林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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大塩平八郎一件

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今春、某書店で「天保聞書」と題した写本を四冊求めた。幸い四冊のうち三冊は内容が連続しており、それは「大塩平八郎一件」と題されて、文字通り、大塩平八郎の乱についての記録だった。「天保聞書巻之第壱弐」と題されたノートの開巻一丁目に全体の目録が記されている。

 一 大塩平八郎一件 落着まで
 一 甲花村之徒黨一件 
 一 川崎宿の一件
 一 札さしの一件 根■有り
 一 紛し使者進物引替一件

     以上

この目録の内「大塩平八郎一件」三冊と「川崎宿の一件」一冊が漂流してきたわけである。

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著者について何か記載がないかと探してみると、三冊目の終りに次のように書かれていた。

 天保八丁酉年/初夏仲旬
 堀田甚兵衛正身 謹書


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堀田甚兵衛は当時の風聞雑話を記録した『時々録』の著者らしい(三田村鳶魚校訂『未刊随筆百種第6』米山堂、一九二七年、に収録されている)。『時々録』の天保八丁酉年には「大塩爆発」なる一文があって大塩の乱のあらましが述べられている。ただし、ごく短いものである。

本写本が堀田の直筆なのか、写しなのか、判断のしようもないが、かなりクセのある書体で、それぞれ二十丁に余るノート三冊にびっしり記載されている。直しはほとんどなく総ルビに近いから出版を念頭に置いた清書であろうか。もし写しだとしたら版本かオリジナルがあるのかも? 

せっかくなので読んでみよう。まずは書き出しから。これがなかなか緊迫感が出ている。ほぼ総ルビだが、必要と思われるところだけ青色文字で表記する。人名を濃青で示す。「〜〜」は繰返し記号の代用。改行は原文通り。一行空きは引用者による。

f0307792_17181099.jpg

天保八丁酉年[一八三七]二月十九日辰の刻[午前七時〜八時]大坂
御城内より艮うしとら[北東]の方に当りて煙立
登り御土居より眺望いたし候処
天満川崎辺出火のやうす此日ハ
天気も晴明にて東風とうふうぜん〜〜
好き左のミの事とも存じ候わぬ
うちに御城代土井大炊頭ほふひのかみ
利位としつら朝臣あそんの刻[午前九時〜十一時]に到り御上りの
ふれをうけたまわり候そも〜〜御城代の
御庭廻りは錦城ちかき火災くわざい
または三時ときを越へ候大火あらざれ
ばよふ易にこれなく候ゆへに
人〜〜不審をたて候処東町
奉行より密訴つその事これ
有り候故ニ後〜〜にうけたまわり候

さて午むまの刻頃は火勢相つのり
折〜〜炮声の如き音相聞ひ
乾の方は風上なるに所しよ〜〜より
大火の兆てうあらハれ候ひぬ然るに
御武そくつかさどり候上田五兵衛
石後彦太夫御手洗伊左衛門
祖父江孫輔等がともがら俄かに
御城入りして御やぐら御多門に
こめおきける弓鉄ぼうの類夥たゞ
しく運び出し候て追手ほつて舛形ますがた
中へ大筒三挺まですい[据ゑ]御門外
に候て御柵をふり着込ミの上に
火事装束をいたし大炊頭殿
藩臣等相守り摂州尼が崎
松平遠江守忠栄たゞやす[ただなが]の手勢泉州
岸和田岡部[お]かべ内膳正長和ながよりの手
勢追〜〜駆せ来り御堀ぎは左右
を守衛しゆいいたし和州郡山松平甲斐守
保泰やすひろの手勢も当所闇峠くらやミとふげまで
出勢にて使番つかいばんを以て御下知げじ
またれ候[略]

