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林哲夫の文画な日々2
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当麻曼荼羅捜玄疏抓抜

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『當麻曼荼羅捜玄抓抜』写本。題簽では「四」となっているが、本文は『當麻曼荼羅捜玄巻一』である。「抓抜」(ソフバツ)というのは抜粋の意味だろう。當麻曼荼羅捜玄疏』は江戸時代の曼荼羅学者・大順上人(一七一一〜一七七九)の著述。

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當麻曼荼羅・禅林寺


当麻曼荼羅は天平宝宇七年(七六三)に中将姫が蓮糸で織り成したと伝えられる奈良県当麻寺の曼荼羅である。実際には絹糸による綴れ織で、中国製という説もあるそうだ。当麻寺の原本はごく一部しか残っていないが、後年の模本は少なくない。曼荼羅と呼ばれるものの、観無量寿経(観経)をよりどころとして七世紀に善導大師によって解釈された観経四帖疏にもとづく阿弥陀浄土図、正しくは観経変相図だという(河原由雄「当麻曼荼羅」『古美術』42号)。

阿弥陀三尊像を中心にした極楽浄土を図示している。興味を惹くのは向かって左辺に描かれたコマ絵。これは《悪逆の子・阿闍世太子の父王幽閉とこれを悲しんだ母后韋提希夫人の阿弥陀仏への帰依を下から上へ十図にわけて収め(同前)たもの。『教行信証』で多くのページを割いて解説されている例の物語である。四方田氏が「そもそもこの書物はアジャセの問題を解決するために構想された」とまで断言しているモチーフだ。それは八世紀の当麻曼荼羅でもすでに重要な主題として取り上げられていた。

《日本の浄土教の大成者である法然上人が強力な善導流浄土教の推進者であったことを勘案すれば法然第一の高弟・西山上人証空(一一七一〜一二四七)によって曼荼羅原本の発見とその普及が行われたことは日本の浄土教史上まことに意義あることであった。》(同前)

当然、親鸞も重要なテーマのひとつとしてアジャセの物語をとらえていたわけである。

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上手な筆で丁寧に写されている。さらに朱点が入り、校正というか校訂されている。きちんとした奥付があるのは有難い。

 文化年中
  信州松本玄向律寺立禅和上撰
  濃州大野郡揖斐
    城台山播隆所持

 天保十一年[一八四〇]庚子七月
 信州松本 筆者 井 為憲
      書林/製本 高美甚左衛門


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玄向律寺は玄向寺と同じとみていいだろう。現在は牡丹の寺として有名で正式名称は女鳥羽山道樹院玄向寺だとか。浄土宗である。知らなかったが、播隆は有名人だった。

1826年(文政9年) - 信濃の玄向寺立禅和尚の仲介で安曇郡小倉村(現・安曇野市三郷地区)に来て村役人中田九左衛門宅に宿泊、槍ヶ岳登山の志を告げた。賛同を得て、九左衛門の女婿で山に詳しい中田又重郎に案内してもらい、大滝山、蝶ヶ岳を経由して上高地に入り、梓川を遡って槍沢の岩屋を根拠とし槍の肩付近まで登った。この時は偵察で終わったが、その後2年の間諸国を旅して浄財を集めた。
1828年(文政11年)7月28日 - 槍ヶ岳に初登頂、厨子を設置し、阿弥陀如来・観世音菩薩・文殊菩薩の三尊像を安置した。
自身の登頂のみでは満足せず、多くの人が山頂まで登れるようにするため、その後何度も槍ヶ岳に登り、その槍の穂の難所に大綱を掛け、また、より頑丈な鉄鎖を掛けるよう尽力した。鉄鎖を掛ける計画をした時にはたまたま天保の大飢饉があって一部の村人はこの計画のせいにして計画実行を禁止されたが、その後また豊作の年が来て再開された。
1840年(天保11年) - 美濃国太田(現・岐阜県美濃加茂市)でその生涯を閉じた。》(ウィキ「播隆」)

大いなる初期アルピニスト
 播隆は今から約160年前に槍ヶ岳を開山した。“日本近代登山の父” と呼ばれている英人ウェストンが日本アルプスを世に知らしめるより65年も前 のことである。
 播隆が頂上に祠を建立し、後に来る者のために危険な個所に鎖さえ準備した物語は、「大いなる初期アルピニスト」の尊称を授けられてよいのだが、彼の功績 を知る人は余りにも少ない。
いま、JR松本駅前から鋭峰を見つめる上人の孤高のブロンズ像は、「人はなぜ 山に登るのか」という永遠の問いに無言で答えているかのようである。

本書の元本は、大順上人當麻曼荼羅捜玄疏』の立禅和上による撰(抓抜?)と考えていいのだろうか。それをアルピニストの魁である播隆上人が所持していた。幾年かを経て、その本を井為憲が筆写した。井為憲がどなたなのかは検索しても判らなかった(乞ご教示)。

高美甚左衛門は松本の書店主。

高見甚左衛門 たかみ-じんざえもん 1784-1864 江戸時代後期の本屋。
天明4年11月生まれ。生地の信濃(長野県)松本に書店慶林堂をひらく。狂歌,俳諧(はいかい)をよくし,十返舎一九らと親交があった。元治(げんじ)元年死去。81歳。本姓は大野。名は常庸,宜智。通称は別に年八。狂歌号は文の舎千鶴。俳号は照樹。姓は高美ともかく。著作に「文化十三年江都紀行」。》(コトバンク)

高美書店(高美甚左衛門 松本市中央)

とすれば、出版を予定した清書原稿のようなものなのだろうか……朱を誰が入れたのかも分からないが、この気合いのこもった筆写ぶりを眺めるにつけ、色々なことが考えられてくる。

by sumus2013 | 2018-10-18 21:04 | 古書日録 | Comments(0)
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