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林哲夫の文画な日々2
by sumus2013


愛棋家坂口安吾

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済寧館の決戦(1949.5.24)感想戦
左より升田、大山、木村、坂口安吾、塚田


本多俊介「愛棋家坂口安吾」という論考のコピーを本多氏御本人から頂戴した。『将棋ペン倶楽部』に二〇〇〇年から二〇一八年にかけて随時発表されたもので、坂口安吾の観戦記を深く読み込んだ綿密な分析になっている。じつは先日のモナミ情報を教えて下さったのも本多氏であった。

《木村が名人位を失った第六期名人戦第七局千日手指し直し局の対局場は、安吾が「散る日本」で書いた東中野の「モナミ」が適切だ。倉島や菅谷北斗星が書いた「新モナミ」は銀座の本店と区別するための通称だったようだ。「モナミ」の命名は岡本かの子という〈「世田谷時代一九四六—五四の岡本太郎」(〇七年、世田谷美術館)〉。かの子の息子太郎も常連で、吉行淳之介の芥川賞受賞祝賀会など文化人御用達のレストラン兼喫茶店だった。旧帝國ホテルを手がけたフランク・ロイド・ライト設計とした書籍があったが、ライト関係の資料には見当たらない。昭和三〇年代には姿を消したというのは惜しい。》

坂口安吾が残した将棋の観戦記というのは三篇あるそうで《木村義雄の名人位からの転落、再起、復位を描いた「木村三部作」ともいうべき存在》とのこと。これ以外に本因坊呉清源十番勝負第一局(四八年七月)の観戦記もある。青空文庫で読めるのでぜひ目を通していただきたい。

「散る日本」第六期名人戦指し直し第七局=四七年六月六日
「観戦記」木村升田三番将棋第一局=四七年一二月九日
「勝負師」第八期名人戦第五局=四九年五月二四日


観戦記としては異色というか、安吾は将棋は弱かったらしく(囲碁の方は二段程度はあったらしい)、将棋の内容よりも対局者や対局者を取り巻く周辺の様子を小説家らしい闊達な筆さばきでもって細かく描いている。さすがの臨場感。

これらに先立つ一九四六年の十一月、安吾と織田作之助と太宰治の三人による座談会が行われた。意気投合した三人は、その後、十二月四日(異説あり)に銀座のバー「ルパン」でふたたび一緒に飲んだ。そこに居合わせた林忠彦が撮ったのがあの有名なカウンターの前に座る太宰であり織田作である。安吾は太宰の脇に後姿で写っている。織田作の「可能性の文学」はその夜一気に書き上げられた。坂田三吉の初手端歩突きという奇策を文学の可能性にからめて論じたのだった。翌十二月五日吐血、翌年一月十日に急逝する。それが安吾に刺激となった。

《安吾との出会いが織田に「可能性の文学」を書かせ、それが北條[秀司]に「王将」を、安吾に「大阪の反逆」そして「散る日本」を書かせる。その「散る日本」に「王将」の出演者である辰巳、島田、小夜が現われる。人生の綾を感じざるをえない。》

「散る日本」がやはり一番面白く書けているように思うが、それにしても、一番の勝負どころ(勝敗を決した場面)で、対局場を離れ、村松梢風と別室で碁を打っていた、というのが何とも安吾らしいなと思うしだい。

小生も大昔「文士の将棋熱ーー清水町先生周辺」(『ARE』10、一九九八)というエッセイを書いたことがあって、当時、文士たちの将棋エッセイをかなり漁ったことを思い出した。本多氏の博捜には及びもつかないけれど、将棋と文学の関係もまた少し掘り返してみたくなった。


by sumus2013 | 2020-10-27 20:06 | 喫茶店の時代 | Comments(2)
Commented by imamura at 2020-10-28 09:54 x
「散る日本」を読ませていただきました。
凄いですね。
こんなに詳細な観戦記は読んだことがなかったです。
将棋、強くなかったから書けたのでしょうか?
Commented by sumus2013 at 2020-10-28 17:02
きっとそうでしょうね。手の解説はできないですから。ほんとに面白い読み物になってます。
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