以下、城内の守りを固める人々の名前と役割を詳しく述べているが、略す。

f0307792_20185243.jpg

[略]二十日におしうつりくわ災ます〜〜乾いぬい[北西]の方にはげしく
賊徒等はまた玉造り口より放
火の沙汰により御本丸は
氏高朝臣[北条遠江守氏高]手にて与力同心ら
定志さだよし朝臣[菅沼織部正定志]の与力同心と打代り
東組は玉造り口へ加勢におもむく
爰にまた阿衆あしう守口宿に賊徒
勢たむ路りと云ふ巷説まち
〜〜なり城司ぜうしの命にて彼かの
地は加納遠江守久儔ひさともの手勢油
断なく相守り候得ども其様子
いかにとて御天守台へよぢ登り
城司御番頭の評論して詰合つめあい
御番衆の中うちに土地どち案内に及び
地の理心得のものなどありやと
たづねられ候ゆへに氏高朝臣
より組頭へ伝ひられ候故東組
かしら曲渕まがりぶち惣太郎へ参られ候て
うけ給わられ其相組あいくミに祖父
父とも在役ざいやくたりし水嶋守兵衛
下知げじせられ急ぎ土地どちやうすを
申上られ浮論ならざるやうにと
下じせらる[略]

これ十九日の辰の刻[午前七時〜九時]より二十日の
寅の刻[午前三時〜五時]までは市中の火災くわざい止事やむこと
なく内外ともゆるかせならざる
中にも十九日の乱妨らんぼうは未の刻[午後一時〜三時]に
さん乱して行衛ゆくえも知られぬ
事ながら首領の所在を見ざるを
もつて守衛奔走す東奉行
山城守[跡部山城守]は猶さらその余のともがら
よりき同心藩臣までも起居やす
からず騒動大かたならぬ心労な
りき事御城内には利位朝臣
大書院に出て夫それ〜〜の注しん
命令にかゝり東西の御番頭も
かわる〜〜にその席へ出られ
おりから両組与力御番衆等
下知を伝ひ両日の手くばり
云ふべくもあらず二十一日には
火災の憂うれいを強雨つよあめ降りてなし
と云得ども賊首ぞくしゆの召し取られ
ざるうちはおの〜〜心をやすん
ぜず両日にして止やみ候ひぬ

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城内の配置を記した後は(おそらく堀田甚兵衛その人も城内に居たのだろう)大塩平八郎の略歴を素描する。

天満東組与力大塩平八郎は郡山
松平甲斐守保泰やすひろの藩臣大塩
波右衛門と云いつるものゝ別家べつかにて
平八郎旧来往来いたし候の
よし然るに元禄年間ねんげん大坂の
古図に東与りきに大塩平八郎
申す名相見へ候抑〜〜波右衛門
申す名は其先祖軍功により

[平八郎の祖先波右衛門は今川一族だった。今川滅亡後、徳川家康に仕え、小田原役で軍功を立て、大阪陣の後は大阪に出て町奉行組与力となった(幸田成友『大塩平八郎』中公文庫、による)

拝領の名にて其時恩賞の
武器も御給ひ候ゆへ同藩他家へ
もほこりし候よし其名を別家の
身として附つけ候筋は有るまじ
くやなを追てかんがひ申べく候
はんに此平八郎文政年間に
高井山城守勤役たりし御吟
味がたにて多年裁判さいはん成り難く
紀州家と岸和田のさかひ論は
憚りて其まゝとなりしを平八郎
が手におちて譌諛てんゆをすてて
正理せうりを取りたちまち岸和田に
勝ちをとらしめ同州弓削新左
衛門が隠悪もその党同しんな
るをもつていとひ置耳目を
塞ぎ置おかるおもその私なるを
思ひて罪に居すへらしめ京師は
坂巫女さかふにめ豊門貢ミつき[豊田貢]が切支丹をぶつ
門秘符ひぶを読で見顕みあらわし候

豊田貢とは《土御門配下の陰陽師で、文政七、八年の頃から八坂上ル町に住居を構え、易占稲荷明神下の表看板を掲げ、邸内には稲荷社を奠[さだ]め、これを豊国大明神と称え、提灯などもその通り大文字に書かせ、紋所には瓢箪を用い、弁舌逞しく、何様一癖ありげの老婆であった。》(幸田)

