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最初の文学カフェ

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ジェラール=ジョルジュ・ルメール『文学カフェ』(Gérard-Georges Lemaire『Les cafés littéraires』HENRI VEYRIER, 1987)をしばらく前に古書ヘリングの奥の間から掘り出していた。どこか一部でも紹介したいと思って、パリで十七世紀から現在もなお営業していることで有名なカフェ・プロコプ(プロコップ)の解説を途中まで翻訳してみた。原文中には誤植も散見されるし、手前勝手に訳しているところもあるが、とりあえず参考まで。


最初の文学カフェ

 若きフランチェスコ・プロコピオ(Francesco Procopio)は、おそらく一六五〇年頃パレルモに生まれ、ある日パリへやってきた。そしてプロコプ(Procope)と名乗り、イタリア語の「dui Coltelli」に由来する、奇妙なド・クストー(de Cousteau)という称号を付け加えた。彼は、毎朝、魅惑的なコーヒーの香りを振り撒きながら巡回する人気のコーヒー売りになった。そして条件付きでパスカル(Pascal)の店に入って給仕となり、サンジェルマン市場の中に仮小屋を張った。そこで彼はその職業の初歩、散歩している人々の渇きをいやすだけでなく、パントマイムや歌によって彼らを楽しませることができるということを学んだ。パスカルが店を閉めた後、プロコープは市場のなかに小さなボックス店を手に入れ順調に仕事を続けた。その結果、一六一五年[ママ]、トゥールノン通りに小さな屋台店をオープンすることができた。結婚したばかりだった。十一年経って、彼は賃貸契約書を見直し、風呂の設備「トリノの聖骸布に Au saint suaire de Turin」を拡張することにした。それは当時のほとんどの公衆蒸し風呂と同じく、古臭くなって、凡庸な評判に甘んじていたのである。

 彼はその場所を改装して趣味のある装飾をほどこした。天井にクリスタルのシャンデリアを吊るし、壁をガラスで覆った。そして輝きを失っていたそれらの部屋が幾分かこの巧みなごまかしのおかげで輝きを取り戻した。このわずかの装飾によってプロコプの王国は室内装飾に重きを置かない他の全てのキャバレから際立つ存在となった。しかしながら、このレモネード売りは(一六七六年にはコーヒー販売者は蒸留酒・レモネード製造販売者同業組会に加盟)顧客に対してまずは珍しいゴージャスな種々の冷たい飲物や料理を提供した。彼はいつも、蒸留酒製造者、薬剤師、リキュール製造者、食品販売者として骨身を惜しまなかった。琥珀色のレモネード、アルコールを多量に含むリキュールを用意し、フルーツ菓子を作り、強い蒸留酒やブランディを製造し、肉桂やアニス入りの水を調合した。彼は厨房で竈やこんろを監督しながら、凝り性を発揮して、湯気を立てる鍋や沸騰しているレトルトから目を離すことは決してなかった。彼は「臭気の源 L'esprit recteur」が「神聖な水 l'eau divine」を発散しているウリ科の植物(cucurbistes)の前で見張りをし、煎じ薬の味見をしていた。彼は「油脂 huile poiseuse」を取り除くために砂糖を精製した。重い乳棒をふるって地方産のアーモンドを大理石の乳鉢のなかで粉にしていた。同時に酸を作り出そうと研究していた。その品質は「燃え殻の純粋さ pureté de l'esprit ardent」に左右される。また彼は灰色の琥珀とアドラガント・ゴム(gomme adragante)を慎重に撹拌した。ハチミツ水をあつらえた。イポクラース(香料入りの甘い葡萄酒)を作るために白砂糖を加えたワインのなかにごく少量のナツメグの実やクローヴ、ふたつまみのショウガを入れた。アーモンド・シロップの柔らかい練り塊を操り、治療効果のあるオレンジの花のクリームを手に入れた。発汗室では大きな器のなかでコラドン(Coladon)の強心作用のある水が沸き立っていた。カシス、フランボワーズ、桃のワインを準備することを忘れなかった。彼は完璧な愛のリキュールを自慢していた。彼はそれをコチニールで染めたレモン水を使って念入りに磨きをかけていた、が、ねずの実の水も、撫子の油も、アニス、薔薇、コーヒーでさえもなおざりにすることはなかった。彼はまたシャーベットやアイスクリームを考案した。

 プロコプは香料の魔法使いであり食材に通暁していた。しかし、彼はとりわけ、パリで最高のコーヒーを出すということを誇りとした。コーヒーをたてるということは、単なる経験の問題ではなく、まさに科学であった。一杯のコーヒーを得るために一時間もかからなかった。やり方は千差万別だった。概論のなかに注意深く書き留められていた。例えばオドゥジェ(Audeger)の『正しい家政 La Maison réglée』では、もっとも簡単な方法が採用されているだけだった。「鍋で炒ったコーヒー豆を細かく砕き濾過器を通し、熱湯をいっぱいに張ったコーヒー沸かし器あるいは壺のなかに入れる。割合は1パント(0.93L)の水に対してコーヒースプーン2杯、あるいはワインボトル一本分(約0.5L)に対して1杯。沸騰するたびにコーヒー沸かし器を火から離し、10から12回沸騰するまで繰り返す。次にしばらく放置しておき、上澄を静かに注ぎ、食卓に出す。」

