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林哲夫の文画な日々2
by sumus2013


風の嘘を聴け

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村上春樹『風の歌を聴け』(講談社文庫、一九九四年一〇月二六日四二刷)。これまでに、この文庫本は何冊も買って、そのたびに売ってきた。たしか初版(一九八二)もブで見つけたことがあった。しかしながら、読み通したことはなかったと記憶する。どうしても読めなかった。

《「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」
 僕が大学生のころ偶然に知り合ったある作家は僕に向かってそう言った。僕がその本当の意味を理解できたのはずっと後のことだったが、少なくともそれをある種の慰めとしてとることも可能であった。完璧な文章なんて存在しない、と。》

とはじまっている。ここで読む気をなくする。しかしながら、六十を過ぎると少し忍耐力がついてきたのか、いや、多少は読み方の要領を得たのだろう、このたび、ようやくにして読了できた。

いちばん面白かったのはデレク・ハートフィールドという作家を描いたくだりだった(本作の核心)。村上春樹は小説家のなかでは屈指のエッセイ上手だが、その理由が納得できた。はじめからそういう気質なのだ。エピローグのような、つけたりの文章はこうなっている。

《高校生の頃、神戸の古本屋で外国船員の置いていったらしいハートフィールドのペーパー・バックスを何冊かまとめて買ったことがある。一冊が50円だった。もしそこが本屋でなければそれはとても書物とは思えないような代物だった。派手派手しい表紙は殆んど外れかけて、ページはオレンジ色に変色している。恐らくは貨物船か駆逐艦の下級船員のベッドの上に乗ったまま太平洋を渡り、そして時の遙か彼方から僕の机の上にやってきたわけだ。》

こういうところが好きだ(って、古本屋が登場してるだけ)。

この直前にハートフィールドの墓碑銘としてニーチェの言葉を引用しているくだりがある。その言葉というのは

 「昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか。」

である。ところが、ツァラトゥストラの該当する部分は少し違う。

Zarathustra's Rundgesang

O Mensch! Gib acht!
Was spricht die tiefe Mitternacht?
»Ich schlief, ich schlief—,
Aus tiefem Traum bin ich erwacht:—
Die Welt ist tief,
Und tiefer als der Tag gedacht.
Tief ist ihr Weh—,
Lust—tiefer noch als Herzeleid:
Weh spricht: Vergeh!
Doch alle Lust will Ewigkeit—,

下はその英訳、六行目まで引用しておく。英訳も人によってかなりばらつきがある。ウォルター・カウフマン(Walter Kaufmann)訳がわかりやすい。原文の脚韻もちゃんと生かしている。

O man, take care!
What does the deep midnight declare?
"I was asleep—
From a deep dream I woke and swear:
The world is deep,
Deeper than day had been aware.


ついでにHenri Albertのフランス語訳を。

Ô homme prends garde !
Que dit minuit profond ?
« J’ai dormi, j’ai dormi –,
D’un rêve profond je me suis éveillé : –
Le monde est profond,
Et plus profond que ne pensait le jour.


以上(引用文は英文wiki「Zarathustra's roundelay」による)、これを「昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか。」とするのは、かなり大胆な意訳(ようするに誤訳)であろう。当然、作者は分かっていて、わざとそれらしく引用した(はず)。フェイク作家にフェイク墓碑銘。要するにそれが春樹の仕掛けというわけである。

デレク・ハートフィールドについては下記が詳しい。

「風の歌を聴け」を歩く

by sumus2013 | 2019-10-23 20:19 | 古書日録 | Comments(0)
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