林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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大塩平八郎一件

f0307792_20280303.jpg

今春、某書店で「天保聞書」と題した写本を四冊求めた。幸い四冊のうち三冊は内容が連続しており、それは「大塩平八郎一件」と題されて、文字通り、大塩平八郎の乱についての記録だった。「天保聞書巻之第壱弐」と題されたノートの開巻一丁目に全体の目録が記されている。

 一 大塩平八郎一件 落着まで
 一 甲花村之徒黨一件 
 一 川崎宿の一件
 一 札さしの一件 根■有り
 一 紛し使者進物引替一件

     以上

この目録の内「大塩平八郎一件」三冊と「川崎宿の一件」一冊が漂流してきたわけである。

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著者について何か記載がないかと探してみると、三冊目の終りに次のように書かれていた。

 天保八丁酉年/初夏仲旬
 堀田甚兵衛正身 謹書


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堀田甚兵衛は当時の風聞雑話を記録した『時々録』の著者らしい(三田村鳶魚校訂『未刊随筆百種第6』米山堂、一九二七年、に収録されている)。『時々録』の天保八丁酉年には「大塩爆発」なる一文があって大塩の乱のあらましが述べられている。ただし、ごく短いものである。

本写本が堀田の直筆なのか、写しなのか、判断のしようもないが、かなりクセのある書体で、それぞれ二十丁に余るノート三冊にびっしり記載されている。直しはほとんどなく総ルビに近いから出版を念頭に置いた清書であろうか。もし写しだとしたら版本かオリジナルがあるのかも? 

せっかくなので読んでみよう。まずは書き出しから。これがなかなか緊迫感が出ている。ほぼ総ルビだが、必要と思われるところだけ青色文字で表記する。人名を濃青で示す。「〜〜」は繰返し記号の代用。改行は原文通り。一行空きは引用者による。

f0307792_17181099.jpg

天保八丁酉年[一八三七]二月十九日辰の刻[午前七時〜八時]大坂
御城内より艮うしとら[北東]の方に当りて煙立
登り御土居より眺望いたし候処
天満川崎辺出火のやうす此日ハ
天気も晴明にて東風とうふうぜん〜〜
好き左のミの事とも存じ候わぬ
うちに御城代土井大炊頭ほふひのかみ
利位としつら朝臣あそんの刻[午前九時〜十一時]に到り御上りの
ふれをうけたまわり候そも〜〜御城代の
御庭廻りは錦城ちかき火災くわざい
または三時ときを越へ候大火あらざれ
ばよふ易にこれなく候ゆへに
人〜〜不審をたて候処東町
奉行より密訴つその事これ
有り候故ニ後〜〜にうけたまわり候

さて午むまの刻頃は火勢相つのり
折〜〜炮声の如き音相聞ひ
乾の方は風上なるに所しよ〜〜より
大火の兆てうあらハれ候ひぬ然るに
御武そくつかさどり候上田五兵衛
石後彦太夫御手洗伊左衛門
祖父江孫輔等がともがら俄かに
御城入りして御やぐら御多門に
こめおきける弓鉄ぼうの類夥たゞ
しく運び出し候て追手ほつて舛形ますがた
中へ大筒三挺まですい[据ゑ]御門外
に候て御柵をふり着込ミの上に
火事装束をいたし大炊頭殿
藩臣等相守り摂州尼が崎
松平遠江守忠栄たゞやす[ただなが]の手勢泉州
岸和田岡部[お]かべ内膳正長和ながよりの手
勢追〜〜駆せ来り御堀ぎは左右
を守衛しゆいいたし和州郡山松平甲斐守
保泰やすひろの手勢も当所闇峠くらやミとふげまで
出勢にて使番つかいばんを以て御下知げじ
またれ候[略]

