレヂヤを熱愛した亀山巌が聖母と海豚の図案で、やや小型だが渋い緑の地に赭と黒とを配した詩集である。大正十五年十一月十五日(一九二六年)改元前夜の出版だ。私の生涯で一番うれしかつたことは、この校正刷を手にした時だ。胸がわくわくして朱筆を入れるのも惜しく、一夜、眠りもせず声をあげて朗々と誦んだ。予期通り当時の大家から一片の反響もなかつた。しかし若い時代が来た。》(p20「『海の聖母』のこと」)

喫茶店では新宿追分の白十字が登場している。夢二をそこでよく見かけたそうだ。松原は世田谷区。

《夢二の晩年に私はしばしば会つてゐる。だが一言も口をきいたことがない。私が松原に家を建てた頃で、同じ因業地主、同じ京王線だつたためか、毎晩、新宿追分の白十字で会つた。彼は例の如く絵にもみまがふ美女と一緒だつた。彼等は何一つ話し合ふでもなく、珈琲杯を前に昵としてゐた。私はとなりでウヰスキーソーダをがぶつてゐた。松原に小野政方が住んでゐて、彼れが研究社の退職金の代りに童話集を出してもらひ、その挿画や装幀を夢二が書いた。そして夢二はやがてアメリカへ行き、帰ると間もなく死んだのではないか。彼れの童話風な松原の家は取り壊されてしまつた。》(p58「竹久夢二断章」)

吉田一穂は北海道上磯郡木古内町字釜谷村の漁師の家に生まれた、ということで『北方人』第39号(北方文学研究会、二〇二二年八月一日)がちょうど届いた。小説あり、回想記あり、研究や論文ありと中綴じ64ページ、ズッシリと重みのある雑誌になっている。

今号では面白かったのは川口則弘「消えも消えたり川本旗子。」だ。川本旗子は第八十七回直木賞(一九八二年上期)に一度だけ候補になった。本名は庄子亜郎(しょうじ・つぐお)、一九四五年満州の新京市で生まれた、れっきとした男性である。音楽プロモーターとなり、海外を転々として帰国。薦められて一九七九年に『面白半分』に小説を発表して以後、一條諦輔などの筆名で『野生時代』『海』『小説現代』『オール読物』などに次々と書くようになった。なかなかの売れっ子かと思われるが、一條の作家生活は一九八六年をもって突然幕を閉じる。その後の足取りは全くつかめない。《これほどはっきり終わった作家は、直木賞の候補者でも多くはありません》とのことだが、何が原因でそうなったのかは川口稿に詳しいので『北方人』にて。

by sumus2013 | 2022-08-18 19:30 | 古書日録 | Comments(0)
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