人気ブログランキング | 話題のタグを見る


鮎川信夫との交遊

鮎川信夫との交遊_f0307792_20245179.jpg


『現代詩手帖』第十六巻第二号(思潮社、一九七三年二月一日、表紙絵=司修)、これもヨドニカ文庫の表にて。特集・鮎川信夫に衣更着信が寄稿していたので読みたくなった。「鮎川信夫との交遊」と題されている。何度も書くが、衣更着は小生と同村の出身。

衣更着信の葉書二枚

衣更着は鮎川の名前を『若草』の詩の投稿欄で初めて目にした。『若草』の詩欄は投書家臭がなくのびのびしていたので全国の一匹狼が集まったため入選は難しかった。鮎川は初投稿で「入選」や「佳作」を飛び越して「推薦」で本文組みとなった。いきなり推薦になったので鮎川は一度きりで投稿をやめた。昭和十二年、神戸高商へ入ったばかりの中桐雅夫が『LUNA』を創刊し同人を集めたなかに衣更着はいたが、十三年になって鮎川信夫と森川義信が加わった。森川も香川県出身だった。小生が驚いたのはつぎのくだり。

《この文章を書くには古い雑誌があったら都合がいいのに、「LUNA」から「LE・BAL」「詩集」まで創刊号以来持っていたけれど、田村隆一が「若い荒地」を書くときに送ってしまった。だから、鮎川がどの号にどんなことを書いたかわからない。》(p120)

大切な本や雑誌は人に貸すものではない。お金もそうだが、友人には呉れてやる覚悟で貸せと、ある先輩は教えてくれたものだが、田村隆一に貸したら、いかにも戻ってきそうもない。『若い荒地』(思潮社、一九六八年)が出てから何年もなるのに。

喫茶店が出ているのでメモしておく。エルテル、NOVA、コロンバン。

《明治学院へ入学して、わたしは初めて東京へ行った。ルナ・クラブの月例批評会(パーティ[四文字傍点]と称していた)の連絡をとってくれたのは、たぶん鮎川だろう。場所は新宿の「エルテル」であった。ここで初めて鮎川と会うことになる。まだ、田村や北村太郎たち府立三商グループははいっていず、三輪孝仁、白石豊、池田時雄、牧野虚太郎、北菁子、谷艶子などがそのころの例会のメンバーである。しかし、その日の「エルテル」にだれが居合わしたのかちっとも憶えていない。三好豊一郎と会ったのはそれから何回か後の会合だった。》(p120)

《次のエピソードの場所は新宿の「NOVA」、月例合評会のときだ。》(p121)

NOVAでは早稲田の鮎川と慶応の三輪が早慶戦をめぐってケンカになった。また森川と鮎川は初対面のとき銀座で会って、意気投合した。鮎川は一九二〇年東京小石川の高田豊川町生まれ(ただし両親とも福井県人)。

《大体わざわざ銀座で待ち合わせること自体がいなか者の発想なのである。(中桐雅夫も神戸から学校をやめて出ポンして来たときは、待ち合わせに銀座の「コロンバン」を指定している)。》(p120-p122、ここ面付けが間違っているため120の次は121へ続かず122へ飛ぶ、そして121にもどる、要するに121と122が裏表逆に付いている)

昭和二十九年に鮎川が《香川県の東端にあるわたしのうちへ》来たときの話も面白いけれど、本日は省略します。


by sumus2013 | 2022-02-04 20:33 | うどん県あれこれ | Comments(0)
<< 女殺油地獄の時代 黄雀風 >>