以下、城内の守りを固める人々の名前と役割を詳しく述べているが、略す。

f0307792_20185243.jpg

[略]二十日におしうつりくわ災ます〜〜乾いぬい[北西]の方にはげしく
賊徒等はまた玉造り口より放
火の沙汰により御本丸は
氏高朝臣[北条遠江守氏高]手にて与力同心ら
定志さだよし朝臣[菅沼織部正定志]の与力同心と打代り
東組は玉造り口へ加勢におもむく
爰にまた阿衆あしう守口宿に賊徒
勢たむ路りと云ふ巷説まち
〜〜なり城司ぜうしの命にて彼かの
地は加納遠江守久儔ひさともの手勢油
断なく相守り候得ども其様子
いかにとて御天守台へよぢ登り
城司御番頭の評論して詰合つめあい
御番衆の中うちに土地どち案内に及び
地の理心得のものなどありやと
たづねられ候ゆへに氏高朝臣
より組頭へ伝ひられ候故東組
かしら曲渕まがりぶち惣太郎へ参られ候て
うけ給わられ其相組あいくミに祖父
父とも在役ざいやくたりし水嶋守兵衛
下知げじせられ急ぎ土地どちやうすを
申上られ浮論ならざるやうにと
下じせらる[略]

これ十九日の辰の刻[午前七時〜九時]より二十日の
寅の刻[午前三時〜五時]までは市中の火災くわざい止事やむこと
なく内外ともゆるかせならざる
中にも十九日の乱妨らんぼうは未の刻[午後一時〜三時]に
さん乱して行衛ゆくえも知られぬ
事ながら首領の所在を見ざるを
もつて守衛奔走す東奉行
山城守[跡部山城守]は猶さらその余のともがら
よりき同心藩臣までも起居やす
からず騒動大かたならぬ心労な
りき事御城内には利位朝臣
大書院に出て夫それ〜〜の注しん
命令にかゝり東西の御番頭も
かわる〜〜にその席へ出られ
おりから両組与力御番衆等
下知を伝ひ両日の手くばり
云ふべくもあらず二十一日には
火災の憂うれいを強雨つよあめ降りてなし
と云得ども賊首ぞくしゆの召し取られ
ざるうちはおの〜〜心をやすん
ぜず両日にして止やみ候ひぬ

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城内の配置を記した後は(おそらく堀田甚兵衛その人も城内に居たのだろう)大塩平八郎の略歴を素描する。

天満東組与力大塩平八郎は郡山
松平甲斐守保泰やすひろの藩臣大塩
波右衛門と云いつるものゝ別家べつかにて
平八郎旧来往来いたし候の
よし然るに元禄年間ねんげん大坂の
古図に東与りきに大塩平八郎
申す名相見へ候抑〜〜波右衛門
申す名は其先祖軍功により

[平八郎の祖先波右衛門は今川一族だった。今川滅亡後、徳川家康に仕え、小田原役で軍功を立て、大阪陣の後は大阪に出て町奉行組与力となった(幸田成友『大塩平八郎』中公文庫、による)

拝領の名にて其時恩賞の
武器も御給ひ候ゆへ同藩他家へ
もほこりし候よし其名を別家の
身として附つけ候筋は有るまじ
くやなを追てかんがひ申べく候
はんに此平八郎文政年間に
高井山城守勤役たりし御吟
味がたにて多年裁判さいはん成り難く
紀州家と岸和田のさかひ論は
憚りて其まゝとなりしを平八郎
が手におちて譌諛てんゆをすてて
正理せうりを取りたちまち岸和田に
勝ちをとらしめ同州弓削新左
衛門が隠悪もその党同しんな
るをもつていとひ置耳目を
塞ぎ置おかるおもその私なるを
思ひて罪に居すへらしめ京師は
坂巫女さかふにめ豊門貢ミつき[豊田貢]が切支丹をぶつ
門秘符ひぶを読で見顕みあらわし候

