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林哲夫の文画な日々2
by sumus2013


寺島珠雄書簡集

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『寺島珠雄書簡集 石野覺宛 1973-1999』(龜鳴屋、二〇一八年六月一五日)。龜鳴屋さん、また渋い本を作ってくれた。感謝。

「編集後記」によれば、龜鳴屋・勝井氏は、二〇〇二年五月、石野氏より寺島書簡を譲り受けた。寺島の詩やアナキスト関係の本を読んでいた勝井氏は『藤澤清造貧困小説集』(龜鳴屋刊本)を注文してくれた石野氏の名前にピンときて、本を直接届けることにした。

《誰が頼んでも書かなかったという自筆年譜をこの選詩集に書かせた人として、石野さんの名が記憶の隅にあったのだ。それで、これはと思い、西泉のお宅に直接本をとどけに行くことにした。》(編集後記

石野氏に対面して氏が寺島の詩集を編んだことに言及した。

《「寺島さんに興味がおありですか…」。返事は一言だけ。話をつがねばと、図書館ではじめて『寺島珠雄詩集』を手にしたとき、タイプ打ちの素っ気ない薄手の一冊が、いかにも寺島珠雄にふさわしく思えたと言うと、しばらく黙ったままだった石野さん、急に別の部屋に立って行かれ、大きなあられの缶を持ってもどって来られた。
「このなかに寺島さんからの手紙があります。よかったら、差し上げます。あとはどうなさってもかまいません」。》

ということで、あっさりと勝井氏の手に入った寺島の書簡類。ひまひまに整理しながら入力をすませたが、その後、出版の腹が決まらず、そのままになっていた。二〇〇七年一月には石野氏も亡くなられた。

《寺島が金沢の無名の詩人に寄せていた信頼と親愛が伝わって来る。石野さんが手元にとどめた手紙を、書簡などすべて処分したという寺島本人は無きものにしたかったかも知れないが、残されたればこそ。二十余年に及ぶ手紙からは、アナキスト詩人の行跡がさまざま確認できるし、やはり何かと素の心根がみえ、人間味がただよってくる。》

小生も、晩年の寺島さんとは、文通だけのお付き合いがあった。一九九九年七月に亡くなっておられるから、たぶん『ARE』のあたりからきっかけができたのだろう(今すぐ思い出せないが)、寺島さんが発行しておられた個人ペーパー『低人通信』を十通余りもらっている。本書にも『低人通信』についての言及が随所に見られて興味深い。忠実なアシスタント紫村美也さんが制作実務を行っておられたようである。

寺島珠雄『小野十三郎ノート』

晩年の寺島さんは尼崎の東七松町に住んでおられた。本書収録の書簡類も一九九〇年以降は尼崎からの発信。それ以前は大阪西成区山王である。七〇年代の後、八〇年代は八九年の一通だけで、九〇年代が分量としてはもっとも多い。

九〇年代における寺島さんの執筆活動は盛んで、小野十三郎の年譜、南天堂研究など、大きな仕事を残している。また『彷書月刊』とごく親しくなったのもこの時期である。

古書業界誌のシニセの日本古書通信というところ、これに11/10〆切で10枚(西山勇太郎関連)を約束したら、こんどは同じ業界の新進である彷書月刊というところが、来年一〜三月号に巻頭エッセイをと言って来て、何だか古書業界人にされかかった気分です。しかし、ちょっと考えれば私自身が"古人"なので、まずは分相応です。》(一九九四年一〇月一五日消印)

二十四日に東京へ出ます。
 その日は「彷書月刊」の面々が夜の席を設けて他からも(森まゆみ)来ます。
 翌日はコスモス忌(秋山清忌)で、まず十数人の集りになるでしょう。》(一九九五年一一月一八日消印)

この頃から彷書月刊の面々(田村芳治、内堀弘、高橋徹、諸氏)と急速に親しくなったらしいことが分る。

六月一日には東京から若い友人でもある古本屋が来ます(月の輪書林)。
 来年は竹中労を中心の目録という企画があってその話でしょう。
 一夜を酔談します。
 まだその程度は体力を残しています。(一九九六年五月二九日消印)

先日、月の輪書林高橋氏の還暦記念(月の輪さん、カンレキ!)のアルバムというものを見せてもらう機会があったのだが、そこには一九九七年と思われる飲み屋でのスナップ写真が貼付けられていた。彷書月刊の面々と寺島さんがいかにも和やかな雰囲気でカメラに向っている。その写真の脇、月の輪さんの日記(?)の活字になった切り抜きにはこうあった。

尼崎の寺島さんからハガキが届く。竹中特集ができたら、こういう人に送ったらどうかと一〇人の名前と住所が書いてあった。目録のことを一番、気にかけてくれている。》(一九九七年二月二七日)

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『月の輪書林古書目録10』平成九年一一月三〇日発行


一九七六年六月十三日消印の絵葉書に港野喜代子の名前が出ている。

12日貴翰拝承
四月に不慮の死に遭った港野喜代子さんの追悼集会があり、少ししゃべらされ、そのあと伊藤信吉さんなどと話し合って帰ったら着いてました。

六月十二日に追悼集会があったということか。涸沢純平『遅れ時計の詩人』(編集工房ノア、一九一七年)には港野喜代子の葬儀や『新文学』の追悼号についてのかなり詳しい記述があるが、寺島の名前も出ていないし、この追悼集会についても触れられていないようなので、メモしておく。

一九九五年一月の阪神淡路大震災のとき、寺島さんも尼崎で被災した。

水、ガスの止りのうち、水は19日朝にチョロチョロ回復。
 屋根工事の方は、丁度武内君の来ている時に屋根で足音がしましたから、応急のシート張りくらい始めたのだと思います。少くも一安心です。
 本は段ボール箱+ビニール包みと箱のみとの荷造りを相当やりましたが、全体やれば六十箇以上かと思われ、屋根工事の具合いではやらずにすませます(やった分だけ骨折り損でも仕方ありません)。地震当夜の文章で低人通信22号を作ります。すでに原稿は渡しずみです。(一九九五年一月二十日消印官製はがき)

本棚の修覆は、結局半年ほどもかかると思っています。そのくらいの気分でやって丁度いいことは一種のカンと経験でわかります。
 それにしても、整頓していた本が散乱した状態(容積)はすごいですよ。人を絶望に誘う。ガサ入れの無遠慮も地震にはかないませんね。》(同)

地震についての文章、十九日にもう書いていたのだ(地震は十七日です)。さすが、である。ガサ入れと比較するところも。寺島さんの尼崎の住処は街の草さんの自宅の近くだった。地震の少し後、街の草さんから寺島さんの本がグチャグチャになって大変だったことを聞いた記憶がある。街の草は、残念ながら、本書には登場していない。

他にも寺島さんの食べ物への執着も随所に見受けられ、読みどころの多い一冊である。

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by sumus2013 | 2018-07-15 09:45 | おすすめ本棚 | Comments(0)
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