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才りやうをおもひ山城守
庸せられ役所に例ためしなきさげ
がたなまでゆるされ候ゆへに外ほか
力賄賂わいろう奢侈しやしの妨げとも相成候ゆへ
偏執をいだき候もも多く候
ころ山城守てんやく江府いふに召
され候ゆへこれ彼をぞんじ
つゞけ勤める奉行なしとて
招隠集せういんしうと名づけ文を編み
退たいいんにおよび兼て同州西田
清太夫せいだゆふが弟おとゝ格之助を養子と
してかれに世にゆづり候て
常〜〜明の王陽明わうよふめいが学派ハ嗜たし
門葉に寄るもの多し傍らは
武芸を自得し衆人に尊
そんけうせられ候故より自ぜんと
驕慢きやうまんのこゝろ発おこり天下の
政務を疎ミ候て執政家しゆつせつけ
をも誹謗ひほうにおよび候處に
近年五穀不毛ふけ民俗困窮を
なげき当奉行[跡]あとべ山城守
良弼よしすけ格之助ともろとも大さか豪
富の集財を取つて貧民を
すくわんよしをさい応さひざん
諌め候得ども其詞別を越へ
妄談にして容いれられず頗る
のぞみを失しなひ憤志ふんしの一端
もろともたねんたくわひ置きたる
倉廩そうりん[くら、こめぐら]の書籍しよじやく一紙ものこさず
心斎橋しんさへばしすじ河内屋三書房
にばかり売しろなして一朱壱万糧を貧人ひんにんに施し候得共

「一朱壱万糧」は一万軒に金一朱を施したことを意味する。それは総計六百二十両余となる。《河内屋は書林の一党で、喜兵衛は北久太郎町五丁目、新次郎は同四丁目、記一兵衛は吉兵衛で南本町五丁目、茂兵衛は博労町に住し、以上四人の斡旋で、安堂寺町五丁目の本屋会所において、二月上旬から施行に着手した。》(幸田)

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《平八郎は激し易き人である、勢いに乗じては金頭[かながしら]をわりわりと頭から噛み砕くような人である。米価暴騰、飢餓のため道路に行倒人さえある時節に、町奉行の措置は当を失い、また富商豪家の義捐は一向はかばかしくない。一方飢えに泣く細民あれば、一方権威に傲る役人あり、驕奢を競う豪商あり、かれを瞻[み]これを顧みて安坐するに堪えず、ついに身を忘れ家を忘れて兵を起こしたのである。》(幸田)

しかし叛乱計画は同志だった平山助次郎が密かに跡部山城守に面会して訴え出たことで露見してしまった。平八郎は奉行所に居た仲間から異変を知らされ《さては裏切致した者ありと覚ゆ、銘々用意せよと高声に呼わり、使いを馳せて同志を呼び寄せ、一同取り急ぎ身支度に及んだ。》(幸田)

進軍に先立って大塩邸では悲劇が演じられた。それは門人だった宇津木靖(通称矩之允)を残殺せしめたことである。幸田は田中従吾軒の聞き取りおよび評定所の吟味書を拠り所として「矩之允」(兄は良之進)としているが、「敬治」とする伝もあり、また『箚記附録抄』では「俵二」とあるそうだ。この「俵二」は本書の「兵次」に通じるだろう。

