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古老の人生を聞く

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表紙(左):宮本常一撮影
カバー:宮本常一少年期の絵



古老の人生を聞く――宮本常一ふるさと選書第1集
宮本常一記念館(周防大島文化交流センター) 編集
装幀 林哲夫
発行 みずのわ出版
2021年3月31日発行
定価1,200円+税金

菊判(227mm×152mm)並製本 カバー装 扉共紙
カバー ヘリオスGA 四六判Y目 135kg  ナチュラル 
表紙  気包紙-U-FS  K判T目147.5kg 
本文 b7ナチュラル 四六判T目79kg 


山口県の周防大島は宮本常一の古里。本書は宮本常一記念館の編集するふるさと選書第1集で、著作集からより抜きの作品で構成されている。「ふるさと大島」「奇兵隊士の話」「世間師」「梶田富五郎翁」、いずれもきわめて面白いが、ここでは「奇兵隊士の話」の粗筋だけ紹介しておこう。

語り手である谷田部宗吉翁は慶応二年(一八六六)の四境の役(第二次長州征伐を長州ではこう呼ぶ)に加わった一人。周防大島小松の医家に生まれ、十二歳で萩へ修業に出た。まずは岡田某の漢学塾に入り、つづいて吉田松陰の門をたたく。

《当時、萩の漢学者では吉田松陰先生が最も声望があった。年は若かったが私塾の先生としては若い血気の人々からの尊敬を集めていた。そこで翁は松陰先生の門に入った。先生はまるで気狂いのような人であった。講義中弟子どもの議論の激することがあって、納まりがつかなくなると
「斬れ。」
 と怒鳴るように言われた。すると白刃を柱に斬りつけて議論をやめた。そういう時、年少の翁の胸の動悸がとまらなかったという。しかるに入門してからわずかに一週間、先生は野山の獄につながれ、やがて江戸に送られて斬られた。これを境にして長州藩の若い武士の血が湧いた。》(p26-27)

谷田翁はしかたがないので帰郷しようと思って柳井津まで来ると、ちょうど南奇兵隊が組織されたところで、路上で隊士たちが勧誘をしていた。

《「今にきっと幕府が攻めて来る。いや世界が攻めて来る。その時今の武士では間に合わぬ、われわれ二、三男の百姓兵でなくては役に立たぬ。命を惜しまぬ者でなければならぬ。そういう者は隊へ入れ」と言っている。翁は家へ帰って薬の配合をする手伝いで生涯をぬりつぶすのも惜しいと思って、ふらふらとその仲間に入ることにした。》(p27)

百姓が時代を動かした(渋沢栄一だってそうだ)。

《南奇兵隊の総督は浦靱負[うらゆきえ]、軍監は秋良敦之介[あきらあつのすけ]であった。その幹部たりし者は多く海防僧月性[げっしょう]の弟子であった。月性は周防遠崎妙円寺の住職「男子立志」の詩で有名な人であり、吉田松陰と親交があった。海防の急務を説き仏教護国論を書いた。その弟子には大洲鉄然、世良修蔵その他多士済々であった。不幸にして安政五年(一八五八)病死したが一説には毒殺せられたとも言われている。》(p27)

大洲鉄然(大島郡久賀の覚法寺の僧)が月性の遺志を次いで南奇兵隊(第二奇兵隊)を組織した。そして山岳戦の訓練に最も力を注ぎ、各村でも厳しい調兵訓練を行なった。農民といえども武士を恐れなかった。翁は、その後、九死に一生を得るようなことがあって、いよいよ幕府軍と一戦まじえることとなった。

《翁は小隊長として奮戦し、敵軍を追うて広島に入った。この時、幕府の兵のあまりに弱いのに驚いた。訓練が十分にしてないので進退ともに何の秩序もなく、算を乱しての退却であった。》(p33)

幕府軍が負けるわけである。翁はさらに、鳥羽伏見の戦いに勝利し、京都警備に当たる、そして天皇の江戸入に供奉した。さらには北に向かって五稜郭で榎本武揚の軍と戦った。ところが今度は、長州藩で内乱が起こったというのでその鎮定に帰らされた。農民兵が帰農を命じられたのに不満で騒いでいたのだ。内乱が収まると、ようやく帰郷した。上京して将校になることもできたのだが、家族の反対もあって、以後七十年間、薬剤師として働いたのだという。

過激すぎるファミリー・ヒストリー。古老の昔語りは滅法面白い。この後も日清日露と《二、三男の百姓兵》が日本の歴史を変えて行くことになる。


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by sumus2013 | 2021-05-04 19:48 | 装幀=林哲夫 | Comments(0)
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