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フラニーとズーイ![]() J.D.サリンジャー『フラニーとズーイ』(村上春樹訳、新潮文庫、二〇一四年)読了。まあ、よくしゃべる。饒舌小説とはこのことで、他に全くないわけではないにしても、フラニー、ズーイ、母、レーン、バディーという四人が、とくにズーイがむちゃくちゃしゃべりまくる。 《この小説の面白さはなんといってもその魅力的な文体に尽きる。ハイパーでありながら、計算し尽された文体だ。内容がどうこうという以前に、文体の凄さにのっけから打たれてしまう。これはもちろん『キャッチャー』についてもそのまま言えることだが、すべては文体から始まっている。》(村上春樹「こんなに面白い話だったんだ!」本書の栞) その通りだろう。ちょうど少し前に映画「ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー」(監督ダニー・ストロング、2017)を見たところだったので、このフラニーとズーイのイラつき方の理由が分かるような気がした。サリンジャー自身が地獄(ヨーロッパ戦線)から戻った後のアメリカ社会に対する(というかその社会のなかに安穏と暮らしている自分に対する)納得の行かない感じに通じるものがある。あらゆるものに対する不信(結局それは神に対する不信である)を乗り越えようとして乗り越えられないもどかしさ。フラニーとズーイの二人だけがその感覚を共有しており、理解しすぎているがゆえに、互に堪えられない存在になっている。 面白いのはこれが本の小説だということ。常にフラニーが持ち歩いている布装の小さな本こそが、この物語の根っこなのである。 《彼女は床からハンドバッグを拾い上げ、その口を開けて、黄緑色の布装の小さな本を取り出した。それを膝の上ーーというよりはむしろ膝小僧の上にーー置き、まっすぐ見下ろした。文字通り凝視した。その黄緑色の小さな布装本を置くのに、そこにまさる場所はないという顔つきで。少しあとで彼女はその本を取り上げ、胸の高さに掲げて、身体に押し当てた。》(p40-41) 《「ああ、それは図書館の本なんかじゃない」とズーイは髭を剃りながら言った。「その小さな本の題は『巡礼は旅を続ける』というんだ。『巡礼の道』という題のこれもまた小さな本の続編なんだが、フラニーはそいつも持ち歩いている。どちらもシーモアとバディーが使っていた部屋から持ち出されたものだ。その二冊は、僕の思い出せる限りずっとシーモアの机の上に置かれていた。ジーザス、ゴッド・オールマイティ(参ったね、まったく)」》(p149) シーモアは自殺した長兄である。その本にキリスト教の根本を求めようとしているわけだけれど、彼らの頭の中にはキリストだけではなく東洋思想、鈴木大拙や念仏、一茶の俳句までが駆け巡っている。これは明らかにビートジェネレーションのさきがけだったのではないだろうか。この「宗教臭さ」を村上春樹は本作の弱点としてこう弁明している。 《ただひとつご理解いただきたいのは、一九五〇年代のアメリカにおいては、東洋哲学や原始キリスト教の教義は、おそらく現在よりもずっと切迫した、リアルな存在性を持っていたという事実だ。ビート・ジェネレーションへと繋がっていくひとつの思想的ファッションとなっていた、と言ってしまってもいいかもしれない(もちろんサリンジャーの場合はそれは単なるファッションに留まらず、良くも悪くも彼を全的に包含していったわけだが)。それらの宗教性が意味するのは反物質主義であり、反プラグマティズムであり、圧倒的繁栄を無反省に享受するアメリカ社会への静かなる「ノー」であった。》(栞) 静かなる「ノー」、というか、この圧倒的な饒舌は相当にうるさい「No」のように聞こえるのである。
by sumus2013
| 2022-02-24 17:13
| 古書日録
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