誠之助[瀬田誠之助]は平八郎方へのがれ来
りて始まつをかたり候故に
今ははや是までと存じ候ひ
けん彦根家臣宇津木兵庫
おとゝ兵次へうじは学才武芸衆々に
ひひで候ゆへにこのころ家に
とゞめて味かたにつけ一方の
軍師とも頼むべく候ゆへに爰に
およびて逆謀の義をあかして
同意せよと云ひ出るを聞候故に
大きにおどろきほう友のま
事をつくして諫言かんげんを致し候
ゆへに平八郎は大きに怒りて
兵次は一かたなに斬つて捨すて庭前の
梅の樹ぼくに死骸をかけ血まつ
りなりとのたくり狼煙ろうえん
あげきん郷の味かたに知らし
自たくは放火しかねて用意
なしたる救民きうミんの二字を書きたる
小旗こばた神号しんごうのはた桐の紋の
旗をおし立大砲を車に積て
くミ中を放火し先まづ建国寺を
焼たらんには両奉行出馬すべし
その時本望や達せんと存じ候て
炮をうち懸かけ火矢をとばせ候て
奉行出馬遅く猶予なりがた
く天満宮をはじめ焼立やきたて
天満橋に出候ころ僅わづかに頭衆
たるもの二十人ばかり天満橋おば
御鉄砲同心御城代の家来巣
口をそろへ待うけ候故微勢にて
ありがたくや天神ばしにいた
るに橋桁はしげたきつて落し渡り
がたく河岸きしをおし行ける頃着
到およそ百人ばかりこゝに大根
屋と云得る近頃の冨商ふせうを焼やかんとて
[ここで第一冊目終り]


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天保聞書巻之第参四」冒頭より

しかる屋に大筒を催ふし渡らんと
するに難波橋を杣そまどもあつまり
斧をもつて橋杭を打居うちすへ候故に
こゝろ急がれ大こん屋へと小筒を
はなちて杣そまともを追ちらし着到ちやくとう
四五百人と相成り候て今橋すじ
鴻の池平野屋をはじめこの
所には豪家軒をならべ候により
大筒をうち込ミ倉庫そうりんかまど残り
賤民にあたへんとさしまねぎ呼よバ
わり候得ども驚怖けうふのミかて寄
付ものも見へず候ひき是より船場
本町弐手になり岩城三ツ井が
ともがら米平の一ツ党おバ焼立し
猛勢あたりを憚からず候さても

《一党は五ツ時[午前七時〜九時]頃屋敷の塀を引き倒して繰り出し、向屋敷の朝岡助之丞へ大砲を打ち込み、大塩邸に火を放ち、中屋敷西町辺を所々乱暴して、天神橋筋へ出た。》《同勢かれこれ三百人ばかりとなった。》《一行は天神橋筋を一直線に南へ進んで橋を渡ろうとしたが、南端の板橋が既に山城守の手で破壊されているので、やむを得ず引き返し、大川に沿って西へ難波橋まで下り、板橋を取り崩そうとしている町奉行所の人足を追い払って、橋を南へ渡り、北浜二丁目に出たのは九ツ時[午前十一時〜午後一時]頃であった。(幸田)

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防禦する側は突然の出来事で、しかも長らく平和な日々が続いたこともあって、戦支度にてんやわんや、右往左往していたようだ。

[略]蒲生熊次郎ひらりとま
がり走戻り百目筒五挺と同心
小がしら等両人連て暫時取て
かへし候ころ玉造殿より陣代と
して重臣畑佐秋之助を馳はせ
加へられ与力十人同心三十人彼かの
山城守が馬ぜんをまもり午の刻[午前十一時〜午後一時
ころおし出す平野町筋にしへ
さしかゝる時賊等壱町半斗り
先より大筒をうちかけ黒烟くろけむ
うつ[渦]を巻候中に大勢を見留ミとめ
候得しかバ鉉之助[坂本鉉之助]下知して同心
佐尾清さおうせい次郎岡崎くわん兵衛先に
すゝみ各〜〜一度巣口を揃へ
てうち立候時彼賊一両はひ
うち留候間まづ一けんと引退ひきしりぞ
にし奉行堀利賢としかた乗来り候
ゆへに山城守対話におよび候
脇勝太郎米倉倬とう次郎石川
彦兵衛三人に同しんさし副
伊賀守が手に付両奉行是
より道をかへて賊を追ふ
山城守は淡路町堺筋に
いたりむかふより賊統すゝみ来り
爰にて対陣におよび候ひぬ
同心山崎弥四郎糟谷助蔵
是を見るより先に進んで一同に
鉄砲をならべて打立候に衆々
ねらひ高くはるか上を越へ候
賊徒等が打立候鉄砲も頭かしらの上
を越へ候[略]

