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林哲夫の文画な日々2
by sumus2013


茶と玉

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必要あって岩波文庫解説目録(2022年度版)を眺めながら値段をざっと調べてみた。どれが一番安いのか・・・、なんと尾崎紅葉『二人比丘尼色懺悔』(418円税込)である。しかもこれ一冊だけ。次に安いのが440円(税込)で、この値段では『坊っちゃん』をはじめとして八点ほど掲載されている。文庫も高くなった(のか、他のものに比べると値上がりしていないのだろうか)。

440円のなかに成島柳北『柳橋新誌』がある。これもちょっと意外な感じ。定価が安いということは、まず長編ではなく(ページ数が少なく)、よく売れるものに違いない。薄さはともかくとして今時『柳橋新誌』がそう売れるとは思わないのだが、案外人気なのか?

岩波文庫版は架蔵しないため、名著復刻全集版『柳橋新誌』を取り出して再読してみた。解説目録にはこうある。

《幕末から開化期にかけての柳橋の風俗を描いた成島柳北(一八三七―一八八四)の漢文随筆集。もと三篇からなる。初篇は深川にとってかわり盛んになった柳橋の花街風俗を活写。二篇は短篇小説ふうの挿話をつなぎ合せた構成で花街という視角から幕末維新期の激動を巧みにとらえた傑作。三篇は序のみ伝えられ本文は散佚した。》(p159)

パラパラめくっていると、芸妓に客がないことを磑茶[チヤヲヒク]というのはなぜか? それを考察したくだりに目がとまった。手間を省くので上の写真を見ていただきたい。暇で何もすることがないから茶を挽くという意味だろう、として柳柳州の詩「夏中偶作」を引用している。柳柳州は柳宗元のこと【1】

南州溽暑酔如酒   南州 の溽暑(じょくしょ) 酔ひて酒の如し
隠几熟眠開北牖   几(き)に隠(よ)りて熟眠 北牖(ほくゆう)を開く
日午独覚無余声   日午 独り覚めて 余声無し
山童隔竹敲茶臼   山童 竹を隔てて 茶臼(ちゃきゅう)を敲(たた)く

南国のあまりの蒸し暑さに、身体は酒に酔ったように火照っている。北の窓を開け、肘掛けに寄りかかってぐっすりと眠る。真昼頃に、ふと独り目覚めるが、何の物音もない。下男が、竹林の向こうで茶臼をたたく音だけが聞こえてくる。(https://chugokubungaku.hatenablog.com/entry/2017/08/09/201200

まあ。これはこじつけである。柳宗元の時代には固形茶だったから石臼でガリガリと挽いた。江戸時代には淹茶法【2】が普及していたはずなので、暇だからといって芸妓がほんとうに茶を挽くはずもないから「茶を挽く」という表現にリアリティがあったのだろうか。

席価のことを「玉[ギヨク]」というのも遊里(北里)から出たもので、芸妓は玉の数を競い、玉を欲して茶を忌むと。これは現代の飲食店でも、茶を「上がり」と言い換える伝統が残っているように、かなり根強い迷信(?)と言えるようだ。


【1】柳 宗元(りゅう そうげん、拼音: Liú Zōngyuán、大暦8年(773年) - 元和14年11月8日(819年11月28日))は、中国唐代中期の文学者・政治家。字は子厚(しこう)。本貫の河東郡解県から、「柳河東」「河東先生」と呼ばれる。また柳州刺史であったことから「柳柳州」と呼ばれることもある。玄祖父は柳楷(柳旦の子)。(ウィキ)

【2】乾燥した茶葉に湯を注ぐ方式、一六五四年に隠元が渡来して伝えた。それまでは抹茶のようなたて方か、団茶(固形茶)を粉に挽いて熱湯に入れる方法だった。宇治の永谷宗円が青製煎茶製法を考案したのは一七三五年頃である。


by sumus2013 | 2022-06-28 20:38 | 喫茶店の時代 | Comments(0)
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