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林哲夫の文画な日々2
by sumus2013


レンガ屋

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銀座並木通りの六丁目にあったレストラン「レンガ屋」の小冊子『レンガ屋』を頂戴した。『銀座百点』と同じサイズで本文32頁。奥付がないため刊行年が分からない。収録されているエッセイの多くが一九六七〜六九年の日付になっているので、六九年かまたは七〇年の発行かもしれない。それぞれ初出があるようだが、それが何なのかもはっきりしない。レンガ屋の広告媒体だろうか。西村義孝氏のご教示によれば佐野繁次郎の文章は『銀座百点』に掲載されたものだそうである】

レンガ屋は見ての通り佐野繁次郎のロゴを使っている。本書にも佐野は「パリ通信」と題して四篇の短文を寄せている。石井好子は次のように書いていることから常連だったことが分かる。

《パリに着いたばかりの頃お世話になった佐野繁次郎画伯にときどきお会いすることも楽しみのひとつである。
 佐野先生はいつも「クーポール」という古くから有名なモンパルナスの料理店で食事をされていた。先生にとってパリの「クーポール」にかわる場所がレンガ屋なのであろう。》

経営者(マダム)の稲川慶子については團伊玖磨が

《マダムの稲川慶子さんとは、レンガ屋が麻布にあったもっとその前、彼女がソルボンヌとコルドン・ブルーに学んでいたパリ時代からの親友で気が置けないし》

と書き、遠藤周作が

《マダムは拙者の慶応仏文時代の後輩だが、女子学生の頃から美人のくせに空手ばかりやって、全く勉強などせん。》

と書き、白井浩司が

《彼女は戦後、慶応のフランス文学科を最初に卒業した女子学生のひとりだが、私がフランス留学中、颯爽とパリにあらわれた彼女は、私の帰国後もパリにずっと居続けて、パリの町、パリの料理にかけてはすっかり物識りになってしまった。フランス語の会話もすばらしく上達した。彼女は、私たち貧乏留学生のために、米飯をたいたり、魚を焼いたり、カレーをつくってくれたりして、私たちはまったく感激したものだ。》

と書き、安岡章太郎は

《黒いドレスにメガネをかけた稲川さんは一見社長風だが、本質はおかみさんなのである。》

と書き、江藤淳は

《かつて、レンガ屋が六本木にあったころ、「レンガ屋の葡萄酒」というものがあった。佐野繁次郎画伯デザインのしゃれたラベルがはってあって、国産ながらなかなかいける味であった。》

と書き、杵屋六左衛門は

《普通なら十年のキャリアはどこかきつく抜目のなさの出て来るものだが、マダムの稲川さんにはそれの露みえぬ、あくまで美しくおだやかな、それでいて隅々まで目の行届いた経営振りである。》

と書き、田久保英夫は

《僕が慶応仏文の学生の頃、同じ科にひときわ年若い女学生がいた。色白で、眼鏡をかけ、きれいな山の手言葉を喋るその女の子は、すぐ男の学生たちの注目をあび、誰かが金魚[ポアソン・ルージユ]と名づけた。その女の子が通ると、何となく色彩的で、金魚の赤いひらひらが揺らめくような気がしたのだ。
 かの女は卒業すると、仏蘭西へ行き、それからまもなく麻布に、レストランを出した。》

《そのお店は、やがて銀座の並木通りへ移った。壁のレンガや、テーブルクロスの清潔な格子のインテリアも、そっくり変らずに。そして何より、店のご主人の金魚のようなあでやかな雰囲気も、きれいな山の手言葉もそのまゝに。》

と書いている。経営十年のキャリアとしている杵屋の文末には「一九六八・五」とあるので一九五八年頃の開店ということになろうか。

稲川慶子で検索をかけてみると、レンガ屋をたたむときにいろいろトラブルがあったらしいことが分かる。

この冊子を恵投してくださった某氏のメモには《「日本の古本屋」には掲載された田久保英夫の原稿が出品されています》とあったので、さっそく探してみると、本書に掲載されている二篇のエッセイ「一つの椅子」と「ポアソン・ルージュ」の原稿が出品されていた。

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by sumus2013 | 2020-07-01 21:16 | 古書日録 | Comments(0)
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