坂本鉉之助はすぐ梅田[彦根浪人梅田源左衛門]をうたんと
ねらいをすまし更に耳に入ず
候ゆへ本多梅田へむかひたる
鉄砲を用水桶の賊へふり
かひどうとうちたれども俄の場
所にてうち損んじ面前近く
玉は過候ゆへに彼の賊の手もと
くるひて鉉之助がひだり端の
陣笠をうち抜たり此時鉉之助
は一所に切てはなしたるがね
らひたがわず梅田が腰の当りを
うち抜候ひぬすべて一同に
打たるにより誰がうちたるやらん
梅田が脇に立たるぞくのあごを
打て源左衛門もろともどふと
倒るゝ群玉衆賊をおどし右
往左往に散乱すおの〜〜爰
をかけたところへたちよりて
梅田が首を斬りて槍につら
ぬき山城守が従臣に取りもたせ
ける[略]


勝太郎が賊徒らのやうす山城守
おし行を考がひ立挟にせんと
長前てうぜんにて評ぜうをとしかた
それにもおよぶまじと止めて
高麗ばしにおもむくころその
間遠し賊勢よりうちし鉄
砲に伊賀守が乗し馬驚きて
前あしをあげたちければ
鞍にたへかねて利賢どふと
落たれば馬前のものども利賢
討れたるとあわて敗北の色
をあらわすにぞ畑佐秋之助
はるかに見て大音をあげ如何
〜〜方かた〜〜日ごろ恩禄を
蒙りながら公務大事の場
きたなき振舞なせぞとはげ
まして伊賀守をたすけ
道をよこぎるところ北の辻に
砲声ひゞき候ゆへにかしこへと
はせ行道に槍二すじ大小壱
腰落たるをひろひ取り淡
路町にはせ付たるは彼のさん
乱のあとにしてあく□と取
あつかふ処なりけるハこの時
同心高橋弥兵衛逃げおくれ
たる帯刀の賊三人いけ捕り
来り奉行の手へ引わたす
是より賊徒等の所在を知ら
ざればひとまづ山城守は御
城中へおもむき玉造組は追
手までおくり東役所に至り
休息におよび伊賀守は玉造
組三人と秋之助とともに市中
を巡行して是も御城内へ
至り候て畑佐等玉組ハ思案
はしに警固してその夜の
亥の刻[午後九時〜十一時]過ころ引きしりぞき爰に
誰云ふとなく賊は玉造へ廻りて
放火におよび候よしを巷説まち
しに候より日暮れぬ先より
組のこりしものどもならびに
隠居次男三男までもなん子
十五歳己上いぜうを催そくに及ばれ
筋鉄すじかね御門おもかため候時市中
焼亡人に紛れ通り逃んとせし
徒賊三人までを生けとらへ候[略]

《大塩乱はこれで終った。暴徒は二回の小衝突で全く離散してしまった。町奉行所では誰一人負傷した者もなく、大塩方で討死は梅田源左衛門一人、その他二人は人足様の者に過ぎない。山城守の届書によると、出火に付変死の者合計十五人、内刀疵、鉄砲疵あるもの六人とあるが、それも必ず徒党に加わって討死したものとは認められぬ。》(幸田)

《大塩党は淡路町で姿を隠し、いまだ一人の巨魁も縛につかぬ。大阪城及び町奉行所の警衛はいよいよ厳重となり、在阪蔵屋敷五十余家は、催促に応じて要所要所の警衛に当り、近国の諸大名は銘々後詰の兵士を大阪へ繰り出した。(幸田)

