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林哲夫の文画な日々2
by sumus2013


プルーストへの扉

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ファニー・ピション著、高遠弘美訳『プルーストへの扉』(白水社、二〇二一年二月五日)読了。まず「訳者あとがき」を紹介しておく。

《本書は、Fanny Pichon, Proust en un clin d'oeil Éditions First, 2018 の全訳です。直訳すると『プルースト瞥見[べっけん]』『プルースト早わかり』とでもなるでしょうか。First社からは、同じシリーズで、『ランボー瞥見』『ヴィクトル・ユーゴー瞥見』『ヴォルテール瞥見』『ボードレール瞥見』が刊行されています。そのうち『ランボー瞥見』は同じ著者ファニー・ピションの著作です。
 ファニー・ピションはパリ高等師範学校[エコール・ノルマル・シュペリウール]を卒業。文学のアグレジェ〔リセ以上の高等教育機関教授資格取得者〕で、現在は、パリ近郊のリセ・ルイーズ・ミシェル・ド・ボビニーで教鞭を執っています。
 この「瞥見」シリーズはどれも短いものですが、よくまとまっていて、その作家と作品の概略を知り、具体的にそれらの著作に触れるにはすこぶる有益な書物だと言えましょう。》(p148)

学生時代からプルーストに関する文献を集めてきた訳者の高遠氏が、自ら個人全訳に取り組むことになってみると、もう論文などは読み返したいと思わなくなったけれども、そのなかでも再読したいと思ったのは『プルーストによる人生改善法』『プルーストと過ごす夏』『収容所のプルースト』と本書の四冊だったそうだ。

《幸い、最初の三冊はふさわしい訳者を得て刊行されました。ならばピションの本はぜひ自分で訳そうと考えたのがそもそもの出発点でした。原書は小さく薄い本ですが、翻訳版では附録をつけることにしたのも私の判断です。》(p149)

附録というのは「本書に登場する固有名詞索引」と「プルースト関連年表」「文献目録」。いずれもたいへん便利。文献目録は戦後に刊行された和書(翻訳含む)だけだが、精選されて百点以上が数えられており、いかに日本でプルーストについて蘊蓄を傾ける人々が多いかがまさにアン・クラン・ドゥイユ(瞬く間)でよく分る。

たしかに本書はきわめてコンパクトに仕上がっている。

第一部 マルセル・プルーストとはどういう人間だったのでしょうか

第二部 なぜプルーストを読むのでしょうか

第三部 そう、プルーストは読めない作家ではありません

という三部構成(出自略歴、読書の勘所、文章の分析)でそれぞれ分かりやすく説いている。翻訳も申し分なく読みやすい日本語である。まさに明晰なカットの仕方で、小生のような漫然とした読者にとっては、目からウロコの指摘ばかりである。例えば『失われた時を求めて』を読むときの要(かなめ)、時間についてはこんなふうに。

《この作品は線としてとらえられた時間のなかで起こる出来事を年代順に並べた物語ではなくて、同時に存在するいくつもの経験を入れる共鳴箱、あるいは文学の大聖堂となるはずです。それをプルーストは「私たちの人生はほとんど時系列を無視して成り立っていて、日々の流れに多くの時間的錯誤が入り込んでいるから」(花咲く乙女たちのかげに)と書いています。》(p93)

これが例の有名なマドレーヌから呼び覚まされる過去の記憶と結びつくのだ。《そこに「見出された時」によって感じる喜びが生まれます》(p93)。作者は時間を自在にとらえ直す。どうだろう、これは、アインシュタインの相対性理論と基本的には同じ考え方ではないだろうか。波動(線的)でありながら同時に偏在している時間。プルーストは一八七一年生まれ、アインシュタインは一八七九年生まれで、一九〇五年に特殊相対性理論を初めて発表している。要するに同時代人だった(本書の年譜にもアインシュタインの名前が出ています)。プルーストがアインシュタインの論文を読んだかどうかはともかく、ともに新しい概念を生み出す新しい世代に属していたとも思えるのだ。

もうひとつなるほどと思ったのは「スワン家のほうへ」と「ゲルマントのほう」の意味について。語り手が少年時代を過ごしたコンブレーでの思い出には二つの面があった。

《「スワン家のほうへ」と「ゲルマントのほう」というタイトルはどうしてつけられたのでしょうか。すぐに起想されるのは、コンブレーの家から出発して父親が連れて行ってくれた二つの散歩道です。表の門から出るとひとつの「ほう」へ行きますし、菜園を抜けて出ていくともうひとつの「ほう」へ行くことになります。》(p125)

《二つの方角の風景はまったく違います。リラと山査子[さんざし]の咲く平原の眺めと睡蓮の漂う川の眺め。二つの道は語り手の頭のなかでは妖精が魔法で閉ざしてしまった二つの世界のように相容れないものと化しています。》(p126)

これらの道は語り手が《生涯追い求める二つの道を暗示してもいる》のだが、じつは、二つの道をつなぐ「近道」があったことが分る。それを語り手は大人になってから教えられるのだ。詳しくは本書を読んでいただきたいが、これらタイトルに象徴されているように具体的な時代や社会の動きを絶妙に反映させながら小説はうねって進むのである。何とも見事な構想だ。

と、この短文を書くためだけにも「本書に登場する固有名詞索引」と「プルースト関連年表」を何度も見直した。たいへん便利です。


by sumus2013 | 2021-01-26 20:26 | おすすめ本棚 | Comments(0)
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