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漢詩扇面その貳書画の画像を投稿するについては、あらかじめ調査をしていないものがほとんどである。コメントいただくと有り難い。この扇面はやはりいつもの古書店で求めたのだが、最初に扇を開いたとたん、グッと魅かれるものがあった。しかし、この「狂草」小生ごとき生かじりには読めそうもない。よって、そのまま放置していた。 「狂草」とは? 《唐の開元・天宝のころになると、伝統的な書法にとらわれず、あるいはそれを否定し、自由奔放な情懐を草書に托して表現しようとする狂草が起ってくる。賀知章、張旭、懐素、高閑、〓[ベン]光らが代表的な人物で、その余波は五代の楊凝式[ようぎようしき](八七三〜九五四)あたりにも認められる。彼らは揮毫に当って、大酒を飲み、心興を誘発して、広い壁面や屏風などに一気呵成、縦横無尽に奔放な草書を書きまくった。》(杉村邦彦「壁書考」『書苑彷徨 第二集』二玄社、一九八六年) 【図版例】張旭的狂草世界 書かれている内容の方は『済公活仏伝奇録』に出ている詩である。済公というのは酔っ払いの破戒僧。中国では知らない人はいないという。南宋の紹興十八年(一一四八)に生まれ、嘉定二年(一二〇九)に卒した。行いは奇矯だが、その諷刺と諧謔をもって体制を批判しヒーローに祭り上げられるようなことになったらしい。 済公(中国民間神紹介3) 揮毫されている詩の出典はこちら。 酒屋の前を通りかかったら、酒が呑みたくなって入ったところ、その酒がめっぽううまいので盃がすすんだ。ところが懐中一銭もなし。主人から銭を払えと迫られる。寺まで取りに来てくれ、そんなにヒマにみえるか、というような押し問答があって、知人がちょうど通りかかったので払ってもらい、なんとか事なきを得る。そこで詠んだのがこの一首。 見酒垂涎便去吞, 何曾想到沒分文; 若非撞見龐居士, 扯來拖去怎脫身? 酒を見たらよだれが垂れるグイッとやりたいな どうして一文無しだとバレたのか もし龐居士[パンジュシ]が来合わせなかったら どうやって逃げ出すことができたろう 引用したテキスト(上記サイトより)「到」のところは扇面では「至」、そして「來」と「去」が入れ替わっているようだ。日本語訳はまったくの戯れごとなので御許しを。てなことを当意即妙に酒屋で詩を作って仲間と笑い合った、そんな生臭坊主である。 署名もスンナリとは読めなかったが、コメントいただいたように「東海鯤女九歳」(印:鯤女)であろうと思う。九歳(満十歳、文政十:1827)でここまで書けたら、それは神童ともてはやされて当然である。東海鯤女は以下のような女性。 《1817-1888 江戸後期-明治時代の書家。 文化14年生まれ。町医の娘。幼時から書にすぐれ,文政5年(1822)から江戸で活躍。8年京都へいき,光格上皇に書をみせて名をあげる。のち大坂で出羽(でわ)久保田藩(秋田県)の御用商人と結婚。渓斎英泉の絵にかいた書がのこる。明治21年1月11日死去。72歳。越後(えちご)(新潟県)出身。通称は愛。号は東海女史。後名は三尾,三保。》(コトバンク) 《鯤女( ~明治21年) 書家。(女流)姓は稲葉、通称愛子、後に鯤、江陽女史と号した。越後山辺村の人、父覚世は医を業とし武州八王子にて開業した。鯤女は幼より書に親しみ五歳の時神通方便力の五大字を書して産土神に献した。文政八年上京僧道本に就いて書を学び遂に其の書は光格上皇の叡覚に達し栄誉を得た。頼山陽も鯤女の書を賞賛して、七絶を作って與えている。明治二十一年一月十一日没、年七十二(文政十三 書(和) 天保九 書(和))》(http://tois.nichibun.ac.jp/hsis/heian-jinbutsushi/Tanzaku/316/info.html) 越後山辺村の人とあるが山辺村は明治二十二年にできた村なので正確な表記とは言えないだろう。とにかく現在の新潟県小千谷市に属する。光格上皇は博学多才で学問に熱心。作詩や音楽も好んだ。大学寮を再興して朝廷の公式教育機関を作ろうと構想した(学習院の発端)のだそうだ(ウィキ)。久保田藩は要するに秋田藩のこと(厳密に言えば、江戸時代には「藩」という言葉は使われなかった、明治になってからの呼称)。秋田藩の御用商人と聞くと、以前紹介した介川緑堂を思い出す。 介川緑堂さらに それにしてもどうして九歳の女の子が(作者は鯤女とひとまず決めつけておく)こんな破戒僧の戯れ詩を揮毫したのだろうか? 一休さんの詩なら分らないでもないが(ウソ、一休の詩も大人じゃないと読んじゃダメです)。
by sumus2013
| 2018-07-02 21:11
| 雲遅空想美術館
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Comments(4)
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epokhe
at 2018-07-01 21:20
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狂草と言うのでしょうか。唐の懐素みたいな書きぶりですね。
禅語は日本語でも難儀ですが、漢詩になると更に難度が上がりますね。 見酒垂涎便去吞 何曾想到沒分文 若非撞見龐居士 扯來拖去怎脱身 「龐居士」とあるのをヒントに検索していたら、『済公活仏伝奇録』にありました。済公(道済)は南宋の臨済宗の僧で、一休さんのような風狂の人だったようです。漢詩は書き下すのも日本語訳するのも荷が重すぎるのでお任せします。 落款は読めませんが、印が読めれば分かりそうな気もします。
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sumus2013 at 2018-07-01 21:46
助かりました。検索するにもとっかかりが分らなくて・・・。落款、最初は鯤(印も)二字目以下は? 最後は成でしょうか。
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epokhe
at 2018-07-02 06:23
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落款は、こうは読めないでしょうか。
東海 鯤女九歳 「成」に見える字は、縦線が一度屈折しているので「歳」と読んでみました。稲葉鯤(1817-1888)の九歳の書?。。多分読み違いだと思いますが、他にどう読んだら良いでしょうか。 >稲葉東海は越後の人で、名は鯤、号を東海と称し、武州八王子の町医の娘で、幼時より書に親しみ五歳頃より江戸で名が知られ、八歳で上洛して釈道本に書を学び、光格上皇の叡覚にも達し、その後大阪で出羽久保田藩の御用商人に嫁ぎ、書画に秀でた才媛として名を知られた女流書家である。http://www.ic.daito.ac.jp/~oukodou/gallery/pic-2793.html
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sumus2013 at 2018-07-02 07:21
東海鯤女九歳! なるほど。そう読めます。リンクしていただいた作例とは比較できないのが残念ですが、九歳なら、このくらいは書くかもしれません。全体に一本調子な感じも納得できます。可能性ありですね。いつもながらご教示深謝です。
けっこうな珍品でしたか。
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