[略]弓刷村ゆミはきむら
一味賊徒西村利三郎土民を
引て玉造へ向ひ出きたりしかバ
淡路町散乱を聞て鳴りをしづめ
引退ぞく再説さいせつ筋鉄すじがね御門の
隠居尼助にすけの堅め候処を天満組
与力ぬき身の鎗を立させ通ふらん
とせしを各〜〜咎めて云へるを
天満組答へるは此急務の場所
奉行の命令なれば何ぞ憚る事
あらんやとおし通らんするゝとき
固めのもの怒りて此方守衛の場を
理不尽に通ふらんとする条
奇怪なり鎗に鞘をかけて
過らるゝになんぞむづかしき事候わん
達て我意にほこられ候ハゞ
守衛の法なれバ持合せの玉壱つ
まいらせんと巣口をむけすでに
同士討にならんとするに奉行所の
従臣らかけきたり双方扱ひ
終に鎗に鞘をかけて天満組は
爰をとふれりすべて日頃
天満は財と権に誇り玉造は
家系と武芸にほり候ゆへ
内心よからずあらそひまた爰に
おこり候得ども左れば平八郎
格之助に玉造の火術を慕ひ
同心藤重槌太郎が弟子となし
玉造の火術の修行の頃こゝろ
ありて夫それとなく問ひけるは万一
大坂市中騒動の事有る時ハ
玉造組ハ伊方いづかたを守られ候やらんと
云ひしに藤重答へて市中は
奉行所の預る処それがし等は
玉造土ばしをかため候ひぬと
云ひけるにぞ[略]

以下、大塩一党が次々と捕縛される様子が描かれているが、それは省略し第三冊目に移る。

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[略]ふたたび説とくすべて平八郎
ためにせう[焼]亡におよびたるは
東西の道法みちのり七百六拾五間
南北の道法一千拾間
家数いへかずかまど壱万弐千百七十八軒灰燼となし
二十一日の曉あかつきそれより強雨がうう降り
御城前なる番陽ばんようと名付し
芝原に家財を運びうづくまりたる
焼亡のものども
さしもにひろき原野おば
うづミ尽せしが此雨にうたれ泥土に
ひたり嬰児は泣き叫び
老婆は這廻はいまハりて十方に暮る
目も当てられず候得き
後日天満ばし前後に御救ひ小屋を
建て家なきものを
恵ませらるそも〜〜こん度の
くわ[火]災は市人いちびと
鉄砲にあたり死亡におよび片離かたハ
なる者もあまた有りて目にハ
甲冑奔走を見て修羅の
ちまたと成やしつらんと驚怖
大かたならず父母妻子は
近郷に立退たちのかせしばらく
世上の静なるまでハ別れ〜〜になり候
賤民も多く有りしとぞ

《水陸とも草を分つって捜索に従事した。これがため大塩党中捕縛せらるる者、自訴する者、自殺する者等続々として出たが、平八郎父子の行方は皆目知れぬ。町奉行より乱暴の者ども追々召捕りたるにつき安心せよとの口達はあっても、市民は誰一人枕を高くして寝る者はない。》(幸田)

斯て悪統追〜〜召し捕またハ
死亡すると云得ども首領父子の
行衛ばかりハ知れ兼たれば
またもいづ国にいたりて
党をむすびふたゝび一揆や
起さんと奉行の手のものは
猶さらら御城代玉造組迄も
他郷遠国までも尋ね
求めける中うちに当ごく麻耶山の
絶頭に有と聞てハ
夜半に半嶺はんれいをよぢのぼりて
天狗と云得るものになやまされ
たりなんぞ奇怪の説もおこり
雲洲蔵屋しきにひそむと
聞て雨をおかして捕に
むかひ空談くうだんに労を費し
または諸侯の藩にも弟子
多くその城に忍びてハ主家おも
うたがひあやぶむ[略]

後に聞くに平八郎
父子は淡路町を去りて
小船を奪ひ天満橋の
桃畑にひそんで市中の焼亡を
遠見えんけんなしせんさくきびしき
中に大坂に在て二十三日にいたりて
夜に紛れ闇峠くらやミとうげ
越へわざと見とがめられて百姓
鶴吉を斬きり峠を越つゝ他国へ
はしると思はせその夜また〜〜
市中へ立戻り眼前旗を
染たるたゝりにて町預と
なりたる御堂うしろの
油掛町美吉みよし屋五郎兵衛
おのれが妾せうの由縁ある上に
かれが帰隨もひとかたならず
倉庫の脇なる閑室三方は
壁にて他に知られぬ所へ忍び
行きて三十余日はかくまわれ
けれども天網いかでもらず
べきや

