人気ブログランキング | 話題のタグを見る

林哲夫の文画な日々2
by sumus2013


基督抹殺論

基督抹殺論_f0307792_19471061.jpeg



基督抹殺論_f0307792_19471468.jpeg


幸徳秋水『基督抹殺論』(丙午出版社、明治四十四年二月八日再版)。街の草で入手。旧蔵者の書き入れがなかなか立派である。

基督抹殺論_f0307792_19465768.jpg



基督抹殺論_f0307792_19470007.jpg

『基督抹殺論』執筆の経緯は以下のようなことになる。

《明治四十三年(一九一〇年)五月二十五日、いわゆる「大逆事件」の檢擧が長野県を手はじめに開始された。幸德秋水は、明治四十一年夏、鄕里から上京して以後、徹底した監視と彈壓のもとで惡戰苦闘していた。同志は次々と獄中に奪われ、機關紙は次々と發禁を受け、身邊にはたえず尾行がつき、生計の道も奪われる有樣であつた。妻千代子の姉が判事に嫁いでいることから、その方面からも壓迫が加えられ、千代子との間も面白くなくなつて、明治四十二年三月にはついに離縁した。そして活動を共にしていた同志管野須賀子と同褄するに至つた。》

《管野がかつて荒畑寒村と夫婦関係にあり、當時荒畑は赤旗事件のため入獄中で、その間の事情が必ずしも明朗でなかつたために、秋水のこの戀愛は多くの同志の非難を受け、それを理由に彼からも運動からも離れてゆく者も少なくなかつた。熊本の同志が發行した『平民評論』も、秋水と管野による『自由思想』も、ただちに禁止されて、合法的に機關紙をもつことは不可能になつた。秘密出版その他の非合法活動も官憲の攻撃を受けて妨げられた。》

《手も足も出ない狀態に追い込まれた秋水は、明治四十三年三月以來、小泉三申の好意的提案を受入れて、『通俗日本戰國史』を編纂するために湯河原溫泉天野屋に滞在し、病を養うかたわら『基督抹殺論』を執筆していた(それは大逆事件の獄中で脱稿し、秋水刑死後一週間たつて明治四十四年二月一日に發刊された)。》(塩田庄兵衛編『幸徳秋水の日記と書簡』未來社、一九五四年、解説)

管野須賀子は古河力作に宛てて次のように書き送っている。清水卯之助編『管野須賀子の手紙』(みちのく芸術社、一九八〇年)より。

明治四十三年四月十八日 湯河原温泉にて 東京府下滝野川村一三三番地古河力作へ〔西洋罫紙二枚に書いた手紙〕
 [前略]秋水は、発売禁止にならぬ様なものとの趣意で、目下『基督抹殺論』を書いて居ります。脱稿まで滞在のつもりで御座いますが、都合で私だけ先へ帰京いたします。と言ふのは、四百円の口の上告を愈よ先日取下げましたので、余り盛夏にならぬ前に、百日勤めて来やうと思ふので御座います。あれがあっては、兎ても思ふ様に身動きが出来ませんから、脳の養生かた〳〵行って参らうと存じ居ります。
 長沙の暴動[引用者註:一九一〇年四月、中国湖南省長沙で米価の高騰により起こった民衆的暴動]中々盛んで御座いますね。新聞を見て血を沸き立たして居ります。暴動革命、私は自分の力の足りないのが歯痒くて堪りません。少しく躰力を養ひ、少しく警戒の怠たるを待って、献身といふ文字に少しく色彩ある、意義ある活動をして終りたいと、堪へず其方法を考へて居ります。
 私は多分今月末帰京致します。委細は其節拝顔の上
   四月十八日     月 》

「月」は管野須賀子のサイン。結局、幸徳は六月一日に湯河原で逮捕された。

《六月一日、所用で上京のため門川驛から乘車しようとしたところを、東京から出向いてきた判檢事の一行に逮捕され、ただちに東京へ護送されて、起訴され、市ケ谷の東京監獄に収容された。全國で數百名の社會主義者・無政府主義者が檢擧されたといわれるが、十二月十日から開始された大審院刑事特別法廷に、舊刑法第七十三條、大逆罪の容疑で起訴されたものは二十六名であつた。》

《翌明治四十四年一月十八日に、秋水以下二十四名の無政府主義者に死刑が宣告され、二名は爆發物取締規則違反で有期懲役が判決された。明治天皇はその夜二十四名の死刑囚の名簿から機械的に半數の十二名を削り、無期懲役に減刑の「仁慈」を示した。一月二十四日、秋水以下十一名の死刑が執行され、管野須賀子だけは時間の關係で翌日に延ばされた》(『幸徳秋水の日記と書簡』解説)

本書の初版は、死刑執行から八日後、二月一日の発行となっている。本体背のカットとして「桜」と「菊」を配したのは意味深長である。




by sumus2013 | 2021-04-14 19:51 | 古書日録 | Comments(0)
<< 鹿の結婚式 三上於菟吉再発見 >>