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新国誠一詩集現代詩文庫243『新国誠一詩集』(思潮社、二〇一九年八月)が届く。これは嬉しい一冊。 金澤一志『新国誠一ノート seiichi niikuni memoranda』 詩作品に加えて散文四篇が収められている。やはり注目すべきは「メタファーのこと」(初出は『無限』27号、一九七二年七月)。西脇順三郎に新国は「詩の本質とは何でしょう」と問うた。王様は裸だと叫んだ子供みたいだ。西脇は答えた。 「メタファーだよ。詩はメタファーだよ。」 こう言われて、新国は、それは違うと直感した。あるいはそれは古いと。たぶん質問したときから根本的な疑義があったわけだろう。 《私が現在取組んでいるコンクリート・ポエトリィの仕事は、その出発点にメタファーの止揚があった。そこに言語そのものに注目する動機も生れ、メタファーよりもアナロジーに詩の本質をみようとする姿勢が生じたのである。その意味でメタファーは私の詩の揺籃である。》 メタファーからアナロジーへ・・・ 新国の初期作品(いわゆる行分けの詩)は、北園克衛やモダニズムをぐっと追い込んだような作風である。それを実存主義から記号論へという戦後の王道的な理論に沿って(たぶん)、言葉を分解し、シャッフルし、変形し、組み立て直した。意味と形だけでなく音の側面にも注意を払って。 《「ことば」とはなんであろうか。ことばが、日常用途の一実用品であり、道具であることには、別にきみも異論はないだろう。私の場合、ことばを物質的現実性を帯びた独自のモノ[二字傍点]と考えるが、それは道具のように有機的な手ざわりのよい形あるものというよりは、matière そのもの、道具を構成している機能であり、その材料という意味なのだ。つまり、ことばの音響性、視覚的な形態性、それに意味の伝達性をさしている。》(「詩について:詩集『0音』補遺」一九六五年九月) 《詩はことばを素材とした芸術である。しかもことばは実用の道具であると同時に存在の住居でもある。ことばのひびきと外観ーーそれらの時間と空間をこえて、抽象的観念や視覚的、聴覚的イメージにむすびつけることばの機能、実用としてのことばの背後にひそむことばの機能の探求こそが詩本来の目的である。ことばが詩的体験として詩のなかにいれこまれたとき、ことばにはもはやその表象すべき機能は消滅し、そのことば本来のもつ予期しないきわめて自由な機能があらたに展開されるのである。》(「現代詩とはなにか」一九六八年二月) え、これは要するに「メタファー」ということではないのかな・・・? 金澤一志の解説「もうひとつの戦後詩」はこういう。 《やむをえないこととはいえ、新国誠一の作品は検証よりも「詩か絵か」の論議を先行させてきた。またしばしばグラフィックデザインとも対比されてきた。当然ながら生前の新国はデザインとしての詩を否定していたが、それは六〇年代のことだ。(中略)現在のクラフィックデザインは、コンクリートポエトリーの初期状況にところどころ似ている。 つまりいまならば「詩かデザインか」の論議が有効で、実際に周囲を見回してみると詩ともデザインともとれる、またはデザインによって詩でありえている、周到なことばの群れにわれわれは取り囲まれている。》 《絵か、デザインか、やはり詩なのか、比較までが漢字のように反復しているあいだに、新国誠一は詩とはなにものかという根源的な問いかけを内在させた、至極正統な作品を遺したのである。》 もし、今、新国が現存していれば、間違いなくYouTuberになっているだろうな、と確信するものである。
by sumus2013
| 2019-08-03 20:51
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