《平八郎父子は良左衛門自殺の後一旦大和路に入り、手当の厳重なるを見受け、道を替えて河州路に立ち戻り、二十四日夜ようやく大阪油掛町の美吉屋五郎兵衛方へ着いた。》《多年大塩邸へ出入りし、勝手向の世話をしていた男故、町奉行所では早速五郎兵衛を呼び出し取り調べて見たが、別段これということもないので町預りにした。》(幸田)

《五ツ時過ぎになって表の戸を叩く者がある》《あに計らんや平八郎父子であった。平八郎は挙兵の理由、一党離散の顛末を手短に話し、当分匿[かくま]いくれよ、不承知とあらば居宅へ火を放ち、家内残らず焼き殺すべしと、既に脇差の柄へ手を掛けるので、五郎兵衛は是非なく承知し、奥間裏手納戸の小間へ両人を隠し、仕切りの襖を堅く締め切り、女房つねにのみ委細を打ち明け、他の家族、雇人等には一切覚られざるよう心掛け、三度の食事も夫婦の分を除け置き、五郎兵衛自らひそかに持参するくらいであった。》(幸田)

《居宅奥西手裏続きの離座敷は、表裏の戸締り堅固にて、居宅とは庭を隔て、境は手厚の板塀にて仕切り、通口には小さな切戸あり、座敷西手の入口も同様にて、平日は家内の者も入らず、明家同然故、これへ匿い置かば容易に見付かるまいと、夫婦相談の上、父子を離座敷に移し》(幸田)た。ところが

美吉屋の下女は平野郷の者で、三月の出代時に暇を貰って故郷へ帰ったが、何かの伝手に、旧主人の家では家内人数の割合に飯米が多く要る。毎日神前へ備えるといって、老人夫婦ーー五郎兵衛は六十二歳、つねは五十歳ーーが持って行かれる御飯は、お下りが一粒もない、妙な家もあるものだと話した(以上は『史談会速記録』による、前掲五郎兵衛夫婦の申口とは若干の相違がある)。》(幸田)

この下女の話から父子の隠れ処がバレてしまう。

平野の農民が娘は五郎兵衛が下女奉行ほうこう
せしがこの頃いとま出て親里
帰り居たるに米穀とぼしき
もの語りに付今まで奉行せし
美吉屋五[郎]兵衛の二月下旬より
春がわきとか云得るにて
人も平省へいぜいのごとくなれども
炊くに多くなりしと雑談ぞうだん
聞とがめ壁耳四知へきじしちの功を
つみたしかに平八郎父子かく
まわるゝよしを知りて三月二十七日
御城代の若侍ひおぼひあるもの
九人短棒たんぼうをもち西奉行与力
内山彦次郎に同心四五輩
ひそかにまねぎさう旦だん
油掛町うらなる信濃町の
会所と呼べる町役所てうやくしよ
五郎兵衛を偽わり呼び寄
せうを引きて是を問ふとい得ども
再応拒ミて白状せざりしを
彦次郎仮に呵責し終に
実を告げたれば彼を先に
立て宅の中より土間を越へ
庇合ひの細小路より凡壱間に
足らず戸は明きたれども背こゞ
まざれば入りがたき木戸をほど〜〜
たゝかせければ格之助と中ん食を
運ぶと心得まづ細〜〜と明たるに
五郎兵衛がうしろに人有りと
見てたちまち建切たり

《三月二十六日夜四ツ半頃[午後十一時]、一同中屋敷に寄って打合せに及び、肇から一同へ平八郎父子隠家の様子を委細に認めた書類を渡し、御城代にはなるべく生捕りにしたしとの御意見であると伝えたので、しからば半棒をお渡しありたしと請求し、銘々これを受け取った。その時小右衛門[岡野小右衛門]の言うには、平八郎父子の隠家は定めて入口も狭く、一人ずつならでは進み難かるべく、あらかじめ鬮にて順番をきめ、争いなきよう致したしとあるので、一同後尤もと答うるや》(幸田)

