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唖蟬坊流生記![]() 『日本人の自伝23 金谷上人御一代記・大崎辰五郎自伝・唖蟬坊流生記』(平凡社、一九八二年八月一〇日)をしばらく前にたいへん面白く読んでいたのだが、紹介しようと思いつつ、そのままになっていた。横井金谷、大崎辰五郎、添田唖蟬坊の自伝を集めただけのイージーな編集ながら、三人が三人ともに、わがまま勝手な人生を歩いた人物なので、自分勝手さという意味では統一のとれた一巻である。 願人坊主であり画家としても知られる横井金谷(1761-1832)がもっともはちゃめちゃだが、やや眉唾な記述も少なくない。大崎辰五郎(1839-1903)の幕末から明治にかけての生涯も波乱に満ちている。こういう浮沈を経験したした者は当時もけっこういたかもしれないと思わせられるリアルさがある。 添田唖蟬坊(1872-1944)は知られた演歌師で、当然、演歌史としても興味深く読める。歴史的な事件を庶民がどうとらえていたのか演歌の歌詞が代弁しているようでもある。巻末年譜によれば亜蟬坊が演歌を知ったのは明治二十三年らしい。 《ある夜、また小繁[浪花節、後の桃中軒雲右衛門]を聴こうかと思って、大滝町[横須賀]の通りにさしかかると、異様な風俗の三人の男が、何やらしきりに怒鳴っているのだ。人は黒山のようであった。私はその群集の中へ割り込んで行った。 編笠を阿弥陀に被り、白い兵児帯をぐるぐる巻いた若者が、手に手に太いステッキを持って、かわるがわる喋ったり歌ったりする。その時は、始まってもうよほど経っていたいらしい。一人の、演説口調の元気のいい声の切れるのを待っていたように、次の男が、 「マア、この歌を聞きたまえ」 と言った。三人声を揃えてうたい出した。それが、 「ーー悲憤慷慨亜細亜の前途を観察すれば」 といううたい出しなのだ。私は驚いた。そして、耳をすました。》(p191) 男たちは印刷物を売るのだった。これが壮士節といわれるものだった。唖蟬坊は歌の印刷したものを買って浪花節はそっちのけで帰宅してからも興奮してしばらくは眠れなかった。 《買って戻った歌はみな覚えてしまう。節廻しも、声も相当なものであった。二、三の友人から、君が一番上手だとほめられた。 そして、まもなく、青年倶楽部から歌の小冊子を取り寄せて、うたい流して歩く自分自身を、横須賀の町の小路小路に見出したのであった。 当時原価四厘の歌本を、壮士たちは一銭五厘で売っていた。私はそれを二銭に売った。街頭に立つ危懼がやがて深甚な興味となった。売れ行きは素敵によかったのだ。》(p195) 唖蟬坊はたちまち注目され青年倶楽部へ正式に入会した。その頃、青年倶楽部は東京の京橋に本部があり、壮士節演歌の読売のほかに猛烈な選挙運動もやった。多くは自由党のために運動した。 《娯楽といっても何もない。貸本屋から借りて来て読む本も、東海散史の『佳人の奇遇』、末広鉄腸の『雪中梅』、矢野龍渓の『経国美談』などというところで、弦斎も浪六も、露伴も一葉女史も、蘆花の『不如帰』も、ずっと後のことであった。》(p205) 青年倶楽部の他に鉄血倶楽部というのもあった。 《書籍行商社は神田田代町一丁目九番地にあったいわば赤本屋だが、『人情倶楽部』という雑誌を出しておった(一銭五厘であった)。のちに日本館と改称したが、主人公岡田常三郎の長男が五代目菊五郎の弟子になっていた。名女形といわれた死んだ菊次郎がそれである。この行商社の寄宿舎におおぜいの売子がいたが、急進分子数名で青年倶楽部に模して鉄血倶楽部を成し(二十七年)、作歌を岡田に出版させて売っていたのである。》(p249) 八甲田山雪中行軍の惨事(明治三十五)が報ぜられると唖蟬坊は直ちに作歌して「雪粉々」と題して東海矯風団の名によって出版した。これは飛ぶように売れたため、上質紙に刷って書店の店頭に出した。ところが判取帳を持って本屋廻りをしていた中丸という男に売上を持ち逃げされてしまった。 「英会話速達法」を考えた石田式部という男がいた。 《つまり教室の英語は学問ではあるが実際的ではない。ためしに異人と話してごらんなさい、なかなか通じはしない、と教室英語と実際会話との違いを挙げて、会話には会話のコツがある。これさえあればペラペラと喋れる、たちまち通じるようになる、と言って、小冊子を売るのである。またよく売れたものである。後々までもテキヤのネタになっていた。》(p324) 濃尾大震災とか磐梯山の破裂とか事件があると、その印刷物を、口上をふれて歩く、それを「フリモノ」と言った(p329)。そのなかに「三日月お六」という女賊物があった。 《この三日月お六は、高橋翠葉という男の作で、もちろん根も葉もないことであった。事件のない時は、そういう「でっち事」をするのである。それでもその三日月お六は後に活動にまでなった。》(p330) そういうことだったか。以前求めた榎本法令館の赤本『二代の電お光』もその手のフリモノであったのかもしれない。でっち上げというも、当時は新聞紙ですら事件のないときには適当な事件を創作していたというから(今でもそう変わってはいないかもしれないが)、フェイクニュースもいいところだった。 『二代の電お光』上下 裏街道の、もうひとつの出版史がリアルに分かる『唖蟬坊流生記』である。
by sumus2013
| 2022-07-13 19:30
| 古書日録
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