 プロコプは台所を乱雑な実験室のように変えてしまうことに満足してはいなかった。彼はパスカルの教訓を覚えており、店内での演出の重要さを理解していた。給仕たちは鬘を着け、白いタブリエを着ていた。そして氷、花の水、フルーツ菓子が大皿の上に並べられていた。

 シシリア人の創意工夫が、パリジャンたちが毎日のようにやって来る愉快な休息地であるカフェを作り出したとすれば、運命は最後の仕上げをそこにほどこした。彼が工事を完成し、椅子とテーブルを据え付けた終わったころ、フランスのコメディアンたちはエトワールの旧ジュ・ド・ポム、目と鼻の先、ヌーヴ・デ・フォッセ・サンジルマン通、に居を構えた。彼らは一七[ママ]八七年にマザリーヌから追い出され、何ヶ月も、小教区の主任司祭の猛者たちを刺激することなしに使うことのできる本拠地を探していた。一六八九年四月一八日、彼らはラシーヌの「フェードル」とモリエールの「いやいやながら医者にされ」を新劇場コメディ・フランセーズの柿落としとして上演した。出来立てほやほやの見事な設備のなかで、プロコプは単に俳優、観客、劇作家らだけを惹きつけようとは思わなかった。彼はただちに劇場のロビーに「レモネード小屋」を出して重宝がられた。ヨーロッパの種々のワイン、スグリの実や、フランボワーズや、苺の水を選べる「甘い飲み物の売り子」を売っていた。彼の「穴 Antre」、照明が薄暗かったのでそう呼ばれた、は文字通り劇場生活の中心となったのである。

 夕方になると、戯曲の上演や、その価値、演者の見せ場などについて討論するために人々はそこへ押しかけた。あらゆる人々、自分に見合った役を探しているコメディアン、舞台ではぱっとしないヘボ詩人たち、美しい悲劇女優を探しているお世辞にたけたペテン師たち、力添えの期待をもつ新人たち。

 舞台芸術の過去・現在・未来は良きプロコプの騒々しい顧客たちからなっていた。たちまち常連客はふくれあがり、演劇界を超えてしまった。寓話作家ラ・フォンテーヌはその敷居を跨いだ優れた人物のうちの最初の一人だった。魅惑的にしてうわべだけのVert-Vert[注1]の作者グルネ(Grenet)もそこへ足を運んだ。十七世紀の終わりには、毎日、薄暗く落ち着くサロンを占領していたラグランジュ・シャンセル(Lagrange-Chancel)、ダンシェ(Damchet)、バロン(Baron)、レナール(Regnard)、大クレビヨン(Crébillon père)、小クレビヨン(Crébillon fils)たちが騒々しくも活気のある集まりに加わっていた。

 十八世紀の初め、雑文家の新しい世代がそこへ入って来て、すっかり数の増えていた作家たちの一団に加わった。ジャン=バティスト・ルソー(Jean-Baptiste Rousseau)、アラリ神父(l'abbé Alary)、ウダール・ド・ラ・モット(Houdard de la Motte)、ボワンダン(Boindin)、フォントネル(Fontenelle)。すでに芸術家団体の域に達していた。カフェ・プロコプは、新しいソフィストたちや胸飾りを付けたペリパトス派たちのための常設のシンポジウムの場と化していた。ペルグラン神父(l'abbé Pellgrin)、きわめて冗漫な語り口の拙い悲劇の作者、は当意即妙の短詩の店をそこに開き、舞台のフットライトの下では得られなかった好評を得た。肖像画のギャラリーでもあった。派手な色彩で、生身のキャンバスの構図に出たり入ったりしたそれらの人々は、形而上学的な衝突の深遠さと霊感を欠いたヘボ詩人の空疎を取り違えることに終始した。

 ヴォルテール(Voltaire)はその日のニュースが掲示されたフライパンのあたりでごそごそしている人々の小さな世界を辛辣に嘲笑した。

  ボワンダン、すぎたる不信心にて
  よく天国に思いを巡らしたるとき
  ピロン、オリンピアに反して
  よく悪意を吐き散らしたるとき
  ルソー、人間嫌いにして
  よく空論にふけりたるとき
  さあ、紳士諸君よ、プロコプは告げたり
  珈琲をめしあがれと


[注1]「ヴェール・ヴェール」はジャン=バティスト・グレッセの詩、1734《Vert-Vert ou les Voyages du perroquet de la Visitation de Nevers est un poème écrit par Jean-Baptiste Gresset en 1734.》(wiki)

この後に百科全書派についての記述が続くがプロコプについて具体的な描写はほとんどないので略する。

by sumus2013 | 2022-08-08 17:15 | 喫茶店の時代 | Comments(0)
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