一同は翌日の明六ツ半[午前七時]頃、美吉屋へ向かい取り囲んだ。

五郎兵衛の女房は同心から、かくかく言えと教えられ、怖々ながら一同の先に立って庭口に入り、もしもしと声を懸けるや、小路次を開けて姿を見せたは平八郎その人であった。しかし彼は捕方を見るや、はたと戸を引き寄せた。小右衛門は一足進み、平八郎とも言わるる者卑怯なりという声に応じ、唯今罷り出ずるとの返事があった。入口の鉄平[菊地鉄平]は同僚の路次口に詰め寄せたのを見て、最早表口に待つ要なしと、小路次を潜り、半棒を振り上げて正面の戸を叩けば、隙間から焔硝の煙が吹き出す、小右衛門、弥六、縫蔵、同心一同躍り込み、雨戸、障子を打ち破って見ると、正面に人の臥姿ねすがたあり、衣類、障子等を立て掛け、既に十分火が廻って居る。平八郎が脇差しを携えて壁際に彳[たたず]んで居るのは見えるが、火炎のため近寄れない。あわやという間に、彼は脇差を取り直して咽喉を横に突き立て、引き抜いて投げ付けた。火は盛んに燃え上がり、一同は我れ先と路次口へ逃げ出した。(幸田)

このくだり、本書ではこうなっている。

おの〜〜いち度に木戸を破り
込入るに縁側さへなき小部屋の
戸をかたく鎖とざしたり打寄
破るにも板厚くして急にハ
あばきかね漸やう〜〜壱枚うち
明けたるに畳まろび出るハ
戸へ寄うけたるなるべし
四方へ火薬を蒔き平八郎
中央に立て押肌ぬきて
腹切らんとかまひたるにはや
御城代勘定かた岡村慶蔵
先にすゝみ入らんとして
急なるを察し刀かたな逆手さかてに咽のんど
むけて二刀刺し損じ三刀目に
貫ぬかれてうつぶしに
倒れながら前なる人〜〜を
目がけ投付たれども短棒たんぼうにて
うけ留入らんとするころ四方の
火薬ひぐすりゑんしともへあがり
黒煙り壁を巻て中なか〜〜座中に
至りがたしまづ火を消さんと
あせるころ火勢に付て
両奉行乗付きたり
渡辺村の火防ひふせぎのものどもいたり
ければ此小屋ばかりにして
他には火をうつさず
死骸引出すに格之助はいつのほどにか
自殺して黒ミわたり
平八郎うつぶせに倒れたれバ
衣類を焼て面体めんていも少し
焼たゞれすべてこの小屋も
上へ燃あがりしのミなれば
懐中に入れ置たる手がたも
焼ず天龍寺と云得る寺より
出せる往来切手にて父子とも
頭を剃り平八郎雷門らいもん
格之助観栄くわんえいと名を改かいたり
よつて両人の死骸駕籠にのせ
渡辺村の火防ぎの
ものども合印あいしるしに茶に縄を
染たる揃への法被斧を
持て三十人斗り前後をまもり[略]

ある人難じて梟賊きうぞく壱人の
与力是を助るもわずかに同列
余は百姓一揆等になんど
甲冑のことごとしさよと
是は他よりの平談する處
十九日二十日の両日は只逆徒
平八郎が名は知れども是に
荷担のものをうたがふ
一箇の賊にすら其手配り
厳重にして太平に武を
わすれず獣けだものを狩るに〓ざい
を用いるがごとし難ずる
人口じんこうをつぐむ
  天保八丁酉年/初夏仲旬
  堀田甚兵衛正身 謹書


以下「四海困窮」で始まる檄文の引用があり、それは途中で切れて三冊目は終る。幸田本に収められている付録の五「檄文」とほぼ同じ内容のようだが、は文言に多少の相違がある。



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by sumus2013 | 2018-08-19 20:25 | 古書日録 | Comments(0)
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