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林哲夫の文画な日々2
by sumus2013


われ発見せり

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長谷川郁夫氏が亡くなられた。

文芸編集者の長谷川郁夫さん死去 小澤書店を創業

長谷川氏には一度だけお会いしたことがある。これは坪内祐三死去のときのブログでも引用したが、坪内氏も同席して一悶着あった八羽でのことで、あのときのお二人が相次いで亡くなったことに少なからぬショックを受けている。

『美酒と革嚢』が芸術選奨文部科学大臣賞に選ばれた

長谷川氏の著書や小澤書店の出版物もそれなりに持っていたが、現住所に移るにともなってほとんど処分してしまった(家が狭くなったため)。かろうじて『われ発見せり 書肆ユリイカ・伊達得夫』(書肆山田、一九九二年、装画=駒井哲郎、装幀=望月玲)があるくらいか(もう少し探せば出てくるかも知れないが)。

本書の「あとがき」によれば長谷川氏は『新潮』の鈴木力氏に誘われて伊達得夫について書き出したという。

《その頃私は「早稲田文学」に戦前の出版人、第一書房・長谷川巳之吉のことを調べて評伝を連載していたが、出版の仕事を始めて十年、慌しい日々を過すうちになにか大切なものを置去りにしていたことに気付かされたのだろうか、熱意のこもった鈴木君の肩が私を突き動かした。》(p252)

伊達得夫についての原稿は『新潮』一九八六年二月号に一挙掲載された。新潮社出版部の徳田義昭が出版するべく尽力したが、ガンで死去したためそのままになっていたのを書肆山田が出版することになった。プロローグではこんなふうに伊達について語っている。長谷川氏の出版へのとっかかりが見て取れる文章である。

《学生時代の友人数人と語らって、飯田橋の駅ちかくに小さな事務所を借りたのは、昭和四十六年五月のことである。出版社でもはじめようか、そんな魂胆だった。仲間のひとりが、日本エディタースクールという編集者養成所に事務員として潜りこんでいた。その男が、ウチでもこんなシリーズをはじめたんだ、と「エディター叢書」の第一冊である「詩人たちーーユリイカ抄」という本をかかえてきたのは、それからほんの少し後のことだ。》(p10)

《なるほど、たしかに伊達得夫は名編集者として神話的であったともいえるかも知れない。だが、私はもっと以前にかれの名前に触れたことがあるのではないか。チューブを押しだすように記憶の底を捻ってみる。

 ある時期、稲垣足穂の作品に熱中した。高校から大学にかけての頃、偶然「弥勒」を読んで興奮した。名古屋の作家社に注文して「一千一秒物語」の復刻本を手に入れた。その頃親しくなった出版社勤めの先輩から、タルホはほんとに、拾ってきたチビた鉛筆で広告のチラシの裏の白地に原稿を書くんだと聞かされて、あらためて感動してしまった。アルバイトで稼いだ金で、とびきり上等の、つもりだったが、下駄を買って京都に送った。すぐに礼状が届き、あとを追うように「僕の"ユリーカ"」と「東京遁走曲」がつづけておくられた。昭和四十三年の夏のことだから、翌年タルホが第一回日本文学大賞を受賞して、晩年のタルホ現象が起きるほんの少し前のことである。

 そしてじつはこの「東京遁走曲」のなかで伊達得夫という人物に出会ったのである。

 この昭森社版「東京遁走曲」に描かれた伊達得夫は少しばかり悪役だった。かれは「ヰタ・マキニカリス」の刊行者として登場するのだが、タルホとタルホ夫人となる女性を結びつける黒子の役を演じていた。たしかこんなふうに描かれていた、と本棚から取りだして頁を繰っているうちに、私は、呆然とした。ここにあるのは伊達への、ほとんど呪詛にちかい言葉ではないか。》(p14-15)

だから友人の手から『ユリイカ抄』を受け取ったときには伊達得夫とその伝説にいくらかの知識を持っていた、そしてかすかな抵抗を感じていた。

《実際、それから何年ものあいだ、伊達得夫という存在は、私にとって鬱陶しくもあった。

 私のなかにも、小出版社のイメージというものがあって、そこには悲劇の匂いがつきまとっていた。百年そこそこのわが国の出版の歴史のなかで、詩書を専門とする本屋の運命は、きまって不幸な終末が約束されているようだ。》(p16)

《百年そこそこのわが国の出版》は少々見方が狭すぎる気がするが、それはおいておいて、長谷川氏は、野田誠三、江川正之、鳥羽茂らの名前を挙げて《デモーニッシュな負の情動とでもよぶべき》《暗い情熱から美しい詩集が生まれる》、そんな逆説が小出版を支えていると感じ、『ユリイカ抄』を何度も読んだ。その度事に悲しい気分になったという。

《「詩人たち」のなかで、伊達が独白するように、「出版は当然のことながら芸術ではない。それは商行為だ」。この言葉はまた、出版不況のなかにおかれたいまの私の実感である。しかし、現在、伊達の仕事をふり返ってみると、かれらの独白とは裏腹に、書肆ユリイカは、出版という事業もまた「芸術」であるといえる、極めて稀なケースだと思えてくる。》(p20)

伊達得夫は昭和三十六年一月に亡くなった。本書のエピローグで著者はこう描写している。

《かれが息をひきとったのは、十六日の午後十時二十分である。死因は肝硬変。四十歳と四ヵ月の短い生涯だった。

 十七日の朝、京都では雪が降っていた。

 新聞をひろげていた稲垣足穂は、突然、「伊達さんが死んだ」といった。「無理をしたんだなあ。何もかもひとりでやってのけていたからーー」。黙りこんだまま、しばらく窓の外に目をやってから「人が死ぬということは、何か清められるような気がするなあ」と呟いた(「夫稲垣足穂」)。》(p249)

さすが足穂である。いずれにせよ、小澤書店もまた記憶に残る出版社となったことは間違いないであろう。




by sumus2013 | 2020-05-03 20:36 | 古書日録 | Comments(0)
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