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漢古印縁起陳舜臣『漢古印縁起』(中公文庫、一九八九年三月一五日再版)。昨年のギャラリー島田、摘星書林の机の上に並んでいたのでタイトルに惹かれて手に取ったところ、戸田さんが「それ、面白いですよ」と太鼓判を押してくれたため購入したもの。 古美術品をテーマにした短篇集である。唐寅の絵画「日本早春図」、丁敬と漢印、桃李の剣、陶磁片をはめ込んだ壁、敦煌の壁画「多聞天踏魔像」、蘇州版画「夜叉歓喜変」にまつわる六つの短篇が、老コレクター桜井と狂言回しである小説家の「私」を軸にして語られることにより、ひとつの中編としてまとまっている。 登場するのはいずれも中国の美術品ながら日本人と不思議なつながりをもっているものばかり。むろん陳舜臣だから、単純な美術随想などではなく、ちょっとした歴史ミステリー仕立てで、どんでん返しもあるという、古美術にさほど詳しくなくとも楽しめる作品群になっている。 ここでは表題作「漢古印縁起」を少しばかり紹介してみる。話は桜井老人より印章コレクションを見せてもらうところから始まる。「私」はその中の一顆に目を止める。それは文人画家・金農の雅号「恥春翁」が彫られた四角な印であった(文庫カバーの装画が金農の「紅梅図」)。側款(そっかん:印章の側面に彫られた銘文)には「丁敬仿漢」とあり、丁敬という人物が漢印にならってこれを刻んだことを示していた。 《丁敬は康煕三十四年(一六九五)に生まれて、乾隆三十年(一七六五)に死んだ。金農は丁敬より八つ年上の康煕二十六年(一六八七)生まれで、七十六歳で乾隆二十八年(一七六三)に死んだ。まったくの同時代といってよい。 そして、二人とも浙江省杭州の銭塘の生まれである。》(p73) 二人は無二の親友だったが、性格は全く異なっていた。天才と努力家。 「私」は二十年ほど前に中国系アメリカ人の知人から丁敬にまつわる話を聞いたことを憶い出す。その知人の母方の実家にかつて(二百年前に)若き日の丁敬が寄寓し、その家が銅を扱う御用商人だったところから、そこにあった銅を用い、漢印のデザインをまねて多数の印を彫ったというのである。要するに篆刻の稽古をした。ところがそれが二百年も経つと本当の漢印なのか丁敬の摸作なのか区別がつかなくなってしまった。 本書によれば、前漢の時代には鋳造された印がほとんどで、ノミで刻む刻印が優勢になるのは後漢になってからだそうだ。有名な志賀島で発掘された金印「漢倭奴国王」は後漢初代光武帝のころ(一世紀)に造られたものである。これはちょうど過渡期に当るようで鋳印か刻印かはっきりしないという。 中国系アメリカ人の知人には親しい従兄があった。彼は、結婚してアメリカへ渡る資金を得るため、その家に死蔵されていた漢古印を売り払うことを思いつく。そしてツテを頼って著名なコレクターにまんまと売り払ってしまった。知人はその片棒を担いだ。それらの一部が巡り巡って桜井の手に渡ったというわけだ。 その古印が本当に漢印だったか、または丁敬の修練のたまもの(摸倣作)だったのか……これは読んでのお楽しみということで、ここでは伏せておく。 ところで、小生も古い青銅の印を三顆ほど蔵している。かなり前に一顆だけ紹介した。 おおざっぱに言って周秦(紀元前四百〜二百年)あたりのものだと思われる。小生としては珍しく、古道具屋や均一台の隅に転がっていたのではなく、れっきとした古美術商から求めたので、まず間違いはない。 印章というものは、古く殷代(前1700〜前1100)から使われていた。秦の始皇帝(前二二一天下統一)は世の中をガラリと変えるのが好きだったようで、印章の制度も一新したそうだ。 《秦の始皇帝は少府を設け、そのなかに符節令丞をおいて新しく印章に關する規定をつくらせ、天子の印章は璽と稱して、その材料は玉を用い、臣下は印と稱して玉を用いることはできないとした。》(『書道全集 別巻1 印譜 中国』p2) 漢の時代(前二〇六、秦が滅び高祖元年となる)になってもそれは受け継がれた。 《漢印は秦制を承けて、天子の印章を璽と稱した。しかしまた諸王や王太后などにも璽と稱する例がある。官印は多くは印と稱している。ただし太守、御史、将軍は章といい、ときには印章ともいう。私印の場合も私印または印信、信印などと稱することもある。官印の大きさ方寸(約二一〜二三粍)、鈕に孔をあけて印綬をとおして佩帯する。》(同p2) そうして以後永らく実用印として使い続けられたわけだが、ずっと端折って、明代に文彭(ぶんぽう、1498-1573)が登場した頃から篆刻というものは書画に並び立つ芸術の域まで高められることとなった。印文に姓名字号ばかりでなく風雅な詩句を用いるようにしたのも文彭であるという。そしてそれは明朝から清朝にかけてどんどんソフィスティケートされて行く。その流れにストップをかけた、というか漢の時代の印章の力強さを学べと復古を唱えたのが「漢古印縁起」の主人公である丁敬だそうだ。清の乾隆(1736-1796)、清朝の文化が最も栄えた時代、篆刻ルネッサンスが起こったのである。 《丁敬はもつぱら秦漢印の精華をくみとり、徽派や呉派、雲間派たちのとかく刀法の巧妙をたつとぶ婉麗な作風を排除して、雄健蒼古の新しい風格をうちたてた。これより銭塘が中心となつて篆刻藝術の花がさきだした。》(同p10) 《字は敬身。鈍丁と號し、また龍泓山人・硯林・孤雲石叟・勝怠老人・玩茶叟と號した。書齋を無不敬と稱した。浙江錢塘の人。市井野人の間に生育し、家は貧しく、酒造を業とした。乾隆元年(1736)博學鴻詞科に推されたが應じなかつた。性質は狷介で、人に取り入ることを好まず、終生仕官せずして布衣に了つた。博學好古で、秦漢の銅器、宋元の名蹟など手に入れるとよくその眞贋を辯別した。藏書を愛し、つねに市場を注視して探求につとめ、書齋のうちに整理することもなく山積していた。とりわけ金石文字に心をつくし、その源流を探り、同異を考訂して、いささかもゆるがせにせず、危岩絶壁をきわめ、荊榛苔蘚をかきわけて、前人の名蹟に遇うと、かならずみずから摹搨するのを常とし、武林金石録を著した。》(同p91) 《平生輕々しく人のために刻印せず、貴顯のものが求めても、あえてそれに應ずることなく、これを強請するとかならず痛罵した。かれの住居は金農と近接し、親しく往來して相唱和し、その名を併稱された。その他汪啓淑もまた西湖吟社の盟友となり、かれとともに三十餘年の交遊があり、汪氏の飛鴻堂印譜の編輯に當つては金農とともに校訂にあたつている。》(同p91) 丁敬、なかなかに骨っぽい人物だったようである。 それはそうとして、コロナ騒動以降、印鑑廃止の方向へいきなり傾いてきている。小生は、古モノ好きながら、まったく旧守派ではないのだが、三千年の歴史を保ってきた印章の制度が消えてしまうのも、なにか惜しいような気がしてならない。
by sumus2013
| 2021-01-03 17:01
| 雲遅空想美術館
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