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林哲夫の文画な日々2
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新宿風月堂

新宿風月堂_f0307792_20251849.jpg

『太陽』no.84(平凡社、昭和四十五年五月十二日)の「特集・江戸城と東京」に新宿風月堂の写真が出ていた。偶然発見。《新宿異邦人/写真=クリスチャン・リガール》カラー八頁のなかの見開き(上写真)。執筆者名はないが、リードにはつぎのように書かれている。新宿は野良犬の街から副都心へと変貌して野良犬を追っ払ってしまった、そこへやってきた外国人ヒッピーたちもいささかアテがはずれたかっこうだとして

《この外国版「野良犬」たち、新宿四丁目の旧赤線街、俗に「新宿番外地」とよばれるところが隠れ家。ここにある「ダイイチホテル」「サガミホテル」「ウエノハウス」の三軒が彼等の聖地なのだ。たまり場の「新宿風月堂」に近いこの三つのホテルは、いずれも外国人専門の安宿である。》

《彼等にとって日本は絶好の市場なのだ。日本では、道路に絵を描いてもすぐ金はあつまる。》

《日本で金をためて、あこがれのインドやネパールへ行くのが彼等の常識的コースなのだ。かくして、新宿異邦人はせっせと金をかせぐ。
 日本の若者たちが新宿を見すてたのにつれて、異邦人たちもめっきりへってきた。かせぎがへってきたからである。新宿異邦人の狂い咲き現象も、新宿の銀座化につれて、この秋ごろには見られなくなってしまうだろう。

というように書いている。一九七〇年の状況である。小生は七〇年代後半の新宿しか知らないので比較はできないが、まだそんなに銀座化はしておらず、あいかわらず混沌としてパワフルな街だったような気がする。風月堂は一九七三年八月に閉店している。入るチャンスがなかったのが残念。


新宿風月堂_f0307792_20252133.jpg

風月堂に関して山崎朋子が三國連太郎を取材したメモ原稿を某古書店より入手した(これは展示する予定)。『サンダカンまで』(朝日新聞社、二〇〇一年)に風月堂についての詳しい記述があるようだが、そのためのメモであろうか(?)。読みにくいところが多いけれど一部分だけ引用してみる。最初は三國の戦争体験から。

中国ー引揚ー九州ー東京
私は兵隊にとられて、中国の管理下にあったのが、ふとした事から民間人の独身男性グループに入れられ、そこで、リーダーの日本男性に「早く日本に帰るために偽装結婚しなさい」とすすめられた。その夕方にすぐ、宮崎出身の女性と見合をして、偽装結婚。その女性の実家のある宮崎に引揚げた。その引揚げのときに、持っていたお金で、腕時計を20ヶ買って、20人に、はめて帰ってもらい、佐世保港で時計を返してもらい、それを売ったお金で一年暮しました。S22引揚げ、8月サセホー宮崎に女性をおいて静岡に帰ろうと思ってヒロシマを■た。静岡に帰って行く所なく宮崎交通につとめー僕にとても出来ない仕事なので止めて、石けんを造ってその製品を売るために鹿児島で稼いだ事もありました。》

《風月堂の常連の天本英世とあったのも鹿児島です。彼は、家がよかったのか、石けん売りはしませんでしたが、しかし鹿児島高校の大神[オオガ]たちの仲間でした。》

新宿風月堂
はじめ風月堂は、松竹の映画館の裏。今の三越駐車場あたりにあった、近くにムーラン・ルージュ。風月からまっすぐに行くと新宿駅東口に出る。風月の前の伊勢丹寄り、に西田屋という古本屋があって、僕はそこで、スタニスラフスキイの本を買って、風月堂に入って読んだ。
その風月堂のウエイトレスに大変魅力的な人がいて、僕はウエイトレスに右往左往した。コーヒーを出してくれる手が餅肌で色が白くてそれはキレイ。その時、僕は、出征する前に、筆下しをした相手の女性のことを思い、感傷的になって、二人を重ね合わせていたような気がする。それは昭和19年12月のことだ。20才。》

《昭和30年に二回目の改装をしてからもよく行きました。一階の、マンなか位のところ、中二階に上る階段の下の椅子に、いつも坐っていました。ここですと、みんなが、気付いて声をかけれくれますから。》

全文読みたい方は会場へどうぞ。

by sumus2013 | 2020-09-19 21:01 | 喫茶店の時代 | Comments(0)
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