豊田貢とは《土御門配下の陰陽師で、文政七、八年の頃から八坂上ル町に住居を構え、易占稲荷明神下の表看板を掲げ、邸内には稲荷社を奠[さだ]め、これを豊国大明神と称え、提灯などもその通り大文字に書かせ、紋所には瓢箪を用い、弁舌逞しく、何様一癖ありげの老婆であった。》(幸田)

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才りやうをおもひ山城守
庸せられ役所に例ためしなきさげ
がたなまでゆるされ候ゆへに外ほか
力賄賂わいろう奢侈しやしの妨げとも相成候ゆへ
偏執をいだき候もも多く候
ころ山城守てんやく江府いふに召
され候ゆへこれ彼をぞんじ
つゞけ勤める奉行なしとて
招隠集せういんしうと名づけ文を編み
退たいいんにおよび兼て同州西田
清太夫せいだゆふが弟おとゝ格之助を養子と
してかれに世にゆづり候て
常〜〜明の王陽明わうよふめいが学派ハ嗜たし
門葉に寄るもの多し傍らは
武芸を自得し衆人に尊
そんけうせられ候故より自ぜんと
驕慢きやうまんのこゝろ発おこり天下の
政務を疎ミ候て執政家しゆつせつけ
をも誹謗ひほうにおよび候處に
近年五穀不毛ふけ民俗困窮を
なげき当奉行[跡]あとべ山城守
良弼よしすけ格之助ともろとも大さか豪
富の集財を取つて貧民を
すくわんよしをさい応さひざん
諌め候得ども其詞別を越へ
妄談にして容いれられず頗る
のぞみを失しなひ憤志ふんしの一端
もろともたねんたくわひ置きたる
倉廩そうりん[くら、こめぐら]の書籍しよじやく一紙ものこさず
心斎橋しんさへばしすじ河内屋三書房
にばかり売しろなして一朱壱万糧を貧人ひんにんに施し候得共

「一朱壱万糧」は一万軒に金一朱を施したことを意味する。それは総計六百二十両余となる。《河内屋は書林の一党で、喜兵衛は北久太郎町五丁目、新次郎は同四丁目、記一兵衛は吉兵衛で南本町五丁目、茂兵衛は博労町に住し、以上四人の斡旋で、安堂寺町五丁目の本屋会所において、二月上旬から施行に着手した。》(幸田)

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《平八郎は激し易き人である、勢いに乗じては金頭[かながしら]をわりわりと頭から噛み砕くような人である。米価暴騰、飢餓のため道路に行倒人さえある時節に、町奉行の措置は当を失い、また富商豪家の義捐は一向はかばかしくない。一方飢えに泣く細民あれば、一方権威に傲る役人あり、驕奢を競う豪商あり、かれを瞻[み]これを顧みて安坐するに堪えず、ついに身を忘れ家を忘れて兵を起こしたのである。》(幸田)

しかし叛乱計画は同志だった平山助次郎が密かに跡部山城守に面会して訴え出たことで露見してしまった。平八郎は奉行所に居た仲間から異変を知らされ《さては裏切致した者ありと覚ゆ、銘々用意せよと高声に呼わり、使いを馳せて同志を呼び寄せ、一同取り急ぎ身支度に及んだ。》(幸田)

進軍に先立って大塩邸では悲劇が演じられた。それは門人だった宇津木靖(通称矩之允)を残殺せしめたことである。幸田は田中従吾軒の聞き取りおよび評定所の吟味書を拠り所として「矩之允」(兄は良之進)としているが、「敬治」とする伝もあり、また『箚記附録抄』では「俵二」とあるそうだ。この「俵二」は本書の「兵次」に通じるだろう。

