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林哲夫の文画な日々2
by sumus2013


ドン

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『ドン』VOL.1 No.2(立友会、一九三三年一一月)、「松本光夫君追悼号」。きちんとした奥付がないので、記事を拾い読みして推測するに「立友会」というのは立誠小学校の同窓会のようである。表紙はご覧のように活版だが、本文はガリ版刷り。タイトルといい、デザインといい、昭和八年ごろの傾向なのだろう。良い感じ。

《印刷は、会計の困難な為にやむなく家でやりましたが、字の不鮮明等は商売人でないのですから、悪からず御諒承下さい。それにも、寺村先生、山口君に原紙を書くのをお頼みしたり、印刷の時は両先生、橋本君に助けてもらつたり そうした人々との共同製作で出来上つたわけなのです。》(編輯後記)

松本光夫は立誠小学校から京都市立第一商業学校(現・西京高校)を出て丸三商店に入ったが、そのすぐ後、この雑誌ができる直前に亡くなったようである。追悼文には彼が読書好きで皆に愛された様子がつづられている。どんな本を読んでいたか、というのがすこぶる興味深いので一部を引用してみたい。

《本好きの彼の為に同級性[ママ]は幸福だつた。毎日彼が「淡海」「日本少年」を買つて来て、学校で毎日一時間宛程、先生にそれを読んでもらふのだつたが、級の者は皆此れを何よりの楽しみにしてゐた。中でも「淡海」の連続物だつた「左・甚五郎」が、最も人気があつて甚五郎の造つた蟹が拍手一つで天井を匐ふ處を今でも面白く記憶してゐる。後に彼は「日本少年」から「少年世界」を買ひ、そして「少年倶楽部」に変更したようだ。「少年倶楽部」では吉川英治の「神州天馬狭[侠]」が彼の何より好きな読み物だつた。》(福岡十郎「オミツモトマツ」)

「神州天馬侠」は大正十四年五月から昭和三年十二月まで『少年倶楽部』連載。以下は親友だった井上小三郎の回想記。かなりの長文である。

《尋常二年か、三年か少々記憶が薄らいで来るが、其の年の正月に光夫君にすゝめられて「淡海」と云ふ小形の雑誌を買つた事があつた。
 それから二人は「少年倶楽部」の愛読者になつたが、四・五年生まで続いた。次は「キング」「講談倶楽部」といふ風に、尋常時代には二人共、一通りの、誤[娯]楽雑誌は卒業してしまつた。
 その時分から"新青年"を読み出して探偵小説ファンになつてしまつた。海水浴から来る葉書などは"Dの讃美者"なんて書いて名前などは入れなかつた。其の当時の日本探偵小説界は、やゝ存在価値を見とめられ[ママ]出した頃で、甲賀三郎氏や江戸川乱歩氏のものが、人気を獲得して行つて、彼の乱歩熱は、この時分から芽生へてゐた。》

《そんな頃、三社競争で出版された"世界探偵小説全集"を皆申込んで読みあさつてゐた。ルブラン、シャロック・ホームス、ヴァン・ダイン、エドガアウォーレス、等の名前を教へられたのも其の頃だ。》

博文館、平凡社がそれぞれ『世界探偵小説全集』を昭和四年から五年にかけて刊行し、改造社は『日本探偵小説全集』および『世界大衆文学全集』を出していた。

《ヴァン・ダインで思ひ出すが、最初に"グリン家の惨劇[ママ]"を新青年に招[紹]介されて我が国でも、一躍有名になつたのだが、其れ以外に翻訳されたものがなかつたのを物足らなく思つて、アメリカ出版の原書を丸善まで、わざ〜〜買ひに行つた事があつた。それだけでも並々ならぬ彼の熱心さをうかゞふ事が出来る。》

『グリイン家の惨劇』(平林初之輔訳、博文館、一九二九年。後に博文館文庫では『グリイン家殺人事件』)、戦後はもっぱら「グリーン家殺人事件」と訳される。『The Greene Murder Case』(一九二八年発表)。なお、昭和五年以降『ベンソン家の惨劇』(一九三〇年)、『カナリヤ殺人事件』(一九三〇年)、『甲虫殺人事件』(一九三一年)が翻訳出版されたので、光夫君が丸善に原書を買いに行ったのは昭和四年のことだろう。

《僕はこの探偵小説はあまり興味がなかつたので「エロやグロをわらふ通俗物だ」とけがしたりすると、むきになって アラン・ポウや、ドイル、などを引つぱり出して来て、其の芸術的価値や、近代味を説明するのだつた。》

《勿論彼が探偵小説ばかり読んでゐたわけでもなく、円本の洪水にまきこまれて、日本文学や世界文学の著名や[ママ]小説は一通り読んでゐたのだが、どの作家に敬服し、どんな作家に心酔したりしたのか、記憶に残つてゐない。唯其の当時評判の"蟹工船"にとても感激したと云つて貸してくれたのを、僕がカバンに入れて教室で、いやな授業中教師の講義をさぼつて机の下で、こつそり読んだ事を憶へてゐる。》

この後、左翼講演会の感想、築地小劇場、歌舞伎、猿之助の「アジヤの嵐」などについてかなり詳しく触れているが、略する。そして丸三商店に入って忙しさのために読書もままならない情況が続き、病に倒れて帰宅したので読書も存分に出来たという。

《何しろ彼の充実した本箱には"平凡社の百科大辞典""漱石全集""日本文学講座""短歌講座""現代日本文学大全集"と云つた堂々たるものばかりで中でも"日本文学講座"二十冊を是非共読破せんと意気ごんでゐたものだが。》《其の上、文芸欄の充実してゐる、東京の"読売新聞"をとつてゐたのだから、其の熱心さは一通りではなかつた。》

《思ふ。死ぬまぎわまで、本を手ばなさなかつた彼が、もし生きながらへてをつたなら、大成したであらう将来を想像して見て、若くして夭折した、死が一層いたましく、惜しまれて来る。
 此の間四逮夜の時、彼のお母さんの、いたいたしい言葉が思ひ出される。
「毎朝新聞が入るなり、誰にも読まさずに、"新聞が来たから、お読みや"と、云つて仏前にそなへてゐます。」》

松本光夫の小学校時代の教師として寺村龍太郎が寄稿しているが、寺村には『丹後久美浜湊五軒家』(宮園昌之、昭和八年)という著書がある。

by sumus2013 | 2019-04-07 19:49 | 古書日録 | Comments(0)
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