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一九七二坪内祐三『一九七二 「はじまりのおわり」と「おわりのはじまり」』(文藝春秋、平成十六年三月二十日三刷、装幀=有山達也)。追悼文を草しているときには読み終えられなかったが、先ごろ読了。『諸君!』二〇〇〇年二月号から二〇〇二年十二月号まで連載されたもので、読み応えのある内容、しかも面白く読める。連合赤軍事件から、日本におけるロックンロールの受容について、『ぴあ』創刊の意味について、横井庄一、奥崎謙三、田中角栄らについて、一九七二年はたしかにエポックメイキングな年であった、と思わせてくれる。 『本の雑誌』四月号、沢野ひとし「神保町物語外伝 坪内祐三に教えられた日々」に《ロック音楽にも詳しく、熱っぽく語るので、「今度音楽の本を出してよ」と言うと、それきり話を止めてしまった。》とあるが、もしこの会話が本書『一九七二』以降になされたとしたなら、ピタリと話を止めた理由がわかるような気がする。そのくらいかなり詳しく当時のロックシーンについて本書には書かれているのだ。 ただ、こちらとしては自伝的な記述がどうしても気になるので、いつくか書き留めておく。 《初めて大盛堂書店に足を踏み入れた小学校五年(一九六九年)のある日、私は、世の中にこんな大きな本屋があるのかと驚いた。今改めて大盛堂書店の店内を眺めまわすと、ワンフロアの広さは大したことがない。子供だったことは差し引いても、どうして当時は、あんなにも大きく見えたのだろう。例えば新宿の紀伊國屋書店を既に知っていたというのに。 私が一番、大盛堂書店に足繁く通ったのは小学六年生から中学二年生にかけてのことだ。西暦に直すと一九七〇年から七二年にかけてである。》(p158-9) 《私が初めて『ヤマザキ、天皇を撃て!』を読んだのは一九七四年のことだった。その年高校に入学した私は、ひょんなことから図書委員にさせられ、毎週、二日だか三日だか、当番として、下校時刻まで図書館に居残っていたのだ。それまでまともな本を殆ど読んでこなかった私が、読書に目ざめたのは、この体験が大きい。》(p172) 《一九二〇(大正九)年生まれの私の父は体制側の人間だった。私には、ちょうど私よりひとまわり年上の、つまり一九四六年(昭和二十一)年[ママ]の戌年生まれの従兄弟がいる。父の妹の一人息子である彼は、幼くして実父と生き別れていたから、彼にとって私の父は、実の父親代りだった。父も、その、番長小学校、麹町中学校、日比谷高校、東京大学へと進んで行った甥を、まるで長男のように可愛がっていた。彼はよく我が家に遊びに来ていた。私の家庭教師をかって出たこともある(もっともその話は、授業一日目にして、私が、トイレに行くと言って席をはずし、そのまま戻ってこなかったために、立ち消えになった)。》(p182) 《一九五八年生まれの私がロック的自我に目覚めるのは一九七三年頃のことであるが、その頃でもまだ、ブラッド・スエット&ティアーズ来日コンサートの伝説の痕跡は残っていた。》(p224) 《映画小僧だった私がその雑誌を初めて手にしたのは一九七二年九月半ばのある日のことだった。》(p350) 《『ぴあ』が創刊されたのはその年、一九七二年七月十日のことで、私が東急名画座で入手したのは創刊三号目に当たる同年十月号だから、私は『ぴあ』のかなり早い読者だったと思う。》(p351) 《私は特別の鉄道ファンではなかったけれど、大学一年の夏休み[一九七八年]、友人たちと、在来線を乗り継いで、数日かけて、東京から広島まで行ったことがある。何の出会いもなかったものの、あれは、とても思い出深い旅だった。》(p384) 著書のなかのこういった記述を拾い集めて「自筆坪内祐三年譜」が作れるような気がする。
by sumus2013
| 2020-04-03 20:26
| 古書日録
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