誠之助[瀬田誠之助]は平八郎方へのがれ来
りて始まつをかたり候故に
今ははや是までと存じ候ひ
けん彦根家臣宇津木兵庫
おとゝ兵次へうじは学才武芸衆々に
ひひで候ゆへにこのころ家に
とゞめて味かたにつけ一方の
軍師とも頼むべく候ゆへに爰に
およびて逆謀の義をあかして
同意せよと云ひ出るを聞候故に
大きにおどろきほう友のま
事をつくして諫言かんげんを致し候
ゆへに平八郎は大きに怒りて
兵次は一かたなに斬つて捨すて庭前の
梅の樹ぼくに死骸をかけ血まつ
りなりとのたくり狼煙ろうえん
あげきん郷の味かたに知らし
自たくは放火しかねて用意
なしたる救民きうミんの二字を書きたる
小旗こばた神号しんごうのはた桐の紋の
旗をおし立大砲を車に積て
くミ中を放火し先まづ建国寺を
焼たらんには両奉行出馬すべし
その時本望や達せんと存じ候て
炮をうち懸かけ火矢をとばせ候て
奉行出馬遅く猶予なりがた
く天満宮をはじめ焼立やきたて
天満橋に出候ころ僅わづかに頭衆
たるもの二十人ばかり天満橋おば
御鉄砲同心御城代の家来巣
口をそろへ待うけ候故微勢にて
ありがたくや天神ばしにいた
るに橋桁はしげたきつて落し渡り
がたく河岸きしをおし行ける頃着
到およそ百人ばかりこゝに大根
屋と云得る近頃の冨商ふせうを焼やかんとて
[ここで第一冊目終り]


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天保聞書巻之第参四」冒頭より

しかる屋に大筒を催ふし渡らんと
するに難波橋を杣そまどもあつまり
斧をもつて橋杭を打居うちすへ候故に
こゝろ急がれ大こん屋へと小筒を
はなちて杣そまともを追ちらし着到ちやくとう
四五百人と相成り候て今橋すじ
鴻の池平野屋をはじめこの
所には豪家軒をならべ候により
大筒をうち込ミ倉庫そうりんかまど残り
賤民にあたへんとさしまねぎ呼よバ
わり候得ども驚怖けうふのミかて寄
付ものも見へず候ひき是より船場
本町弐手になり岩城三ツ井が
ともがら米平の一ツ党おバ焼立し
猛勢あたりを憚からず候さても

《一党は五ツ時[午前七時〜九時]頃屋敷の塀を引き倒して繰り出し、向屋敷の朝岡助之丞へ大砲を打ち込み、大塩邸に火を放ち、中屋敷西町辺を所々乱暴して、天神橋筋へ出た。》《同勢かれこれ三百人ばかりとなった。》《一行は天神橋筋を一直線に南へ進んで橋を渡ろうとしたが、南端の板橋が既に山城守の手で破壊されているので、やむを得ず引き返し、大川に沿って西へ難波橋まで下り、板橋を取り崩そうとしている町奉行所の人足を追い払って、橋を南へ渡り、北浜二丁目に出たのは九ツ時[午前十一時〜午後一時]頃であった。(幸田)

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防禦する側は突然の出来事で、しかも長らく平和な日々が続いたこともあって、戦支度にてんやわんや、右往左往していたようだ。

[略]蒲生熊次郎ひらりとま
がり走戻り百目筒五挺と同心
小がしら等両人連て暫時取て
かへし候ころ玉造殿より陣代と
して重臣畑佐秋之助を馳はせ
加へられ与力十人同心三十人彼かの
山城守が馬ぜんをまもり午の刻[午前十一時〜午後一時
ころおし出す平野町筋にしへ
さしかゝる時賊等壱町半斗り
先より大筒をうちかけ黒烟くろけむ
うつ[渦]を巻候中に大勢を見留ミとめ
候得しかバ鉉之助[坂本鉉之助]下知して同心
佐尾清さおうせい次郎岡崎くわん兵衛先に
すゝみ各〜〜一度巣口を揃へ
てうち立候時彼賊一両はひ
うち留候間まづ一けんと引退ひきしりぞ
にし奉行堀利賢としかた乗来り候
ゆへに山城守対話におよび候

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by sumus2013 | 2018-08-10 16:02 | 古書日録 | Comments(0)
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